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2001年03月05日
桜庭和志は、なぜプロレスが「ヘタ」だったのか?
スポーツの世界では、なによりゲームに勝つことに最大の価値が置かれている。
いくら個性的で、表現力に秀でていても、とにかく勝てなければダメ、一流とは言えない、というわけである。ところが、こうしたスポーツ界の「常識」に対して、「ただ勝つのは当たり前。問題は、それを客にどう伝えるか?」と、まったく逆とも言える発想をベースに、ひとつの価値観を作り上げたジャンルがある。
こう言えばピンと来る人もいるだろうが、それがすなわち、プロレスである。
プロレスは、強いというだけでは、決してメインイベンターになれない。ベルトを何度防衛しようと、華がなければ興行主から煙たがれる。逆にいえば、この華というものをつかみ取るため、彼らは肉体を酷使し、痛めつけあっている。その意味では、スポーツよりもエンターテイメントの世界に近いジャンルと言える。プロ興行全体から見れば、むしろスポーツのほうが、非常に特殊なジャンルなのである。
たとえば、アマチュアレスリングの世界からプロレス入りする例があるだろう。
オリンピックにも出場した「大物」ということで言えば、故・ジャンボ鶴田、長州力、谷津嘉章、馳浩、中西学……といった名がまず挙げられるが、彼らはすぐにファンに認められたわけではない。それどころかなかなかパッとしない「低迷期」を経験し、そこでアマ時代の実績がほとんど通用しないことを思い知らされる。要するに、強さだけではない「何か」をつかみ取る必要が、彼らにはあったわけである。
この項で取り上げる桜庭和志もまた、上記の五輪組のような物凄い実績こそないものの、同じような境遇を背負った、アマレス出身のレスラーである。
しかし、レスラーといっても、ここ数年は「プロレス」のリングにほとんど上がっていない。プロレスとは似て非なるフリーファイトの世界で数々の強豪を連破し、いまや格闘技界は彼なしには語れないほどに、大きな注目を集めている。従来にはまったく無かったパターンで、華を手に入れたレスラーと言っていいだろう。
ここで言うフリーファイトとは、いわゆる「何でもあり」の試合のことである。
もちろん、「何でもあり」といっても競技である以上、噛みつきや目つぶしをはじめいくつかの禁止事項が設けられている。しかし、可能なかぎりルールを省いていくことで、ボクシングやレスリング、柔道や空手と、さまざまな格闘技をベースに持った選手がおなじリングで「公平に」戦えるような、そんな設定になっている。桜庭は、この過酷なフリーファイトのリングに上がったとたん、その潜在能力をメキメキと開花させ、まさにあれよあれよという間に、スターダムにのしあがっていったわけである。
最近では彼の知名度もずいぶん広がっているが、まだその名を知らない人のなかには、獰猛で野獣のようなファイターだとイメージする人もいるかもしれない。
しかし、現実にはそのまったく逆の、あまり強そうには見えない?、どこかのんびりとした、殺気の漂わない青年であり、その妙なギャップが人気の要因ともなっている。まあ、こういうヤツのほうが本当は強いんだと言う声も返ってきそうだが、たしかにそうだろう。実際、武道の世界などでは、強くなさそうな者のほうが、往々にして強かったりする。普段はツメを隠しておいて、そんなツメがあることさえ見せはしない。桜庭は、そうした達人たちのDNAを継承している存在とも言えるわけである。
さて、その桜庭が、去年の大晦日、久しぶりに「プロレス」の試合をした。
アントニオ猪木がプロデュースした年越し&ミレニアムのイベント、「イノキ・ボンバ・イエ」(2000年12月31日・大阪ドーム)においてである。これは、猪木の活動に共鳴した国内外の格闘家&プロレスラーたちが一堂に会し、プロレス形式の試合を行ったもので、いわゆる「真剣勝負」の経験しかない格闘家たちがまさに不器用そうに「プロレス」をするさまは、普段とは違った意味で刺激的な光景と言え、相応の話題にもなった。まあ、アマチュアとプロの垣根が取り払われていく、そんな昨今の世情とリンクする現象と捉えてもいい。
桜庭の対戦相手は、同じアマレス出身のプロレスラーにして、いまやマスクマンとして独自の世界を築き上げた感のある、ケンドー・カシンである。
アマチュアの実績では、全日本クラスの大会で優勝を飾ったこともあるカシン(本名は、石沢常光)のほうが、はるかに上。しかも、プロレスでの対戦においても彼が過去に2戦2勝しており、プロ入りしてからのキャリアも長い。しかし、フリーファイトのリングにおいては、石沢は10月に初挑戦していいところなく敗れたばかりであり、この点では桜庭のほうがはるかに先を行っている。この両者がプロレスのリングで戦うわけだから、なにやらややこしいと言えばややこしい対戦だったのである。
試合は、このスタイルに長じたカシンが、基本的にリードする形で進行した。
桜庭は、息があがる時間が普段より早く、フリーファイトのリングで見せる華麗な動きがあまり見られない。ファンは暖かい目で見守っているが、おせじにも「いい試合」とは言えない。対戦相手のカシンも、どこか困惑したように見える。
筆者は、観戦の最中、桜庭の若手時代の試合をふっと思い出した。
大学を4年のとき中退しUWFインターナショナルという団体に入門した彼は(22歳だから、入門生としてはかなり年を食っている)、デビューしてさほど経たないころ、新日本プロレスとの対抗戦に駆り出されている。筆者が見たのもこの対抗戦のときの試合だが、そこではUインターと新日本の若手どうしが、テレビのブラウン管の向こうでバチバチと火花を散らしていた。そのなかに彼もいたわけだが、闘志をむき出しにする他の選手たちに比べ、その印象はあまり強いものとは言えなかった。
もともと、激しくアピールするタイプのレスラーではない。どこか飄々としているせいか、この手の対抗戦ではどうしても後手に回ってしまう。
ただ、ひとつだけ妙に印象に残ったシーンがあった。特定のシーンではないが、とにかく彼は、技をかけるとき「オリャー」とか「トゥアー」とかかけ声を上げるのだ。アピールとしてではなく、なにやら自然なものらしい。ヘンな声だなと思った記憶があるが、その後フリーファイトで頭角を現わすに至って、この声?も聞こえなくなっていた。それが、久々のプロレスの試合において、にわかに「復活」したのである。
……ああ、わかった。プロレスには「力」が必要なんだ!
と、筆者の脳裏にはこんな思いが浮かんだわけだが、読者はこの意味がおわかりだろうか? もちろん、フリーファイトでも力はいる。無ければ、戦えない。しかし、それはあくまで、「必要に迫られてのもの」である。プロレスのように、「相手に技をかける」といった、意図的な場面で用いられるものではない。しかも桜庭の場合、この力を極力使わぬような戦い方をすることで、たえず勝ちパターンを引き寄せてきた。武道でいう「脱力」の極意を、自然と身につけている選手なのである。
……だから、フリーファイトに転身して、急に勝てるようになったのか! なるほど、武道の「脱力」も、プロレスのような試合になると全面に出せなくなるんだ!
すなわち、桜庭がいくら力の抜き方を知っていたとしても(だから常にリラックスして試合に臨めるわけだが)、「ブレーンバスター」をかけようとすればむろん力を出さねばならない。しかし、これは彼が普段使っていない、必要としていない、じつに余計な力なのである。だから、「オリャー」と声を上げねば、なかなか持ち上げられない。もちろん、こんな力を使い続けていたら、息だって早く上がってしまう。
……逆に言うなら、格闘技系のリングに上がる選手のなかにも、プロレスラー並みに?「力を使っている」選手が、かなりいるだろう。
プロレスの試合では、そうした余計な力を用いることで、レスラーたちは自己表現の能力を磨いている。だから、「オリャー」と上げるブレーンバスターにも、確かな意味がある。しかし、勝利を至上とする格闘技の試合では、まったく不要のものだ。つまり、そんな力ばかり用いているから、桜庭に勝てないとなる。しかも、彼らはそれでいて、プロレスラーのような課題がないので自己表現力を学べているわけでもない。プロレスファンは、そういった選手を「強いけれど不器用」と評してきたのである。
つまり、才能がある人というのは、どの分野にも限らず、みな力がうまく抜けている。
しかし、この理がわからぬ人は、「いかに力を入れるか」ということばかりに意識を向けてしまう。それでおのれの限界を感じ取り、わずかにあった才能も頭打ちになってしまうのである。その点、桜庭の持っている才能は、プロレス修行のなかで培ったというよりむしろ生まれついてのものだろう。プロレスの試合でその才能が開花できたかどうかはわからないが、少なくともフリーファイトに出会えたことは、彼にとって幸運なことであり、同時に必然的なことでもあったとわかる。時代の子である彼は、力まない人生を歩むことで、その幸運=必然を引き寄せたのである。
試合結果 ○桜庭(19分17秒 腕固め)カシン●
※桜庭が苦戦の末、カシンに初勝利。
投稿者 長沼敬憲 : 2001年03月05日 08:34