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2001年04月25日
イチローと松井秀喜を結ぶもの
アメリカに渡ったイチローが、日本にいたときと同様、活躍をはじめている。
処女作「スポーツは「武道」である!」(*「サムライ」のこと)のなかで、「イチローは「弓の名手」である」と記した筆者としては、もちろん喜ばしいかぎりだが、連日、さまざまな形で騒がれているわりには、まだまだ彼のやっていることの「意味」が、十分に語られてないように思われる。
加えて、筆者が執筆していたときにはまったくノーマークだった元阪神の新庄が、イチローとはまた違った魅力を、異国の地で発散させている。
彼らの活躍を見るかぎり、日米の実力差はこの十年ほどの間にほぼ払拭されたと言えるのではないかと、筆者は思う。つまり、いろいろと言われながらも、日本の野球は確実に進化している。チームプレーゆえ個々の能力がそのままゲームに反映されるとは限らないが(その点、日本人は勝負強さに欠けていると言える)、選手という単体で考えた場合、今後もメジャーで通用する選手はいくらでも現れてくるだろう。
ただ筆者に言わせると、「もっとこう捉えたほうがいいのに」と思われる点がいくつかある。日本人の能力の本質が、意外なほどに知られていないと思うのである。
たとえば我々は、野茂がメジャーに挑戦したことで、「ああ、日本のピッチャーも向こうで通用するのか」という感触を得たわけだが、その時点では「でも、バッターは無理だろう。パワーがちがう」などと感じていた人が多かったはずだ。
それがいまでは、イチローどころか、新庄までが、メジャーでプレーしている。
ふたりとも、見てわかるとおり、アメリカ人と比べるとかなり線は細い。しかし、これから夏場にかけて体力面や怪我の不安が取り沙汰されてくるにせよ、その細さが決定的なハンデになっているとは思えない。特にイチローの場合、あの初ホームランの際の突き抜けるような弾道を見てわかるとおり、じつは意外なほどパワーヒッターなのである。ただそのパワーの質がアメリカ人とは異なっているため、多くの人がテクニカルな選手だとイメージしてしまう。パワーに対する定義を変えない限り、彼の「凄さ」の本質は、いつまで経っても見えてこないと言えるのではないだろうか?
この点についてイメージを深めるため、ここで少しだけ視点を変えてみよう。
すなわち、先に触れたように、日本人のメジャー挑戦はまずピッチャーからはじまった。そして野茂にはじまり、長谷川、吉井、伊良部、佐々木……と一定の成果を上げるや、自然な流れで今度は野手の挑戦へと移行していった。
その第一弾がイチローであり、新庄であったわけだが、ご存じのように、彼らはいわゆるホームランバッターではない。つまり、「パワーの劣っている日本のホームランバッターでは、とてもメジャーには通用しない。イチローのような安打狙いにでも変えないかぎり、活躍は無理だろう」といった漠然とした感覚が、我々のなかにはある。そうなると、巨人の松井のようなバッターが、メジャーのホームラン王争いに加わることなどということはありえない、夢物語だということになるわけだが……。
そこで、まず次のように考えを進めてみてほしい。
たとえば読者のなかには、もはや伝説ともいえる王貞治のホームラン記録は、あくまで内輪(国内)の記録に過ぎないと思っている人もいるかもしれない。
しかし、果たしてそうだろうか? 筆者から見れば、現役時代の彼の身体感覚は、タイプこそ異なるが、イチローのそれと非常によく似ている。つまり、両者は同じようなポテンシャルを有しており、それがただ、ヒット狙いなのかホームラン狙いなのかという意識の違いによって、違う道へと進んでいった。イチローと同様、自らのスタイルを完成させていた王は、やはりメジャーでも通用する実力を持っていた、アメリカの野球史にソーサやマクガイアの存在が燦然と輝いているように、日本にはまったくタイプの異なる王貞治というバッターが存在したと捉えられるのである(もちろん、当時の日米野球のレベルがいまよりもずっと開いていたと言える以上、王のバッティングは、いまのイチロー以上に突出していたと受け止めるべきではあるが)。
つまり、松井とソーサを比べれば、筋力も瞬発力もたしかに松井のほうが劣ってはいる。しかし、そんな比較をする必要がどこまであるのか?
そうしたアメリカの呪縛から離れ、むしろ自分たちの足もとを見つめたほうが、世界はずっと開けてくる。松井とイチローというスタイルの異なるバッターは、間に王の存在を介することでひとつの線で結ばれうるのである。……そこに日本の野球の、アメリカとは異質の「可能性」がひそんでいると言えるのではないか?
その意味で筆者は、野茂、イチローの先に控えているのは「松井」であると、たえずイメージしながら、野球界の動向を観察している。
彼自身が実際にメジャー入りすることがあるかはともかく、彼のようなタイプのバッター(すなわち、ホームランバッター)がアメリカで通用したとき、日米の野球は名実ともに完全なボーダレスとなる。逆に本家のアメリカ人が刺激を受けて、日本流の身体感覚を取り入れていく素地が生まれることも十分ありえることだろう。
ただ、イチローから松井の段階へとシフトするのは、野茂からイチローへシフトしたとき以上に、多くの「困難」が伴うことは確かである。
なにしろ、これまで述べてきたように、我々自身のなかに素朴なパワー信仰、筋肉信仰が根づいている。明治の近代化以来、自分たちの伝統的思考を半ば否定する形で、「大きなほうが強い」「力がすべてだ」といった感覚を身につけてきた。その感覚そのものを一度白紙に戻さない限り、次の展開はありえないからである。
松井自身、「自分はソーサのようにはなれない。アイツらのパワーは別物だ」と心のどこかで思っている(諦めている?)かもしれない。
たしかに、松井はソーサにはなれない。しかし、王にはなれる。彼のなかに「王になればいいんだ」という理解が生まれれば、その素質はいま以上に、信じられないほどに飛躍するはずである。日本に留まっていたとしても、これまでにない新境地が開けるだろう。目標とする55本という年間ホームラン記録も、そのとき達成されるのではないか?
けっきょく我々は、意外なほどに「自分」を知らない。その知らなさを克服する手がかりが、野球のなかにも隠されているわけである。「武道」と「スポーツ」の違いという言葉に置き換えれば、あるいは納得する人もいるだろう。
松井もまた、ほんらい「剛」ではなく、「柔」のバッターなのである。