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2002年08月18日
小川直也はなぜ「ワガママ」と言われるのか?
大会前からゴタゴタ続き、前評判の恐ろしく悪かったUFO主宰の格闘技イベント「レジェンド」(2002年8月8日・東京ドーム)が、その悪評を覆えせないままに幕を降ろした。
UFO(世界格闘技連合)は、ご存じのようにアントニオ猪木の主宰する実態不明の(としか言いようのない)格闘技団体だが、実際の運営を取り仕切っているのは大手芸能プロダクションの社長・川村龍夫氏という人物であるようだ。総合格闘技史上初となった日本テレビの生中継には、同プロに所属するタレントたちが総動員され、リングアナをやったり、国家斉唱したり、コメンテーターを務めたりしていた。
芸能プロダクションとしての実績はともかく、格闘技のイベント運営については、どうしようもなく素人の集団、というのが大方の見方だろう。どうやら誰が実務上の責任者なのか、それすらハッキリしないまま、見切り発車で進行していったようだ。
その結果、ドームの格闘技イベント史上最低という、3万に満たない観客動員数。ゴールデンタイムでの視聴率も、平均10パーセントほど。
まあ、このあたりの批判をすることはページの趣旨ではないが、半ば思いつきに近い形でイベントを立ち上げ、美味しい汁だけ吸おうとしても、どこかに歪みが出てくるのは当然の話。今回の場合は、その泥を振り払える裏方がいなかった分だけ、歪みはすべて選手たちの側に降りかかってしまった。主催者側は反論するかもしれないが、結局、選手たちを食い物にして、利用しただけで終わったのである。
こうした情けないことだらけのイベントの象徴とも言えるのが、「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた、メインの小川直也×マット・ガファリ戦だろう。
ガファリは、アトランタ五輪の決勝であの“ロシアの英雄”アレキサンダー・カレリンと互角に渡り合った実績を持つ、米アマチュアレスリング界の大物。しかし、それは過去の話で、すでに40を迎える当人のゴムマリのように肥大した腹を見れば、現役で戦えるだけの準備が不足していたのは明らかな話。ガファリはそうした戦前の予想を裏切ることもなく、パンチ一発であっさりとTKO負けとなってしまった。
こんな相手をメインに据えざるをえなかったのは、小川が最後までゴネたからだという話がある。小川に対し辛口批判を繰り返す「週刊ゴング」誌によると、同大会にも上がった「プライド」ヘビー級王者アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの一戦も打診されたが、彼が難色を示し、実現に至らなかったのだという。
しかし、考えてみてほしい。大会自体、相当不純な動機でスタートしている。
小川自身のモチベーションが上がりようのない状況で、彼のいう「世間」から見たらまだ無名の存在である(しかし強い)ノゲイラと戦えと言われても、すんなりイエスと言えるはずがない。「戦ってくれ」と言うくらいなら誰でもできるが、戦う当人からすれば、それで負けてすべてを失うのは自分なのである。
小川の中には、彼らに使われるだけ使われ、ボロボロにされて、それで名も残らないような結果しか得られなかったら、結局それは犬死だ、という意識がおそらくあったに違いない。しかも彼らは「責任」を取らない。次のヒーローを探して、同じことを繰り返す。小川は彼らに対して、かなり敏感に距離を取っている。
なかにはそんな距離など取らず、師匠である猪木の「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」の言葉通り、どんどん戦えばいいではないか、と思う人も多いかもしれない。
しかし多少弁護するなら、彼は一ファイターとしての成功を求めているわけでは必ずしもない。そうではなく、自分が目指しているものは、「世間」にプロレス(そこには格闘技も含まれる)を認知させること、サッカーや野球くらいのレベルにまでジャンルとしての価値を底上げさせることであると、さまざまな場で語っている。
彼はその「目的」のためにリングに上がり、時にはテレビのドラマやバラエティーへ出演し、自らが広告塔のごとくふるまっているのである。
そうストレートに理解すれば、彼の言動はさほどわかりにくいものではなく、むしろ一貫していることが見えてくるはずなのだが、いかがだろうか?
要するに、それが師匠であるアントニオ猪木の意思を継承し、そして乗り越える唯一の道なのである。ただ強豪に勝ったところで、それは世間からは見えない枠のなかで、ひとつの結果を出しているにすぎない。その結果じたい価値あるものかもしれないが、それでは猪木は超えられない。ノゲイラに勝ったところで、まったく動かないものがある、それが世間なのである。小川はその世間を相手にしている。
ジャンルという枠のなかでしか発想のできない人にはそれが見えない、だから彼のことが、単なるワガママであるように映ってしまうのである。
つまり、一般の格闘技ファンからすれば、ただ単純に夢のカードを見たい、誰がいちばん強いのか知りたいという欲求があるのかもしれないが、当のファイターたちがそういう欲求だけで戦っているわけではないということだ。
剣豪・宮本武蔵も生涯60余度の戦いをしたと言われているが(彼自身がそう書き残しているが)、後世に広く知られているのは佐々木小次郎との一戦のみである。小川に言わせれば、ファンやプロモーターのニーズのままに戦うだけ戦ったところで、それは時が過ぎれば熱も冷め、忘れ去られてしまうものでしかない。
もちろん、当人が戦いたいと思うなら気にする類のことではないが、先にも書いたように、小川はその戦いを柔道で経験し、しかも一時代を築いた。しかし、後世に残っているのは「バスセロナ五輪での期待外れの銀メダル」、である。
彼に人として感情があるのなら、同じことを繰り返そうと思うわけはない。むしろ、それを乗り越えるにはどうすればいいかと、自らに問うだろう。要するに彼は、「世間」という化け物と戦っているのである。自らのトラウマを払拭するその戦いの舞台として、「プロレス」というジャンルを選んだのである。
いまこの小川とヒクソン・グレイシーとの一戦が、一部で取り沙汰されている。
この一戦が実現すれば、桜庭和志とホイス・グレイシーの一戦と並んで、「後世に残る一戦」となる可能性は十分にある。もちろん、小川の評価もこのとき確定する。いま彼がどんな批判をされていようと、すべてが決まるのはこの一戦なのである。格闘家の誰もがこのような巡り合わせを体験できるわけでないことを思い合わせれば、彼の味わっている特異な「立場」というものが見えてくるだろう。
果たして小川は、この「勝負」に勝てるだろうか? 同時代の誰もが果たせないままでいる「猪木超え」を、成し遂げることは可能だろうか?
現時点では、試合の実現も含めて、かなり微妙だが、少なくともその可能性に関しては他のレスラー・格闘家よりも大きなものを持っている。小川自身、何とはなしにそれを感じているからこそ、逆に「臆病」にもなり、ついつい二の足を踏んでしまうのではないか? そうした状況も含め、彼のトラウマもチラチラと見え隠れする。
彼の「臆病さ」をどう評価するかは、もう少し時間が必要なはずだ。彼が乗り越えようとしている一線は、目の前の敵以上に大きいのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年08月18日 07:47