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2002年12月06日
「鈴木隆行」に見る日本代表の現状と未来
筆者は、サッカーのことはあまり知らない。しかし、知らないからと言って、語れないというわけではない。「知らない」からこそと言うべきか、意外と為になる(?)、本質を突いたサッカー論を展開することができたりもする。
たとえば、日韓共催のワールドカップが成功裡に終わった今、次なる課題は次期ドイツ大会に向けて日本代表のさらなる飛躍は可能なのか? という点に尽きているだろう。大会ベスト16、FIFAランキングでも20位台前半と、決して弱くはないが強いとも言えないポジションにいる、いまの日本。その未来は明るいのか、暗いのか? ……サポーターならずとも、多くの国民が関心を寄せているはずである。
筆者は基本的に楽天的ということもあり、よほどのことがない限り、暗い予測は立てることがない。ただ、明るい予測を立てるにしても、条件をつける。何にしても、成長していくためには、最低限クリアせねばならない壁があるからだ。
最低限クリアしなければならない、壁。といっても、それは基本的には、その当人が乗り越えることのできるレベルの壁に他ならない。
勘違いをしている人も多いかもしれないが、乗り越えられないものを人は壁だとは感じない。つまり、意思さえあれば、早かれ遅かれ、乗り越えることはできる。その仕組が認識できれば、スランプなど無くなってしまうものなのである。
ではそれらをふまえ、日本代表の今の「壁」とは、いったい何だろうか? それはどうやって、乗り越えればいいものなのか?
筆者が先のW杯を振り返ったとき、その課題の象徴として真っ先に思い浮かぶのは、いま遠くベルギーの地で奮戦中のフォワード、鈴木隆行の存在である。
初戦のベルギー戦、1点先制された直後にすぐにゴールを決めたのが鈴木。ちょうど彼が代表入りして初ゴール、しかも1試合2得点を決めたとき(2001年6月・コンフェデレーションズカップ/対カメルーン戦)もそうだったように、そのゴールに多くの人は意外性を感じたはずだ。しかし、その意外性が目に見える結果に結びついたことで、チームに勢いをつけるきっかけを演出したわけである。
と言ってもそれは、結果論の話。トルシエ監督は、初ゴール以来ずっと得点を挙げられないでいた彼を、なぜ起用し続けたのだろう?
本当の心のうちはトルシエ自身に聞かねばわからないが、筆者はベルギー戦を観戦していたとき、あの爪先を思いっきり執念深く伸ばして、不格好な形ながらシュートを決めた彼の姿に、「ああ、これが日本代表の姿だな」と不意に感じたのを覚えている。2点目を叩き込んだ稲本のシュートも確かに素晴しかったが、鈴木のほうが日本代表について何事か雄弁に語っていると思われたのである。
鈴木はおそらく選手としての総合力では、決して秀でた選手ではないだろう。
彼が出られなかったとしても、中田のように「致命的」とまではいかないポジションの選手である。しかし、ひとつだけ希望を感じさせる能力を持っている。あの爪先を思いっきり伸ばした時のような、「一歩前へ出る」感覚。直観的、本能的に、ここというポイントを嗅ぎ分け、反応できるセンスと言い換えたらいいだろうか? トルシエも、結局、そのセンスにキーマン的な期待を抱いていたのではないだろうか?
この感覚について、もう少しわかりやすく説明してみることにしよう。
「一歩前へ出る」と簡単に言うが、これは日常生活でもなかなか容易なことではない。なぜか? 頭で計算してしまうからだ。二の足を踏むというが、これはスポーツの場面でも「反応の遅さ」になって現われる。おそらく日本と世界との差は、フィジカルな面というより、その零コンマ単位の反応の違いではないのか?
さらに分析していくと、その「一歩前へ出る」感覚は、気合や根性を使って「エイ!」と飛び出るような行為とは質が異なっている。逆にそれらに頼ろうとすると、足の筋肉を思いきり踏ん張らねばならなくなる。それでは疲労が溜まるし、溜まるほどに動きも鈍くなる。だんだん前へ出られなくなる……。
日本は戦争でアメリカの圧倒的な物量作戦に負けて以来、「体を大きくしなければ強くなれない」という脅迫観念を抱くようになったのかもしれない。
しかし、体の大きな欧米人もただ体が大きいから強いのではなく、一流選手はその体を使いこなす術を覚えていた。かつて日本でも、その術のわからない大男を「ウドの大木」と呼んで揶揄していたはずだ。要は、「使いこなす」ということが求められている。「一歩前へ出る」こともまた、その感覚の中で身につける能力なのである。
筆者の感覚では、その能力はしっぽ(尾骨)の反応を即座に行為につなげるという、脳を介さない、きわめて反射的な運動に他ならない。
まず、しっぽが外部の情報をキャッチする。しかしキャッチするだけでは、行為につながらない。サッカーでも、キャッチして踏み出さねばボールは捕まえられない。尾骨の一点から両脚の裏側の筋にかけて、一本の神経を通す。その筋がしっぽの反応に沿って作動することで、脳を超えた「動物としての動き」が可能になってくる。
これは歩行においても、きわめて重要な感覚だと、筆者は感じている。
つまり普段からも養うことができる。自分がここぞというときに踏み出せないのを、気が小さいからだとか、精神論で片付けたりせず、一度冷静に、その動きを可能にする神経が通っていないという現実を直視してみる。通っていないものは使えない。だから本来不要な周辺の筋肉でその動きを代行せねばならず、多大な労力が求められてしまう。食事などでいくらスタミナをつけても、根本的な改善はできない。ウエートトレーニングに取り組むことで却って能力を見失ってしまうこともありえるわけである。
鈴木隆行は、残念ながらこの能力をまだしっかりと定着させられていないため、“ラッキーボーイ”の域をなかなか出られない状態にいる。
鈴木よりも優れた選手もいるだろうが、日本代表を見渡せば、同じ課題を背負った選手が多いのが現状ではないだろうか? 鈴木は体勢を崩しながらようやく「一歩前へ出る」ことができたが、体勢を崩さずに「出る」ことも決して不可能ではない。おそらくロナウドのようなプレーヤーは、それが当り前のようにできるはずなのである。
彼の生まれ育ったブラジルは、日常の中で「一歩前へ」出なければならない状況が無数に転がっている。練習する前から自然と練習できる環境の中にいた。
ならば日本代表も、日常の中で「一歩前へ出る」ことを意識的に行うことが必要。躊躇しないで、ここと決めたらスッと前へ出る。練習だけではない。人生の中でそれをやる。その延長上に練習や試合を位置付ける。強制的にやるには海外へ出たほうがいいかもしれないが、それが絶対の解決法になるとは言えないことも見えてくるだろう。
筆者自身、この「一歩前へ出る」感覚を、自分の暮らす現実の中で養っている。自分自身が生きる切実な問題として、この神経の獲得に文字通り神経を注いでいる。
サッカージャーナリストが一流サッカー選手になれないのは、特殊技能であるゆえ仕方ないかもしれないが、原理自体は取り込んで、自分の生活の中で再現させてみる。サポーターもまた、本当に選手を応援しているのなら、会場へ足を運ぶだけがすべてではない。各人が自分の人生のなかで「一歩前」へ出る努力をすることだ。
ヘタな気合いは使わず、もっと構造を理解して、確信を持って取り組んでみる。それができてくればれば、サッカーへの関わり方そのものが変わってくる。「うまくいく」という喜びを通して、サッカー選手と感覚を分かち合えるようになる。
あれだけたくさんの人がW杯を観戦し、サッカーに関心を持ったのだ。これからの4年を使って、みなで「あの時の鈴木」を超える意思を持ったらどうだろうか?
サポートと日本代表の戦績と、そして自分の人生が本当にひとつにリンクするようになった時……、そう、その時が日本のサッカー界が飛躍する、決定的な転機なのである。ナンバー1のブラジルを破るのも夢ではなくなる。すべてをリンクさせるという感覚さえ自分が持てれば、可能性ははるか先まで広がるのである。