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2004年08月21日

アテネ五輪に思う……(2)

 何かと話題のアテネ五輪について雑感をいくつか。

 多分「予想を大きく上回る」メダルラッシュの背景や原因を検証するような特集が、今後テレビや雑誌などで多く組まれるだろう。
 金メダル数も東京五輪のそれを上回る可能性はかなりあるし、世界も注目も相応に集まる。しかし大事なのは無数の点が一つの線につながること。それができると先の展開も見えてくる。

 ぼくはここ数年ずっと身体論をやってきたから、その立場から言えば日本選手の台頭はあまり驚かない。
 テレビで金メダルシーンを見ればそれは嬉しいし、誇りに思うけれど、日本人というのは彼らだけでなく、ぼくに言わせれば全国民レベルで必要な努力を積んできている。
 ただその努力をしているという自覚すらないところに素晴らしく呑気な国民性があるわけで(と、これはかなり繰り返しているけど)、このままこの調子で続ければ簡単に世界が追いつけないくらいに「凄い国」になってしまう。そうなったらちょっと困るなあとぼくなどはある意味呑気な?心配をしている。

 といっても、これだけではわからないだろうから、少しだけここでも指摘をしておこう。
 いまの日本人の世界の最先端をいく「進歩」というのは、要するにハングリー精神に依存しなくてもある程度の結果が出せるようになってきているということ。
 豊かになると人間的には弱くなると言われてきたが、これは半分正解で半分は誤解。
 でなければ、延々に世界は貧しさに頼り続けなければ進歩できないという話になるわけで、そんな「悪循環」から抜け出すヒントが、日本人の日常生活の中にたくさん隠されている。それを発見できるかどうかは、各人の眼に懸かっている。

 もちろんオリンピック選手にしても現実には異常なくらいの努力をしていると思う。
 しかし努力をしなければ向上しないという発想自体、これから様々な形で見直されていくのではないか。
 このことに気づいた選手はある意味一時的に弱くなるかもしれないし、競技そのものから足を洗う人も出てくるかもしれない。
 しかしそれと同時進行して、世界に通用する日本人がスポーツやあるいは芸能などのジャンルで、これからどんどんと増えてくる。
 芸能はプロモーションの問題もあるからストレートに結果に跳ね返るかわからないが、逆に結果ですべて評価されるスポーツは、一番早くその変化が確認できる。
 スポーツは本来、日本人の、あるいはこの世界の「未来」を読み取る有効な実験データでもあるわけだから。

 柔道の井上康生の敗北は確かにショックだったけれど、この意味では、彼にとって自己をレベルアップさせる大きなきっかけになるかもしれない。
 「これまで味わったことのない屈辱」。そんな凄い屈辱を味わえるというのは本当に金メダルを取る以上に「凄いチャンス」ではないか。
 関連の記事などをいくつか読んだが、「オーバートレーニング症候群」が原因ではないかなんていう指摘もあった(夕刊フジ)。

 過度のプレッシャーをはね除けるために異常なくらいに稽古に打ち込んでいたと伝えられているが、「不安をはね除けるための稽古」という発想も今後見直したほうがいいかもしれない。
 確かに「想像を絶する重圧」があったのだろうと「想像」はするけれど、井上のレベルになってくるとあとは試合に勝つというより、「そういう状況で昼寝ができる」とか「友達とついつい飲み歩いてしまう」とか、そういうレベルの追求のほうが必要である気がする。
 メダルの雪辱を4年後にするのなら、ぜひそういう自分を目指して欲しい。

 柔道の話に関連して、100キロ超級で鈴木に敗れたロシアの選手が、「日本は不思議な国だ。篠原、棟田の次は鈴木。自分は次から次に新しい選手と戦わないといけない」と語ったそうだが、ぼくはロシア人が好きなのでこう言われるとちょっと嬉しい。
 「不思議だ」というのは最大級の讃辞。不思議と言われる人間は凄いを通り越して、相手が「理解できない」と脱帽しているわけだから、これからの日本のキーワードになるかもしれない。
 まあ、もともと言われることは多かったわけだけど、おそらく今後はこの不思議を分析して取り入れようという国際的な動きも目立ってくるはずだ。

投稿者 長沼敬憲 : 17:38 | コメント (0)

2004年08月17日

アテネ五輪に思う……。

 現時点で柔道の野村、谷、水泳の北島が金メダル、柔道の横澤が銀メダル。サッカーは予選敗退してしまった。ソフトボールもオーストラリア、アメリカに敗れ、ちょっと苦戦している。でも、大舞台で物おじしない、勝負のできる選手が全体に増えてきている印象を受ける。そう感じた人も多いだろう。

 日本はスポーツ育成にあまり熱心ではない。でも一般家庭は平均的にお金は思っているから、みなある程度の環境でスポーツができる。これは恵まれた状況だろう。「サムライ」にも書いたけれど、ハングリーさをあまり前提にしなくても、楽しむ・追求するという感覚で技術を磨いていける。

 でも反面、やはりハングリーさの求められる状況の中では、特に相手との実力が拮抗している場合、どうしても「勝負弱さ」が出るようだ。
 イチローくらいに技術がずば抜けてしまうと関係無くなるのかもしれないが、ことサッカーなどはDNAの部分で負けた面もあるように思う。
 山本監督はもう少しロジカルに分析すると思うし、それは必要なことと思うけれど、最後の詰めの部分の克服は容易でないかもしれない。日本が民族的にこの島国の中で培ってきたものが、善かれ悪しかれ影響しているわけだから。

 ぼくなどはこの部分でスポーツと自分の現実との「距離」を感じてしまう。なぜかというと、スポーツのなかで表れる「勝負弱さ」は、人生のすべての局面において悪であるとは言えないものだから。

 それは他者に対する寛容さや優しさ、よく言われている和の精神にもつながってくる。こんなものはいらないとか、生き馬の目を抜く国際社会では役に立たないなんて言う人もいるかもしれないが、そうだろうか? この部分を自覚して伸ばすことで「らしさ」が出てくる場合もある。らしさを発見し、物にできた人は強い。強いとはそういうことなのだが、スポーツという枠では必ずしもそれが養えない。

 そんな状況の中で、それでもある程度の結果を出せている日本の現実は、ぼくから見れば凄いと思う。
 この凄いというのは北島が金メダルを取ったから凄いとか、度胸が座っていたから凄いとか、そういう即物的な(と言っていいのかな?)感想とは違う。
 相変わらず日本は他人の土俵で相撲ばかりして、しかもその状況がほとんど見えていないお目出度さのなかで、初めから土俵の中にいる世界の人たちを時に凌駕する。これを凄いと思えるかどうかが、多分に問われているわけだけれど。

 いずれにせよ、あれだけのプレッシャーと慣れない環境の中で、運すら味方に引き入れメダルを取る人というのは、やはり並みではない。柔道の高松みたいによりによって大会の直前に高熱が出て、力が入らなくて一回戦負けという人もいる。この違いは実力の差などと簡単に言えないことは明らか。

 しかしぼくは思う。世の中というのは(決して負け惜しみとか同情なんかではなく)、勝ち負けがすべてではないし、要はそこでの理解が重要なのだということ。
 勝負師は勝つことばかりに囚われているし、囚われないとなかなか勝ち上がれない現実もあるが、仏教なんかではそれは「修羅」と呼ぶのだそうだ。
 宮沢賢治は自分の中にこの修羅を見い出し、これが苦しみの原因なのだと自覚していた。苦しみをどう捉えるかという問題もあるわけだ。

 ぼくなんかが思うのは、やはり努力があるから勝利があるなんていう発想では頭打ちではないか? ということ。
 日々常々思うことだけれど、要はいかに努力の量を減らしながら、自分自身の「らしさ」を出していけるか。わかるかな? 
 「らしさ」というのはスポーツで言えばパフォーマンスになって表れる。いい結果を出すことよりも「らしさ」を出せたほうが、人は満足ができる。個々のパフォーマンスを通じて「らしさ」が発見できることに、喜びがある。

 この仕組みが理解できると、多分スポーツの意味も変わってくるだろう。人の欲とはエネルギーのことだから、もともとエネルギーの強い人はオリンピックのような大舞台で「らしさ」が出せる。
 それは繰り返すまでもなく凄いことだけれど、草野球のなかでその「らしさ」を発見し、発揮し、それが日常で生かせる人なんて言うのも、無名の極みというか、ぼくなんかから見ると相当にカッコイイ。

 思えば、オリンピックという場を通じて、こうしてあれやこれやと考えたりできることが、一番意味のあることなのだろう。
 自分なりの理解をたくさん吸収して、それが現実の中に反映していけたらいい。それは競技のように形には具体的に表れないから、直接評価されたりするものではない。
 因果関係のわからない人にはピンと来ない話のようにも思う。でも、この見えないものをたくさん持てることがじつは凄いことだとわかれば、日本にいながらにして、テレビを見る程度でもいろいろ貴重な体験ができるわけです。オリンピックに出れたから貴重な体験をしているなんて思わないことです。


投稿者 長沼敬憲 : 17:45 | コメント (0)

小川の敗戦とPRIDE GP

 小川が意外なほどにあっさりヒョードルに負けてしまった。ヒョードルのパンチの攻勢は予想できたが、それをかいくぐった小川がバックに組み付いたのをくるりと反転して、あっさりマウントを奪ってしまったのには驚いた。あの瞬間が事実上の勝負の分かれ目だっただろう。

 ぼくのなかでは、船木×ヒクソン戦が思い出された。船木を相撲のはたき込みのような形で転がし、それと同時にマウントを取っていたヒクソンの非凡さ。勝敗が決したのはそのあとだったが、あの一瞬の動きは素晴らしかった。ヒョードルにヒクソンの姿がだぶってしまった。

 ヒョードルの強さは、GPの1、2回戦を見ても、ちょっと神憑かり的なものがあったが、多くの人が「これほどまでとは」と思ったかもしれない。
 しかしそのヒョードルと決勝で対戦したノゲイラも、彼のパウンドをかなりうまくいなせていた。あのまま試合が続いた場合、両者に決め手がないまま、観客にとってはフラストレーションの少々たまる内容で、判定決着になったかもしれない。
 ただ、ヒョードルのバッティングは、その気になれば予想できた気がする。彼はリングスのKOKでも同じような結末があった(VS高坂戦)。あの決勝の状況を見て思い浮かんだのは、その時の情景だった。

 小川にはかなり気の毒な結果になってしまったが、彼の評価はあまりに短すぎた試合のためにまだ完全には定まらないのではないか。
 小川が弱かったというより、ヒョードルが強すぎたと言ったほうが正しい気がする。ただ彼の実力が総合ではトップのトップでなかったことは、悲しいけれど判明してしまった。悲しいけどといったのは、やはり彼の未知の実力に自分も幻想を抱いていた部分があったからだ。
 1、2回戦では気にならなかったが、ヒョードルと打撃で対峙してしまうと、腰の高さがやけに目立った。この腰の差で勝敗があったような気もする。彼は今後どうするのだろう?

 ぼくは小川がヒョードルをずっと押さえ込んで判定勝ちし、ハリトーノフがノゲイラに打撃で勝って、決勝ではアクシデント含みで小川がハリに破れるという、いま思うとかなりプロレスチックな予想を立てていた。
 これはぼくの資質にも関わってくるが、だいたいにおいてこうした予想などする場合、まず最初に情が働いてしまうので冷徹に予想ができない。
 たださすがにいつも同じパターンを繰り返しているので、今度予想するときはもう少し堅実というか、ヘンな話真面目にやってみようか?? でもそれでは「面白くない」と思ってしまうんだなあ。

 ハリトーノフを推していたのは、彼がロシアントップチームの所属だったことも個人的には大きい。
 要するにこれも情の論理なのだが、ぼくはリングスが好きだったので、ロシアントップ=リングスロシア勢をついつい贔屓してしまったわけだ。
 現実を見ると、ハリトーノフは相当にいい選手であることに変わりはないが、ノゲイラと比べたらやや見劣りすることがわかった。

 この差が今後埋まるかどうかはよくわからない。ヒョードルの強さはロシア人であるという以前に天性のものがかなり加味されている。
 ハリトーノフがPRIDEで経験を積んでも、もしかしたら縮まらない差なのかもしれない。現時点ではそんな感想。覆されたら嬉しい気もするが。

 近藤は結果は完敗だったが、ラストのパンチが当たる寸前までは互角の内容だったと思う。ただほんのわずかなスキの部分を突かれ、小穴が一気にこじ開けられて、完膚なきまでやられてしまった。
 しかしぼくはある意味仕方ないと思っている。なぜならシウバは勝つために努力をし、勝つことに執念を燃やし、いわばそれがすべてと思っている典型的なブラジリアンファイター。

 逆にいえば、日本にはそんな凄まじい意識の選手はいない。これを嘆く人もいるのかもしれないが、日本人の感覚は勝つこと以外にもっと様々なことを考え、追求し、鍛練している。
 特に近藤はその典型だ。不動心を口にし、意識の中で勝敗以上の道を求める意識がある以上、ギリギリの勝負を分ける瞬間で差が出たとしても致し方ない(この話は、オリンピックのところでも書いた気がするな……)。

 というより、日本人が勝てないのはハングリー精神に欠けているからでは必ずしもないということだ。
 相手のハングリーさを凌駕するほどの技芸をモノにできた選手はまだ見当たらない。
 ぼくの目からすれば(これは情の論理などではなく)、この道はシウバらが追求しているレベルよりも数段高く、それゆえに試合を通して身につけ、発揮していくのはかなり難しいものでもある。

 でもそれを求める気持ちがあるというなら仕方がない。少なくともブラジル人の真似をしてハングリーを追求しているうちは彼らの天下が続く。
 近藤がこの道を会得できるかはわからないが、何年か先にはそんな“化け物”が格闘界にも現れるかもしれない。

 野球でいうイチローがそんな存在だといえば、多少はイメージできるだろうか? あそこまで到達してしまうとシウバの剛の強さも呑み込まれてしまうと思う。ということは、アクシデントがない限り、シウバの独り勝ちは当分続くのかもしれない。


投稿者 長沼敬憲 : 17:42 | コメント (0)