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2004年09月24日

K-1GP開幕戦を前に(2)

 曙がプレッシャーのあまり円形脱毛症になってしまったという記事を見た。

 写真も掲載されたので間違いはないようだ。ひとつの事実が彼の心中をリアルに語っている。本当に大変だろう。
 プロレスのリングに上がるかどうかで心が揺れている……なんていう記事もあった。勝敗はともかく何かを伝えられたらいいと思うが、その何かが本人にもまわりの人間にも見えていない。
 だからこそ……、この何も見えていないというところに、伝えるべき「何か」は隠されている。前回そのように書いた。
 わかりやすく言えば、それくらい追い詰められ、見えなくなるという体験は誰もができるものではない。その意味でチャンス、なのだということ。

 曙とは違った意味で、チャンスをつかみつつあるのが武蔵だ。
 前年の準優勝した前後から、少しずつ顔が出来てきた感がある。
 武蔵は決して「ハンサム」ではないが(失礼)、先天的な容姿とは関係なく、人には顔が出来てくる時期がある。
 単純に「カッコよく」なるわけだが、最近の武蔵にそれを感じないだろうか?
 それが本当の「顔」であるわけだが……、今年のGPは結果を出す以上に、この顔をどこまで作り上げられるかが問われてきそうだ。
 その意味では、本人も言っているように「開幕戦で負けていられない」。確かにそうなのだが、戦前の予想としては勝利はちょっと微妙だ。アビディ戦は彼の今後を賭けた一戦と大きく位置付けられるかもしれない。

 筆者はアビディのことを過去に評価したことがあるので(Astral Bout)、低迷してからもずっと応援している。
 彼の低迷の原因はある程度ハッキリしている。
 ナチュラルな強さ、無意識の勝負カン、身体的な柔らかさで一気にスターダムに上がったが、人気が出て、客の存在を意識し出してから、本来のそのナチュラルなファイトスタイルが、知らないうちにKO狙いのファイトスタイルにすり変わった。
 この二つは見た目は似ているが、本質は全然違う。真っ向勝負のファイトスタイルがウケて、それがファンの求めているものだと知った時、それをしようと意識したアビディがいたはずだ。
 その「しよう」という意識が微妙に感覚を見失わせたのではないかと思う。

 これは難しい話だ。プロのファイターならばこれを乗り越えないと、天分だけで戦っている段階から抜け出せないのかもしれない。
 かつてアビディが追いかけたアーツも、この壁を超えられないでいると言うこともできる。
 というより、K-1のなかで「乗り越えられた」のは、つまりコンスタントに自分の能力を発揮できているのは、ホーストくらいか。
 レイ・セフォーもその一人かもしれないが、彼の場合、能力そのものをもうひと回り高めたいところだろう。そうすれば優勝できると自分でも思っているのではないか。
 先ほど書いた武蔵の「顔」についても、いま彼がこの壁を超えられるかどうかの段階まで来ていることを示している。

 ふと思ったが、いまK-1ファイター全体が、一つ大きな壁を超えられるかどうかの段階にいるのかもしれない。
 「原点回帰」を標榜したのも、そうした状況が背景にあってのものだと捉えると納得しやすい。
 決定的に強い、絶対的に安心できる強者はいない。バンナもボタにK-1初勝利を献上してしまう可能性がある。そうするとボタが一つ壁を超えることになる。
 この場合はK-1のトップファイターにデビュー6戦目(未勝利)のボクサーが追いつくという意味での「超える」だが、悪く言えばK-1はまだそれくらいの「レベル」なのだとも言える。
 しかし、いま全体のレベルが上がる機が熟してきている。一つ上がってしまうと、もうボクサーが特訓しても勝つのは難しくなる。
 ボタはその点で物凄く微妙な位置にいる。バンナに勝って「ギリギリセーフ」というような位置かもしれない。

 勝敗予想よりも、曙を含め個々のファイターの直面する「壁」を想像し、その壁に対して超えられたか、超えるきっかけは得られたか、そのような視点で見ていったほうが、今回は面白いと思う。
 その視点で見ると、今回は非常によくできたカードだ。感覚的にかもしれないが、谷川プロデューサーもこの機を感じている可能性がある。
 だとしたら、PRIDEに押されてきた感のあるK-Iの「反攻」がいよいよ始まるということだ。
 しばらく見られなかった、フィリオ×バンナのような「世紀のKOシーン」も再び蘇るかもしれない。ヒョードル×ノゲイラ戦に内容で凌駕できるような試合が、K-1で今後出せるかが問われる。


投稿者 長沼敬憲 : 17:28 | コメント (0)

2004年09月20日

K-1GP開幕戦を前に(1)

 まず曙の話から。

 先日「紙のプロレス」という雑誌を読んでいたら、デスマッチで名を馳せたプロレスラーの松永光弘氏が、面白いことを言っていた。
 彼はレスラーになる以前にアマチュア相撲と空手で実績があり、二つの競技を体験した立場から「相撲という競技の特殊性」を語ったわけだが、簡単に言うと、相撲を始めることで一般的な運動神経がどんどん落ちていったそうだ。
 能力が「相撲に勝つ」ということのみに限定されてしまうため、空手に転身した時、またイチから学ばねばならなかった(相撲の技術は何も役に立たなかった)という。

 筆者は松永の意見を興味深く思う一方で、「相撲って、初めからそんなに閉塞した競技だったのだろうか?」とも思ってしまった。
 申し訳ないが、力士の多くに見られる「生活習慣病と背中合わせの太った巨体」は、確かに相撲でしか役に立たないかもしれない。
 しかし日本の武道の歴史には、現在の総合格闘技につながる「なんでもあり」の感覚がある。
 相撲しか取れない相撲取り。これは武道の目から見ると自己矛盾している。
 幕末あたりの力士の写真を見ると、筋肉に張りがあり、小兵で、現代の柔術家あたりともあまり差異がないように思える(当時の日本人自体小柄だったので、世間的には巨体であったと思うが、その質が今の力士と全然違っていたと感じられる)。

 曙は、こうした「自己矛盾している現代大相撲」という構造の中から生まれるべくして生まれた「横綱」であり、難しい話ではあるが、この矛盾に気づき、打開できないかぎり(そうした意思を持たないかぎり)、総合格闘技に転身してもおそらく実績は残せないのではないだろうか?
 自己矛盾の構造とはいえ、人には言えない苦労はしただろうし、そこで勝ち上がったプライドもある。
 しかしそのプライドは精神面を支えるものであり、技術が他の格闘技に生かせるかどうかとは別問題。
 松永も空手を始めたころ1分くらいで息が上がってしまって苦労したと語っている。「彼と一緒にするな」と言ってしまったら見失うものが大きいと思う。

 そのように根本的な問題点を無数に抱えた(その意味で興味がつきない)曙が、開幕戦のスペシャルマッチで前年度王者のボンヤスキーと対戦するという。
 「これまでの対戦相手は逃げ回るだけで、まともに打ち合ってこなかった、だから完全燃焼できていない」と語る曙だが、今度はまた違った意味で完全燃焼できないかもしれない(1ラウンドすら持たない可能性もかなりある)。
 本当に扱いの難しい存在をK-1は抱えてしまったものだと思うが、彼をスカウトした谷川プロデューサーはいまどんなビジョンを持っているのだろう? プロレスに転向してしまったら、それこそ「なーんだ」の世界になってしまうわけだが……。

 ともあれ、そんな「ありがちなシナリオ」より、ここで注意を喚起しておきたいのは、久々に?「出口の見えない選手」が現れたなという事実についてだ。
 本人も(あるいは谷川氏も?)「何とかなる」と始めた転向劇だったかもしれないが、現代相撲と格闘技の当たり前すぎる隔たりが浮き彫りになっているわけで、彼の勝敗よりもその点に注目するといろいろなものが見えてくる。
 たとえば、相撲界はいま、モンゴルや東欧など旧共産圏からやって来た力士たちの台頭で新風が吹き荒れている。
 国際化が進むと外国人力士の占める比率も増すだろう。しかし単純に日本人力士ガンバレと奮起を促しても、どう頑張ればいいのだという話になる。

 レスラー松永の指摘ではないが、素朴な現実に気づくべきだということだ。
 体を大きくすることはいいが、たとえば1日10キロのウオーキングでへばってしまうような力士ばかりだとしたら(そんなイメージがあるが、実際どうなのだろう?)、「疲れたサラリーマン」を笑えない。
 特殊化は武道の感覚(日本人の身体感覚)からは離れている。だからトレーニング器機で肉体改造するのも、別の意味での特殊化のように思える。
 相撲を本来の相撲に取り戻すためには、逆の発想で新しい力士を作る必要がある。そうやって生まれた力士を外国人横綱と闘わせた時、革命が起こる。……まあ、かなり夢想に近い話だが、マンガの原作にしたら「播磨灘」以上に面白そうだ。

 話が逸れたが、本当に曙は難しい。
 筆者自身、頭はそれなりに柔らかいつもりだが、彼が格闘家として成功するイメージがいまひとつ浮かばない(タレントとかプロレスラーとしてなら浮かぶが、それは本人も望んではいまい)。
 しかし好条件もある。谷川氏をはじめ、おそらく曙本人以上に、周囲の人間が彼の可能性を模索しているであろうという点。
 答えが簡単に見つからない時というのは、諦めさえしなければ、通常ではなかなか思いつかない活路が見えてくるものだ。
 専門家の感覚ではさしあたって大減量しないかぎり現状打破はできないとなるが、本当にそうなのか? ボンヤスキー戦で何か少しでもヒントが見えてくると面白い。

*開幕戦までに他の見どころもUPする予定です。

投稿者 長沼敬憲 : 17:31 | コメント (0)

2004年09月04日

アテネ五輪に思う……(3)

 夏の話題を独占したアテネ五輪が閉幕した。

 メダルの数は過去最高、金メダルは東京五輪に並んだというから、80〜90年代の低迷からは脱却したといっても間違いではないだろう。
 もっとも今後に関して様々な強化策はなされるだろうが、それをもって日本がスポーツ大国への道を歩んでいくのかというと、少々語弊があるように思う。
 それどころか今回の結果に気をよくし、安易に強くなることばかり求めすぎると、逆に自分たちの力を見失う可能性すらある。筆者はそう感じている。

 いつも言っていることだが、日本人には世界標準でいうところのハングリー精神というのはあまりない。
 まったくないとまでは言わないが、ぎりぎりの争いになった時、今後もしばしば「甘さ」が出てくるような気がする。
 なぜか? これは無意識のレベルの話になるが、そこまで勝つことに執着する気持ちが我々にはないからだ。個人レベルで「負けられない」という事情はあっても(それで結果が出せたとしても)、全体で見た時はもともとも内在するDNAレベルの感覚がどうしても頭をもたげてくる。
 そしてそれは別に悪いことではない、無理に克服するものではない……というのが、筆者の基本的な考えである。

 こういう言い方をすると、では負けてもいいのかと言われそうだが、じつは「勝ち負けを超えた感覚」をもっと研ぎすませていったほうが、長い目でみると強くなれるのである。
 そして日本は少しずつだがそうした道を歩み続けている。その意味での先進国とも言える。
 だから、なまじ世界標準に合わせてハングリー精神を身につけようとすると、かえってそれが足をひっぱる結果にもなる。
 もちろんスポーツは結果が問われる世界だから、現実には悠長なことは言ってられない。勝つための必死な努力は、競技に携わっているかぎり求められてくるだろう。
 しかし、そうした修羅のなかでもふっともたげてくるのが、自分たちの歴史や風土のなかで培ってきた潜在的な力なのである。この力を自覚し、引き出すための努力をしたほうが確実だと言っているわけである。

 上記にリンクする話題として、たとえば柔道の話がある。
 日本柔道の強さというのは、面白いことに柔道という競技で勝つために養っているものではない。
 選手たちは「一本を取る」「技をきめる」という「日本の柔道の神髄」を世界に伝えるためにやっているという意識が強いようだ。
 勝つことが軽視されているわけではないが、「自分の柔道ができれば負けても仕方がない」という気持ちのほうが多分に上位にある。
 ヘンな話、勝つことを第一に考えてはいないわけだ。選手やコーチは「いや、勝つために必死でやってますよ」と言うかもしれないが、潜在的にはそれ以上のものを追求している。
 普段の稽古もそのための鍛練として位置付けられる。だから強いのである。
 この理屈を各国の柔道家が理解すれば脅威になるが、まだそうした動きはあまり見られない。

 同じ意味でハンマー投げの室伏選手が繰り上げ金メダルになったことも、一つのヒントになると思う。
 日本人選手がみなドーピングの誘惑に負けず、正々堂々の勝負を求めているなどとは言わないが、室伏は勝つことに意味があるのではない、競技を通じて自分の姿勢を伝えることのほうが大事なのだと言っている。
 室伏の強さの秘密は、「それでも勝つことができる」と気づいたところにあると筆者は思う。
 彼の意識は競技での結果よりも、自分の身体感覚を研ぎすましていく、磨いていくことに向けられている。自分の内面が質的に向上すれば、それが一番確かな結果なのだという意識があれば、競技上の結果に100%執着する感覚にはならない。
 もちろん大舞台で勝ちたいとは思うだろうが、ドーピングしてまでとは思わなくなる。

 女子レスリングの浜口京子も、はじめはあんな意識過剰の父親と一緒だと日々大変だろうなあと思っていたが、今回のオリンピックを通じて、アニマル浜口さんが必ずしも無理をして気合いを出しているわけではない(つまりはあれが素なんだと・笑)、感じた人も多かったのではないか。
 「銅メダルは金メダル以上の価値がある」といった彼女の言葉は、嘘ではないと思う。しかし驚いた。掛け値なしにいい娘ではないか。いまは苦しいだろうが修羅の世界を乗り越えたら、さらにすごいエネルギーが発揮できる可能性が感じられた。

 ソフトボールは決勝に残れず残念だったが、ソフトに限らずチーム競技の多くは「あと一歩」足りない何かに泣かされたところが多かったようだ。
 サッカーも野球も、バレーボールも、勝者との間の微妙な差を感じたのではないか。
 しかしこの差は「よりハングリーに」なろうとしても、克服できるとは限らない。
 そのことは先にも話した。逆に言えば、ちょっと力を抜いてみることだ。走り続けながら、意識のベクトルだけをほんの少しずらしてみる。
 ただこの感覚はかなりとことん、極限の道を追求していかないと見えてこないかもしれない。その意味では日本は4年後に向けてさらなる「強化」をしていく必要もあると言えるかもしれない。

 スポーツが平和の祭典と本当に呼べるものなのか、筆者には疑問がある。
 それは機会を改めて書くことにしよう。しかし、自分が試される場で自分の培った能力を発揮することに集中できる選手は、勝ち負けに関わらず確かに魅力的だ。
 そして今回「参加することの意義」だけでなく、「結果を残すことの意味」すら多くの選手が残すことができた。
 日本はおかしなところも多いが、やはりひとつの共通した風土のなかで長く特有の身体感覚を築き上げてきたことが、大きな蓄積になっているのだと思う。
 その多くはまだ潜在意識の範疇にあるが、引き出せばさらに「らしさ」を発揮していける。そんな「明るい兆し」が感じられた夏の一時だったと総括したい。


投稿者 長沼敬憲 : 17:35 | コメント (0)