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2004年12月06日
K-1GP決勝と“疑惑判定?”について
ことしのGP決勝をテレビで見た。まだ新聞報道が中心で、細かい論評の入る雑誌などの発売はこれから。試合の結果と内容、選手のコメントといった基本データから、いくつか感じたことをつづってみたい。
全体に見ると、決勝のボンヤスキー、武蔵の戦いぶりを見るまでもなく、非常に僅差の判定が多かった。当然、敗れたほうの選手は不満だ。
ホーストは「日本的なジャッジに自分は勝利を盗まれた」と怒り心頭のコメント。日本式というのは、次世代のエースと目されるボンヤスキー、日本期待の武蔵、この二人を勝たせたいという意識がジャッジに影響していたという批判だろう。
武蔵に敗れたセフォーも、「K-1はよりアグレッシブに攻撃したほうにポイントがつくはずだ。逃げてばかりの武蔵が勝ったのは、別の意図が働いたとしか思えない」と批判している。
この大会に賭けてきたホーストやセフォーの気持ちはわかる。
しかし、筆者は今回の判定結果はある程度仕方がないと思っている。まず、前にも書いたが、K-1のレベルがここ数年でかなり向上してきている。
「豪快なKO決着がK-1の魅力だ」と言われてきたが、今後は上位の選手同士の対戦になるほど、こうした僅差判定は増えてくる。これは「進化」の一つの結果なのだから、そういうものかと受け止めるしかない。
見る側が目を肥やしていくべきなのである。
また、こうした僅差の判定が頻発する以上、ギリギリの判定の中で「ホームゲームディビション」「判官びいき」「興行的な配慮」が、ジャッジの意識に反映してしまうのも仕方のないことだ。
ジャッジは機械ではない。意識を持った人間が最善を尽くして行うものだ。しかし、意識の背後には無意識がある。客観、中立をいくら心がけようが、決定打がなければ無意識の配慮が反映される。
これは、武蔵に敗れたセフォーなどは特に自覚するべきことだったと、筆者は思う。
数年前の初対決では武蔵を圧倒したセフォーだが、この日の準々決勝は互角の攻防。武蔵に決定的なミスがなかった以上(言い換えれば、セフォーが決定的なポイントを稼げなかった以上)、残念ながら負けと判定されてもそれは認めるしかない。
彼が負けていたとは確かに言いがたいが、勝っていたとも言いがたいからだ。この時点で、判定への不満は説得力を失ってしまう。
サッカーなどでもホームとアウエーの試合がある。純粋な技術や戦術、チームワークが秀でていても、審判のちょっとしたファールのジャッジでホームのチームに有利な状況が生まれる。
よほど意図的なものならば批判は成り立つが、多くのサッカー選手はこの現実を飲み込んで戦っている。
シチュエーションが味方している相手に勝つには、凌駕しているなと思わせる、明確な説得力が必要である。
試合に対する戦略を立てる場合も、当然これを考えなければ、会場の空気まではひっくり返せない。その意味では今回の判定は「許容範囲」のうちであり、誰が見ても酷いというものではなかったのではないか。
ホーストは外国人のジャッジの導入を試合後の会見で提案していたが(K-1の判定は、通常日本人のジャッジが行っている)、それが受け入れられたとしても彼の納得するような結果が生まれるかはわからない。
スポーツと興行は表裏一体のものであり、オリンピックや世界選手権のようなアマチュアの世界でも、「配慮」は働く。
「純粋なスポーツ」などというものは存在しない。対戦相手だけでない「すべて」の状況を理解し、見通した上で戦うことが選手には求められる。
要するに、競技としては大味な感のあったK-1も、そうした一段高いレベルのステージに、いま上ろうとしているということだ。
この背景には、サップや曙、今回のガオグライのような異分子が入り込んだことや、総合のジャンルに進出したことで、各選手のスキルが全体的にアップしたことがある。
K-1をPRIDEと比べ興行論に傾きすぎていると批判する人間もいるが、それは必ずしも当たっていない。
巨大な興行の中で、すべての要素が一体になりながら、同時進行で変わっていくのが、K-1に設定された(石井前館長が設定した)宿命のようなものなのである。PRIDEもその設定を踏襲している。
要はスポーツ興行の本質を受け入れ、パワーに変えられるファイターの出現が、今後、K-1に求められてくる。
強さというより、皮膚感覚での、理解の問題だ。その理解が、K-1を世界的なスポーツ競技に飛躍させる起爆剤になるだろう。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月06日 17:16