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2005年02月28日

どっちの世界を?〜前田日明、船木誠勝、ふたつの「戦い」(4)

 ……といっても、さしてむずかしい話をするわけではない。
 その種とは、おそらく明治から昭和の初期にかけて蒔かれた、「近代化」という名の種である。「武道」が体系化され、同時に欧米から伝播した「スポーツ」と激しく融合しはじめたのが、この時期にあたるからである。武道的な「原理」とスポーツ的な「現実」とのぶつかり合いと捉えてもいい。

 「武道」が体系化されたのは、江戸時代ではなかったのか? なかには、そう思われる人もいるかもしれない。しかし、多分に解釈の問題とも言えるが、筆者は江戸時代は「武道」が熟成された時代であって、体系化ということでは、あくまで明治を待たねばならないと捉えている。そもそも、江戸時代においては、「武道」ということばはあまり用いられておらず、武士の技芸という意味では、「武芸」「武術」「武技」といった語のほうが一般的だったのである。

 明治以降、この「武道」という用語が再び注目されはじめたのは、日清・日露戦争の勝利によるナショナリズムの昴揚に触発され「武士道」という語が復活されたことの対比からであった。
 機械や兵力においては露国に劣るも、日露戦争で勝利を勝ち得たのは、精神力において勝っていたからであるという「白兵戦闘主義」が台頭し、武術による攻撃精神の養成が強く叫ばれた。こうした情勢に呼応して「武術」から「武道」への変更を強く主張したのが、時の警視総監西久保弘道であった。
(中村民雄「剣道事典〜技術と文化の歴史〜」より)

 この一文からもわかるとおり、「武道」とは、いわば、官製のことばであった、と言える。「開国」や「文明開化」によって流入してきた「欧米思想」への対抗策として、半ばヒステリックながら、日本古来の「武道精神」が求められた。自らの自我を守るための「精神的防衛手段」と考えてもいい。
 しかし、こうした自我意識の形成は、世情で言われるような「負の遺産」(日本を敗戦へと導いた)ばかりを残したわけでは、もちろんない。人が意識化をはじめるということは、曖昧だったものを明確にすることでもあるからだ。

 つまり、他者との「違い」を自覚することで、新たな思想や文化が生まれうる。
 古今東西、どの時代どの国を問わず、こうした「意識のぶつかり合い」が、何らかの形で、新たな「現実」と「原理」とを生み出す。逆に、これらが生み出されない場合、その国は衰亡し、周辺のより強力な勢力に呑み込まれてしまうのである。
 ……「現実」と「原理」を生み出す? ……「近代化」が?
 そう、この場合の「現実」とは、「欧米思想」を積極的に受容し、肯定し、自分たちの「文化」のなかに取り込んでしまおうという精神を指す。この精神は、幕末の開国主義、明治以後の文明開化、富国強兵などの諸政策とも重なり合う。
 一方、「原理」とは、むしろ自分たちの「文化」そのものを突き詰め、鋭敏にし、それをもって体系化を図ろうとする精神と言ったらいいだろうか? こちらはいわゆる復古主義や国粋主義、あるいは昭和初期の軍国化などとも重なり合う。

 そして、これらを「武道」にあてはめた場合、前者は「柔道」、後者は「合気道」に当たることになるはずだ。
 ともに江戸時代の「柔術」(柔、小具足、捕手、拳法などと呼ばれた)という源流から枝分かれし、一大飛躍を遂げた武道である。「武芸十八般」などと呼ばれた「混沌」が、ふたつの「秩序」へと変化したとも言えるだろう。
 ハッキリ言って、「現実」と「原理」の本質を理解する上で、これほどの典型、これほどの対立概念は、なかなかお目にかかれない。そこに、われわれのひとつ前の時代の精神が、明確に現われている。

 まず、柔道の創始者である嘉納治五郎は、卓越した「現実主義者」である。
 なにしろ彼は、179流あったと言われる柔術の諸派の長所を取り、短所を捨て、いわゆる「講道館柔道」の名のもとに、近代的な「練習体系」へとまとめあげた人物だからである。
 これによって、それまで「実戦」(あるいは、「実戦」により近い形)のなかでしか試すことのできなかった技術や精神力が、ひとつの「競技=スポーツ」を通して計れるようになった。と同時に、広く一般に門戸が開放されたことで、心身の「教育」の面においても、大きな役割を果たすようになったわけである。

 講道館柔道においては、勝負と練体とは同時に修められる方法を取ったのである。その訳は、勝負の修行をする場合にも怪我を避けることが必要であり、同時に兼ねて身体を強健にすることは願わしい。また練体として修行する場合にも、体操の如き意味のない運動は厭き易く、精神が籠り難いが、平行して、攻撃防御の練習が出来れば、面白くもあり、有益でもある。そういう訳で出来るだけ両者を兼ねるように仕組んだのである。
(富木謙治「武道論」より、嘉納の発言を抜粋)

 こうした発想を思いつく感性は、まさに「現実主義」のそれに他ならないだろう。
 もとは、ただ「強くなりたい」という動機から柔術を学びはじめた明治の一青年が、その修行の過程で、家元主義、秘密主義に陥りがちだった「武芸」の弊害を見抜き、これをもっと公平で明快なものに作り変えようと意図したわけである。世の中だけでなく、固く閉ざされた武道の世界をも、「近代化」させたと言っていい。

 一方、合気道の開祖である植芝盛平は、嘉納とは対照的な「原理主義者」である。
 彼も、青年期に柔術の諸派を学びはじめたひとりであるが、「原理主義者」らしく(?)、柔の術理をさらに突き詰める方向へと進んだ。しかも、東大、ドイツ留学、高等師範学校校長、文部省参事官など、明治のエリート畑を進んだ嘉納と異なり、軍隊生活、北海道の開拓事業、大本教祖・出口王仁三郎(おにさぶろう)との「蒙古入り」など、ほとんど地を這うような過酷な体験を繰り返している。
 とくに圧巻といえるのは、王仁三郎のボディ・ガードとして乗り込んだ、蒙古(モンゴル)での体験だろう。
 「東亜の天地を精神的に統一する」という彼の壮挙に共鳴した植芝は、他の数名の同志とともに、日本を脱出。「万教同根」を旗印に、馬賊の大将と手を結び、最後は張作林の軍によって銃殺寸前に追い込まれるなど、幾度となく死線をさまようのである。

 一歩も動くわけにはいかなかった。だから弾丸が飛んでくると、ひょいひょい首やからだをねじって避けるだけじゃった。眼をこらして見ているうち、あ、今度は右から狙ってくるな、あ、今度は左から撃ってくるな、とはっきり直感・直覚できるようになってきた。弾丸より一瞬早く、白いツブテがぱッと飛んでくる。それをぱッと身をかわすと、あとから弾丸がすり抜けてゆく。毎日そんなことばかりするうちに、自然に武道の極意がひらめいてきた。相手の殺意は、こちらの平常心が澄みきれば澄みきるほど直感・直覚できるものだということじゃ。
(植芝吉祥丸・編著「合気道開祖 植芝盛平伝」より)

 日本へ強制送還された植芝は、師・王仁三郎のもとで開いていた「植芝塾」で鍛練を重ねるうち、のちに合気道となる「原理」を、ハッキリとつかんだ。
 すなわち、「戦い」というものを突き詰めていけば、最後は「勝敗」を求める感覚は消えていき、「愛をもってすべてをつつみ、気をもってすべてを流れるにまかすとき、はじめて自他一体の気・心・体の動きの世界が展開し、より悟りを得た者がおのずから、いわゆる勝ちをおさめている」(同上)という状態を得る。
 まあ、わかりにくいかもしれないが、この状態こそ、「愛気=合気」の精神であり、合気道が「演武」によって成り立ち、「試合」という形式を必要としないのも、こうした認識ゆえのこと。戦いにおけるさまざまな局面を「型」に体系化させ、その「型」をもとに習練を積んでいくことで、身体運動の「原理」そのものをつかみ取ろうとするのが、合気の本質であると言えるだろう。

 いずれにせよ、近代に生まれたふたつの武道は、両極端に枝分かれしたまま、その後もそれぞれの道を歩みつづけた。
 嘉納は、「現実主義」としての王道をどこまでも進んだ。その真骨頂とも言うべきが、まだ黎明期にあった「オリンピック運動」への参加であり、日本人初のIOC委員となった彼は、晩年には、東京への五輪招致に奔走。柔道が小さな島国の一武芸から、「世界のJUDO」へと飛躍する、大きな足がかりをつくっていく。

 一方の植芝も、あくまで「原理主義」としての王道をたどりながらひたすら習練に励み、晩年になるほどその強さが増したと言われるが、弟子たちのなかから優秀な「現実主義者」が多数輩出し、彼らの尽力によって「合気道」は財団として組織化され、「非競技系武道」としては希有な、世界的な広がりを見せるに至っている。
 こうして見ると、「柔道」と「合気道」は、根はおなじでありながら、あくまで異なる方向性(「現実主義」と「原理主義」)を持っていたことがわかるだろう。そして、それぞれの方向性を、ひとつの形に具現化させることに成功した。「近代化」のもたらした希有な成果として、もっと評価していいのではないだろうか?

投稿者 長沼敬憲 : 2005年02月28日 15:45

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