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2006年06月09日

ジーコが日本代表に伝えたもの〜身体論・ハラ感覚からひもとくワールドカップ

 サッカーのワールドカップドイツ大会が目前に迫ってきた。“ブラジルの英雄”ジーコ率いる日本代表は、予選ラウンドを突破できるのか? できたとして、どこまで勝ち進むことが可能か? 注目が集まっている。

 筆者は、これまでも何度か書いてきたが、生粋のサッカーファンではないし、専門のライター、評論家ではない。もともと身体論という、従来のスポーツジャーナリズムとは異なる視点を持ってきたこともあり、同じものを見ながらも、彼らの見解とは少々違ったことを感じている。
 今回は、その点について解きほぐしてみたいと思う。

 まず、ワールドカップについてあれこれ語る前に、いまの日本代表をどう評価したらいいのか? という、一番ベーシックな部分に注目してみよう。
 これは、代表が監督であるジーコの構想をベースに作られてきたものである以上、ジーコを監督に選んだサッカー協会の選択は妥当だったのか? と問いかけたほうが視点がより明確になる。
 ただネームバリューがあるから、日本とのつながりが濃かったから、あるいは他に適任者が見つからなかったから選んだのか? こうした要素も少なからずあったかもしれないが、しかし、これだけだとしたら、大会でどんな成果を上げようと、すべて泥縄式にすぎなかったことになる。これでは未来につながらない。評価としては、「最悪」ということになる。

 結論を先に言えば、筆者はジーコを監督に選んだサッカー協会の判断は、きわめて妥当なものだったと思っている。もちろん、予選ラウンドを突破できなければ、ジーコにも、協会にも、厳しい批判は集まるだろう。
 しかし、そうなったとしても、選んだ時点での意図や狙いまで否定はできない。結果が出てしまう以前に、こうした話をするのも、そのほうがより公平に原点の部分をジャッジできると思われるからだ。

 では、実際にどんな意図があったのかということだが、筆者は、オフィシャルに語られている部分よりも、協会の関係者が「ジーコがいいんじゃないか」と感じた時の、(理論化される前の)感覚をイメージしたほうが、本質は見えてくると思っている。
 どういうことかというと、前任の監督であるトルシエは、よく知られるように、ガチガチの理論重視タイプ。その彼が4年にわたって作り上げてきたものを、どう発展させていくか? そうした発想の中で最終的に選ばれたのがジーコだったことだ。

 理論派のトルシエに対して、ジーコは規律よりも自由、戦術よりも選手の自主性を重視する指導法を採ったとされている。個性尊重のブラジルスタイルなどとも言われたし、逆に明確な戦術がないという「弱点」は、専門家たちの間では、それこそ毎回のように批判の的となってきた。

 そもそも、ジーコには監督としての経験はまったくない。そのことは初めからわかっていたわけだから、戦術の部分でジーコを批判するのは、じつは的を得ていない。ジーコにすれば、「それもわかった上で自分を選んだのだろう!」という思いがあって当然だからだ。代表監督になって、慌てて戦術を学ぶような人物だったら、それこそ彼の権威は失墜してしまう。

 繰り返しになるが、であるにもかかわらず、なぜジーコは選ばれたのか? ジーコにはいったい何が期待されていたのか? 問われるのはその点だ。
 筆者はそこに、それまでの日本代表に欠けていた「ハラ」という感覚を当てはめたいと考える。世界的な名選手であったジーコは、監督としての実績も、高度な戦術を編み出すスキルも欠けていたかもしれないが、それを上回って余りある才能を持っていた。それが、「ハラ感覚」あったと感じられるからだ。

 ハラが据わるという言葉があるように、それは何があっても動じない強い精神力、不動心、あるいはそうした感覚に裏打ちした体幹の強さなどに表される。
 ジーコをハラとしたら、トルシエはアタマだ。トルシエは、理論によって日本代表を育て上げることで、国際舞台で戦える状態にまで仕上げた。前大会でベスト16という結果を残すことができた。
 しかし、それは戦えるというだけで、勝てるということと必ずしもイコールではなかった。

 たとえば、日本代表に試す戦術として、トルシエの「フラット3」以上に優れたプランもあったかもしれない。しかし、より優れた戦術を採用できても、だから「より勝てる」とは限らない。そのへんの壁をサッカー協会の幹部は感じ取ったのではないだろうか?
 この壁を破るには、戦術などものともしない、個の力が求められてくる。身体論で見た場合、それはハラという感覚になる。

 ジーコに求められたものは、だから、細々とした戦術ではないし、そうした部分での試合運びに稚拙さがあったとしても、繰り返すが、それは「初めからわかっていたこと」。限られた条件の中で必要以上の「無い物ねだり」をしても、それは批判に値するかわからない。
 それよりも、ジーコがいまの日本代表に伝授できるものは何か? それは実際に伝授できているか?(できたのか?) この点に着目した方が、ある意味結果を問うこと以上に生産的と言えるはずだ。

 そして、そのように見た場合、ジーコはおのれの使命をかなりの度合いで果たしたように思う。この4年間で日本代表のハラは(国際レベルに肉薄できるくらいには)安定してきたように感じられる。
 よく語られるのは、アジアカップを制した時のような、試合終了のギリギリまであきらめない強靭な精神力。どこがどう強いというわけでもないのに、何かしらの可能性を(相手から見た妙な不気味さ)を感じさせるのは、4年前には見られなかった点だ。

 念のために言っておくならば、ハラという感覚は、抽象的な概念(たとえ)ではなく、実際に感じ取れるものであり(だから感覚という)、意識して養えるものでもある。ただ、それを理屈で指摘しても、実際に身体に染み込まなければ、自分の力にはなれない。だから、この感覚を持った指導者のもと、実戦を積んでいく必要が出てくる。

 日本は外部の力をうまく活用することで、過去の歴史において幾度も自己の能力の掘り起こしに成功してきた。監督経験のない(明確な戦術のない)ジーコが選ばれた理由。それは、日本人がかつて明瞭に持っていたものを掘り起こし、呼び戻すプロセスと重なってくる。
 日本代表は、文字どおり、日本の代表なのだから、彼らが学んだプロセスは何らかの形で我々の日常に還元される(影響を及ぼす)だろう。

 さて、いよいよワールドカップ開幕だが、そんなふうにして新しい力を身につけた日本代表は、その身につけた成果をどこまで発揮できるだろうか? グループFは名うての強豪国ぞろい。世界標準で力を試す、絶好の機会ととらえることができる。

 各試合の展望も、ハラという視点で行ってみると、じつはかなり面白いものが見えてくる。
 初戦のオーストラリア戦などは、ジーコとヒディングという両監督の、ハラの戦いという感じだ。それぞれ弱点を抱えており(日本は体力で劣る、オーストラリアは急きょ監督に就任したヒディングの促成栽培の感が否めない、など)、おそらく戦況は五分。最後に勝敗を分ける部分、それはもう言うまでもなく、技術や戦術などではないということだ。選手にどれだけのものを伝えられたか? 両監督のメンタルな技量が問われてくる。

 よく言われているように、初戦のオーストラリア戦に勝てるかどうかが、予選ラウンド突破のカギ。ここでハラの戦いを制した時、クロアチア、ブラジル戦に向けてハラ的な展望が見えてくる。
 一戦ごとに対戦国のグレードがアップする点も興味深い。このような組み合わせを引き当て、しかも第3戦で母国ブラジルと戦うという運命的な巡り合わせは、ジーコの持つ理論を超えた、不思議な強さを感じさせる。

 つまりは最高のお膳立てが整えられていることが見えてくるが、この用意された舞台で自分の力を出せるかどうか? そう、ここでも問われるのがハラなのである。
 大会後のポストジーコ体制は、再び戦術重視の監督によって、さらにハイレベルなものが要求される段階に突入すると予想するが(サッカー協会が賢明ならばそう発想すると思われる)、今大会のテーマはあくまでもハラ。ここに運の強さも加味するならば、予選ラウンドの突破は可能と見るが、果たして?

投稿者 長沼敬憲 : 2006年06月09日 20:31

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