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2006年06月22日

「強運」だからこそ経験できること〜ジーコジャパン・ブラジル戦を前に

 まさかの逆転負けを喫したオーストラリア戦。後がない状況の中、辛うじて引き分けに持ち込んだクロアチア戦。
 そして、明日の早朝(日本時間)が予選ラウンドラスト、ブラジル戦。世界王者相手に2点差以上で勝たない限り、決勝トーナメント(ベスト16)には進めない。すでに報道されているように、ジーコジャパンが「がけっぷち」に立たされている。

 ブラジル戦で日本が「奇跡の勝利」を挙げられるか、筆者にはわからない。ジーコ自身が言うように「かなり難しい」、「しかし可能性があるなら、髪の毛一本の可能性でもしがみつく」。その通りだろう。

 いずれにしても、筆者が思うこと。それは、ジーコという人間の、サッカー人としての類い稀なる「強運ぶり」だ。
 言うまでもないが、ジーコはサッカー王国・ブラジルで、ペレにも匹敵する国民的英雄として知られている。その彼が、よりによって、母国と同じグループに抽選で振り分けられた。しかも、戦うのは絶体絶命の窮地に立たされた最終戦だ。
 このような状況は、なかなか望んでも実現できるものではない。その「ありえなさ」にまず、気づく必要がある。

 前回のブログでも書いたように、日本サッカー協会がジーコを通して代表に学び取ってほしいと意図したことは、この種の“強運”をも引き寄せてしまう、「個としての強さ」であったと筆者は思う。
 戦術や技術について、得意の組織プレーを駆使して戦えば、あるいは日本はもう少し“楽な戦い方”ができたかもしれない。そういう意味で、もっと優れた監督は、探せばいただろう。
 しかし、仮にも「50年以内に世界一を目指す」という壮大なビジョンを、日本のサッカー界は“公約”にしているわけだ。世界レベルを肌で体感してきたジーコから、技術や戦術を学ぼうと考えること自体、おかしな話ではないだろうか?

 もちろん、もしブラジルに敗れ、予選ラウンドでの日本の敗退が決定したら、ジーコや彼を選んだサッカー協会には批判が集まるだろう。
 そうなる前にここで言及しておきたいのは、ジーコが要求してきた“個としての強さ”は、そうそう簡単に身につくものではないということだ。

 ジーコには、オーストラリア代表監督のヒディングのような、戦術面での明確なビジョンも、柔軟な思考回路もおそらくは持ち合わせていない。その点は、素人目にも両国の対戦から感じとることができた。
 しかし、それは初めからわかっていた(彼には要求できない)部分でもあると、筆者は書いてきた。
 ジーコジャパンは、そのような(ヒディングのような“名監督”が駆使するレベルの)戦術や戦略もなしに、ほとんど素手に近い状態でこの4年間戦ってきた。そのやりかたでアジア王者になり、ワールドカップの本戦に出場した。このこと自体、戦術という“鎧”に頼って戦っていた日本代表にとって、非常に貴重な経験だったと評価できるのではないか?

 繰り返すが、アジアではその個の力で(素手で)勝ち抜けた。そしていま、次のステップとして、世界レベルで個の力が試されている。それも、「予選の最終戦でブラジルに2点差以上で勝たないとならない」、そこまで追い詰められた、最も厳しいと言っていい状況の中で……。
 類い稀な「強運」を持ち合わせたジーコだからこそ、この現実が引き寄せられた。それはただネガティブなことなのだろうか?

 結果を見て批判をするのは、簡単なことだ。しかし、ただある「部分」だけに目を向けて、そこから問題を取り出して、劣っている、駄目だと指摘したところで、たとえばサッカー協会の関係者(つまり、組織を運営する側)は「そんなことはわかっていた」と思うだけだろう。
 それよりも、彼らの挑んでいることの困難さを、まず理解するべきだと筆者は思う。困難を承知で、でもトライしなければならないこともある。問題はその意思が、どこまで感じとれるかということだ。
 筆者は、その意思が変質し、歪みを感じた時だけ批判をする。意思を試した結果が悪かったという理由で、その過程のすべて、あるいはその意思そのものを否定したりすることは、無責任なことだと思えるからだ。

 ピンと来ない人もいるかもしれないので、少し俯瞰した言い方してみよう。
 日本人には、サッカーを通じても露呈されたように、自我を押し通す強固な意思、精神力というものが、先天的に欠けている面がある。
 それは、平和な時代が続いた戦後60年だけに限った話ではない。確かに昔の人のほうが、今よりも「たくましかった」かもしれないが、それでも長きにわたって“和の国”と呼ばれてきた国柄だ。
 自我を出さずに、相手を思いやり、武士の情けでとどめを差さない。そんな「優しさ」のメンタリティーを、歴史のいたるところで見て取れる国が、その対極にある能力の要求されるサッカーという競技で、一流を(究極の理想としては世界一を)目指している。

 考えてみてほしい。短所は長所にも通じるものだ。日本代表の批判されている部分は、同時に日本人の良さにもつながっている。
 いまの豊かさの恩恵を受け、他国がうらやむような環境のなかで生活をしていながら、それを作り上げた力を否定的にしか見ないのは、これもまたバランス感覚に欠けている。
 大事なのは力の良い面を打ち消すのではなく、そこにプラスアルファ、世界でも戦える新しい能力、つまり、強い意思を加えること。
 彼らはかなり難しいことに取り組んでいる。しかし意思を持って取り組んでいる以上、理解しながら見守っていく必要がある。

 サッカーだけに限った話ではない。なにしろ一国の代表である小泉首相ですら、先般、北朝鮮のミサイル開発に対して決意を表明する際、「アメリカと協議して」と言ってしまう。日本はそういう「弱い国」でもある。
 私はこう思う、こうしたい。このように意思を表明することと、和を保ち、周囲との調和を図ることは、じつは矛盾はしない。にもかかわらず、いまの多くの日本人は、それを難しい、あるいは怖いと感じている。
 あなたはどうだろうか? 日常の中で、仕事を通じて、自分の「こうしたい」をきちんと伝えられているだろうか? 和ばかりに傾いていないか?


 ともあれ。あと数時間で始まる日本×ブラジル戦は、いろんな意味で「これから」が見えてくる、大事な一戦になるかもしれない。
 変わりつつある日本の片鱗が少しでも見えたら、筆者はまずそれで評価したいと思う。「奇跡」が実現したらもちろんうれしい。しかし同時に、その意味するところも理解して、次の展開を待つことになるだろう。

投稿者 長沼敬憲 : 2006年06月22日 16:01

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