2004年09月04日

アテネ五輪に思う……(3)

 夏の話題を独占したアテネ五輪が閉幕した。

 メダルの数は過去最高、金メダルは東京五輪に並んだというから、80〜90年代の低迷からは脱却したといっても間違いではないだろう。
 もっとも今後に関して様々な強化策はなされるだろうが、それをもって日本がスポーツ大国への道を歩んでいくのかというと、少々語弊があるように思う。
 それどころか今回の結果に気をよくし、安易に強くなることばかり求めすぎると、逆に自分たちの力を見失う可能性すらある。筆者はそう感じている。

 いつも言っていることだが、日本人には世界標準でいうところのハングリー精神というのはあまりない。
 まったくないとまでは言わないが、ぎりぎりの争いになった時、今後もしばしば「甘さ」が出てくるような気がする。
 なぜか? これは無意識のレベルの話になるが、そこまで勝つことに執着する気持ちが我々にはないからだ。個人レベルで「負けられない」という事情はあっても(それで結果が出せたとしても)、全体で見た時はもともとも内在するDNAレベルの感覚がどうしても頭をもたげてくる。
 そしてそれは別に悪いことではない、無理に克服するものではない……というのが、筆者の基本的な考えである。

 こういう言い方をすると、では負けてもいいのかと言われそうだが、じつは「勝ち負けを超えた感覚」をもっと研ぎすませていったほうが、長い目でみると強くなれるのである。
 そして日本は少しずつだがそうした道を歩み続けている。その意味での先進国とも言える。
 だから、なまじ世界標準に合わせてハングリー精神を身につけようとすると、かえってそれが足をひっぱる結果にもなる。
 もちろんスポーツは結果が問われる世界だから、現実には悠長なことは言ってられない。勝つための必死な努力は、競技に携わっているかぎり求められてくるだろう。
 しかし、そうした修羅のなかでもふっともたげてくるのが、自分たちの歴史や風土のなかで培ってきた潜在的な力なのである。この力を自覚し、引き出すための努力をしたほうが確実だと言っているわけである。

 上記にリンクする話題として、たとえば柔道の話がある。
 日本柔道の強さというのは、面白いことに柔道という競技で勝つために養っているものではない。
 選手たちは「一本を取る」「技をきめる」という「日本の柔道の神髄」を世界に伝えるためにやっているという意識が強いようだ。
 勝つことが軽視されているわけではないが、「自分の柔道ができれば負けても仕方がない」という気持ちのほうが多分に上位にある。
 ヘンな話、勝つことを第一に考えてはいないわけだ。選手やコーチは「いや、勝つために必死でやってますよ」と言うかもしれないが、潜在的にはそれ以上のものを追求している。
 普段の稽古もそのための鍛練として位置付けられる。だから強いのである。
 この理屈を各国の柔道家が理解すれば脅威になるが、まだそうした動きはあまり見られない。

 同じ意味でハンマー投げの室伏選手が繰り上げ金メダルになったことも、一つのヒントになると思う。
 日本人選手がみなドーピングの誘惑に負けず、正々堂々の勝負を求めているなどとは言わないが、室伏は勝つことに意味があるのではない、競技を通じて自分の姿勢を伝えることのほうが大事なのだと言っている。
 室伏の強さの秘密は、「それでも勝つことができる」と気づいたところにあると筆者は思う。
 彼の意識は競技での結果よりも、自分の身体感覚を研ぎすましていく、磨いていくことに向けられている。自分の内面が質的に向上すれば、それが一番確かな結果なのだという意識があれば、競技上の結果に100%執着する感覚にはならない。
 もちろん大舞台で勝ちたいとは思うだろうが、ドーピングしてまでとは思わなくなる。

 女子レスリングの浜口京子も、はじめはあんな意識過剰の父親と一緒だと日々大変だろうなあと思っていたが、今回のオリンピックを通じて、アニマル浜口さんが必ずしも無理をして気合いを出しているわけではない(つまりはあれが素なんだと・笑)、感じた人も多かったのではないか。
 「銅メダルは金メダル以上の価値がある」といった彼女の言葉は、嘘ではないと思う。しかし驚いた。掛け値なしにいい娘ではないか。いまは苦しいだろうが修羅の世界を乗り越えたら、さらにすごいエネルギーが発揮できる可能性が感じられた。

 ソフトボールは決勝に残れず残念だったが、ソフトに限らずチーム競技の多くは「あと一歩」足りない何かに泣かされたところが多かったようだ。
 サッカーも野球も、バレーボールも、勝者との間の微妙な差を感じたのではないか。
 しかしこの差は「よりハングリーに」なろうとしても、克服できるとは限らない。
 そのことは先にも話した。逆に言えば、ちょっと力を抜いてみることだ。走り続けながら、意識のベクトルだけをほんの少しずらしてみる。
 ただこの感覚はかなりとことん、極限の道を追求していかないと見えてこないかもしれない。その意味では日本は4年後に向けてさらなる「強化」をしていく必要もあると言えるかもしれない。

 スポーツが平和の祭典と本当に呼べるものなのか、筆者には疑問がある。
 それは機会を改めて書くことにしよう。しかし、自分が試される場で自分の培った能力を発揮することに集中できる選手は、勝ち負けに関わらず確かに魅力的だ。
 そして今回「参加することの意義」だけでなく、「結果を残すことの意味」すら多くの選手が残すことができた。
 日本はおかしなところも多いが、やはりひとつの共通した風土のなかで長く特有の身体感覚を築き上げてきたことが、大きな蓄積になっているのだと思う。
 その多くはまだ潜在意識の範疇にあるが、引き出せばさらに「らしさ」を発揮していける。そんな「明るい兆し」が感じられた夏の一時だったと総括したい。


投稿者 長沼敬憲 : 17:35 | コメント (0)

2004年08月21日

アテネ五輪に思う……(2)

 何かと話題のアテネ五輪について雑感をいくつか。

 多分「予想を大きく上回る」メダルラッシュの背景や原因を検証するような特集が、今後テレビや雑誌などで多く組まれるだろう。
 金メダル数も東京五輪のそれを上回る可能性はかなりあるし、世界も注目も相応に集まる。しかし大事なのは無数の点が一つの線につながること。それができると先の展開も見えてくる。

 ぼくはここ数年ずっと身体論をやってきたから、その立場から言えば日本選手の台頭はあまり驚かない。
 テレビで金メダルシーンを見ればそれは嬉しいし、誇りに思うけれど、日本人というのは彼らだけでなく、ぼくに言わせれば全国民レベルで必要な努力を積んできている。
 ただその努力をしているという自覚すらないところに素晴らしく呑気な国民性があるわけで(と、これはかなり繰り返しているけど)、このままこの調子で続ければ簡単に世界が追いつけないくらいに「凄い国」になってしまう。そうなったらちょっと困るなあとぼくなどはある意味呑気な?心配をしている。

 といっても、これだけではわからないだろうから、少しだけここでも指摘をしておこう。
 いまの日本人の世界の最先端をいく「進歩」というのは、要するにハングリー精神に依存しなくてもある程度の結果が出せるようになってきているということ。
 豊かになると人間的には弱くなると言われてきたが、これは半分正解で半分は誤解。
 でなければ、延々に世界は貧しさに頼り続けなければ進歩できないという話になるわけで、そんな「悪循環」から抜け出すヒントが、日本人の日常生活の中にたくさん隠されている。それを発見できるかどうかは、各人の眼に懸かっている。

 もちろんオリンピック選手にしても現実には異常なくらいの努力をしていると思う。
 しかし努力をしなければ向上しないという発想自体、これから様々な形で見直されていくのではないか。
 このことに気づいた選手はある意味一時的に弱くなるかもしれないし、競技そのものから足を洗う人も出てくるかもしれない。
 しかしそれと同時進行して、世界に通用する日本人がスポーツやあるいは芸能などのジャンルで、これからどんどんと増えてくる。
 芸能はプロモーションの問題もあるからストレートに結果に跳ね返るかわからないが、逆に結果ですべて評価されるスポーツは、一番早くその変化が確認できる。
 スポーツは本来、日本人の、あるいはこの世界の「未来」を読み取る有効な実験データでもあるわけだから。

 柔道の井上康生の敗北は確かにショックだったけれど、この意味では、彼にとって自己をレベルアップさせる大きなきっかけになるかもしれない。
 「これまで味わったことのない屈辱」。そんな凄い屈辱を味わえるというのは本当に金メダルを取る以上に「凄いチャンス」ではないか。
 関連の記事などをいくつか読んだが、「オーバートレーニング症候群」が原因ではないかなんていう指摘もあった(夕刊フジ)。

 過度のプレッシャーをはね除けるために異常なくらいに稽古に打ち込んでいたと伝えられているが、「不安をはね除けるための稽古」という発想も今後見直したほうがいいかもしれない。
 確かに「想像を絶する重圧」があったのだろうと「想像」はするけれど、井上のレベルになってくるとあとは試合に勝つというより、「そういう状況で昼寝ができる」とか「友達とついつい飲み歩いてしまう」とか、そういうレベルの追求のほうが必要である気がする。
 メダルの雪辱を4年後にするのなら、ぜひそういう自分を目指して欲しい。

 柔道の話に関連して、100キロ超級で鈴木に敗れたロシアの選手が、「日本は不思議な国だ。篠原、棟田の次は鈴木。自分は次から次に新しい選手と戦わないといけない」と語ったそうだが、ぼくはロシア人が好きなのでこう言われるとちょっと嬉しい。
 「不思議だ」というのは最大級の讃辞。不思議と言われる人間は凄いを通り越して、相手が「理解できない」と脱帽しているわけだから、これからの日本のキーワードになるかもしれない。
 まあ、もともと言われることは多かったわけだけど、おそらく今後はこの不思議を分析して取り入れようという国際的な動きも目立ってくるはずだ。

投稿者 長沼敬憲 : 17:38 | コメント (0)

2004年08月17日

アテネ五輪に思う……。

 現時点で柔道の野村、谷、水泳の北島が金メダル、柔道の横澤が銀メダル。サッカーは予選敗退してしまった。ソフトボールもオーストラリア、アメリカに敗れ、ちょっと苦戦している。でも、大舞台で物おじしない、勝負のできる選手が全体に増えてきている印象を受ける。そう感じた人も多いだろう。

 日本はスポーツ育成にあまり熱心ではない。でも一般家庭は平均的にお金は思っているから、みなある程度の環境でスポーツができる。これは恵まれた状況だろう。「サムライ」にも書いたけれど、ハングリーさをあまり前提にしなくても、楽しむ・追求するという感覚で技術を磨いていける。

 でも反面、やはりハングリーさの求められる状況の中では、特に相手との実力が拮抗している場合、どうしても「勝負弱さ」が出るようだ。
 イチローくらいに技術がずば抜けてしまうと関係無くなるのかもしれないが、ことサッカーなどはDNAの部分で負けた面もあるように思う。
 山本監督はもう少しロジカルに分析すると思うし、それは必要なことと思うけれど、最後の詰めの部分の克服は容易でないかもしれない。日本が民族的にこの島国の中で培ってきたものが、善かれ悪しかれ影響しているわけだから。

 ぼくなどはこの部分でスポーツと自分の現実との「距離」を感じてしまう。なぜかというと、スポーツのなかで表れる「勝負弱さ」は、人生のすべての局面において悪であるとは言えないものだから。

 それは他者に対する寛容さや優しさ、よく言われている和の精神にもつながってくる。こんなものはいらないとか、生き馬の目を抜く国際社会では役に立たないなんて言う人もいるかもしれないが、そうだろうか? この部分を自覚して伸ばすことで「らしさ」が出てくる場合もある。らしさを発見し、物にできた人は強い。強いとはそういうことなのだが、スポーツという枠では必ずしもそれが養えない。

 そんな状況の中で、それでもある程度の結果を出せている日本の現実は、ぼくから見れば凄いと思う。
 この凄いというのは北島が金メダルを取ったから凄いとか、度胸が座っていたから凄いとか、そういう即物的な(と言っていいのかな?)感想とは違う。
 相変わらず日本は他人の土俵で相撲ばかりして、しかもその状況がほとんど見えていないお目出度さのなかで、初めから土俵の中にいる世界の人たちを時に凌駕する。これを凄いと思えるかどうかが、多分に問われているわけだけれど。

 いずれにせよ、あれだけのプレッシャーと慣れない環境の中で、運すら味方に引き入れメダルを取る人というのは、やはり並みではない。柔道の高松みたいによりによって大会の直前に高熱が出て、力が入らなくて一回戦負けという人もいる。この違いは実力の差などと簡単に言えないことは明らか。

 しかしぼくは思う。世の中というのは(決して負け惜しみとか同情なんかではなく)、勝ち負けがすべてではないし、要はそこでの理解が重要なのだということ。
 勝負師は勝つことばかりに囚われているし、囚われないとなかなか勝ち上がれない現実もあるが、仏教なんかではそれは「修羅」と呼ぶのだそうだ。
 宮沢賢治は自分の中にこの修羅を見い出し、これが苦しみの原因なのだと自覚していた。苦しみをどう捉えるかという問題もあるわけだ。

 ぼくなんかが思うのは、やはり努力があるから勝利があるなんていう発想では頭打ちではないか? ということ。
 日々常々思うことだけれど、要はいかに努力の量を減らしながら、自分自身の「らしさ」を出していけるか。わかるかな? 
 「らしさ」というのはスポーツで言えばパフォーマンスになって表れる。いい結果を出すことよりも「らしさ」を出せたほうが、人は満足ができる。個々のパフォーマンスを通じて「らしさ」が発見できることに、喜びがある。

 この仕組みが理解できると、多分スポーツの意味も変わってくるだろう。人の欲とはエネルギーのことだから、もともとエネルギーの強い人はオリンピックのような大舞台で「らしさ」が出せる。
 それは繰り返すまでもなく凄いことだけれど、草野球のなかでその「らしさ」を発見し、発揮し、それが日常で生かせる人なんて言うのも、無名の極みというか、ぼくなんかから見ると相当にカッコイイ。

 思えば、オリンピックという場を通じて、こうしてあれやこれやと考えたりできることが、一番意味のあることなのだろう。
 自分なりの理解をたくさん吸収して、それが現実の中に反映していけたらいい。それは競技のように形には具体的に表れないから、直接評価されたりするものではない。
 因果関係のわからない人にはピンと来ない話のようにも思う。でも、この見えないものをたくさん持てることがじつは凄いことだとわかれば、日本にいながらにして、テレビを見る程度でもいろいろ貴重な体験ができるわけです。オリンピックに出れたから貴重な体験をしているなんて思わないことです。


投稿者 長沼敬憲 : 17:45 | コメント (0)