2005年05月15日
前田×永田の“舌戦”と新日ドーム大会
新日本プロレスのドーム大会が終わった。
まだ詳しい報道に接したわけではないが、結果だけを見ると、残念ながら戦前の予想の範疇を超えなかった印象を受けてしまう。レスラーが頑張っていないとは言わない。しかし、天山の王座奪取、藤波・三沢組がライガーからピンフォール勝ち、高坂の敗戦、武藤の勝利……と、こうした結果をある程度事前に予想していたファンは多かったのではないか?
興行に求められるのは、「何が起こるかわからない緊迫感」。
これが醸し出せなければ、もはや新日本プロレスが産み落としたとさえ言えるPRIDEやK-1などの格闘技イベントに、彼らが「勝つ」ことは難しい。
これはよく指摘されるが、では、この肝心の緊迫感をどうやって出せばいいのか?
多くのファンはプロレスは総合格闘技のような“リアルファイト”ではない、と思ってしまっている。そんなに簡単に決めつけていいのかという気もするが、少なくともそう思われていることは事実。それが人気や観客動員に影響している。
レスラーはこの空気を変えてしまわなければならないわけだが、どう変えたらいいか……明確な回答はまだ示されてはいない。
ここで、大会前にプロレスマスコミを賑わしたあの前田日明と永田裕志の“舌戦”について取り上げてみよう。
筆者はこれまで書いてきたように前田のことを応援している“立場”だが、この舌戦について、別にどちらが正しいという話をしたいわけではない。
ただ、プロレスに必要な緊迫感とは何か? ということについて考えた場合、“プロレスを駄目にした張本人”として前田に公の場で槍玉に挙げられた永田の、レスラーとしてのセンスというものがどうしても気になってしまう。
レスラーとしてのセンス。といっても、それはかなり単純な話。
前田自身は、プロレス批判の例として挙げただけかもしれないが(つまり、ケンカを売るような明確な意図があったとまでは思えないが)、永田の立場からすれば、これを逆に利用することで自分の価値を高めることもできる。
これが筆者の言うところのセンスだ。
たまたま起こったようなことでも、自分のキャリアアップの道具にしてしまう。状況とリンクさせてオイシイ展開を作る。そういう本能的な感覚。
“舌戦”などと表現したが、話の内容も別に複雑とは思えない。前田の批判に対して、永田は反論した。それに対して、前田は「反論する以上は覚悟があるのか?」と問うた。イエスかノーかの話であって、あとのことはその枝葉にすぎない。
筆者が報道などで目を通した限り、永田の反論は、「腹が立った」などと言いながら、それなりに理性的なものだったし、筋道自体は通っていた。
しかし、ファンが聞きたいのはそんな理屈ではないということだ。
当たり前の話だが、プロならばファンに夢を売らなければならない。その感覚がものすごくズレてしまっていたように筆者には映る。
もっとわかりやすく言えば、3月に組まれた前田の弟子にあたる高坂剛との一戦は、“前田との抗争”を始める絶好のタイミングでもあったはずだ。
しかし彼の反論は、まっとうなものであったとしても、この高坂戦という“次の展開”にうまくつながったとは思えない。つまり、点と点が一本の線にはならなかった。
これでどうやってカードに感情移入しろというのだろう? 純粋に試合内容で勝負する? ……それでプロレスラーなのだろうか?
肝心の試合自体も、高坂のスリーパーで落ちてしまい、中途半端な敗戦……。
高坂も勝利はしたが、永田に最初に足関節を極められたという点が屈辱だったとのことで、今回のドーム大会での再戦が決定。
この結果も言ってしまえば、あまり大きな注目は集められないままに、ある意味予想通り?、永田が高坂に雪辱を果たした。しかし、それが何だったのだろうか……。
ドーム大会には、前田をバックアップする上井文彦氏や、彼らが開催するプロレスイベント「Wrestle-1」に出場が確実視される柴田勝頼、村上一成、山本宜久らが来場し、高坂に勝利した永田との間に“遺恨”が勃発したと伝えられる。
しかし、この展開自体はある程度は予想できたこと。
永田に相応のセンスがあるなら、舌戦の相手であった前田を来場させてこそ“オイシイ”と言えたはずだが、彼にそう思える感覚がどこまであっただろうか?
繰り返すが、ただ理性的に正論を言えばいいわけではない。
衆人環視の論争である以上、プロのレスラーならば、その聴衆の感覚を揺さぶる盛り上げ方が必要。そうやってまず自分の戦いに関心を持たせることで、実際に観客動員がアップすればそれが“強い”だけでない、一流レスラーの証にもなる。
こうした点にちゃんとピントが合っていれば、前田をドームに来場させることが、今回の永田の最大の使命であったと気づいたはずだ。
というより、気づかなければおかしいし、それが理屈でなく本能的にわかることが(一般の格闘家にはない)レスラーのセンスではないのか?
もちろん、ただ来いと挑発してハイと前田が来るわけがない。だからこそ、来ざるを得ない状況にする。だとしたら、答えは簡単だ。前田の挑発に乗ればよかったのだ。
永田は反論の中で、前田のかつての格闘技戦(ドン・ナカヤ・ニールセン戦)を「自分の総合の試合(ヒョードルに秒殺負け)と一緒にしないでほしい」と批判した。それに対して、前田は「批判するなら、ニールセン戦と同じシチュエーションのカードを用意するから戦え」と言い返した。
ここでいちいち理屈を言ってしまっては始まらない。
あれこれ言わずにそのまま承諾してしまえば、「ドームでの高坂戦を見に来い。いまの自分の力を見せつけてやる」と発言をする権利が生まれる。発言に説得力が出てくると言い換えてもいい。こうした展開ならば、前田もドームの来場を拒否できなくなる。
これがファンに見せるべきプロレスラーの“センス”ではないだろうか?
こういうやりとりをアングルなどといい揶揄する(斜め読みしたがる)ファンも多いが、これくらいのアングルも仕掛けられないでレスラーと言えるのかと筆者は思う。
言い換えれば、理屈でいくらアングルを作っても、簡単にはファンは乗らない。
大事なのは、本能。前田は本能的な感覚で、永田の存在を否定した。本能に対しては本能で反応できなければ、何も盛り上がらない。
ドームの戦前にこうした本能的なやりとりが展開され、一つの状況が作れていたら、プロレスマスコミも注目し、当然のことながらもっと永田×高坂戦をあおっただろう。大会も注目され、永田は台風の目になる。
実際問題、前田が上井氏をはじめ、柴田や村上らを引き連れる形でドームに押し寄せれば、あるいはメインを食ってしまった可能性がある(雑誌の表紙を飾るケースになる。むろん主役は前田と永田だ)。
第2試合に追いやられていた鈴木みのるが、この展開を“オイシイ”と感じたら、前田と鈴木の遭遇というオマケだってつけられたかもしれない。
こんな可能性すらありえたカードが、現実にはどうだったのか? ……この想像力の落差が、プロレス人気の低落の真の原因ではないのか?
正直あまり熱心というわけでもない筆者でさえ、ちょっと想像しただけでこれくらいの展開は思いついてしまう。
これは高い理想について論じているわけではなく、プロと呼べるほどのセンスがある者なら当然できるはずの(できてくれなければ困るレベルの)“仕掛け”ではないだろうか?
この程度に目の肥えたファンは、その肥えた目を満足させるためにPRIDEやK-1を見ているのであって、「格闘技の方がリアルファイトだから人気が集まっている」などという単純なものではない。
人気と呼ばれるもののからくりが本能的にわかるレスラーが現れれば、状況はいくらでも変わる。その可能性は決してゼロではない。
仮にPRIDEのリングで連戦連勝するレスラーが現れたとしても、盛り上がるのは格闘技界であって、だからプロレス界が人気復活するとはかぎらないということだ。
引退した前田の発言がなぜ波紋を呼ぶのか? それはこの本能がいまだに彼の体内に宿っていることを、ファンが感じ取っているからだ。
その前田とまともに絡み合うことができなかった永田は、残念ながら、いまの新日本プロレスに欠落した何かを象徴していると筆者は思う。新日本プロレスには、彼のように“いいレスラー”は確かにたくさんいるが、“いい”というだけで夢を叶えられるとは限らないということに気づくには、まだまだ時間がかかるのかもしれない。
2001年03月05日
桜庭和志は、なぜプロレスが「ヘタ」だったのか?
スポーツの世界では、なによりゲームに勝つことに最大の価値が置かれている。
いくら個性的で、表現力に秀でていても、とにかく勝てなければダメ、一流とは言えない、というわけである。ところが、こうしたスポーツ界の「常識」に対して、「ただ勝つのは当たり前。問題は、それを客にどう伝えるか?」と、まったく逆とも言える発想をベースに、ひとつの価値観を作り上げたジャンルがある。
こう言えばピンと来る人もいるだろうが、それがすなわち、プロレスである。
プロレスは、強いというだけでは、決してメインイベンターになれない。ベルトを何度防衛しようと、華がなければ興行主から煙たがれる。逆にいえば、この華というものをつかみ取るため、彼らは肉体を酷使し、痛めつけあっている。その意味では、スポーツよりもエンターテイメントの世界に近いジャンルと言える。プロ興行全体から見れば、むしろスポーツのほうが、非常に特殊なジャンルなのである。
たとえば、アマチュアレスリングの世界からプロレス入りする例があるだろう。
オリンピックにも出場した「大物」ということで言えば、故・ジャンボ鶴田、長州力、谷津嘉章、馳浩、中西学……といった名がまず挙げられるが、彼らはすぐにファンに認められたわけではない。それどころかなかなかパッとしない「低迷期」を経験し、そこでアマ時代の実績がほとんど通用しないことを思い知らされる。要するに、強さだけではない「何か」をつかみ取る必要が、彼らにはあったわけである。
この項で取り上げる桜庭和志もまた、上記の五輪組のような物凄い実績こそないものの、同じような境遇を背負った、アマレス出身のレスラーである。
しかし、レスラーといっても、ここ数年は「プロレス」のリングにほとんど上がっていない。プロレスとは似て非なるフリーファイトの世界で数々の強豪を連破し、いまや格闘技界は彼なしには語れないほどに、大きな注目を集めている。従来にはまったく無かったパターンで、華を手に入れたレスラーと言っていいだろう。
ここで言うフリーファイトとは、いわゆる「何でもあり」の試合のことである。
もちろん、「何でもあり」といっても競技である以上、噛みつきや目つぶしをはじめいくつかの禁止事項が設けられている。しかし、可能なかぎりルールを省いていくことで、ボクシングやレスリング、柔道や空手と、さまざまな格闘技をベースに持った選手がおなじリングで「公平に」戦えるような、そんな設定になっている。桜庭は、この過酷なフリーファイトのリングに上がったとたん、その潜在能力をメキメキと開花させ、まさにあれよあれよという間に、スターダムにのしあがっていったわけである。
最近では彼の知名度もずいぶん広がっているが、まだその名を知らない人のなかには、獰猛で野獣のようなファイターだとイメージする人もいるかもしれない。
しかし、現実にはそのまったく逆の、あまり強そうには見えない?、どこかのんびりとした、殺気の漂わない青年であり、その妙なギャップが人気の要因ともなっている。まあ、こういうヤツのほうが本当は強いんだと言う声も返ってきそうだが、たしかにそうだろう。実際、武道の世界などでは、強くなさそうな者のほうが、往々にして強かったりする。普段はツメを隠しておいて、そんなツメがあることさえ見せはしない。桜庭は、そうした達人たちのDNAを継承している存在とも言えるわけである。
さて、その桜庭が、去年の大晦日、久しぶりに「プロレス」の試合をした。
アントニオ猪木がプロデュースした年越し&ミレニアムのイベント、「イノキ・ボンバ・イエ」(2000年12月31日・大阪ドーム)においてである。これは、猪木の活動に共鳴した国内外の格闘家&プロレスラーたちが一堂に会し、プロレス形式の試合を行ったもので、いわゆる「真剣勝負」の経験しかない格闘家たちがまさに不器用そうに「プロレス」をするさまは、普段とは違った意味で刺激的な光景と言え、相応の話題にもなった。まあ、アマチュアとプロの垣根が取り払われていく、そんな昨今の世情とリンクする現象と捉えてもいい。
桜庭の対戦相手は、同じアマレス出身のプロレスラーにして、いまやマスクマンとして独自の世界を築き上げた感のある、ケンドー・カシンである。
アマチュアの実績では、全日本クラスの大会で優勝を飾ったこともあるカシン(本名は、石沢常光)のほうが、はるかに上。しかも、プロレスでの対戦においても彼が過去に2戦2勝しており、プロ入りしてからのキャリアも長い。しかし、フリーファイトのリングにおいては、石沢は10月に初挑戦していいところなく敗れたばかりであり、この点では桜庭のほうがはるかに先を行っている。この両者がプロレスのリングで戦うわけだから、なにやらややこしいと言えばややこしい対戦だったのである。
試合は、このスタイルに長じたカシンが、基本的にリードする形で進行した。
桜庭は、息があがる時間が普段より早く、フリーファイトのリングで見せる華麗な動きがあまり見られない。ファンは暖かい目で見守っているが、おせじにも「いい試合」とは言えない。対戦相手のカシンも、どこか困惑したように見える。
筆者は、観戦の最中、桜庭の若手時代の試合をふっと思い出した。
大学を4年のとき中退しUWFインターナショナルという団体に入門した彼は(22歳だから、入門生としてはかなり年を食っている)、デビューしてさほど経たないころ、新日本プロレスとの対抗戦に駆り出されている。筆者が見たのもこの対抗戦のときの試合だが、そこではUインターと新日本の若手どうしが、テレビのブラウン管の向こうでバチバチと火花を散らしていた。そのなかに彼もいたわけだが、闘志をむき出しにする他の選手たちに比べ、その印象はあまり強いものとは言えなかった。
もともと、激しくアピールするタイプのレスラーではない。どこか飄々としているせいか、この手の対抗戦ではどうしても後手に回ってしまう。
ただ、ひとつだけ妙に印象に残ったシーンがあった。特定のシーンではないが、とにかく彼は、技をかけるとき「オリャー」とか「トゥアー」とかかけ声を上げるのだ。アピールとしてではなく、なにやら自然なものらしい。ヘンな声だなと思った記憶があるが、その後フリーファイトで頭角を現わすに至って、この声?も聞こえなくなっていた。それが、久々のプロレスの試合において、にわかに「復活」したのである。
……ああ、わかった。プロレスには「力」が必要なんだ!
と、筆者の脳裏にはこんな思いが浮かんだわけだが、読者はこの意味がおわかりだろうか? もちろん、フリーファイトでも力はいる。無ければ、戦えない。しかし、それはあくまで、「必要に迫られてのもの」である。プロレスのように、「相手に技をかける」といった、意図的な場面で用いられるものではない。しかも桜庭の場合、この力を極力使わぬような戦い方をすることで、たえず勝ちパターンを引き寄せてきた。武道でいう「脱力」の極意を、自然と身につけている選手なのである。
……だから、フリーファイトに転身して、急に勝てるようになったのか! なるほど、武道の「脱力」も、プロレスのような試合になると全面に出せなくなるんだ!
すなわち、桜庭がいくら力の抜き方を知っていたとしても(だから常にリラックスして試合に臨めるわけだが)、「ブレーンバスター」をかけようとすればむろん力を出さねばならない。しかし、これは彼が普段使っていない、必要としていない、じつに余計な力なのである。だから、「オリャー」と声を上げねば、なかなか持ち上げられない。もちろん、こんな力を使い続けていたら、息だって早く上がってしまう。
……逆に言うなら、格闘技系のリングに上がる選手のなかにも、プロレスラー並みに?「力を使っている」選手が、かなりいるだろう。
プロレスの試合では、そうした余計な力を用いることで、レスラーたちは自己表現の能力を磨いている。だから、「オリャー」と上げるブレーンバスターにも、確かな意味がある。しかし、勝利を至上とする格闘技の試合では、まったく不要のものだ。つまり、そんな力ばかり用いているから、桜庭に勝てないとなる。しかも、彼らはそれでいて、プロレスラーのような課題がないので自己表現力を学べているわけでもない。プロレスファンは、そういった選手を「強いけれど不器用」と評してきたのである。
つまり、才能がある人というのは、どの分野にも限らず、みな力がうまく抜けている。
しかし、この理がわからぬ人は、「いかに力を入れるか」ということばかりに意識を向けてしまう。それでおのれの限界を感じ取り、わずかにあった才能も頭打ちになってしまうのである。その点、桜庭の持っている才能は、プロレス修行のなかで培ったというよりむしろ生まれついてのものだろう。プロレスの試合でその才能が開花できたかどうかはわからないが、少なくともフリーファイトに出会えたことは、彼にとって幸運なことであり、同時に必然的なことでもあったとわかる。時代の子である彼は、力まない人生を歩むことで、その幸運=必然を引き寄せたのである。
試合結果 ○桜庭(19分17秒 腕固め)カシン●
※桜庭が苦戦の末、カシンに初勝利。