2006年06月22日

「強運」だからこそ経験できること〜ジーコジャパン・ブラジル戦を前に

 まさかの逆転負けを喫したオーストラリア戦。後がない状況の中、辛うじて引き分けに持ち込んだクロアチア戦。
 そして、明日の早朝(日本時間)が予選ラウンドラスト、ブラジル戦。世界王者相手に2点差以上で勝たない限り、決勝トーナメント(ベスト16)には進めない。すでに報道されているように、ジーコジャパンが「がけっぷち」に立たされている。

 ブラジル戦で日本が「奇跡の勝利」を挙げられるか、筆者にはわからない。ジーコ自身が言うように「かなり難しい」、「しかし可能性があるなら、髪の毛一本の可能性でもしがみつく」。その通りだろう。

 いずれにしても、筆者が思うこと。それは、ジーコという人間の、サッカー人としての類い稀なる「強運ぶり」だ。
 言うまでもないが、ジーコはサッカー王国・ブラジルで、ペレにも匹敵する国民的英雄として知られている。その彼が、よりによって、母国と同じグループに抽選で振り分けられた。しかも、戦うのは絶体絶命の窮地に立たされた最終戦だ。
 このような状況は、なかなか望んでも実現できるものではない。その「ありえなさ」にまず、気づく必要がある。

 前回のブログでも書いたように、日本サッカー協会がジーコを通して代表に学び取ってほしいと意図したことは、この種の“強運”をも引き寄せてしまう、「個としての強さ」であったと筆者は思う。
 戦術や技術について、得意の組織プレーを駆使して戦えば、あるいは日本はもう少し“楽な戦い方”ができたかもしれない。そういう意味で、もっと優れた監督は、探せばいただろう。
 しかし、仮にも「50年以内に世界一を目指す」という壮大なビジョンを、日本のサッカー界は“公約”にしているわけだ。世界レベルを肌で体感してきたジーコから、技術や戦術を学ぼうと考えること自体、おかしな話ではないだろうか?

 もちろん、もしブラジルに敗れ、予選ラウンドでの日本の敗退が決定したら、ジーコや彼を選んだサッカー協会には批判が集まるだろう。
 そうなる前にここで言及しておきたいのは、ジーコが要求してきた“個としての強さ”は、そうそう簡単に身につくものではないということだ。

 ジーコには、オーストラリア代表監督のヒディングのような、戦術面での明確なビジョンも、柔軟な思考回路もおそらくは持ち合わせていない。その点は、素人目にも両国の対戦から感じとることができた。
 しかし、それは初めからわかっていた(彼には要求できない)部分でもあると、筆者は書いてきた。
 ジーコジャパンは、そのような(ヒディングのような“名監督”が駆使するレベルの)戦術や戦略もなしに、ほとんど素手に近い状態でこの4年間戦ってきた。そのやりかたでアジア王者になり、ワールドカップの本戦に出場した。このこと自体、戦術という“鎧”に頼って戦っていた日本代表にとって、非常に貴重な経験だったと評価できるのではないか?

 繰り返すが、アジアではその個の力で(素手で)勝ち抜けた。そしていま、次のステップとして、世界レベルで個の力が試されている。それも、「予選の最終戦でブラジルに2点差以上で勝たないとならない」、そこまで追い詰められた、最も厳しいと言っていい状況の中で……。
 類い稀な「強運」を持ち合わせたジーコだからこそ、この現実が引き寄せられた。それはただネガティブなことなのだろうか?

 結果を見て批判をするのは、簡単なことだ。しかし、ただある「部分」だけに目を向けて、そこから問題を取り出して、劣っている、駄目だと指摘したところで、たとえばサッカー協会の関係者(つまり、組織を運営する側)は「そんなことはわかっていた」と思うだけだろう。
 それよりも、彼らの挑んでいることの困難さを、まず理解するべきだと筆者は思う。困難を承知で、でもトライしなければならないこともある。問題はその意思が、どこまで感じとれるかということだ。
 筆者は、その意思が変質し、歪みを感じた時だけ批判をする。意思を試した結果が悪かったという理由で、その過程のすべて、あるいはその意思そのものを否定したりすることは、無責任なことだと思えるからだ。

 ピンと来ない人もいるかもしれないので、少し俯瞰した言い方してみよう。
 日本人には、サッカーを通じても露呈されたように、自我を押し通す強固な意思、精神力というものが、先天的に欠けている面がある。
 それは、平和な時代が続いた戦後60年だけに限った話ではない。確かに昔の人のほうが、今よりも「たくましかった」かもしれないが、それでも長きにわたって“和の国”と呼ばれてきた国柄だ。
 自我を出さずに、相手を思いやり、武士の情けでとどめを差さない。そんな「優しさ」のメンタリティーを、歴史のいたるところで見て取れる国が、その対極にある能力の要求されるサッカーという競技で、一流を(究極の理想としては世界一を)目指している。

 考えてみてほしい。短所は長所にも通じるものだ。日本代表の批判されている部分は、同時に日本人の良さにもつながっている。
 いまの豊かさの恩恵を受け、他国がうらやむような環境のなかで生活をしていながら、それを作り上げた力を否定的にしか見ないのは、これもまたバランス感覚に欠けている。
 大事なのは力の良い面を打ち消すのではなく、そこにプラスアルファ、世界でも戦える新しい能力、つまり、強い意思を加えること。
 彼らはかなり難しいことに取り組んでいる。しかし意思を持って取り組んでいる以上、理解しながら見守っていく必要がある。

 サッカーだけに限った話ではない。なにしろ一国の代表である小泉首相ですら、先般、北朝鮮のミサイル開発に対して決意を表明する際、「アメリカと協議して」と言ってしまう。日本はそういう「弱い国」でもある。
 私はこう思う、こうしたい。このように意思を表明することと、和を保ち、周囲との調和を図ることは、じつは矛盾はしない。にもかかわらず、いまの多くの日本人は、それを難しい、あるいは怖いと感じている。
 あなたはどうだろうか? 日常の中で、仕事を通じて、自分の「こうしたい」をきちんと伝えられているだろうか? 和ばかりに傾いていないか?


 ともあれ。あと数時間で始まる日本×ブラジル戦は、いろんな意味で「これから」が見えてくる、大事な一戦になるかもしれない。
 変わりつつある日本の片鱗が少しでも見えたら、筆者はまずそれで評価したいと思う。「奇跡」が実現したらもちろんうれしい。しかし同時に、その意味するところも理解して、次の展開を待つことになるだろう。

投稿者 長沼敬憲 : 16:01 | コメント (0)

2006年06月09日

ジーコが日本代表に伝えたもの〜身体論・ハラ感覚からひもとくワールドカップ

 サッカーのワールドカップドイツ大会が目前に迫ってきた。“ブラジルの英雄”ジーコ率いる日本代表は、予選ラウンドを突破できるのか? できたとして、どこまで勝ち進むことが可能か? 注目が集まっている。

 筆者は、これまでも何度か書いてきたが、生粋のサッカーファンではないし、専門のライター、評論家ではない。もともと身体論という、従来のスポーツジャーナリズムとは異なる視点を持ってきたこともあり、同じものを見ながらも、彼らの見解とは少々違ったことを感じている。
 今回は、その点について解きほぐしてみたいと思う。

 まず、ワールドカップについてあれこれ語る前に、いまの日本代表をどう評価したらいいのか? という、一番ベーシックな部分に注目してみよう。
 これは、代表が監督であるジーコの構想をベースに作られてきたものである以上、ジーコを監督に選んだサッカー協会の選択は妥当だったのか? と問いかけたほうが視点がより明確になる。
 ただネームバリューがあるから、日本とのつながりが濃かったから、あるいは他に適任者が見つからなかったから選んだのか? こうした要素も少なからずあったかもしれないが、しかし、これだけだとしたら、大会でどんな成果を上げようと、すべて泥縄式にすぎなかったことになる。これでは未来につながらない。評価としては、「最悪」ということになる。

 結論を先に言えば、筆者はジーコを監督に選んだサッカー協会の判断は、きわめて妥当なものだったと思っている。もちろん、予選ラウンドを突破できなければ、ジーコにも、協会にも、厳しい批判は集まるだろう。
 しかし、そうなったとしても、選んだ時点での意図や狙いまで否定はできない。結果が出てしまう以前に、こうした話をするのも、そのほうがより公平に原点の部分をジャッジできると思われるからだ。

 では、実際にどんな意図があったのかということだが、筆者は、オフィシャルに語られている部分よりも、協会の関係者が「ジーコがいいんじゃないか」と感じた時の、(理論化される前の)感覚をイメージしたほうが、本質は見えてくると思っている。
 どういうことかというと、前任の監督であるトルシエは、よく知られるように、ガチガチの理論重視タイプ。その彼が4年にわたって作り上げてきたものを、どう発展させていくか? そうした発想の中で最終的に選ばれたのがジーコだったことだ。

 理論派のトルシエに対して、ジーコは規律よりも自由、戦術よりも選手の自主性を重視する指導法を採ったとされている。個性尊重のブラジルスタイルなどとも言われたし、逆に明確な戦術がないという「弱点」は、専門家たちの間では、それこそ毎回のように批判の的となってきた。

 そもそも、ジーコには監督としての経験はまったくない。そのことは初めからわかっていたわけだから、戦術の部分でジーコを批判するのは、じつは的を得ていない。ジーコにすれば、「それもわかった上で自分を選んだのだろう!」という思いがあって当然だからだ。代表監督になって、慌てて戦術を学ぶような人物だったら、それこそ彼の権威は失墜してしまう。

 繰り返しになるが、であるにもかかわらず、なぜジーコは選ばれたのか? ジーコにはいったい何が期待されていたのか? 問われるのはその点だ。
 筆者はそこに、それまでの日本代表に欠けていた「ハラ」という感覚を当てはめたいと考える。世界的な名選手であったジーコは、監督としての実績も、高度な戦術を編み出すスキルも欠けていたかもしれないが、それを上回って余りある才能を持っていた。それが、「ハラ感覚」あったと感じられるからだ。

 ハラが据わるという言葉があるように、それは何があっても動じない強い精神力、不動心、あるいはそうした感覚に裏打ちした体幹の強さなどに表される。
 ジーコをハラとしたら、トルシエはアタマだ。トルシエは、理論によって日本代表を育て上げることで、国際舞台で戦える状態にまで仕上げた。前大会でベスト16という結果を残すことができた。
 しかし、それは戦えるというだけで、勝てるということと必ずしもイコールではなかった。

 たとえば、日本代表に試す戦術として、トルシエの「フラット3」以上に優れたプランもあったかもしれない。しかし、より優れた戦術を採用できても、だから「より勝てる」とは限らない。そのへんの壁をサッカー協会の幹部は感じ取ったのではないだろうか?
 この壁を破るには、戦術などものともしない、個の力が求められてくる。身体論で見た場合、それはハラという感覚になる。

 ジーコに求められたものは、だから、細々とした戦術ではないし、そうした部分での試合運びに稚拙さがあったとしても、繰り返すが、それは「初めからわかっていたこと」。限られた条件の中で必要以上の「無い物ねだり」をしても、それは批判に値するかわからない。
 それよりも、ジーコがいまの日本代表に伝授できるものは何か? それは実際に伝授できているか?(できたのか?) この点に着目した方が、ある意味結果を問うこと以上に生産的と言えるはずだ。

 そして、そのように見た場合、ジーコはおのれの使命をかなりの度合いで果たしたように思う。この4年間で日本代表のハラは(国際レベルに肉薄できるくらいには)安定してきたように感じられる。
 よく語られるのは、アジアカップを制した時のような、試合終了のギリギリまであきらめない強靭な精神力。どこがどう強いというわけでもないのに、何かしらの可能性を(相手から見た妙な不気味さ)を感じさせるのは、4年前には見られなかった点だ。

 念のために言っておくならば、ハラという感覚は、抽象的な概念(たとえ)ではなく、実際に感じ取れるものであり(だから感覚という)、意識して養えるものでもある。ただ、それを理屈で指摘しても、実際に身体に染み込まなければ、自分の力にはなれない。だから、この感覚を持った指導者のもと、実戦を積んでいく必要が出てくる。

 日本は外部の力をうまく活用することで、過去の歴史において幾度も自己の能力の掘り起こしに成功してきた。監督経験のない(明確な戦術のない)ジーコが選ばれた理由。それは、日本人がかつて明瞭に持っていたものを掘り起こし、呼び戻すプロセスと重なってくる。
 日本代表は、文字どおり、日本の代表なのだから、彼らが学んだプロセスは何らかの形で我々の日常に還元される(影響を及ぼす)だろう。

 さて、いよいよワールドカップ開幕だが、そんなふうにして新しい力を身につけた日本代表は、その身につけた成果をどこまで発揮できるだろうか? グループFは名うての強豪国ぞろい。世界標準で力を試す、絶好の機会ととらえることができる。

 各試合の展望も、ハラという視点で行ってみると、じつはかなり面白いものが見えてくる。
 初戦のオーストラリア戦などは、ジーコとヒディングという両監督の、ハラの戦いという感じだ。それぞれ弱点を抱えており(日本は体力で劣る、オーストラリアは急きょ監督に就任したヒディングの促成栽培の感が否めない、など)、おそらく戦況は五分。最後に勝敗を分ける部分、それはもう言うまでもなく、技術や戦術などではないということだ。選手にどれだけのものを伝えられたか? 両監督のメンタルな技量が問われてくる。

 よく言われているように、初戦のオーストラリア戦に勝てるかどうかが、予選ラウンド突破のカギ。ここでハラの戦いを制した時、クロアチア、ブラジル戦に向けてハラ的な展望が見えてくる。
 一戦ごとに対戦国のグレードがアップする点も興味深い。このような組み合わせを引き当て、しかも第3戦で母国ブラジルと戦うという運命的な巡り合わせは、ジーコの持つ理論を超えた、不思議な強さを感じさせる。

 つまりは最高のお膳立てが整えられていることが見えてくるが、この用意された舞台で自分の力を出せるかどうか? そう、ここでも問われるのがハラなのである。
 大会後のポストジーコ体制は、再び戦術重視の監督によって、さらにハイレベルなものが要求される段階に突入すると予想するが(サッカー協会が賢明ならばそう発想すると思われる)、今大会のテーマはあくまでもハラ。ここに運の強さも加味するならば、予選ラウンドの突破は可能と見るが、果たして?

投稿者 長沼敬憲 : 20:31 | コメント (0)

2002年12月06日

「鈴木隆行」に見る日本代表の現状と未来

 筆者は、サッカーのことはあまり知らない。しかし、知らないからと言って、語れないというわけではない。「知らない」からこそと言うべきか、意外と為になる(?)、本質を突いたサッカー論を展開することができたりもする。

 たとえば、日韓共催のワールドカップが成功裡に終わった今、次なる課題は次期ドイツ大会に向けて日本代表のさらなる飛躍は可能なのか? という点に尽きているだろう。大会ベスト16、FIFAランキングでも20位台前半と、決して弱くはないが強いとも言えないポジションにいる、いまの日本。その未来は明るいのか、暗いのか? ……サポーターならずとも、多くの国民が関心を寄せているはずである。

 筆者は基本的に楽天的ということもあり、よほどのことがない限り、暗い予測は立てることがない。ただ、明るい予測を立てるにしても、条件をつける。何にしても、成長していくためには、最低限クリアせねばならない壁があるからだ。
 最低限クリアしなければならない、壁。といっても、それは基本的には、その当人が乗り越えることのできるレベルの壁に他ならない。
 勘違いをしている人も多いかもしれないが、乗り越えられないものを人は壁だとは感じない。つまり、意思さえあれば、早かれ遅かれ、乗り越えることはできる。その仕組が認識できれば、スランプなど無くなってしまうものなのである。

 ではそれらをふまえ、日本代表の今の「壁」とは、いったい何だろうか? それはどうやって、乗り越えればいいものなのか?
 筆者が先のW杯を振り返ったとき、その課題の象徴として真っ先に思い浮かぶのは、いま遠くベルギーの地で奮戦中のフォワード、鈴木隆行の存在である。
 初戦のベルギー戦、1点先制された直後にすぐにゴールを決めたのが鈴木。ちょうど彼が代表入りして初ゴール、しかも1試合2得点を決めたとき(2001年6月・コンフェデレーションズカップ/対カメルーン戦)もそうだったように、そのゴールに多くの人は意外性を感じたはずだ。しかし、その意外性が目に見える結果に結びついたことで、チームに勢いをつけるきっかけを演出したわけである。

 と言ってもそれは、結果論の話。トルシエ監督は、初ゴール以来ずっと得点を挙げられないでいた彼を、なぜ起用し続けたのだろう?
 本当の心のうちはトルシエ自身に聞かねばわからないが、筆者はベルギー戦を観戦していたとき、あの爪先を思いっきり執念深く伸ばして、不格好な形ながらシュートを決めた彼の姿に、「ああ、これが日本代表の姿だな」と不意に感じたのを覚えている。2点目を叩き込んだ稲本のシュートも確かに素晴しかったが、鈴木のほうが日本代表について何事か雄弁に語っていると思われたのである。

 鈴木はおそらく選手としての総合力では、決して秀でた選手ではないだろう。
 彼が出られなかったとしても、中田のように「致命的」とまではいかないポジションの選手である。しかし、ひとつだけ希望を感じさせる能力を持っている。あの爪先を思いっきり伸ばした時のような、「一歩前へ出る」感覚。直観的、本能的に、ここというポイントを嗅ぎ分け、反応できるセンスと言い換えたらいいだろうか? トルシエも、結局、そのセンスにキーマン的な期待を抱いていたのではないだろうか?

 この感覚について、もう少しわかりやすく説明してみることにしよう。
 「一歩前へ出る」と簡単に言うが、これは日常生活でもなかなか容易なことではない。なぜか? 頭で計算してしまうからだ。二の足を踏むというが、これはスポーツの場面でも「反応の遅さ」になって現われる。おそらく日本と世界との差は、フィジカルな面というより、その零コンマ単位の反応の違いではないのか?

 さらに分析していくと、その「一歩前へ出る」感覚は、気合や根性を使って「エイ!」と飛び出るような行為とは質が異なっている。逆にそれらに頼ろうとすると、足の筋肉を思いきり踏ん張らねばならなくなる。それでは疲労が溜まるし、溜まるほどに動きも鈍くなる。だんだん前へ出られなくなる……。

 日本は戦争でアメリカの圧倒的な物量作戦に負けて以来、「体を大きくしなければ強くなれない」という脅迫観念を抱くようになったのかもしれない。
 しかし、体の大きな欧米人もただ体が大きいから強いのではなく、一流選手はその体を使いこなす術を覚えていた。かつて日本でも、その術のわからない大男を「ウドの大木」と呼んで揶揄していたはずだ。要は、「使いこなす」ということが求められている。「一歩前へ出る」こともまた、その感覚の中で身につける能力なのである。

 筆者の感覚では、その能力はしっぽ(尾骨)の反応を即座に行為につなげるという、脳を介さない、きわめて反射的な運動に他ならない。
 まず、しっぽが外部の情報をキャッチする。しかしキャッチするだけでは、行為につながらない。サッカーでも、キャッチして踏み出さねばボールは捕まえられない。尾骨の一点から両脚の裏側の筋にかけて、一本の神経を通す。その筋がしっぽの反応に沿って作動することで、脳を超えた「動物としての動き」が可能になってくる。

 これは歩行においても、きわめて重要な感覚だと、筆者は感じている。
 つまり普段からも養うことができる。自分がここぞというときに踏み出せないのを、気が小さいからだとか、精神論で片付けたりせず、一度冷静に、その動きを可能にする神経が通っていないという現実を直視してみる。通っていないものは使えない。だから本来不要な周辺の筋肉でその動きを代行せねばならず、多大な労力が求められてしまう。食事などでいくらスタミナをつけても、根本的な改善はできない。ウエートトレーニングに取り組むことで却って能力を見失ってしまうこともありえるわけである。

 鈴木隆行は、残念ながらこの能力をまだしっかりと定着させられていないため、“ラッキーボーイ”の域をなかなか出られない状態にいる。
 鈴木よりも優れた選手もいるだろうが、日本代表を見渡せば、同じ課題を背負った選手が多いのが現状ではないだろうか? 鈴木は体勢を崩しながらようやく「一歩前へ出る」ことができたが、体勢を崩さずに「出る」ことも決して不可能ではない。おそらくロナウドのようなプレーヤーは、それが当り前のようにできるはずなのである。

 彼の生まれ育ったブラジルは、日常の中で「一歩前へ」出なければならない状況が無数に転がっている。練習する前から自然と練習できる環境の中にいた。
 ならば日本代表も、日常の中で「一歩前へ出る」ことを意識的に行うことが必要。躊躇しないで、ここと決めたらスッと前へ出る。練習だけではない。人生の中でそれをやる。その延長上に練習や試合を位置付ける。強制的にやるには海外へ出たほうがいいかもしれないが、それが絶対の解決法になるとは言えないことも見えてくるだろう。

 筆者自身、この「一歩前へ出る」感覚を、自分の暮らす現実の中で養っている。自分自身が生きる切実な問題として、この神経の獲得に文字通り神経を注いでいる。
 サッカージャーナリストが一流サッカー選手になれないのは、特殊技能であるゆえ仕方ないかもしれないが、原理自体は取り込んで、自分の生活の中で再現させてみる。サポーターもまた、本当に選手を応援しているのなら、会場へ足を運ぶだけがすべてではない。各人が自分の人生のなかで「一歩前」へ出る努力をすることだ。

 ヘタな気合いは使わず、もっと構造を理解して、確信を持って取り組んでみる。それができてくればれば、サッカーへの関わり方そのものが変わってくる。「うまくいく」という喜びを通して、サッカー選手と感覚を分かち合えるようになる。
 あれだけたくさんの人がW杯を観戦し、サッカーに関心を持ったのだ。これからの4年を使って、みなで「あの時の鈴木」を超える意思を持ったらどうだろうか?

 サポートと日本代表の戦績と、そして自分の人生が本当にひとつにリンクするようになった時……、そう、その時が日本のサッカー界が飛躍する、決定的な転機なのである。ナンバー1のブラジルを破るのも夢ではなくなる。すべてをリンクさせるという感覚さえ自分が持てれば、可能性ははるか先まで広がるのである。

投稿者 長沼敬憲 : 07:18 | コメント (0)

2001年06月07日

W杯のポイントは、「日本×ロシア」にあり!

 W杯(ワールドカップ)が開幕し、先日、開催国・日本がベルギーと対戦。2対2のタイスコアで、歴史的な「勝ち点1」を獲得した。
 筆者もテレビで観戦していたが、確かに日本は強くなっている。
 開催国ゆえサポーターの応援がプラスに働いたという声もあるが、数年前なら逆にそれをプレッシャーに感じ、試合を落としていたかもしれない。その点から見ても、選手たちはずいぶん図太くなってきている。そう、ハラができてきた。

 中でも特筆すべきは、チームの顔とも言うべき、中田英寿の「成長」だろう。
 パルマであれだけ試合に出れない状況が続いたにもかかわらず、つねに同じテンションを保っていられる。これはメジャーリーグで活躍するイチローにも言えるが、じつはこの「同じ」でいられることが、「成長」の本質なのである。
 つまり、同じでいられる度合が深まれば深まるほど、自己肯定の意識が高まる。その意識が、新たな技術を身につける余裕を生み出す。技術を身につけることばかり考えても、それを可能にする状態が生まれねば、意味がない。そうした「極意」を自然と身につけているところに、中田が頭ひとつ存在感を見せている要因がある。

 もう少し中田の強さのメカニズムを、筆者の視点でひもといてみよう。
 先に書いた「自己肯定の意識」は、身体感覚でいう「ハラを養う」ことと表裏一体の関係にある。ハラの強さはサッカーという競技では「当たりの強さ」という形で現われるが、中田の場合(本人が自覚しているかは別に)、そうした能力としてだけでなく、もっとメンタルな、精神面での落ち着き、ひいては自分に対する肯定感にも結びついている、だから逆境に強い、たくましい……となるわけである。

 また、ハラの強さは、健康面、体調面にも如実に現われるだろう。
 ハラは一般に身体の重心の位置に宿る意識のかたまりとしてイメージされているが、このかたまりは多くの場合、球の形をしていて、それ自体が生き物のように活動している。例えるなら、高速回転するコマ。このコマを下半身に宿すことで、「当たりの強さ=まわりの弱いコマをはじく力」を得るだけでなく、ケガや病気をはねのけるバイタリティーの源としても効力を発揮する(詳しくは拙著「サムライ」の3章を参照)。

 中田に次ぐ期待の星として小野伸二の名前が挙げられるが、Wカップ直前に虫垂炎に罹ったように、このコマの回転度においては、まだまだ弱い面がある。
 逆に言えば、激戦地ヨーロッパで4年にもわたって戦い続けながら、ケガらしいケガをしたこともない中田は、この面においては世界トップクラスと言えるだろう。そして、彼のような頑丈さは、昔の日本人ならばごく当り前に持っていたものなのである。野菜嫌いの中田と、動物性たんぱく質をあまり摂らなかった昔の日本人。一見すると対照的だが、こと身体感覚を磨くという点で共通した要素を持っていた。そこに先祖返り現象の進む昨今の日本の状況がかいま見えてくるのである。

 さて、こうした先祖返りの現象は、選手たちの成長からだけでなく、日本サッカーを取り巻く状況の中からもいくつか見い出すことができる。
 その象徴は、今回のW杯の日本の対戦国にロシアが含まれていることだろう。ロシアはFIFAのランキングで24位(日本は33位)。しかし、この数字以上の実力とも見なされており、ヨーロッパの強豪国との差もさほどないと語る識者は多い。

 じつはこの状況、お気づきの方もいるかもしれないが、今から百年前、日露戦争で激突した当時の両国の国際的ポジションと非常によく似ている。
 「サッカーの本質は戦争である」と言われているように、そこには帝国主義時代の国家紛争や国際競争をバーチャルに再現した側面があり、東洋の一弱小国(ヨーロッパの国々から見れば)に過ぎなかった日本が徐々に成長し、世界の大国に肩を並べていく過程と相当に重なり合っている(つまり、同じような状況が形成されている)。

 しかし、筆者が関心を抱くのは、そうした類似より、日本とロシアの因縁である。
 この両国は、遠い過去、同じ祖先(北方系モンゴロイド)から分かれ出た、DNA的にはきわめて近しい関係にあると考えられている。また、そうしたデータだけではなく、ロシアに関わりのあった人たちの発言などを耳にしても、人としての気質に関しては、じつはアメリカ人などよりもずっと日本人に近いものが感じられる。

 その意味では、国交がアメリカ並みに開けていけば、両国の関係は急速に進んでいく可能性がある。懸案である北方領土問題にしても、互いの納得する形で案外スンナリと解決されるかもしれない。筆者などは、21世紀は日米関係より、日ロ関係のほうがずっと深めていける可能性があるとさえ感じているのである。

 ……こうした条件を互いが宿しているにもかかわらず、日露戦争の時も、終戦間際のソ連参戦やシベリア抑留、あるいはその後の冷戦に際しても、政治的にはなぜか対立する形でしかめぐり合わせがやって来ない。しかも、そうした因縁が、どういういたずらか、この時期、W杯の組み合わせにまで及んでしまっている。

 スポーツには、社会の状況を先取りする形で、象徴的なヒーローやシチュエーションを生み出す場合が、往々にしてあるだろう。
 その面で見るならば、バーチャルな日露戦争とも言える日本×ロシアは、今大会の隠れたポイントマッチと言ってもいい。日本はロシアに勝つことができれば、やがてヨーロッパや南米などのランキング上位国に肉薄していく大きなステップを得るだろう。その点では、ベルギー戦以上に、きわめて重要な一戦である。

 また、サッカーの勝敗を抜きにしても、多くの人が両国にまつわるこの妙な因縁を自覚したならば、我々の認識する「東洋」は、一気にユーラシア大陸の3分の2までに及んでいく。ロシア人の身体感覚のベースは、広大なシベリアの大地で培われた融通無碍なハラ感覚にある。島国の中で自らのハラを研ぎ澄ませてきた日本人からすれば、共感と同時に憧れをも抱けるという点で、興味深い可能性を有している。

 ……少々サッカーの話題から離れてしまったが、この競技が競技の枠を超えて世界と結びついている以上、偶然的な組み合わせの中にも無数の必然が絡んでいる。それを感知し、読み解くことで、自らの身体感覚は養われていくのである。
 さて、日本はロシアに勝つことができるだろうか? サッカーファンにすればそれが重大事だが、その先に広がる景色についても思いを馳せてみるべきだろう。

投稿者 長沼敬憲 : 08:05 | コメント (0)