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後記〜“弱肉強食”、“永遠の戦い”の先にあるもの ■転換期のK-1がもたらした“リングス復活” どうやら、前田日明の「リングス」が復活する模様だ。 当初、新日本プロレスを退社した上井文彦氏の立ち上げるプロレス興行に、スーパーバイザーとして協力するとの話だったが、上井氏に協力するK-1のラインから、新たに総合格闘技の興行にも参画することになったようだ。 3月26日、さいたまスーパーアリーナ。大会名は「HERO'S」。 前田が選手のスカウトや育成、上井氏が運営を手がけるという点では前出のプロレス興行(WRESTLE-1の名称になった)と変わらないが、事実上、K-1の総合格闘技部門「K-1 ROMANEX」を引き継ぐような格好だ。 現にK-1プロデューサーの谷川貞治氏も、「K-1は立ち技最高峰を決める競技」と語り、総合格闘技からの「撤退」を表明している。 立ち技オンリーで行われてきたK-1が、総合格闘技にも進出したのは、創始者の石井和義前プロデューサーの発案によるもの。競技としての“マンネリ”をプロデューサーとしての皮膚感覚で察知した石井氏が、有力選手の反対を押し切って総合のカードを導入したのは、2002年8月8日のこと。 この時のカードが、今をときめくミルコ・クロコップの総合格闘技・デビュー戦(対藤田和之)であることを思えば、石井氏の着眼の非凡ぶりは認めるしかない。 振り返ってみると、総合格闘技の導入でK-1は確かにレベルアップした。 競技としてルールが大きく変わったわけではないし、総合の試合で実績を残せるまでになったミルコやマーク・ハントは、ともにK-1から離れてしまった。興行的なメリットがあるわけではない。 しかし、“怪物路線”などと揶揄されたボブ・サップ、曙らの起用も含めて、外部の“刺激”を効果的に取り入れていくことで、個々の選手の質は全体的にレベルアップした。筆者にはそう映る。 特に日本人トップファイター・武蔵の台頭は、この2大路線の導入が大きく関係している。“他流試合”を数多くこなし、まさに皮膚感覚で対応力を身につけていったことが、2年連続GP準優勝の要因の一つとなった。 しかし逆に言えば、一定の成果を上げた以上、K-1もしばらくは本戦を充実させる方向へと進んでいきたいところ。中量級のK-1 MAXも順調だ。といって、大晦日に「K-1Dynamite!」がある以上、総合系の選手も大事にしたい。 こうした思惑の進行する中で、上井・前田のマット界復帰・旗揚げ。谷川氏にとっても「渡りに船」だったのではないか。結果として上井氏を助けることにもなるし、前田の才能を生かす場をつくることにもなる。 ■前田の“毒”はPRIDEを脅かすか? 大まかな図式で言えば、K-1の最大のライバルは、大晦日決戦を見てもわかる通り、総合格闘技イベント「PRIDE」。 といっても、総合部門に関しての実績は、“本家”のPRIDEのほうが上。 繰り返すが、その状況下に新日本プロレスを離脱した上井氏と、事実上、PRIDEによって活動休止に追い込まれた前田日明が「復活」した。そして、彼らが言ってみれば、K-1の総合部門を引き継ぐようなカタチになった。 これはただ単に、総合格闘技のビッグイベントが「PRIDE」と「HERO'S」の2つに集約されていく……というだけの話ではない。 冒頭でも触れたように、「HERO'S」はK-1の総合部門を継承していくものであっても、前田が主導していく以上、「リングス」色が必ず出てくる。というより、報道を見るかぎり、K-1側も「リングス」を復活させる意向を持っているようだ。 谷川氏の陣営はさすがに頭が切れる、と筆者は思う。 「K-1ROMANEX」では、いくら大物選手を起用し、総合格闘技イベントをうたっても、実績のある「PRIDE」の二番煎じの感は否めなかった。 しかし、「リングス」ならば、旗幟鮮明となる。前田日明の個性が全面に出てくることで、ファンは「PRIDE」と違う何かを期待するからだ。 運営形態がどのように変わっていくかは展開次第だが、順調に進んでいけば、どこかで「HERO'S」という大会名自体、「リングス」に変わってしまうかもしれない。もしかしたら上井氏もプロレス興行のほうに専念して、運営も前田が担うようになるかもしれない。もちろん、上井プロレスとK-1、K-1MAXと、出場する選手も状況によりクロスオーバーするだろう。そしてこれらの枠の中で人気と実績を得た選手が、年末の大舞台「Dynamite!」に出場する。 テレビはTBSがつく。場合によっては、「K-1JAPAN」から撤退した日本テレビでも、何らかの別企画が進行しているかもしれない。 これはなかなか、PRIDEにとっても手強い相手だ。“お祭り”的要素が批判されてきたここ数年のK-1に、前田という“毒”が加わる。大晦日の「Dynamite!」が内容的にも充実してくると、この先、数字でも上回るのが難しくなるかもしれない。 ■リングスは“真剣勝負”でなかった? と、このあたりまでは、ある意味で表面的な未来予測。 これだけの話だと、PRIDEとHERO'Sの対立図式は、ただの興行戦争に前田の“怨念”が加わっただけのものになってしまう。 筆者の目には、もう少し面白いものが見えている。 それはいまだ誤解の多い前田日明とリングスの“謎解き”にもつながってくるし、低迷がささやかれて久しいプロレスの「復権」にも大いに関係している。おそらく、前田の目指している総合格闘技が、PRIDEの目指しているそれと似て非なるものであるということも、もっと明らかになってくるかもしれない。 格闘技マスコミの前田評、リングス評をざっと紹介しよう。「Bout Review」という格闘技サイトを運営している井田英登氏が、「ALL ABOUT」という別のウエブサイトにコラムを寄せている。まず彼は、今回の前田の「復活劇」を、 30年近くプロレス枠での活動を行って来た上井氏はともかく、前田自身は1991年のリングス旗揚げ以降、「自分のやりたいのは格闘技であって、プロレスではない」と、一回は決別を宣言したはずの身。プロレス業界に対して、複雑なルサンチマンを抱えた言動が“売り”だっただけに、(現役選手ではないとしても)プロレスサイドに復帰するというのは、ファンの側からすると若干理解に苦しむ行為ではある。 と前置きした上で、「リングス」について次のように語っている。 そもそもリングス時代も、前田はプロレス界から一歩も出ては居ないという考え方もできるだろう。彼のプロイズムは競技に徹した格闘技というより、観客にどれだけの興奮と感動を持たせて帰らせるか、という所を大事にしており、彼のリングスでの試合も、厳密な意味での“競技”ではなかったと指摘する声も多い。 こうした指摘は、筆者もこれまで何度か耳にしてきた。確かに、いわゆる格闘技マスコミ・ファンの捉える格闘技観から見れば、「リングス」のルールは“真剣勝負”としての要素が薄く映る。だから当然、「リングス」に対する次のような見方も成り立ってくる。 総合格闘技界にあって「世界標準スタイル」となったヴァーリトゥードルールに、最後まで前田リングスは抵抗し続けた。ロープエスケープを駆使した旧リングスルールの娯楽性や、顔面へのグラウンドパンチを排したKOKルールなど、よく言えばオリジナリティ溢れるルールを堅持し、「大勢に流される」ことを嫌ったプロデューサー=前田だが、PRIDEや修斗でVTルールのスリリングな攻防を見慣れたファンからは、リングス=「ぬるい」団体というレッテルを貼られた。 ■強さとは「対応力」である こうした「レッテル」の背景は、よく言われているように、「グレイシー柔術」が「UWF」に勝利したことが遠因にある。 UFCにホイス・グレイシーが彗星のごとく現れ、「ヴァーリトゥード」の凄みを存分に世界に伝え、兄のヒクソンがUWFで「最強」を名乗ってきた高田延彦に2度にわたって圧勝した。このグレイシー兄弟(グレイシー柔術と言い換えてもいいが)の成し遂げた「勝利」が、「世界標準スタイル」を作り上げた。 高田は敗者としての葛藤を乗り越えて、勝者の提示した「世界標準」を受け入れた。点のイベントに過ぎなかった「PRIDE」が線になり、「世界標準」の中で強さを競い合う場ができたのは、「最強」だった高田がそれを認知したからだ。そして表現は悪いが、ヴァーリトゥードの強豪に連戦連敗することで、「世界標準」の凄みをファンに伝えた。マスコミにも伝えた。 高田はいまこの「PRIDE」の統括本部長として大会の運営に当たっている。失ったものが彼の存在を大きくし、「PRIDE」をも大きくしている。 前田は高田の先輩に当たる。同じUWFという一つの「標準」を作り上げてきた仲間である以上(というより、事実上の中心人物なのだが)、いわば間接的な「敗者」という言い方もできる。 しかし、前田はこの「敗北」を認めなかった。おそらく、根本的には今も認めていないだろう。繰り返しになるが、過去の稿で取り上げた「強さ」に関する前田の考え方をもう一度紹介しておこう。 (ルールに縛られなければ縛られないほど、「果たし合いに近い」という幻想があると思うんです、という質問に対して)それを言うんだったら、なんでアマレスラーが違うルールで勝てるの? 柔術家が勝てるの? ってなるやんけ。KOKは柔術のルールと全然違うやん。でも、その場所や競技で最高のヤツっていうのは、なにをやっても対応できるんだよ。本当の強者っていうのは。でしょ? (「紙のプロレスRADICAL・NO25」より) 前田は「強さとは対応力である」と、様々な場で語ってきた。 ヴァーリトゥードで勝つこともその対応力の現れの一つであって、すべてではない。すべてではないのにすべてであるかのように思われているのは、それだけグレイシーの勝利(言い換えれば、UWF=高田の敗北)の衝撃が強かったからだ。衝撃的ということは、説得力があるということ。しかし、説得力があるからと言って、それだけで前田の定義が覆ってしまうわけではない。 もう一度繰り返そう。ヴァーリトゥードで勝つことも対応力の現れの一つ。 つまり、前田も私淑する編集工学研究所所長・松岡正剛氏の言葉を借りるならば、「多様であるということ」。この多様さは、日本という国の特色でもある。前田が命名者とも言われる総合格闘技は、日本で生まれたものだ。 やや難しいかもしれないが、氏の著書からこの「多様さ」の意味合いについて触れている部分を、抜粋してみよう。 かくして同音異義であって、一字多音の国ニッポンというものが生まれていくことになる。こうして「生」という字などは、生一本・生蕎麦のキ、一生のショウ、生活のセイ、生きるのイキ、生ビールのナマ、生まれるのウムなどと、なんともバラエティに富むことになったわけです。 しかし、歌を忘れたカナリヤをあきらめて、これを雄々しい鷹とか鷲にしようというのはもっとおかしな話です。むしろ、カナリヤならばカナリヤであること自身を知ったうえで、かつカナリヤとしての多様な歌を唄い出すべきであるような気がするのです。 (ともに「日本流〜なぜカナリヤは歌を忘れたか」より) ■「理想と現実をクロスさせる」という理想 前田の発想は、ものすごく大ざっぱに言ってしまえば、このような意味での日本流、広く言えば東洋流なのである。 一方、現在の格闘技マスコミの多くは、やはり西洋的な発想から格闘技というものを捉えている。 おそらく前田は、グレイシーの強さも実績も、その結果もたらされた衝撃も、すべて認めているし、それ自体は受け入れている。彼が受け入れていないのは、無自覚のうちに「多様さ」を否定し、見失ってしまっているこの世の中の、世界の、あるいは日本人の風潮そのものではないのかと筆者は思う。 これはべつに、それほど難しいことを言っているわけではない。 筆者がイメージするのは例えばこう言うことだ。前田はリングスを立ち上げる際に、オランダの盟友クリス・ドールマンの助力を得た。また、リングス・ロシアを立ち上げることで、新たなネットワークを生み出した。 日本人選手の絶対数の不足という現実的問題があったにせよ、発足当初から、彼は「世界」というものを意識していた。 リングスという名称自体、彼の世界観を理解する上で暗示的だ。“つながりによって成り立つ場”という認識が見えてくるからだ。 オランダ、ロシア、そして日本。これをネットワークの核にして、後年、リングス・USAやリングス・ブラジルも立ち上げた。アフリカ以外のすべての大陸に支部ができた。よく知られているように、ロシア勢のなかに現PRIDE王者のヒョードルがいた。ブラジル勢の中に元王者のノゲイラがいた。 繰り返すが、こうしたネットワークが前田日明の「世界」の核になっていたわけである。彼にとっては最もリアリティのある「世界」。観念でもなく、身体感覚でキャッチできる現在進行形の「世界」である。 ここで再び過去の稿から彼の言葉を引用する。 何度も言うように、俺が言ってるのは、理想と現実を交差する点をいかに高くするかっていうことだから。ウチのルールってさ、どのくらいの変遷があった? いつも理想と現実をクロスさせるところから始めるわけでしょ? いまだったら(ノールール形式の試合が)膠着するっていうことをファンが理解できるところまで、まだまだ行ってないし、そういう部分で選手を闘わせるよりも、こっちのルールのほうが面白いからやらせているだけの話ですよ。それがプロモーターだよ。 (「紙のプロレスRADICAL・NO25」前田日明インタビューより 文中のカッコは筆者) これも繰り返し、前田が語ってきたことだ。理想と現実をクロスさせる……、それ自体が前田の理想であり、現実的な仕事だったわけである。 この発想に立てば、彼がなぜ最後までヴァーリトゥードに抵抗を示し、「ぬるい」とも評された一面中途半端な(ヴァーリトゥード・ルールから見れば中途半端な)KOKルールを採用したのか見えてくるはずだ。 ヴァーリトゥードが悪いわけではない。ヴァーリトゥードを採用しても、おそらくロシア勢は対応できるが、立ち技系の選手の多いオランダは対応できない。ヴァーリトゥードの発想では「対応できない=弱い」となるから、これで話は終わってしまう。しかし、前田の発想はそうではない。 「対応できない」が一転して、「一部の選手の力しか引き出せない」、という発想になる。 おわかりだろうか? 「最高のやつは、どんなルールにも対応できる」、これは彼の言う理想。しかし、現実には対応できない選手が出てくる。 ヴァーリトゥード的な発想を持てばそんな選手も切り捨てることはできるが、これでたとえばオランダの総合格闘技のレベルは引き上げられるか? むしろ衰退するのではないか? リングス・オランダはどうなる? 対応できなかった以上、衰退してもしかたない。そう言えるのは、ある意味でネットワークの外にいる「部外者」の発想。少なくとも前田のやろうとしていたことを理解できる場所=「世界」には「いない」ことになる。 ■“弱肉強食”という「世界標準」とは異なるもの 言い換えるならば、ヴァーリトゥードは「弱肉強食」の発想から生まれたもの。 格闘技なのだから当たり前? では、前田日明はどうだったのか? 一見「弱肉強食」の世界に身を置いていながら、彼が試み、実践してきたのは、「この世界のすべての存在を生かすにはどうしたらいいか?」「すべての人の能力を引き出し発揮させるには、どうしたらいいか?」ということ。それが彼の想起し、理想にしたネットワークの根底にあったことが見えてくる。 「弱肉強食」に対する、強烈なアンチテーゼであることが理解できるだろうか? 格闘技だから「弱肉強食」なのではない。発想の中に「多様さ」が欠落してしまうから、一つのルールの中での勝負論だけがクローズアップされていく。「リングスは真剣勝負ではなかった」、「競技ではなかった」といったような、(おそらく前田からすれば的外れもいいところの)批判も生まれてしまう。 そして、すでにお気づきの人もいるかもしれないが、要するに前田の意識の根底には「武道」が眠っているのだということだ。 日本人の生み出した「武道」は、確かに格闘技と重なる面もある。しかし、イコールでは結べない。それがなぜかということは、前田の生き方を少し観察しただけでも明瞭に見えてくる。 ここで三たび、過去の稿から、江戸時代の剣豪・柳生但馬守の「兵法家伝書」(岩波文庫・渡辺一郎校注)の一節を引用してみる。 ……様々の習(ならい)をつくして、習稽古の修行、功つもりぬれば、手足身に所作はありて心になくなり、習をはなれて習をたがわず、何事もするわざ自由也。此時は、わが心いずくにありともしれず、天魔外道もわが心をうかゞひ得ざる也。此位にいたらん為の習也。ならひ得たれば、又習はなく成る也。 (意訳)さまざまな習練を積んで、技術が身につけば、自動的に身体が動き、こころでコントロールする必要はなくなる。型を離れても型と違わない状態となり、どのような場面でも技が自由に繰り出せる。 そうなると、天魔外道のたぐいでも、自分のこころがどこにあるか読めなくなる。そのくらいの境地に至らんとするために、習練を積むのである。型を得ることで、同時に型はなくなるのである。 武道の世界でも、もちろん試合はする。そこでの勝利も求める。しかし、「兵法」の「家伝(極意)」とされているのは、「自由な動き」そのものにある。 前田の発想に置き換えれば、自らの能力を最大限に引き出した結果得られる境地(感覚)であり、そのためにこそ試合(試し合い)も存在するとなる。 ということは、どういうことか? そう、すべての選手の能力を引き出せないルールを「最強を決めるためのルール」だと固定化してしまうことは、極論すれば試合を組む意味すらないということになってしまう。 ヴァーリトゥードが悪いと言っているわけでも、それが選手の能力を引き出せないと言っているわけでもない。 前田の「理想と現実をクロスさせる」という言葉を思い出してほしい。 ネットワーク内のレベルが総体的にアップしていけば、ひとつの流れとしてKOKがさらに改良され、結果、ヴァーリトゥードが採用されることになったかもしれない。そしてそこではオランダの強豪も、オーストラリアの強豪も、イギリスの強豪も、ロシアやブラジルと同じようにしのぎを削っているかもしれない。 結果を見れば、これに似た状況は、ヒョードルやノゲイラを脅かすミルコの台頭によって、PRIDEのリングで徐々に具現化されつつある。立ち技だけだった選手が見事な対応力を見せることで、大幅なレベルアップを実現させたからだ。同じK-1出身のマーク・ハントも、このあとに続くかもしれない。 しかしこうした結果がもたらされたことは事実であっても、前田の想起する「多様さ」の過程はたどってはいない。である以上、前田は当然、この現実を受け入れてはいない。彼の反骨精神を云々するのなら、その原因はここにあると筆者は思う。性格的な問題だとか、リングスが活動休止になったからだとかそうした理解の仕方では、表面的と言われても仕方があるまい。 ■日本の格闘技を支えてきた“プロレス=武道感覚” 「週刊ゴング」2005年3/2号の記事によると、前田は「普通は年を取って丸くなるというけど、俺の場合は恨みが倍加するんだ」と、上井氏に語ったのだという。 この意味を、読者はどうとらえるだろうか? さかのぼってみれば、自らの築き上げてきたUWFが負けることで、事実上、「天下の公論」をグレイシーに奪われてしまった。そのグレイシーの延長上にPRIDEがあり、現在の「マット界」の主流がある。 どんな正論を語ろうが、実践しようが、最終的には自分自身も「敗者」のポジションに置かれてしまった現実がある。 しかしその原因は、一般の格闘技マスコミが言うような、彼のリングスがただ単に「時代遅れの試合形式」だったからでも、「前田個人のカリスマで持ってきた」からでもない。彼の反骨精神だけをクローズアップして、存在感の大きさに注目しても、その根底にある「可能性」までは見えてこない。 前田でなくとも言いたくなる、「そんな批判は的外れや!」と。 筆者がつくづく思うのは、日本という国はやはりオバケみたいにいろいろなものを生み出す国なんだな、その多様性はまだ失われてないんだなということ。 K−1がブームになり、PRIDEも世間に認知され、プロレスは相対的に地盤沈下。そんな情勢の中で、プロレス的なものにも可能性はあるはずだという思いから「ハッスル」のようなエンターテイメント・プロレスも生まれた。 「リングス」が一部の格闘技マスコミ・ファンに「プロレス的」と批判されてきたことの本質は、言ってしまえば簡単なことなのだ。 格闘技は「弱肉強食」であり、基本的に勝者しか浮かばれない。しかし、プロレスはそうではない。敗者をも生かそうとする。 日本人は西洋経由のヴァーリトゥードを格闘技界に導入しながら、プロレス的な感覚で敗者にも勝者と変わらない視線を注いできた。懸命に戦った敗者のほうが、時として試合運びで判定勝ちしただけの勝者より評価される。日本人にとっては「当たり前」でも、これは「世界標準」ではない。 前田の「リングス」がこれから「マット界」にどんな影響を与え、化学変化を起こすことになるのかはわからない。 しかし、前田の「復活」した背後には、サムライを生み出した日本の風土、「スポーツ」を「武道」に作り替えてしまう日本人の感性が潜在している。 それは、お互いの存在をたたえ合う「スポーツマンシップ」とも異なる、最終的には「試合すらもうしなくてもいい」と思える感覚にまで向かってしまう世界。 話が大きすぎると感じるかもしれないが、わかるだろうか? そう。それが「平和」ということ。戦いの先に永遠の戦いしか見えないのか、それとも平安が見えているのか? 前田日明の話ばかりしてきたが、読者はこの稿(「どっちの世界を?」)が、前田と船木誠勝の意識の対比から始まったことを覚えているだろうか? 船木はいま、リングを離れ、アクション俳優の道を歩んでいる。マット界からは半ば離れた。しかし、有能な後継者にも恵まれている。彼の追求した「原理主義」の道は、桜庭以来の“逸材”とも期待される近藤有己に引き継がれ、淡々と追求されているからだ。 極真空手の全日本王者だった数見肇、K-1の舞台で活躍する“トリッキーファイター”須藤元気……、彼らもまた「永遠の戦い」の先のものを見ようとしている。勝つこと以上のことを求めようとする欲張りな若者たち。まだブラジル人にもロシア人にも完全勝利できていないのに。 どっちの世界を? そう。どっちの世界からでも、いまを突き抜けた世界は現れる。その世界を想起できるか否かの問題なのである。 *追記* この原稿を書き上げてから、プロレス・格闘技マスコミの誌上で前田と船木の対談がセッティングされていた。何ていうタイミングだろう! 少し意外だったのは、二人に確執めいたものが何ら存在していなかった点。マスコミによって作られたイメージだった? そうかもしれないが、両者が異なる世界観の持ち主であることは改めて確認できた気がする。 それぞれの生き方が、この先どのように展開されていくのか? その遺伝子はどう受け継がれていくか? 今後も興味深く見守っていきたい。 (2005.5.10) 前へ トップページに戻る Copyright (C) 2004 thunder-r-labo. 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