2004年08月21日
新撰組は面白い
●魅力は「敗者の美学」にあらず
三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新撰組!」の評判が結構いい。ぼくもずっと仕事が忙しくて見れなかったが、6月くらいから時間が作れるようになり、最近では毎週見ている。確かに面白い。最初から見ていればと少し後悔している。ここではドラマを離れて、歴史上の新撰組について、ぼくなりの視点からつづってみたいと思う。
まずやはり、定説を疑ってみることから始めてみよう。新撰組というのは後世の我々から見ると、「敗者」のポジションに位置している。時代の趨勢を見抜く眼がなく、ひたすら幕府に忠義を尽くした結果、時代の徒花となってしまった存在……、要するに(ドラマでもそうだが)坂本竜馬あたりの先見性と対比させながら、彼らの思想の古さが指摘されている。まあ、それはまったく外れてはいないだろう。竜馬にそうした眼があったことも間違いでないかもしれない。
しかし単純な話、「武田信玄」のところでも書いたが、その人の人生というのもは生まれ育った環境や本人の生来の性格に大きく規定されている。運命論ではないが、環境や性格の呪縛から人は逃れられない。逃れられると思って抵抗しても、それは生涯ついてまわる。でもそれは不自由なことでは必ずしもないというのが、ぼくの感覚。逃れられない代わりに逆に受け入れてしまうと、その途端に「らしさ」が発揮できるようになる。人生にはそうした救いのツボが用意されている。だから新撰組に魅力があるとしたら、それは簡単に「敗者の美学」などと表現してしまわず、彼らは彼らなりに自分たちの運命を受け入れ、「らしさ」を形にすることができたと捉えたほうがいい。それは一つの成功だし、そのありようが後世にも伝わってくるから、ドラマにもなりうるわけである。
●「サムライ」というキーワード
では、新撰組の中心メンバーの意識を規定していたものは何だったか? それは自分たちが「多摩の百姓」であるということだったと、ぼくも思っている。彼らは長州藩士でも土佐藩士でも、幕府の旗本でもなかった。仮にぼくが「多摩の百姓」に生まれたとしても、やはり佐幕的な意識はかなり強く養われたと思う。そしてその意識をベースにして自分の人生、身の振り方を考える。たとえ幕府の行く末を見限るとしても、ではどう見限るのか、そこでの出処進退が問われてくる。どこで生まれ育ったかが自分の生き方を規定するが、自分の価値までは規定されない。価値は結局ふるまい方で決まってくる。これを誤解している人が多い。
これも単純な話、その出処進退のなかで「卑怯なふるまい」、「ずるいふるまい」をしたら、それがその人の評価になる。殺されないで維新後に要職にありつけたとしても、そういう人間は残念だけれど魅力的には映らない。そこらへんが人生の奥深いところだし、敗者も勝者も平等に扱われる歴史の面白いところだ。である以上問題となってくるのは、新撰組はその規定された運命の中で、どんなふるまい方をしたのか? あるいは、そのふるまい方の根底にどんな理想がひそんでいたのか? つまり彼らは何を規範にして、自分たちの生き方を模索したのか? そんなことが気になってくるわけである。
彼らの規範となっていたのは、サムライというキーワードに集約される。サムライというのは、ある意味で日本人の歴史上最大級の発明品であったわけで、それは実際の武士階級を指す言葉というより、日本人の価値観や憧れを表す観念用語のようなものと思ったほうがいい。その観念用語が幕末にもなると「多摩の百姓」の意識のなかにまで及んでいたわけである。
これに関連して、少し面白い話をしよう。観念と書いたが馬鹿にしてはいけない。たとえば人が牢獄に閉じ込められたとしたら、行動が制約される分、まずなによりも観念が発達する(発達しない人は気がヘンになる)。この譬えではピンと来ないかもしれないが、要するに江戸時代というのは武士階級にとって、本来の活躍できる場=戦場がほとんど無くなってしまった以上、牢獄に閉じ込められたような時代に等しかった。もちろん、牢獄と言っても一応身分は保証されているし、食事もとれるし、恋もできる。人生はそれなりに楽しめるから、閉じ込められているなんて感じたのはごく限られた一部だったかもしれない。しかし実際にそう感じていた人はいた。ひとたび真面目に考えれば、「平時の武士」という身分ほど、自分の存在証明が危うくなる存在はないからだ。
●「大石内蔵助」の先に「近藤勇」がいる
その名の通りの「サムライ」という本のなかでも書いたことだけれど、サムライが人の生き方を規定する観念にまで昇華したのは、やはり江戸時代の260年にあったとぼくは思う。戦時ではなく平時であったからこそ、サムライらしい生き方がことさらに意識され、憧憬され、学問的にも扱われ、その結果、日本の隅々にまで「サムライ=凄いもの」という価値が広まった。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、このサムライ観念を観念としてではなく、実際に形に表した人たちがいるということで驚かれ、注目を集めた。「忠臣蔵」の名のもとに一つのドラマに仕立て上げられ、後世に伝わることとなった。
少し余談になるが、ぼくは討ち入りの首謀者・大石内蔵助が結構好きだ。彼は伝わるところによると相当にとぼけた人だったみたいで、サムライという観念を心のなかで意識していても、そんなことはおくびにも出さないどこか隠者みたいな感覚を持っていた。だからあんな松の廊下事件みたいなものがなければ、ヘンな話、彼の正体?は一生気づかれないままだったろうし、当の彼自身、それを別に不満に思うような人ではなかっただろう。
ただどういう因果か、彼の中のサムライが試される事態に巻き込まれ、彼はそのなかで高いレベルの答えを出した。すなわち、ただ憤慨して仇討ちを果たそうなんて思ったわけではなく、その機会を通じて「自分が何を伝えられるか」を考えたのが大石の凄み。そんな感覚のスマートさ、飄々とした意識のありようがぼくは好きであるわけだ。
まあ、彼の話はこれくらいにして、新撰組の話を続けよう。忠臣蔵は江戸時代中期の出来事だったが、新撰組の登場するのはさらに後世、100年以上ものちの幕末のこと。繰り返すが、彼らの時代ともなると大石が示したようなサムライ感覚は、武士階級を飛び越えて「多摩の百姓」にまで波及していた。要するに、男の子の憧れとして身分階級を問わず「立派なお侍さん」のイメージがかなり強く定着していた。歴とした身分のなかった近藤勇や土方歳三らにすれば、自分たちの「らしさ」を発揮するためには、この憧れがとても重要だった。それはまさに、拠り所としてなくてはならないもの、命に代えても守らなければならないもの。日本の歴史のなかで育まれた一つのリアルな観念が、広くあの時代の人々の価値観を規定していたわけである。
●「尊王攘夷」は馬鹿げていたのか?
さて、こうした新撰組をはじめとするサムライたちの最大の関心事は、「尊王攘夷」という言葉に集約されていたことはご存じだろう。尊王とは皇室を尊ぶこと、攘夷とは黒船=外国の勢力を追い払うこと。でもこれは相当に単純な直訳で、テストでは点は取れても?当時の実情はわからない。尊王は日本人が黒船に接しアイデンティティに目覚めた時、自分たちの国がどんなシステムで成り立っているか初めて理解できたことを意味している。日本は一番大事なものがつねにベールに隠されている。天皇という権力そのものは有名無実でも、仕組みから見れば国主であり、将軍家は国主に任命されて国を守っているという立場になる。
平和な時はほとんど議論にもならなかったが、黒船という実際の危機が迫った時、徳川将軍家は戦わなければアイデンティティが保てないシステム上の立場が浮き彫りになった。戦えませんと言ったら、「将軍=指揮官」なのだから自己否定になる。智者ならばこれが幕府のアキレス腱であったことに気づいただろう。当の幕府にしても、戦えないなどとは口が裂けても言えないから、結果、政策も制約されてくる。この難しい舵取りの中で、それでも開国した幕府がいかに理性的だったか、逆にわかるはずだ。たとえばお隣の朝鮮(李氏朝鮮)や中国(清国)は、それが十分認識できなかった。だから近代化の波に乗れなかった。
よく攘夷思想を野蛮だ、非現実的だと、あの時代を覆った一種のヒステリー現象のように捉えたがる人がいるが、これも後世の人間が陥りがちな傲慢さの現れとぼくは思う。当時の実情を考えたらこれは当然沸き上がる「感情」。病気のように言ってしまったらあの時代の人たちの危機感が見えなくなる。誤解されがちだが、攘夷思想もじつは相当に理性的な側面があった。なぜなら欧米列強は実際に「野蛮な侵略者」であり、アヘン戦争のあまりに無茶苦茶な実態などは、当時の知識人を中心にかなり具体的に伝わっていた。そこまで詳しくは知らない庶民でも、平和親善のために彼らがやって来たなどとおめでたいことを考えるはずがない。
繰り返すが、幕府はそれにも関わらず開国政策を敷いた。それでまず国を強くしようとした。一方、反幕府の長州藩などは国民感情をベースに半ば意図して攘夷を迫った。攘夷を迫ることは狂気でもあるが、その狂気の中でこそ人は目覚める。西郷隆盛などはそれをかなり自覚していたようだ。まさに時代の子。要は新撰組は、いわばアイデンティティ論争のなかでその一方に組みしていた。といっても、精神としての攘夷はサムライだから持ち合わせている。そしてそれは時代認識から見れば、別に錯誤ではない。そうなってくれば彼らのことを時代を見る眼がなかったとか、そうした観点から「敗者の美学」で描くのは非常に表層的となる。
●「公武合体」という日本的な発想
時代が幕末から明治へと移り変わった背景には、もう少し高度な応酬が存在している。そのことは「徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男」の稿で触れるとして、ここではもう一つ、面白い指摘をしておこう。新撰組の面々は、近藤も土方もみな「多摩の百姓」であるから、徳川将軍家には当然強い忠誠心がある。しかしだからといって、天子様(天皇)に何か恨みがあるわけではない。天子様を担ごうとした長州藩は憎っくき敵だが、尊皇意識もまた当然のことながら持っている。これは当時生きていた日本人からすれば、ある意味ごく平均的で、きわめてまっとうな感覚。この世論を背景にして生まれたのが、「公武合体」という発想(ないし政策)である。
「公武合体」って、本当に日本人的な発想だなとつくづく思う。幕府×長州といった対立概念は確かにあるが、突き詰めるとどちらも「公=朝廷」は大切だと思っている。というより否定する理由が発想のなかにない。欧米列強や中国の感覚からすれば、そんな朝廷だなんて力を失った段階で価値は失ったと思うだろうし、現に滅ぼされていただろう。しかしどの時代を切り取っても天皇家そのものを無くしてしまおうとは誰も考えなかった(乗っ取ろうとしたケースはあるが)。
幕末においても、長州は基本的に天下の少数勢力だから、日本人の多くは朝廷(公)と幕府と(武)が仲良くすれば問題は解決すると感じていた。坂本竜馬などはそうあるべきだと積極的に画策していたし、戦争と言えばイコール攘夷だった。その課題は実際にも、明治政府が引き継いでいる。策士であった土方の眼が特別曇っていたわけではない。竜馬にしてもギリギリのところで暗殺され、誰もが予想しなかった「王政復古のクーデター」が起こっている。このへんの情勢は複雑だ。勝ち負けや善悪の境界を超えている。勝者と敗者は単純に分けられない。いずれにしても日本は世界史的に見ると、きわめて不思議な原理のなかで動いている。新撰組もまたその不思議な歴史の中である一定の役を演じ、そのなかで自分たちの「らしさ」を残したのだと見たほうがいい。
●「思い通りにならない」ことは不幸?
とはいえ、以上は俯瞰した見方であって、個々の新撰組隊士たちからすればやはり敗北感はあっただろう。たとえばぼくなりに「もし自分が新撰組の一員だったら?」と想像したら、おそらくもう、あまりに思い通りにいかないことの連続で、ドロドロしていて、不満と不安だらけで……、表面だけなぞってカッコイイなどと言われても確かに違うと思うだろう。でも、その点をふまえてさらに想像を働かせるなら、そんな「思い通りにいかないことの連続」はじつは勝者も敗者も等しく味わっている現実とも言える。単純な話、彼らを「かわいそう」と言ってしまえば、自分もまたそうした「かわいそう」な一員になる。
しかしそれは捉え方の一つに過ぎない。現実問題として、思い通りにならないから不幸だとか不自由だとは、必ずしも言えない。ぼくが「敗者の美学」という言葉に終始一貫して引っ掛かるのはこの点で、要は当たり前のことだが、ジャイアンツの選手であろうが身売り寸前?とも言われるオリックスの選手であろうが、「らしさ」を発揮できるかどうかはその選手次第。この当たり前の目から見れば、新撰組は思想・発想に関わりなく、やはり魅力的で、それゆえに歴史に名前が残ったのだとわかってくる。その魅力についてはドラマでも書籍でも存分に書かれているので、ここでは特に取りあげはしません。
要は、使い古されたキャッチフレーズに惑わされずに物事は見たほうが、余計な前提条件もなく、いいものはいいと素直に思える。キャッチフレーズは往々にしてレッテルに変わるし、人はどうしても善悪の二分法が好きだから、常にこのことは自覚しておいたほうがいい。土方歳三の霊?がたとえ人生を呪っていたとしても、後世に生きる「神」の立場にいるわれわれは、逆に彼に「そうでもなかったはずですよ」と言ってあげられる。このことに気づいたほうが、もっと鮮明にありのままの歴史が見えてくる。
2004年08月19日
武田信玄という「遺産」
●なぜ武田信玄がテーマになるのか?
なぜいまさら武田信玄なのか? そう思う人も多いかもしれない。確かに戦国武将としてはずば抜けた存在。でも、古い教養に縛られていた、長生きして天下を取っても、室町幕府の二の舞いだった。なんて一般にも思われている。そうだろうか?
そう思う人の感覚の背景には、ぼくに言わせれば、織田信長に対する過大な評価がひそんでいる。あくまで信長と比較して信玄を古いと言っているわけです。でもこの比較自体、どこまで有効なのか? 意味があるのか? ほとんど疑問も持たれないままに定着している感があるが、ちょっとこれを切り崩してみると、なかなか面白い信玄像が浮かび上がってくる。というより、それが彼に対するまっとうな評価だとぼくは思うわけです。
●「人徳」という希有な才能
まず人というのは、環境によって人格が形成される面がとても大きい。加えて、生き方もある程度規定されてくる。これは当たり前過ぎるくらいの事実だが、本当にわかっている人は少ない。どうしても環境や風土を飛び越えて、無視して、人を見ようとしてしまう。その人の業績をその人の才能や能力の結果であると直接捉えてしまうわけです。
ちょっとわかりやすく説明していきます。信玄の場合、甲斐の国(山梨県)の生まれですが、甲斐は貧しい国で主食の米もあまりとれません。彼の家はその貧しい国の守護を代々つとめる家柄だったわけですが、貧しいというだけでなく、家臣や血族とのつながりもバラバラ。このバラバラを武力によってまとめたのは父の信虎です。信玄はこの父を国外追放して実権を握りますが、武力によって貧しさを克服し、家臣団の連携を維持するというやり方そのものは踏襲しました。
とはいえ、このやり方はほとんどの戦国大名がやっていることでもあります。言い換えれば、そういう課題なり、条件なりが乱世のリーダーとして最低限義務付けられていた。ここで言いたいのは、信玄がこの条件をかなり高いレベルでクリアできたということ。暴君として知られた父の生き方を反面教師として見てきたことも大きかったかもしれませんが、簡単に言えば軍事的な強さだけでは駄目、人の心を無視したら反目される。この当たり前の現実を彼は理解していて、自分なりに実践ができた。だから武田二十四将などと言われる有能な家臣団が育った。反面、信長はこれがうまくできませんでした。
人徳などというと綺麗ごとのように聞こえるかもしれないが、これはすべての人が身につけられるわけではない。まあひとつの才能だと考えてください。信玄が一流と言われるのは、これが第一に評価されているからです。一方信長は、信玄の父・信虎と、その点はよく似ている。彼が天才だったから家臣がついてこれなかったのだなどと言うと、あの時代にはむしろ難しいことだった人心収攬の術を会得していた信玄が過小評価されてしまう。家臣に愛想をつかされて殺された人を、気の毒と思うならともかく、あまり過大に評価しすぎるのは、テレビの見過ぎというものです。
●環境が人を規定し、抜け出す答えを用意する
人と風土との関係をもう少し話します。信玄の場合、貧乏な国だったから戦国大名としてはかなりシビアに対外戦争をし、武威を示さないとならなかった。その際にあんまり強引に推し進めると、父のように家臣の反目にあう。これが理解できていた。である以上、古くからの家臣を重用し、育てていくだけでも十分に「最強の武田軍団」が形成できた。
一方信長は、人間関係の機微が理解できない人だったから、家中をうまくまとめられない。信虎と同じようなパターンに陥ったのを、地縁とは関係ない外部の人間を大量に雇い入れることで対応した。それがご存じの秀吉であり、明智光秀であり、滝川一益らであったわけです。信長の人材登用は能力主義だったとよく評価されますが、それは自分の性格的な欠陥に由来した、止むに止まれぬ事情が背景にあったことは理解できるかと思います。能力主義の採用を発想した点は評価できるにせよ、です。
このように見ていくと、人を見る際に「何をしたか」で評価することが結構危ういことがわかるはずです。要は必要は発明の母ではないですが、自分の与えられた環境と自分自身の生来の性格とが、その人の生きる道をほぼ9割以上規定している。その規定のなかで、その状況から抜け出すためのいくつかの答えが用意されている(後世の人間にはそれがある程度見えるが、その時代を生きる人は答えがあるということすらなかなかわからない)。いずれにせよ、答えを見つけた人は先に進める。しかし克服できない環境的、あるいは性格的な障害が残ったままだと、それがどこかで足をひっぱる格好になる。
信長を「何をした人か」で評価する従来の見方が間違っているわけではありません。しかしその評価の方法は時代や国などによって変わりうるものです。事実と評価を混同させてしまうと一つの固定観念ができあがります。作家の明石散人氏によると、信長が現在のように評価されるようになったのは、戦後からだそうです。映画などで萬屋錦之助らのスターが信長を演じたことで、それが一つのイメージとして人々の意識に植えつけられた点が大きいと言っています。確かにそういう面はあるでしょう。
信玄はそうした信長を中心とした視点のなかで、古い権威の最大の象徴のように位置付けられ、信長との対比抜きには語られにくい存在になってしまった。しかし考えてください。従来の信玄は、上杉謙信と対比されることで、その人物像が浮き彫りにされてきたのです。信玄×謙信という図式は「古い」んでしょうか? 一度「信長は凄い」という前提を取り払って、この二人を見つめ直したらどうでしょう? そうすると、もっと生の人物像が見えてくると思います。そしてそのほうがオーソドックスで堅実な物の見方なのです。オーソドックスを見失うと、多くのことが同時に見失われます。
●ポテンシャルを高めるためのライバル
謙信の話が出てきたので、彼との関係についてまず見ていきましょう。信玄が戦国時代屈指のレベルのリーダーであったことは改めて理解できたと思いますが、信玄の凄さというのは総合力の凄さというか、穴のない凄さであったようです。つまりべた褒めするわけではないですが、軍人としても、政治家としても、経済家としても同時代のなかで相当レベルが高かった。ぼくの印象では頭脳の緻密さを感じます。でも、この世界は面白いもので、こういう人のまわりに限って、その完璧主義を崩すようなライバルが現れる。それが謙信だったわけです。
謙信はぼくの印象では、第一にエキセントリックな人です。信玄のような常識の王道を行く発想はしない。たとえば彼は、よく知られているように、あの時代の一級レベルの武将には珍しく人助けばかりしている。信濃の豪族が信玄に追われ亡命してくると、ケシカランと保護し、有名な川中島の合戦を始める。関東管領の上杉氏が北条氏に追われるとこれも保護し、しかも有名無実と化していた管領の職まで受け継いで、北条氏と戦を始める。こうした発想で戦争をし、しかも神憑かり的なリーダーシップで家中をまとめてしまうような人間は、他にそうそう見当たらないわけで、信玄にとっては最も理解しがたい存在だったはずです。生き方そのものが彼の「成功の法則」から外れていたわけですから。
謙信の出現によって、快進撃を続けていた信玄は、事実上、信濃の地でかなりの足止めを食らいました。作家の半藤一利氏などは、信玄は謙信との名人戦にとらわれるあまり国内の大局を見失ったと否定的に評していますが、むろんこの見方がすべてではありません。単純に言って、人間としての信玄のレベルを上げるためには、謙信という異質の存在は不可欠です。領土とか政策とか目に見えるものではありませんが、謙信との戦いを通じて彼はポテンシャルを飛躍させました。川中島の合戦に後世の人が心を引かれたのも、そこに人間としてのレベルの高いギリギリの攻防が読み取れるからです。たびたびの対比で少し心苦しいけれども、信長にはこうしたポテンシャルを飛躍させるような対決なり出会いなりが非常に少なく感じるのです。
近代の歴史学というものは、人間的な成長などというものはどこかで講談で取り上げるような話だと思っているらしく、史料重視、結果重視の歴史観がずいぶん幅を利かせています。でも、それでは結果として「勝者」しか評価はできないのです。しかもその勝者というのは定義が曖昧です。信長は家臣に殺されています。勝者かどうかはわかりません。なのに誰が決めたのか、勝者としての扱いを受けている。信玄はそのあおりを食らって?敗者のように描かれている。講談の世界は確かに学問的な面では誇張や虚飾が多いと思いますが、人間のポテンシャルを見るという点では必要な史料にもなりえるのです。
●後継者としての徳川家康
さて、謙信との対決を人生のピークとし、信玄の戦国武将としてのポテンシャルは大きく飛躍します。特に今川が没落し、北条が代替わりで勢いを落とすと、東国一の大名として恐れられるようになります。事実上、実力日本一といった評価だったでしょう。しかしこの評価は同時代にものだけに留まりません。意外と知られていませんが、後世にも非常に大きな影響を残しました。
このことを語る上で登場するのは徳川家康です。ご存じ260余年の繁栄を築いた江戸幕府の創始者ですが、彼は信玄が信長打倒のために挙兵した晩年の上洛戦において、信長の同盟軍の立場から激突し、大惨敗を喫します。三方原の合戦のことですが、家康は噂どりの信玄の実力を体感し、極限の恐怖を味わったといいます。あまりの衝撃を忘れないよう合戦直後の憔悴した自分を絵に描かせたりしているほど。このへんの話はよく知られているわけですが……、信玄と家康を比べると、ぼくは家康が信玄Jr、つまり信玄の事実上の後継者のように思えてなりません。家康の非凡さは極限を味わった信玄との一戦のなかで、恐怖だけでなく、彼のポテンシャルの大きさをも肌身で感じ、理解できたのではないかということです。
信玄の遺産を受け継ぐことで、自分自身が大きくなれる。事実、彼は本能寺の変のどさくさの間際に甲斐と信濃を攻略し、武田家の遺臣を大量に雇い入れます。信玄の軍略、政略を彼らから学び、手本にしたことは明らかです。盟友関係にあった信長に対しては、むろんそのような態度はとってはいないわけです。やや想像力を豊かにすれば、病のため上洛途上で無念の死を遂げた信玄の遺志は、時を経て、形を変え、家康の天下通りという形で実現した。どうですか? 飛躍しすぎだなんて思いますか?
●江戸再評価は信玄の再評価につながる
最近、江戸時代が再評価されています。つまり近代の歴史学のなかでは、明治時代以降の歴史が正しいという前提があったので、江戸時代は「遅れていた」「人々は抑圧されていた」などと捉えられていたわけです。ぼくが小学校の時に読んだ学校の教科書なども、そんな論調だったように思います。でも、そんな近代絶対主義みたいな感覚そのものが見直され、日本文化の一つの集大成として、江戸時代も結構いい時代だった、しかも260年余もほとんど戦争がない、世界史的にも奇蹟なくらいの時代だったと、様々な角度から評価されはじめています。実際にその通りだとぼくも思います。
でも、江戸時代が評価されるのなら、創始者の家康もその視点から評価されてしかるべき。そして家康が評価されるのなら、彼が手本としていた事実上の師匠筋である信玄への評価も同様。信玄が長生きして信長を滅ぼしていたら、時代が逆行していた? 信長の歴史的な価値ももちろんありますが、でも武田幕府というのは質的に見れば江戸幕府であるわけです。信長の歴史的な役割もあったわけですから、ある意味で信玄の死は必然であったわけですが、だからといって彼を信長の敵役のようにだけ捉えるのは筋が合いません。ならば江戸時代の再評価も否定したらいいでしょう。
物事はある程度引いた目で、相対的に捉えることで、バランスが取れる。言ってみれば当たり前のことだけど、意外にできていない。武田信玄という巨人を見つめ直してみることで、自分の視点が自然と矯正していけるはずです。そして現在当たり前のように疑われない「評価」というものの正体も、必ずしも絶対のものでないとわかるのではないでしょうか? 埋もれた人間はこんな理解の先に蘇ってくるのです。