2004年08月19日
武田信玄という「遺産」
●なぜ武田信玄がテーマになるのか?
なぜいまさら武田信玄なのか? そう思う人も多いかもしれない。確かに戦国武将としてはずば抜けた存在。でも、古い教養に縛られていた、長生きして天下を取っても、室町幕府の二の舞いだった。なんて一般にも思われている。そうだろうか?
そう思う人の感覚の背景には、ぼくに言わせれば、織田信長に対する過大な評価がひそんでいる。あくまで信長と比較して信玄を古いと言っているわけです。でもこの比較自体、どこまで有効なのか? 意味があるのか? ほとんど疑問も持たれないままに定着している感があるが、ちょっとこれを切り崩してみると、なかなか面白い信玄像が浮かび上がってくる。というより、それが彼に対するまっとうな評価だとぼくは思うわけです。
●「人徳」という希有な才能
まず人というのは、環境によって人格が形成される面がとても大きい。加えて、生き方もある程度規定されてくる。これは当たり前過ぎるくらいの事実だが、本当にわかっている人は少ない。どうしても環境や風土を飛び越えて、無視して、人を見ようとしてしまう。その人の業績をその人の才能や能力の結果であると直接捉えてしまうわけです。
ちょっとわかりやすく説明していきます。信玄の場合、甲斐の国(山梨県)の生まれですが、甲斐は貧しい国で主食の米もあまりとれません。彼の家はその貧しい国の守護を代々つとめる家柄だったわけですが、貧しいというだけでなく、家臣や血族とのつながりもバラバラ。このバラバラを武力によってまとめたのは父の信虎です。信玄はこの父を国外追放して実権を握りますが、武力によって貧しさを克服し、家臣団の連携を維持するというやり方そのものは踏襲しました。
とはいえ、このやり方はほとんどの戦国大名がやっていることでもあります。言い換えれば、そういう課題なり、条件なりが乱世のリーダーとして最低限義務付けられていた。ここで言いたいのは、信玄がこの条件をかなり高いレベルでクリアできたということ。暴君として知られた父の生き方を反面教師として見てきたことも大きかったかもしれませんが、簡単に言えば軍事的な強さだけでは駄目、人の心を無視したら反目される。この当たり前の現実を彼は理解していて、自分なりに実践ができた。だから武田二十四将などと言われる有能な家臣団が育った。反面、信長はこれがうまくできませんでした。
人徳などというと綺麗ごとのように聞こえるかもしれないが、これはすべての人が身につけられるわけではない。まあひとつの才能だと考えてください。信玄が一流と言われるのは、これが第一に評価されているからです。一方信長は、信玄の父・信虎と、その点はよく似ている。彼が天才だったから家臣がついてこれなかったのだなどと言うと、あの時代にはむしろ難しいことだった人心収攬の術を会得していた信玄が過小評価されてしまう。家臣に愛想をつかされて殺された人を、気の毒と思うならともかく、あまり過大に評価しすぎるのは、テレビの見過ぎというものです。
●環境が人を規定し、抜け出す答えを用意する
人と風土との関係をもう少し話します。信玄の場合、貧乏な国だったから戦国大名としてはかなりシビアに対外戦争をし、武威を示さないとならなかった。その際にあんまり強引に推し進めると、父のように家臣の反目にあう。これが理解できていた。である以上、古くからの家臣を重用し、育てていくだけでも十分に「最強の武田軍団」が形成できた。
一方信長は、人間関係の機微が理解できない人だったから、家中をうまくまとめられない。信虎と同じようなパターンに陥ったのを、地縁とは関係ない外部の人間を大量に雇い入れることで対応した。それがご存じの秀吉であり、明智光秀であり、滝川一益らであったわけです。信長の人材登用は能力主義だったとよく評価されますが、それは自分の性格的な欠陥に由来した、止むに止まれぬ事情が背景にあったことは理解できるかと思います。能力主義の採用を発想した点は評価できるにせよ、です。
このように見ていくと、人を見る際に「何をしたか」で評価することが結構危ういことがわかるはずです。要は必要は発明の母ではないですが、自分の与えられた環境と自分自身の生来の性格とが、その人の生きる道をほぼ9割以上規定している。その規定のなかで、その状況から抜け出すためのいくつかの答えが用意されている(後世の人間にはそれがある程度見えるが、その時代を生きる人は答えがあるということすらなかなかわからない)。いずれにせよ、答えを見つけた人は先に進める。しかし克服できない環境的、あるいは性格的な障害が残ったままだと、それがどこかで足をひっぱる格好になる。
信長を「何をした人か」で評価する従来の見方が間違っているわけではありません。しかしその評価の方法は時代や国などによって変わりうるものです。事実と評価を混同させてしまうと一つの固定観念ができあがります。作家の明石散人氏によると、信長が現在のように評価されるようになったのは、戦後からだそうです。映画などで萬屋錦之助らのスターが信長を演じたことで、それが一つのイメージとして人々の意識に植えつけられた点が大きいと言っています。確かにそういう面はあるでしょう。
信玄はそうした信長を中心とした視点のなかで、古い権威の最大の象徴のように位置付けられ、信長との対比抜きには語られにくい存在になってしまった。しかし考えてください。従来の信玄は、上杉謙信と対比されることで、その人物像が浮き彫りにされてきたのです。信玄×謙信という図式は「古い」んでしょうか? 一度「信長は凄い」という前提を取り払って、この二人を見つめ直したらどうでしょう? そうすると、もっと生の人物像が見えてくると思います。そしてそのほうがオーソドックスで堅実な物の見方なのです。オーソドックスを見失うと、多くのことが同時に見失われます。
●ポテンシャルを高めるためのライバル
謙信の話が出てきたので、彼との関係についてまず見ていきましょう。信玄が戦国時代屈指のレベルのリーダーであったことは改めて理解できたと思いますが、信玄の凄さというのは総合力の凄さというか、穴のない凄さであったようです。つまりべた褒めするわけではないですが、軍人としても、政治家としても、経済家としても同時代のなかで相当レベルが高かった。ぼくの印象では頭脳の緻密さを感じます。でも、この世界は面白いもので、こういう人のまわりに限って、その完璧主義を崩すようなライバルが現れる。それが謙信だったわけです。
謙信はぼくの印象では、第一にエキセントリックな人です。信玄のような常識の王道を行く発想はしない。たとえば彼は、よく知られているように、あの時代の一級レベルの武将には珍しく人助けばかりしている。信濃の豪族が信玄に追われ亡命してくると、ケシカランと保護し、有名な川中島の合戦を始める。関東管領の上杉氏が北条氏に追われるとこれも保護し、しかも有名無実と化していた管領の職まで受け継いで、北条氏と戦を始める。こうした発想で戦争をし、しかも神憑かり的なリーダーシップで家中をまとめてしまうような人間は、他にそうそう見当たらないわけで、信玄にとっては最も理解しがたい存在だったはずです。生き方そのものが彼の「成功の法則」から外れていたわけですから。
謙信の出現によって、快進撃を続けていた信玄は、事実上、信濃の地でかなりの足止めを食らいました。作家の半藤一利氏などは、信玄は謙信との名人戦にとらわれるあまり国内の大局を見失ったと否定的に評していますが、むろんこの見方がすべてではありません。単純に言って、人間としての信玄のレベルを上げるためには、謙信という異質の存在は不可欠です。領土とか政策とか目に見えるものではありませんが、謙信との戦いを通じて彼はポテンシャルを飛躍させました。川中島の合戦に後世の人が心を引かれたのも、そこに人間としてのレベルの高いギリギリの攻防が読み取れるからです。たびたびの対比で少し心苦しいけれども、信長にはこうしたポテンシャルを飛躍させるような対決なり出会いなりが非常に少なく感じるのです。
近代の歴史学というものは、人間的な成長などというものはどこかで講談で取り上げるような話だと思っているらしく、史料重視、結果重視の歴史観がずいぶん幅を利かせています。でも、それでは結果として「勝者」しか評価はできないのです。しかもその勝者というのは定義が曖昧です。信長は家臣に殺されています。勝者かどうかはわかりません。なのに誰が決めたのか、勝者としての扱いを受けている。信玄はそのあおりを食らって?敗者のように描かれている。講談の世界は確かに学問的な面では誇張や虚飾が多いと思いますが、人間のポテンシャルを見るという点では必要な史料にもなりえるのです。
●後継者としての徳川家康
さて、謙信との対決を人生のピークとし、信玄の戦国武将としてのポテンシャルは大きく飛躍します。特に今川が没落し、北条が代替わりで勢いを落とすと、東国一の大名として恐れられるようになります。事実上、実力日本一といった評価だったでしょう。しかしこの評価は同時代にものだけに留まりません。意外と知られていませんが、後世にも非常に大きな影響を残しました。
このことを語る上で登場するのは徳川家康です。ご存じ260余年の繁栄を築いた江戸幕府の創始者ですが、彼は信玄が信長打倒のために挙兵した晩年の上洛戦において、信長の同盟軍の立場から激突し、大惨敗を喫します。三方原の合戦のことですが、家康は噂どりの信玄の実力を体感し、極限の恐怖を味わったといいます。あまりの衝撃を忘れないよう合戦直後の憔悴した自分を絵に描かせたりしているほど。このへんの話はよく知られているわけですが……、信玄と家康を比べると、ぼくは家康が信玄Jr、つまり信玄の事実上の後継者のように思えてなりません。家康の非凡さは極限を味わった信玄との一戦のなかで、恐怖だけでなく、彼のポテンシャルの大きさをも肌身で感じ、理解できたのではないかということです。
信玄の遺産を受け継ぐことで、自分自身が大きくなれる。事実、彼は本能寺の変のどさくさの間際に甲斐と信濃を攻略し、武田家の遺臣を大量に雇い入れます。信玄の軍略、政略を彼らから学び、手本にしたことは明らかです。盟友関係にあった信長に対しては、むろんそのような態度はとってはいないわけです。やや想像力を豊かにすれば、病のため上洛途上で無念の死を遂げた信玄の遺志は、時を経て、形を変え、家康の天下通りという形で実現した。どうですか? 飛躍しすぎだなんて思いますか?
●江戸再評価は信玄の再評価につながる
最近、江戸時代が再評価されています。つまり近代の歴史学のなかでは、明治時代以降の歴史が正しいという前提があったので、江戸時代は「遅れていた」「人々は抑圧されていた」などと捉えられていたわけです。ぼくが小学校の時に読んだ学校の教科書なども、そんな論調だったように思います。でも、そんな近代絶対主義みたいな感覚そのものが見直され、日本文化の一つの集大成として、江戸時代も結構いい時代だった、しかも260年余もほとんど戦争がない、世界史的にも奇蹟なくらいの時代だったと、様々な角度から評価されはじめています。実際にその通りだとぼくも思います。
でも、江戸時代が評価されるのなら、創始者の家康もその視点から評価されてしかるべき。そして家康が評価されるのなら、彼が手本としていた事実上の師匠筋である信玄への評価も同様。信玄が長生きして信長を滅ぼしていたら、時代が逆行していた? 信長の歴史的な価値ももちろんありますが、でも武田幕府というのは質的に見れば江戸幕府であるわけです。信長の歴史的な役割もあったわけですから、ある意味で信玄の死は必然であったわけですが、だからといって彼を信長の敵役のようにだけ捉えるのは筋が合いません。ならば江戸時代の再評価も否定したらいいでしょう。
物事はある程度引いた目で、相対的に捉えることで、バランスが取れる。言ってみれば当たり前のことだけど、意外にできていない。武田信玄という巨人を見つめ直してみることで、自分の視点が自然と矯正していけるはずです。そして現在当たり前のように疑われない「評価」というものの正体も、必ずしも絶対のものでないとわかるのではないでしょうか? 埋もれた人間はこんな理解の先に蘇ってくるのです。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年08月19日 10:28