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2004年08月21日

新撰組は面白い

●魅力は「敗者の美学」にあらず

 三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新撰組!」の評判が結構いい。ぼくもずっと仕事が忙しくて見れなかったが、6月くらいから時間が作れるようになり、最近では毎週見ている。確かに面白い。最初から見ていればと少し後悔している。ここではドラマを離れて、歴史上の新撰組について、ぼくなりの視点からつづってみたいと思う。

 まずやはり、定説を疑ってみることから始めてみよう。新撰組というのは後世の我々から見ると、「敗者」のポジションに位置している。時代の趨勢を見抜く眼がなく、ひたすら幕府に忠義を尽くした結果、時代の徒花となってしまった存在……、要するに(ドラマでもそうだが)坂本竜馬あたりの先見性と対比させながら、彼らの思想の古さが指摘されている。まあ、それはまったく外れてはいないだろう。竜馬にそうした眼があったことも間違いでないかもしれない。

 しかし単純な話、「武田信玄」のところでも書いたが、その人の人生というのもは生まれ育った環境や本人の生来の性格に大きく規定されている。運命論ではないが、環境や性格の呪縛から人は逃れられない。逃れられると思って抵抗しても、それは生涯ついてまわる。でもそれは不自由なことでは必ずしもないというのが、ぼくの感覚。逃れられない代わりに逆に受け入れてしまうと、その途端に「らしさ」が発揮できるようになる。人生にはそうした救いのツボが用意されている。だから新撰組に魅力があるとしたら、それは簡単に「敗者の美学」などと表現してしまわず、彼らは彼らなりに自分たちの運命を受け入れ、「らしさ」を形にすることができたと捉えたほうがいい。それは一つの成功だし、そのありようが後世にも伝わってくるから、ドラマにもなりうるわけである。
 

●「サムライ」というキーワード

 では、新撰組の中心メンバーの意識を規定していたものは何だったか? それは自分たちが「多摩の百姓」であるということだったと、ぼくも思っている。彼らは長州藩士でも土佐藩士でも、幕府の旗本でもなかった。仮にぼくが「多摩の百姓」に生まれたとしても、やはり佐幕的な意識はかなり強く養われたと思う。そしてその意識をベースにして自分の人生、身の振り方を考える。たとえ幕府の行く末を見限るとしても、ではどう見限るのか、そこでの出処進退が問われてくる。どこで生まれ育ったかが自分の生き方を規定するが、自分の価値までは規定されない。価値は結局ふるまい方で決まってくる。これを誤解している人が多い。

 これも単純な話、その出処進退のなかで「卑怯なふるまい」、「ずるいふるまい」をしたら、それがその人の評価になる。殺されないで維新後に要職にありつけたとしても、そういう人間は残念だけれど魅力的には映らない。そこらへんが人生の奥深いところだし、敗者も勝者も平等に扱われる歴史の面白いところだ。である以上問題となってくるのは、新撰組はその規定された運命の中で、どんなふるまい方をしたのか? あるいは、そのふるまい方の根底にどんな理想がひそんでいたのか? つまり彼らは何を規範にして、自分たちの生き方を模索したのか? そんなことが気になってくるわけである。

 彼らの規範となっていたのは、サムライというキーワードに集約される。サムライというのは、ある意味で日本人の歴史上最大級の発明品であったわけで、それは実際の武士階級を指す言葉というより、日本人の価値観や憧れを表す観念用語のようなものと思ったほうがいい。その観念用語が幕末にもなると「多摩の百姓」の意識のなかにまで及んでいたわけである。

 これに関連して、少し面白い話をしよう。観念と書いたが馬鹿にしてはいけない。たとえば人が牢獄に閉じ込められたとしたら、行動が制約される分、まずなによりも観念が発達する(発達しない人は気がヘンになる)。この譬えではピンと来ないかもしれないが、要するに江戸時代というのは武士階級にとって、本来の活躍できる場=戦場がほとんど無くなってしまった以上、牢獄に閉じ込められたような時代に等しかった。もちろん、牢獄と言っても一応身分は保証されているし、食事もとれるし、恋もできる。人生はそれなりに楽しめるから、閉じ込められているなんて感じたのはごく限られた一部だったかもしれない。しかし実際にそう感じていた人はいた。ひとたび真面目に考えれば、「平時の武士」という身分ほど、自分の存在証明が危うくなる存在はないからだ。
 

●「大石内蔵助」の先に「近藤勇」がいる
 
 その名の通りの「サムライ」という本のなかでも書いたことだけれど、サムライが人の生き方を規定する観念にまで昇華したのは、やはり江戸時代の260年にあったとぼくは思う。戦時ではなく平時であったからこそ、サムライらしい生き方がことさらに意識され、憧憬され、学問的にも扱われ、その結果、日本の隅々にまで「サムライ=凄いもの」という価値が広まった。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、このサムライ観念を観念としてではなく、実際に形に表した人たちがいるということで驚かれ、注目を集めた。「忠臣蔵」の名のもとに一つのドラマに仕立て上げられ、後世に伝わることとなった。

 少し余談になるが、ぼくは討ち入りの首謀者・大石内蔵助が結構好きだ。彼は伝わるところによると相当にとぼけた人だったみたいで、サムライという観念を心のなかで意識していても、そんなことはおくびにも出さないどこか隠者みたいな感覚を持っていた。だからあんな松の廊下事件みたいなものがなければ、ヘンな話、彼の正体?は一生気づかれないままだったろうし、当の彼自身、それを別に不満に思うような人ではなかっただろう。

 ただどういう因果か、彼の中のサムライが試される事態に巻き込まれ、彼はそのなかで高いレベルの答えを出した。すなわち、ただ憤慨して仇討ちを果たそうなんて思ったわけではなく、その機会を通じて「自分が何を伝えられるか」を考えたのが大石の凄み。そんな感覚のスマートさ、飄々とした意識のありようがぼくは好きであるわけだ。

 まあ、彼の話はこれくらいにして、新撰組の話を続けよう。忠臣蔵は江戸時代中期の出来事だったが、新撰組の登場するのはさらに後世、100年以上ものちの幕末のこと。繰り返すが、彼らの時代ともなると大石が示したようなサムライ感覚は、武士階級を飛び越えて「多摩の百姓」にまで波及していた。要するに、男の子の憧れとして身分階級を問わず「立派なお侍さん」のイメージがかなり強く定着していた。歴とした身分のなかった近藤勇や土方歳三らにすれば、自分たちの「らしさ」を発揮するためには、この憧れがとても重要だった。それはまさに、拠り所としてなくてはならないもの、命に代えても守らなければならないもの。日本の歴史のなかで育まれた一つのリアルな観念が、広くあの時代の人々の価値観を規定していたわけである。
 

●「尊王攘夷」は馬鹿げていたのか?

 さて、こうした新撰組をはじめとするサムライたちの最大の関心事は、「尊王攘夷」という言葉に集約されていたことはご存じだろう。尊王とは皇室を尊ぶこと、攘夷とは黒船=外国の勢力を追い払うこと。でもこれは相当に単純な直訳で、テストでは点は取れても?当時の実情はわからない。尊王は日本人が黒船に接しアイデンティティに目覚めた時、自分たちの国がどんなシステムで成り立っているか初めて理解できたことを意味している。日本は一番大事なものがつねにベールに隠されている。天皇という権力そのものは有名無実でも、仕組みから見れば国主であり、将軍家は国主に任命されて国を守っているという立場になる。

 平和な時はほとんど議論にもならなかったが、黒船という実際の危機が迫った時、徳川将軍家は戦わなければアイデンティティが保てないシステム上の立場が浮き彫りになった。戦えませんと言ったら、「将軍=指揮官」なのだから自己否定になる。智者ならばこれが幕府のアキレス腱であったことに気づいただろう。当の幕府にしても、戦えないなどとは口が裂けても言えないから、結果、政策も制約されてくる。この難しい舵取りの中で、それでも開国した幕府がいかに理性的だったか、逆にわかるはずだ。たとえばお隣の朝鮮(李氏朝鮮)や中国(清国)は、それが十分認識できなかった。だから近代化の波に乗れなかった。

 よく攘夷思想を野蛮だ、非現実的だと、あの時代を覆った一種のヒステリー現象のように捉えたがる人がいるが、これも後世の人間が陥りがちな傲慢さの現れとぼくは思う。当時の実情を考えたらこれは当然沸き上がる「感情」。病気のように言ってしまったらあの時代の人たちの危機感が見えなくなる。誤解されがちだが、攘夷思想もじつは相当に理性的な側面があった。なぜなら欧米列強は実際に「野蛮な侵略者」であり、アヘン戦争のあまりに無茶苦茶な実態などは、当時の知識人を中心にかなり具体的に伝わっていた。そこまで詳しくは知らない庶民でも、平和親善のために彼らがやって来たなどとおめでたいことを考えるはずがない。

 繰り返すが、幕府はそれにも関わらず開国政策を敷いた。それでまず国を強くしようとした。一方、反幕府の長州藩などは国民感情をベースに半ば意図して攘夷を迫った。攘夷を迫ることは狂気でもあるが、その狂気の中でこそ人は目覚める。西郷隆盛などはそれをかなり自覚していたようだ。まさに時代の子。要は新撰組は、いわばアイデンティティ論争のなかでその一方に組みしていた。といっても、精神としての攘夷はサムライだから持ち合わせている。そしてそれは時代認識から見れば、別に錯誤ではない。そうなってくれば彼らのことを時代を見る眼がなかったとか、そうした観点から「敗者の美学」で描くのは非常に表層的となる。


●「公武合体」という日本的な発想

 時代が幕末から明治へと移り変わった背景には、もう少し高度な応酬が存在している。そのことは「徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男」の稿で触れるとして、ここではもう一つ、面白い指摘をしておこう。新撰組の面々は、近藤も土方もみな「多摩の百姓」であるから、徳川将軍家には当然強い忠誠心がある。しかしだからといって、天子様(天皇)に何か恨みがあるわけではない。天子様を担ごうとした長州藩は憎っくき敵だが、尊皇意識もまた当然のことながら持っている。これは当時生きていた日本人からすれば、ある意味ごく平均的で、きわめてまっとうな感覚。この世論を背景にして生まれたのが、「公武合体」という発想(ないし政策)である。
 

「公武合体」って、本当に日本人的な発想だなとつくづく思う。幕府×長州といった対立概念は確かにあるが、突き詰めるとどちらも「公=朝廷」は大切だと思っている。というより否定する理由が発想のなかにない。欧米列強や中国の感覚からすれば、そんな朝廷だなんて力を失った段階で価値は失ったと思うだろうし、現に滅ぼされていただろう。しかしどの時代を切り取っても天皇家そのものを無くしてしまおうとは誰も考えなかった(乗っ取ろうとしたケースはあるが)。

 幕末においても、長州は基本的に天下の少数勢力だから、日本人の多くは朝廷(公)と幕府と(武)が仲良くすれば問題は解決すると感じていた。坂本竜馬などはそうあるべきだと積極的に画策していたし、戦争と言えばイコール攘夷だった。その課題は実際にも、明治政府が引き継いでいる。策士であった土方の眼が特別曇っていたわけではない。竜馬にしてもギリギリのところで暗殺され、誰もが予想しなかった「王政復古のクーデター」が起こっている。このへんの情勢は複雑だ。勝ち負けや善悪の境界を超えている。勝者と敗者は単純に分けられない。いずれにしても日本は世界史的に見ると、きわめて不思議な原理のなかで動いている。新撰組もまたその不思議な歴史の中である一定の役を演じ、そのなかで自分たちの「らしさ」を残したのだと見たほうがいい。
 

●「思い通りにならない」ことは不幸?

 とはいえ、以上は俯瞰した見方であって、個々の新撰組隊士たちからすればやはり敗北感はあっただろう。たとえばぼくなりに「もし自分が新撰組の一員だったら?」と想像したら、おそらくもう、あまりに思い通りにいかないことの連続で、ドロドロしていて、不満と不安だらけで……、表面だけなぞってカッコイイなどと言われても確かに違うと思うだろう。でも、その点をふまえてさらに想像を働かせるなら、そんな「思い通りにいかないことの連続」はじつは勝者も敗者も等しく味わっている現実とも言える。単純な話、彼らを「かわいそう」と言ってしまえば、自分もまたそうした「かわいそう」な一員になる。

 しかしそれは捉え方の一つに過ぎない。現実問題として、思い通りにならないから不幸だとか不自由だとは、必ずしも言えない。ぼくが「敗者の美学」という言葉に終始一貫して引っ掛かるのはこの点で、要は当たり前のことだが、ジャイアンツの選手であろうが身売り寸前?とも言われるオリックスの選手であろうが、「らしさ」を発揮できるかどうかはその選手次第。この当たり前の目から見れば、新撰組は思想・発想に関わりなく、やはり魅力的で、それゆえに歴史に名前が残ったのだとわかってくる。その魅力についてはドラマでも書籍でも存分に書かれているので、ここでは特に取りあげはしません。

 要は、使い古されたキャッチフレーズに惑わされずに物事は見たほうが、余計な前提条件もなく、いいものはいいと素直に思える。キャッチフレーズは往々にしてレッテルに変わるし、人はどうしても善悪の二分法が好きだから、常にこのことは自覚しておいたほうがいい。土方歳三の霊?がたとえ人生を呪っていたとしても、後世に生きる「神」の立場にいるわれわれは、逆に彼に「そうでもなかったはずですよ」と言ってあげられる。このことに気づいたほうが、もっと鮮明にありのままの歴史が見えてくる。

投稿者 長沼敬憲 : 2004年08月21日 16:50

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