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2004年09月15日

西郷と征韓論〜背負った「十字架」の行方

●西郷はただの「没落者」なのか?

 今回は「徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男」のいわば続編。

 前回、日本の変革期の一つとして黒船来航(1853年)から西南戦争(1877年)までの20数年を一括りできると書きましたが、そのなかの主役の一人、徳川慶喜は前半のクライマックスで「不戦」というメッセージを残し、歴史の表舞台から姿を消す。このメッセージを結果として真正面から受け取ったのが、もう一人の主役、西郷隆盛。慶喜の「敵前逃亡」が、巡り巡って「勝者」であった西郷の没落(西南戦争での敗死)につながる……。

 よく語られているように、明治維新以降の政局は幕末期の業を背負った西郷と、新しい時代を切り開く意思を体現した盟友・大久保利通の、宿命的な「新旧対決」によって幕を開きます。大久保は、日本の封建時代のシステムをいちど総否定し、列強に対抗できうる文明力をつけるためのあらゆる改革に乗り出した人物。古いものを切り捨て新しいものを取り入れるには、自分自身の「情」をまず切り捨てる覚悟が必要ですが、慶喜と同様、彼はそれができる男でした。つまり、立場と境遇が違うだけで、非常によく似たタイプ。要は「敵」の姿が入れ代わり、しかも西郷にとってはそれが無二の親友だった分、苦悩は深化していきます。

 西郷という人物は、一言で表すなら、典型的な日本人。何がどう典型的かと言うと、良きにつけ悪しきにつけ、封建社会の体現者なのです。というと、ナーンダ、要するに古い観念に縛られていた人だったのかと思うかもしれませんが、ここまでぼくの作品を読んできた人ならば気づくはずです。古い=悪というのもただの決めつけ、価値観の一つに過ぎないということを。これがわからないと、やはり西郷もわかりません。「近代」という視点から見てしまえば、彼はただの巨大な没落者になってしまいます。
 

●「封建主義」を体現していた西郷

 西郷は確かに日本史では比類ないほどの巨大な「没落者」でしたが、巨大さゆえに現代のわれわれにも処理しきれない大きなメッセージを残しています。よく明治維新までの西郷は希代の戦略家、政略家として評価できるが、維新後は生彩を欠き、かつての輝きを失ってしまったなんて言われてますね。これは本当でしょうか? 筆者の目から見れば、西郷には西郷の理想が確固としてあり、それを政策にどう反映させるかに腐心した形跡が濃厚にある。彼の理想は大きすぎたので、当然思う通りにはいかなかったわけですが、それでも「無策」だったわけではないのです。

 まず西郷の「策」を理解するため、彼の行動を規定していた「情」の論理について話を進めていきましょう。この「情」の論理とは、すなわち封建社会の基礎にある価値観、日本人が長い歴史のなかで醸成してきた「和の精神」の結晶と考えてください。濃淡はあっても、西郷の時代、志を持っている者なら少なからず持ち合わせていた観念です。封建社会=和の社会の一完成形。これ、理解できますか?  この価値観をベースにして、それが欠落している欧米列強に対して「攘夷」を叫んだのです。盲目的な面ももちろんあったと思いますが、ただそれだけの感情で外国人を排除しようとしたわけではないわけです。

 西郷は列強に対抗できる政治体制を築くため、確かに幕府を倒した。しかし、この封建的な価値観まで否定していたわけではない。というより、それを見失ったら国は滅びると誰よりも強く危機感を持っていた。問題は、そうでありながら西郷自身、幕府を滅ぼすために主家である島津家を、事実上、裏切っているということ。しかも政略や戦略は編み出したが、資金や兵力はすべて島津家の持ち出し。それに「恩返し」ができたわけでもない。
 彼は主筋にあたる藩父・久光を嫌ってはいましたが、その久光を頼らないと何もできない自分の立場に相当な負い目も感じていた。そして、自分が倫理に反している=「不忠」であるとも思っていた。……このあたりの心情は、封建社会の「情」の論理をふまえないと、なかなか明確に読み取ることはできません。
 

●改革は「自己否定」であるということ

 西郷は維新後、官職にもつかず鹿児島に帰ってしまいます。知らない人は意外に感じるかもしれませんが、「維新の三傑」などと言われながら、71(明治4)年になるまで政府の上京出仕の催促を再三断っているのです。なぜか? 簡単に言えば、これから自分は何のために頑張ればいいのか? 肝心のことがわからなくなっていたのだと思います。なにしろ彼は出世欲も金銭欲もない人間です。幕府を倒すまでは「敵」が見えていたから頑張れました。最後の最後で姿をくらましてしまう、つかみどころのない「敵」でしたが、「敵」を支えていたシステムは壊すことができました。しかしそこからどうしたらいいのか……。

 繰り返しますが、彼には島津斉彬という絶対の主君がいた。彼が急死することで余人には想像できない喪失感を味わったと言われますが、幕末の段階では「敵」が存在したのでこの精神的危機に直面はしなかった。しかし自分自身が尽力し、もたらした維新の世では、直面どころか、この主君を戴くという封建社会のシステムそのものが否定されようとしていたわけです。

 そもそも薩摩という国(藩)は、主君を頂点とした上下間の緊張関係を「和」として育み、「強さ」を維持してきた共同体です。西郷もこの共同体によってその器をつくりあげてきた。そこに絶対の自信を持っていた。しかしこの「強さ」のシステムを維持しようとすると、御一新の改革は断行できない。そのカラクリも理解できる。……大仕事を成し遂げた西郷は、それと同時にこの屈折した状況を悟り、アイデンティティの危機、ある種の思考停止に陥ったのだと思います。

 といっても、もちろん現実は待ってくれない。答えの出ないままに、ついには上京し新政府の要人となった西郷は、大久保らとともに早速、廃藩置県を断行します。方々で語られているように「本当によくやったなあ」というほどの大改革です。大久保は、決断力のある優秀な政治家でしたが、でも自分だけではとてもこれを成し遂げられないから西郷を呼んだ。個人としての覚悟はできていても、世間を納得させるには西郷のような大きな「器」が必要だったわけです。

 しかも大久保は、大事を成し遂げたあと、国内の批判を交わすように、政府の主要閣僚と欧米歴訪の長旅に出発してしまいます。結果、旧勢力の圧力は、留守政府を任された西郷が一切引き受けることになる。事実関係だけ見ると、大久保を「ずるい」と思うかもしれませんが、二人のあうんの呼吸を考えると、これは一種の暗黙の了解だったようにも筆者には思えます。ただまあ、こうした役割分担がある程度見えていたから、西郷は憂鬱になり、なかなか腰を上げなかったわけでしょうが。
 

●大事なものが引き裂かれる「痛み」

 西郷に詳しい猪飼隆明氏(熊本大学教授)が、著書(「西郷隆盛〜西南戦争への道」岩波新書)のなかで面白いことを言っています。苦悩を抱えた西郷は、斉彬に代わる存在としてまだ年若い明治天皇に意識を向けるようになったのだと。

 事実、新政府に復帰した西郷は、折に触れ明治帝に帝王教育を施します。同じく養育にあたった山岡鉄太郎もそうですが、彼らは封建社会の価値観を洋装に身をまとった初めての天皇に全身全霊で伝えた。……て、こういう話をどう思いますか? 西郷は、優秀な官僚だけではいい国はつくれないと考えたのです。彼自身がそうであったように、人は仰ぎ見る存在があるから向上しようとする。

 筆者自身は天皇を仰ぎ見て育ったわけではないですが、西郷の感覚はよくわかります。彼の意識のなかには、郷里としての薩摩があり、島津家があり、自分の血縁があり、家族・兄弟がいたわけです。切っても切り離せないそれらのつながりのなかで、「みんなと一緒に」頑張ってきた。この全部をひっくるめて彼の中の「日本国」なのです。それは普通に「大事だな」と思えるものであるはずですが、明治新政府は革命的とも言えた近代化を断行するにあたり、この「大事だな」をどんどんと切り捨てていく。

 「改革には痛みが伴う」というのは小泉首相の言葉ですが、本当の痛みというのは自分の大事なものが引き裂かれる痛みであるはず。西郷は革命勢力のリーダーに君臨していながら、繊細なくらいにこの痛みを体感し、しかも逃げずにすべてを引き受けようとしていた。彼がことあるごとに死(自殺)を口走るようなエピソードを残しているのも、たぶん本当につらかったからです。こうした情を切り捨て現実の政治に向き合った大久保も、おそらく同種のつらさを体感していた。要するにここらへんが、性格のまったく異なる二人を結びつけていた、たぶん二人だけでしか共有できない「友情」だったのではないか……と思えるのです。
 

●あの時代の「気概」としての征韓論

 さて、こうした簡単に拭えない重荷を背負い込んでしまった西郷のもとに舞い込んできたのが、世論をも巻き込んだ征韓論争です。いろいろな形で論じられていますが、要点のみ言えば、東アジアの緊迫した情勢の中で、日本と同様、朝鮮(李氏朝鮮)も開国を迫られる。しかしこの国にも外国勢力を排撃しようとする攘夷思想が吹き荒れ、日本側(明治政府)の国交樹立の要請にも頑に応じない。

 もともと朝鮮が、一種の偏見として(それを中華思想などとも言うわけですが)、日本を文化的に一段劣った国とみなしてきたのは事実でしょう。その日本で政権交代があり、こともあろうに急激な西欧化が進んでいる。「魂を売り払ってしまった」くらいに思い、さらに軽蔑の度を深めたのは想像できます。よく言われているように、日本にとって朝鮮との「交流」は国防上の問題から不可欠だったわけですが、彼らの感覚からすれば「交流なんて何を生意気な」という話になってしまうわけです。

 また、もう少しミクロな問題としては、日本が送った国書に「皇」「勅」といった言葉が使われていたことに、朝鮮側が態度を硬化させたなんていうこともあるようです。彼らの価値観ではこれらを使えるのは、宗主国である中国(清国)だけですから。冷静になってみればかなりささいな問題ですが、国際問題というのは、案外こんなささいなところから発展していく面があります。実際問題、日本国内でも「朝鮮の非礼」に憤る声があちこちで起こるようになりました。放っておけばいずれ朝鮮が列強の餌食になってしまうという危機感は、ある意味、より多くの情報に接していた日本のほうが強かったかもしれないわけです。

 西郷はこうした「征韓論」の首魁のように見られてきた感がありますが、最近では「どうもそうでもなかったらしい」と言われています。
 確かに西郷は戊辰戦争で爆発しきれなかった武士(士族)のパワーの「使い道」として、対外戦争も有力な手段と捉えていた。しかしこれは西郷の独創ではなく、ひとつの「気概」としてあの時代の志士たちが共有していたものです。できることならこの「気概」を朝鮮とも共有したい。単純な侵略論というより、征韓論の本質はもう少しグローバルなのです。もっとも国家間のやりとりを見る限り、朝鮮はそういうエネルギーのある国でないのかもしれない、そんな「落胆」が広がっていくわけですが……(李氏による朝鮮王朝はすでに400年以上続き、日本の旧幕府以上にシステムは疲弊、硬直化していました)。
 

●国を滅ぼすのはどちらなのか?

 意外と知られてませんが、あの当時の日本にとって、朝鮮という国は現代以上に「近くて遠い国」だったのです(日朝間の「活発な交流」は、古代にでも遡らないかぎり見出せません)。

 である以上、両国のいざこざも誤解に基づいている可能性がある。国交樹立を拒絶した「朝鮮の非礼」は看過できないとしても、実際に話し合えば了解しあえるものかもしれない。西郷が「自分を朝鮮国への全権大使に任命してほしい」と運動を始めたのも、一つはそんな感覚があったからだと筆者は思います。なにしろ警護の兵も引き連れず、単身で乗り込み、朝鮮国政府と直談判すると言うわけです。それで殺されるようなことがあったら戦争を始めればいいと、強硬派をなだめ?ます。

 彼のこの主張にはいろいろな意味が見出せると思います。一つは、よく言われていることですが、彼が実際に死にたがっていたということ。しかし簡単に死ねる立場ではないから(無意味に自殺などしたら、それこそ日本国の浮沈に関わります)、死ぬなら「意味ある死」を選ぶ必要がある。といっても、突き詰めればこれは個人的な欲でしかありません。ただ死所を求めるために征韓論を利用するような人間であったなら、おそらく彼は日本を代表するような「器」にはなりえなかったでしょう。

 要するに彼にとってのポイントは、「朝鮮の非礼」が本当なのかどうか? ということ。反対派はそんなことよりも国力を充実させることのほうが大事だ、第一戦争をする金などないと主張しますが、西郷に言わせれば「その感覚が国を駄目にする第一歩だ」ということになる。戦争するかどうかは二の次。筋を通さずに効率ばかり優先していけば、表面上は発展するかもしれないが、見えないツケはどんどん溜っていく。国を滅ぼすのはどっちなのだと言いたかったのだと思います。


 ●西郷が日朝関係を好転させた可能性
 
 理想論のように聞こえるかもしれませんが、西郷にはこの理想によって幕末の混沌を打開させてきた実績があります。たとえば、前回もふれた有名な「江戸城無血開城」にしても、司令官であった彼の当初の方針は「前将軍慶喜の切腹」でした。しかし慶喜が恭順し、しかも徹底的に「不戦」を宣言したことで、旧幕府側の全権・勝海舟の申し出をあっさり受け入れます。

 筋さえ通っていれば、黒を簡単に白にも変えてしまえるのが、西郷という人間の度量であり、柔軟さです。好き嫌いの感情は人一倍強いにも関わらず、それに簡単には流されない。西郷と対面した人間は、そうした西郷の「器の大きさ」に心を打たれます。戦争を必要悪と認めながら、彼の根底にあったのは「和の精神」だったことが見えてくるはずです。

 その意味では、死を覚悟した朝鮮との単独交渉も、実現したら「成功」した可能性があります。というより、それができなかったから、その後の日朝関係がもつれたのだとも言うこともできる。それくらいの岐路だったし、西郷には「これができるのは自分しかいない」という意識があったから、必死で志願した。しかし、大久保にすればそれはハッキリ「ノー」でした。欧米への視察旅行を途中で切り上げ急いで帰国すると、彼はあの手のこの手で親友・西郷の運動を阻止にかかります。

 理性的に見ると、大久保の反対論のほうが現実的(合理的)で、リスクの少ない判断のように思えるかもしれません。しかし大久保は現実的すぎる現実論を主張することで、結果として日本人の精神的なものを置き去りにする道を選んだのです。生き残るための苦渋の決断……、確かにそうも言えるわけですが、どちらにしても究極の選択であったことがわかるのではないでしょうか。
 

●慶喜と同じ課題に直面した西郷

 お互いの政治生命を賭けた征韓論争は、日本史上稀に見る「攻防」の結果、西郷の敗北となり、失意の彼は新政府を去ります。もちろん、自分が背負い込んできた問題は何一つ解決されないままに、です。言ってみれば、朝鮮に向けられていた対立構造が、そのまま国内に転写されたの形になりました。国内問題なのだから他国(朝鮮)を巻き込むのはよくないという「理性的な意見」もあるでしょうが、問題を国内に凝縮させてしまった結果起きたのが、一連の士族の反乱です。当時の為政者の立場から考えれば、国内で無用なエネルギーが浪費され、有為な人材を失ったという判断にもなりえます。

 在野の巨大勢力になった西郷にしても、起死回生の「征韓論」に敗れた以上、もはや打つ手ナシという感覚だったでしょう。鹿児島に帰った西郷は、なるべく人に合うのを避け、大好きな犬と狩猟ばかりしていたようです。記録は断片的にしか残っていませんが、それこそいろんなことを考えたと思います。しかし、「征韓論」以上のいいアイデアは浮かばなかったと思います。

 なにしろ仮に決起し、政府に勝ったとしても、大久保という有能な人間(+彼を支持する政治家、官僚たち)が殺されるだけなのです。「征韓論」に敗れたことで、彼の中に見えていた政治的展望は消えてしまっています。その先の絵がはっきり描けないわけです。……と、ここで思い出しませんか? 西郷ら新政府軍に対し「敵前逃亡」した慶喜のことを。彼にしても同じでした。個人の欲で言えば、負けるより勝つほうがいい。しかし勝っても犠牲が出るだけで、他に何の意味も見出せないから(どう考えてもそういう結論しか出ないから)、逃げに逃げたのです。ライバルだった西郷にも、このとき同じ課題が突き付けられたわけです。


●西郷の「復活」はあるのか?

 決起した西郷が、異様なまでに無策だったのも、感覚としては慶喜と同じ判断力を持っていたからだと筆者は思うのです。彼に「私利私欲」があり、政権奪取を目論んでいたなら、もっと綿密に作戦を立て、時を選んで立ち上がっていた。しかし、改めて彼の生涯を振り返ると、彼にはそういう野望はまったくと言っていいほど見られません。感情の量が多いから欲望も多いように思うかもしれませんが、不思議なくらい「清廉潔白」なわけです。しかも、「敵」である大久保も体質的には同じなのです。

 きれいすぎる話に感じますか? でも、封建社会のなかできちんと教育を受けていれば、その必然として、こんなふうな「立派な人間」も出てくる。だから征韓論をめぐる二人の争いというのは、相当レベルが高いのです。二人とも平均値よりもずっと上の道徳観をごく普通に身につけていて、その上で「朝鮮の対応は非礼だから見過ごせない」「いや、大目に見ればいいではないか。国力をつけることのほうが先だ」とやっていた。一流のサムライが政治をやったらこうなるというものを見せていたわけです。

 西南戦争における西郷の無策ぶりはその通りだとしても、後世から見るならば、薩摩人の異様なまでの勇敢さは逆に際立ったわけで、戦記をたどっていくと一種独特の「感動」に出くわします。何なんだろう、この人たちっていう。「無意味な戦い」を通じて、封建社会の美徳、サムライとしての矜持といったものが、結果としてすべてさらけだされている。西郷はこうしたサムライたちの生命も何もかもすべて背負って、彼らと一緒に時代の幕引きをした。

 民主主義も資本主義も、大きな曲り角に来ているこの時代。十字架を背負って殉死した西郷が「復活」するのは、まさにいまなのかもしれません。主義以前に、「当たり前のことを思い出す」段階に来ているわけですから。

投稿者 長沼敬憲 : 2004年09月15日 16:45

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