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2004年09月10日
徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男
●オーソドックスな眼で歴史を見る
前回は新撰組のことについてあれこれ書いてみたが、彼らは決して幕末の主役ではない。もちろん主役であるかどうかと、魅力があるかどうかは必ずしもイコールではないわけで、言ってみればどんなキャストにも役割がある。そんなことを前回話した。ただ、あんまりこれを強調しすぎると、今度は主役の存在がかすんでしまう(見失ってしまう)から困ったものだ。
特に日本の歴史では、主役の存在がわかりにくい側面がある。ピンと来ない人も多いかもしれないが、それは主役の力が弱いからではなく、むしろ強すぎて、逆に見えなくなっている(理解されにくくなっている)というものであると筆者は思っている。結果として脇役にばかりスポットが当たる。脇役が主役のようにみなされて、歴史を見る目がどんどんいびつになっていく。
この点については、2册目の著書である「脳を超えてハラで生きる」のなかでも触れている。簡単に言ってしまえば、多士済々の幕末の人物のなかでも、主役と呼ぶことのできるのはただ二人、徳川慶喜と西郷隆盛であるということ。坂本竜馬でも高杉晋作でも新撰組でもない。個々の人物に魅力を感じたり、何かを学んだりすることはもちろんあるし、否定はしないが、歴史を見る、時代を見るということはそういうことではない。もう少し広い視野から物事を展望するということだ。
これがわからないと見た目が華やかな、魅力的な人間に過剰に肩入れしてしまって、その分視野が狭くなる。また、それだけでなく、本来評価するべき人間を不当評価してしまい、筆者の言うところの「物事を見るオーソドックスな眼」がいつまで経っても養えない。当たり前のことがわかったほうが、当たり前でないことの価値も見えてくるのである。当たり前のことのなかにひそむ凄まじさが感じられると、普通に生きることの面白さも見えてくる。慶喜と西郷からはそんなことが「学べる」わけである。
●弱小派閥のリーダーだった慶喜
幕末と呼ばれる時代は、日本の歴史の大きな変革期の一つにあたるが、この変革期はもう少し具体的に、黒船来航(1853年)から西南戦争(1877年)までの20数年ほどを一括りにしたほうがわかりやすい。今回取り上げる慶喜と西郷という二人の主役の「対決」は、この変革期のちょうど中間点、クライマックスの部分に該当すると考えたらいい。
まず慶喜の話から。彼が政局の表舞台に登場するのは、将軍後見職に就いた1862年から。井伊大老が桜田門外の変で暗殺されたのが60年。慶喜を次期将軍候補に画策してきた父・斉昭も同じ年に亡くなっており、結果として26歳の慶喜の登場は一種の世代交代のような形になっている。ただ後見職という微妙な名称の役柄(実態は名誉職に近かったようだ)からもわかるとおり、強い政治基盤を持っていたわけではない。
これは面白いのでべつの機会に詳しく書きたいが、水戸藩出身の慶喜は、幕府内の外様のような存在だったのである。言い換えるなら、弱小派閥。いまでいう自民党のような巨大派閥(いまはそれほどでもないか?)を形成していたのは、紀州藩に血縁をもつグループ。紀州藩というのは水戸藩と同じ御三家の一つだが、徳川本家が7代将軍を最後に血筋が絶えてしまって以降、事実上の徳川本家として磐石の基盤を築いてきた。そう、8代将軍・吉宗を祖とする血脈である。
幕府内に味方のほとんどいなかった慶喜は、ほとんどおのれの才覚と行動力だけを頼りに、幕末の複雑な政局に対峙してきた。そうせざるをえなかったから、その状況下で彼独自の政治能力を発達させた。そしてギリギリの土壇場で最後の将軍に就任するわけだが(1867年)、彼が何故あっさりと「大政奉還」できたのか? 彼の活動地盤を見ればある程度理解できるはずだ。幕府という組織はむしろ自分の足を引っ張ってきた存在であり、同時に日本という「国家」にとっても害悪であることが彼には見えていたからだ。まずこの点が理解できないと、慶喜の発想も行動も一気に見えにくくなる。
●「情」によって育てられた西郷
一方の西郷も、よく似た経緯で同じ時期に表舞台に登場している。彼の場合は人生の師匠とも言える存在がいた。主君である薩摩藩主・島津斉彬である。斉彬は外様大名ながら、慶喜を次期将軍に推す一派に属していた。改革派、開明派と言ってもいい。しかし安政の大獄の直前(1858年)に斉彬は急死。このあと弟の久光が自分の息子を藩主にして、後見役として実権を握る。
西郷は久光のことが嫌いだったようだ。というより、主君斉彬は久光一派によって毒殺されたと思い込んでいたから(その可能性も限りなく高い)、憎んでいたと言い換えてもいい。西郷を理解する際に重要なのはこの点だ。簡単に言ってしまえば、彼の場合、感情の量というものが人並みはずれているのである。だから自分を引き立ててくれた斉彬に対しては、終生神に接するくらいの敬慕の念を持っていたが、反面、久光に対しては主筋であっても憎しみを露にしてしまうわけである。
ただ彼の単純でないところは、だからといって、藩そのものに不信を抱いたわけではないとうことだ。慶喜と違い、彼には薩摩藩というバックボーンが生涯ついてまわった。「ふるさと」と言い換えてもいい。慶喜には「ふるさと」があるようでなかった。彼が政局に対してどこまでもクールになれたのは、情を喚起させるような環境が用意されてこなかったところにもよる。一方西郷は、この情によって自分自身を育て上げ、人を育ててきた。薩摩藩という風土の器が、自分の器をつくる媒介にもなっていたわけである。
●最も反幕的だった「最後の将軍」
味方のいない孤軍奮闘の将軍後見職・慶喜と、大嫌いな久光に仕えながら実質藩のナンバー1として政局に乗り出した西郷。西郷には、情が過剰に溢れ出してしまう自分の欠点を補完する存在として、慶喜に匹敵するほどのクールで明晰な頭脳を持った、盟友の大久保利通がいた。大久保に限らず、彼の形成した情のネットワークは、藩内の下級武士を中心に、「西郷どんのためならいま死んでもよか」という無数の支持者を生み出していた。一見すると西郷のほうが恵まれているが、そうとばかりは言えない面もある。
まず歴史の流れをたどっておこう。幕末の政局が大きく変動したのは、薩摩藩が長州藩と軍事同盟を締結してからだ(1866年)。薩摩藩は第二次長州征討への出兵を拒否するなど、徐々に反幕色を鮮明にしていく。要は政治的判断から幕府を見限ったということだ。その幕府が長州征討に失敗し、将軍・家茂が死去し、万策尽きたような状況で、慶喜が「最後の将軍」に就任する(1867年)。再建を託されたというより、もはやほかになり手がいなかったからというのが実情だったかもしれない。
西郷のように精神的な足かせのない慶喜は、ある意味薩摩や長州藩以上に反幕的だったと言っていい。しかしそうであると同時に、自分自身の地位をうまく利用して、政治の主導権を握ることのできる立場にもいた。幕府の政権をそっくり朝廷に譲り渡してしまうというウルトラC的な離れ業は、べつに慶喜が考案したものではない。しかしこれを受け入れたのは慶喜である。彼は刻々と変動する複雑な政局のなかでの一手として、自分自身の立場を一度身軽にして、そのうえで実権を握る策を模索していた。
これは簡単なことのようで非常にリスクを伴うことだ。自分の権力基盤を放棄してしまうわけだから、すべてを失ってしまう可能性もある。ただ無責任に放り出したという見方は、彼が政治家であるという当たり前の事実を無視していると思う。一つの覚悟をもって、政治という名の将棋の駒を進めた。もちろんこの一手に関しては、西郷も(大久保も、彼とつながる宮中の岩倉具視も)その意図をある程度見抜いていた。つまり、あの策士がただ放り出すはずはないと。次の手を考えているはずだと。
●慶喜に課せられた「最高度の選択」
そこで慶喜の策(大政奉還)を一気に覆す策として、「大政復古の大号令」が出される。大政奉還が1867年の10月。王政復古はそのわずか2か月後の12月。幕府という政権基盤だけでなく、将軍職と徳川家の領地も朝廷に返還せよ(辞官納地)、つまり形だけでなく実質的にすべて「奉還」しろという要求であるわけだが、これは要するに朝廷が薩摩派、倒幕派に牛耳られたということだ。事実上、政治家としての慶喜の敗北を意味している。しかし敗北が敗北だけで終わらない。
「敗北」を理解した慶喜は将軍職を辞し、大阪に退去するが、彼を京都で曲がりなりに支えてきた幕府方の諸将の気持ちは収まらない。具体的にいえば、会津藩、桑名藩、新撰組などである。孤軍奮闘という言葉のよく似合う慶喜と言えど、幕府再建にすべてを投げうってきた彼らの「気持ち」まで無視してしまうと、それこそ立場はなくなる。しかしそうこうしているうちに、暴発した会津藩ら「旧幕府軍」が、鳥羽伏見の戦いで倒幕軍に敗れてしまった(1868年1月)。慶喜はこの瞬間に「朝敵」となった。
幕末の政局は、朝廷を中心にまわっていた。その朝廷の実権を薩摩派に奪われ、戦闘にも敗れたことで、慶喜は朝廷の敵=反乱軍の総責任者とでも言うべき烙印が押された。ただ、大阪に逃げ帰った将兵たちの戦意が衰えているわけではない。将軍就任直後、慶喜はフランス公使と会談して軍事的協力を取り付けているから、近代的な軍隊を編成して倒幕軍と対峙することも可能ではあった。大阪湾には幕府自慢の近代海軍も待機している。と、ここで政治家・慶喜に最高度の選択が求められることになる。
一番「簡単」なことは自らが陣頭指揮して倒幕軍と戦い、勝利によって政局の主導権を再び奪い返すということだ。現に倒幕派の西郷らはその可能性も想定し、天皇を擁してゲリラ戦を辞さない覚悟を決めていた。西郷の場合、半ばそれを求めていたようだ。感情パワーの並外れた彼からすれば、ギリギリの革命戦を戦い抜かない限り国は一つにならない、人間に本気は生まれないと信念を持っていた。一歩間違えば逆に列強の餌食になりかねない「危険思想」だが、倒幕派がただの政権奪取を目的にしていたわけでない以上(実際に強い国を作っていかねばならないという切実な命題があった以上)、こうした発想が生まれることも必然。ただ、西郷のような感情エネルギー、人的ネットワークを持ち合わせていない慶喜からすれば、それはありえない発想だった。
●「敵前逃亡」という政治的判断
慶喜は過熱する将兵たちに出馬を堂々と宣言したのち、夜陰にまぎれて城外に退去し、軍艦に乗って江戸に逃げ帰ってしまう。しかも会津藩主、桑名藩主ら陣頭指揮を取れうる立場の人間もすべて帯同して。これで旧幕府軍は実質的な戦闘能力を失い、全面対決は消滅した。加えて慶喜は、江戸に帰ってからもひたすら恭順の意を示し、旧幕府方の旗頭になることを拒否しつづけた。その結果、鳥羽伏見の開戦の時点ではまったく先の読めなかった戦局も、驚くほどのスムーズさで終息に向かっていった。
慶喜が「戦わない」ことを宣言したことで、江戸城も無血開城された。会津藩、桑名藩らは東北を拠点に最後まで抵抗したが、旗頭が不戦を表明した以上、展望があっての抵抗であったわけではない。自分たちの意地を後世に示す形でしか戦闘は続けられなかった。幕府海軍を率いた榎本武揚も函館に疑似政府をつくるまでは頑張れたが、それ以上の戦闘意欲を持続できなかった。延々と泥沼のように続く可能性のあった内戦(戊辰戦争)は、結局、1年あまりで終結してしまった。
後世の人間は慶喜の「敵前逃亡」を批判するが、それは高度な政治的判断であったと筆者は思う。自分自身の生命すら奪われかねない沸騰した戦局のなかで、よくもまあ「逃げる」という選択ができたものだ。しかもただ逃げたわけではなく、自軍の戦闘力すら奪っている。もし戦っていたら……、要するにそれは西郷らの「思うつぼ」でもあったわけだが、慶喜は賊軍の汚名をいいように着せられて最後は首を刎ねられ終わったかもしれない。戦争も長引いておそらく相当な数の人命も奪われたはずである。
●教訓としての英雄児・河井継之助
同時代、越後の長岡藩の執政(事実上のリーダー)に、河井継之助という人物がいた。小藩(約7万石)を率いるには惜しいと言われた逸材で、幕末の情勢を冷静に把握し、藩政改革を次々と成し遂げ、近代的な軍隊を率いて倒幕軍に対峙した。長岡藩は譜代大名の系譜であったから旧幕府軍に加担するのが自然だったが、河井はスイスのような中立国の立場から、旧幕・倒幕両軍の橋渡しのような役割を構想したようだ。しかし構想は実現せず、最終的には倒幕軍と戦って敗れ、長岡は焦土と化した。
このあたりは司馬遼太郎の「峠」「英雄児」といった小説に詳しいが、司馬氏は河井を認めながら、「英雄児であることが無用な戦いを生むことの皮肉」を作品のなかで語っていたように思う。氏は慶喜のことを「才子、才に溺れる」の典型のように別の作品で描いているが、では慶喜が英雄児のように振る舞ったらどうなっていただろう? 強くなるために集めた武器や軍隊は、為政者にとっては戦うことへの誘惑にもつながる。河井のような俊才ですら、利あらずと思いながらも、最後は追い詰められ武器をとった。
慶喜がこの誘惑に駆られなかったのを「勇気がなかった」と評するのは容易いが、そう言ってしまうと見えなくなるものが確実にある。たとえば西郷についてである。慶喜が一切の戦いから手を引いたことで、倒幕軍の総大将のような立場にあった西郷には、本来慶喜が担うべきであった役割を押し付けられるような格好になってしまった。中途半端な形で決着がついてしまったため、戦闘意欲そのものは明治維新以後も国内に充満し続けた。これを何とかしなければ、国はまとまらない。西郷は新たに「征韓論」を唱えることで、このエネルギーを解消させようとした。新たな方策を提示しなければならない羽目に陥った。
●ハイレベルの「丸投げ合戦」だった慶喜と西郷
西郷と征韓論のかかわりについては、長くなるのでまた機会を改めて話すことにしよう。簡単に結論めいたことだけ言えば、西郷は慶喜の仕掛けた「敵前逃亡」という究極の一手によって、最後は西南戦争という巨大な「敗北」を喫したのである。そしてこの敗北によって時代の変革は事実上完了し、明治政府が国家として機能し始めていく。
慶喜と西郷の「対決」は、両者がどれほど相手のことを意識していたかはわからないが、後世の人間の目から見ると、巨大な「丸投げ合戦」のように映る。政権をごろんと丸投げしただけでなく、自分自身のプライドをも平気で丸投げして敵前逃亡した慶喜。これに対して西郷は、その丸投げに従うように江戸城無血開城を実現させた。半ばはぐらかされた形ではあるが、自分自身の革命思想、戦闘意欲を丸投げし、最後は自分自身の生命をも丸投げし、薩摩隼人とともに西南戦争に殉じた。
この意味では実質的な「勝者」は慶喜であったのかもしれないが、彼は明治に入って表舞台に一切現れていない。このへん見事な引き際ではないだろうか? 幕府瓦解の時点でまだ32歳と意欲も気力も充実していた年齢であったにも関わらず、すべてを丸投げしてしまった自分の立場を彼はよく理解していたのだと筆者は思う。何不自由ないお殿さまでありながら自分自身で何でも器用にこなすことのできた彼は、残りの半生をひたすら趣味の世界に生きた。カメラをやり、自転車に乗り、乗馬や弓術や狩猟をたしなみ、それぞれ玄人はだしの芸に達しながら、誰に披露するわけでもなく楽しみ続けた達人の人生だったようにも思う。
幕末という時代は、慶喜と西郷という性格もバックボーンも180度異なる横綱が存在し、この対立軸をベースとすることで希有な変革を成し遂げることができた。キーワードは「潔さ」だと筆者は思っている。慶喜をただの才子と見てしまうと、西郷の評価すら見えにくくなる。二人の横綱の価値の見えない人が、いくら坂本竜馬を凄いと言ったところで、じつは竜馬のよさすらも本当には見えてはこない。それは時代が一つの舞台であり、それぞれに役が与えられている以上、舞台そのものを見る目が必要だからだ。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年09月10日 16:48