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2004年12月11日
先駆者としての平清盛(1)〜「システム」はいかにつくられたか
●「権威」の正体は……?
平清盛のことを理解するには、彼の前に立ちふさがった「権威」の象徴である、藤原氏について、まず理解する必要があります。清盛の活躍した時代(12世紀後半)から、とりあえず8世紀前後にさかぼのってみましょう。じつに400年前。この歴史の長さこそが、権威の正体であることも、自然と見えてくるはずです。
藤原氏の祖で、「大化の改新」の主要人物として登場する鎌足の名前は有名ですが、その子の不比等(ふひと 659〜720年)となると意外と知られていません。しかし、後世への影響を考えると、彼の果たした役割のほうがはるかに重要。じつに19世紀中葉、明治時代に至るまで、1000年以上続いた「律令」という社会システムの基礎を築いた人物と考えられているからです。
システムというのは、社会を円滑に動かしていくためのルールと考えてください。このルールは共同体が形成される中で、初めのうちは暗黙のうちに決められていきます。たとえば田を荒らしてはいけないとか、近親相姦は駄目だとか。しかし、ある程度社会の規模が大きくなってくると、きちんと形にしなければならなくなる。律とは法律の律であり、刑法にあたります。令は法令の令、行政法や民法のこと。これらを、中国のシステムをもとに創案した中心人物が不比等であったわけです。
律令のシステムが構築された不比等の時代は、そのシステムが一新された明治時代の初期とやや情勢が似ています。
明治維新は黒船の来航が発端となりましたが、彼の時代も、父・鎌足の時に朝鮮半島に出兵、白村江の戦いで百済を助け、唐・新羅の連合軍に大敗しています(663年)。当時の社会は、一般にイメージされているような閉鎖された島国社会などではありません。東アジアという大きなエリアの中で、大小様々な国の興亡が繰り広げられ、日本列島にも大陸や半島から相当数の渡来人が流入していました。
白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、即位して天智天皇となりましたが、唐や新羅の侵略に怯えながら、671年、失意のうちに亡くなります(暗殺という説もある)。このあと天智の子・大友皇子と、弟の大海人皇子が「壬申の乱」で争い(672年)、勝利した大海人が天武天皇となって実権を握る。天武が天智の弟であったことにも異説があり、じつは両者とも、渡来系の王族だったと考える研究者もいます。
●日本のシステムをつくった男
要は、当時の「日本」は、現在の我々がイメージしているような「国」ではなかったということ。「万世一系」で語られる天皇家にしても、実際には外部の血がかなり混じっていたと考えるのが妥当でしょう。
日本という国号自体、正式に用いられるようになったのはこの頃のこと。法律や政令が明確に定められたのも、「古事記」や「日本書紀」のような歴史書が編纂されたのも、平城京という本格的な王城(都)が奈良に建設されたのも……、同じ時期に属しています。そして、これら国づくりの初期段階には欠かせない諸事業に、不比等という人物はおそらくすべて関わっているわけです。
彼が政治家として活躍したのは天武天皇の死後、妻である持統天皇の即位(690年)のころから。720年が没年だから、ほぼ30年にわたって政治の実権を握っていたことになります。後世から見れば、この30年で、日本という国に固有の政治システムが確立したということができます。聖徳太子を幕末の吉田松陰や島津斉彬に例えるなら、不比等は明治後の大久保利通、伊藤博文という位置づけです。
当時、白村江の戦いで勝利した新羅が北方の高句麗をも滅ぼし、朝鮮半島を統一(676年)。大陸では唐が全盛期を迎え、東アジアは混乱期から安定期に入り、日本の為政者の間でも侵略の危機が徐々に薄れていきます。
不比等の死後、藤原氏は四家(南家、北家、式家、京家)に分かれました。そして、そのなかから北家が台頭し、平安時代に藤原氏中心の貴族政治が展開されます。不比等のつくったシステムは、徐々に権力争いの場として機能しはじめるのです。
●日本独自の「和」のシステム
日本の律令システムは、中国を手本にしたものですが、時代とともに日本独自の形にどんどんと変容していきます。簡単に言えば、シズテムの中にあってもまず天皇家の血筋が尊ばれ、この血筋を中心として、律(法律)と令(政令)が社会の末端まで網の目のように張り巡らされている。たとえば役職(二官八省)と、それに相当する官位(位階)があります。これらの官職はまず中央(都)に中心機関があり、徴税や兵役などの面で地方のシステム(国郡里制)とつながっています。官と職の組み合わせで、人のランク付けが全国規模でできあがっていくという仕組みなのです。
こうした仕組み自体は、中国にも朝鮮にもありました。ヨーロッパにもあったでしょう。しかし、これらの地域では、革命が起きます。そうすると新しい王朝が立ち上がり、システムの構成人員ががらっと変わってしまいます。
日本の場合、システムそのものは時代に応じて変容しますが、同じ王朝はずっと続きます。明治維新になっても、藤原氏の子孫は生き残り、地位は保証されました。要するに、革命というものが起きにくい構造なのです。
なぜこうした構造になったかと言えば、それは日本が「和」の社会であったからでしょう。「和」の社会では、構造を根こそぎ変革してしまう革命は好まれず、代わりに、血脈や人間関係などが大事にされます。原始社会のプリミティブな感覚が、文明化していく過程でも失われず、システムと共存している形態とでも言えばいいしょうか? それが日本社会の特有の面白さであり、絶対権力を握った藤原氏にしても、天皇位を算奪しようとは考えませんでした。和が乱れると、権力基盤そのものが崩れてしまうからです。
彼らは代わりに、この「和」のシステムをうまく利用しようと考えました。
その根底には、実権を握っても表舞台に立たず、たえず黒幕的にふるまった不比等政治の影響が見え隠れすると、ぼくは感じています。
不比等の政治的才能を評価するならば、それはシステムを構築したという構想力以上に、日本社会の「和」の本質を見抜いていた洞察力にあるように思えるのです。なぜならシステムというハードを作っただけで、社会が動くとは言えません。ハードに収まるのは、人の心、意識というソフトです。この本質を見抜く目がなければ、1000年も続き、いまも影響を残しているシステムはつくれないからです。
●天皇すらも取り込んだ日本流システム
律令制度においては、官職を任免するのは、建前は天皇です。
しかし天皇は原則として政治をやりません。初めのうちは天皇の親政も行われましたが(皇親政治)、藤原氏が権力を確立していく過程で、摂政や関白という代行者がそれを担うようになります。むろん、それらの官位には藤原氏の中でも「氏の長者」と呼ばれる有力者が就くことになります。不比等の敷いたシステムが変容しながらも機能していたので、政治はこの官職の任免が中心になっていきます。
こうした状況に加え、平安時代になると、大陸では唐の勢いが衰え、国内でも反乱があまり起こらなくなりました。正確には平将門の乱(935〜940年)などが起こっていますが、結論を言えば、藤原氏の権力自体が根底から揺らぐことはありませんでした。なぜか? システムが強大な権威として、社会の隅々にまで浸透していたからです。本当に反乱を企てるなら、不比等の作った以上のシステムを作り出さなければなりません。しかし、そこまで社会のカラクリを理解した人間はなかなか現れなかったのです。
このシステムがいかに強固だったかという話をもう少ししましょう。
藤原氏も代を重ねるごとに、一族の構成人員はどんどんと増大していきます。藤原四家のうち北家が勝ち残った話は先に書きましたが、北家のなかでも血筋が天皇家に近いかどうかで、権威のランク付けがなされていきました。そうなると、藤原氏以外の勢力など、満足な官職につけなくなります。そして、官職につけなければ力も発揮できません。これは天皇家の血脈である皇族にもあてはまります。
権威の中心である皇族のなかでも、天皇の血筋に近いかどうかのランク付けが生まれます。具体的には、皇位継承に近い血筋には、藤原家の氏の長者の娘が嫁がされ、将来の地位(天皇位)が保証されます。逆に血筋が薄くなれば薄くなるほど、居場所自体がなくなっていく。時代が進めば皇族も構成人員が増え、すべての血族を養う費用も馬鹿にならないため、中には「姓」を賜って皇室を離れる者も出てきました(賜姓皇族)。
●武士はシステムとどう向き合ったか?
日本の最大の貴種である天皇家には、姓というものがありません。
だから、姓を得るということは、その貴種としての特権を捨ててしまうということを意味します。平安時代初期、皇位継承から外れた桓武天皇や嵯峨天皇の皇子たちは平氏を名乗り、清和天皇の皇子は源氏を名乗りました。はじめのうちは中央で官職を得られましたが、代を重ね、藤原氏の力が強大になってくると、それも次第におぼつかなくなります。彼らのなかから中央を離れ、野に下る者も出てきました。地方ならば貴種として尊ばれ、それなりの実利が得られるからです。
日本の歴史の面白いところは(と、たびたび書きますが)、こうした都落ちの源氏や平氏の中から「武士」が生まれたということです。武士というのは、要するに権威よりも実利に目覚めた集団と言えるかもしれません。というより、ほかに自分の力を養い、一族を繁栄させる手段がなかったというのが実情であるわけですが。
彼らは、律令のシステムの十分に及んでいない地方で、地元の有力者たち(豪族層)と手を結び、土地を開墾し、武力をためることで独立心を養いました。豪族層から見れば、貴種を引き入れることで、自分たちの力を増大させた。武士団の形成は、両者の合作のようなものです。いまでいうインディペンデント。平将門が関東で反乱を起こしたあたりから、徐々にそうした気風(独立心)が芽生えてきました。しかし、数百年にわたって根を張った権威の魔力は、あまりに強大でした。
たとえば、関東で反乱し、最後は新皇を称した平将門も、天皇家の遠い血筋でありながら、都にいた頃は検非違使の官職にすらありつけませんでした。検非違使は警察官のような役職です。また、時代は下って11世紀、東北の乱(後三年の役)を平定した源氏の棟梁・源義家でさえ、戦果を挙げながら恩賞はなく、ようやく昇殿が許されるという程度の待遇に甘んじました。義家の時代、藤原氏の力はすでに衰えつつありましたが、それでも権威の壁はなかなか崩せなかったのです。
システムだけは機能し続けていたため、今度は退位した天皇(上皇)が院政を始め、父の立場で天皇の権威を利用し実権を握るようになっていくのです。
こうした院政の時代に登場したのが、もう一方の武門の家柄、平家の嫡流である、平清盛でした。「平家にあらずの人にあらず」の全盛期を演出した清盛は、どのようにしてこのシステムと向き合ったのか? 「成功」した源氏と「失敗」した平氏。しかし、構想したものの可能性においては、両者に明確な差はありません。
ここでも結論を先に言ってしまえば……、清盛の構想した新しいシステムは、400年後、豊臣秀吉によって受け継がれます。先駆者としての清盛も、システムの構築者という点で、十分に注目できる存在なのです。
この続きは、また次の機会に……。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月11日 16:38