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2004年12月24日
先駆者としての平清盛(2)〜変革期に登場した伊勢平氏の系譜
●対立していたわけではない源氏と平氏
平清盛の「新しさ」に焦点を当てる前に、まず、源氏と平氏という二大武家勢力の話から。源氏も平氏も、勃興した平安時代の歴史の中で、それぞれ勢いがあった時と、なかった時(衰えた時)がある。均等な力関係になった時というのはほとんどなく、どちらかが浮上するとどちらかが沈むというような関係。といって、ライバル関係とも言い難く、クライマックスの源平争乱(治承・寿永の乱)は別として、始終張り合っていたわけでもない。その点をざっとたどっておきます。
まず平氏から。平氏と言うと、10世紀中葉の「平将門の乱」がまず思い浮かびます。これは東国に土着した皇族の末裔(桓武平氏)の、一種の内輪もめのような一面がありますが、朝廷に叛旗をひるがえし「新皇」を名乗った将門を討ったのは、同じ一族の貞盛。血筋としては貞盛が桓武平氏の嫡流で、乱を平定したのち、彼の一族はローカルな関東ではなく、都に近い伊勢に土着。中央政界への進出を試みます。
しかし、11世紀に入り、またべつの身内の平忠常が関東で反乱を起こし、一族の不始末という理由から、伊勢平氏が鎮圧に向かうも失敗。代わりにこの反乱で戦功を立てたのが、源頼信です。頼信はのちに鎮守府将軍に任じられ、晩年はこれも都に近い河内(大阪)に土着します。頼信の嫡子が頼義。彼は中央への基盤をさらに築くため、父と同様、東国で武名を挙げようと画策します。そして目をつけたのが、東北(奥州)に土着していた蝦夷(えみし)の末裔、安倍氏の勢力です。
安倍氏の話は、義経のところでも少し書きました。縄文人の血を引く蝦夷の勢力は、坂上田村麻呂の時代から征伐の対象にされ、中央の政治の道具にされてきた歴史があります。頼義も戦う意志のあったとは思えない安倍氏を挑発し続け、ついには半ば無理矢理に乱を起こさせ(前九年の役)、何とかそれを討伐することで、狙い通り動員した関東武士を束ねるポジションを築きます。はじめ平氏の土着していた関東は、頼義の時代でほぼ完全に源氏の地盤となっていくわけです。
●“次善の策”としての関東
ここまで話してわかるように、源氏・平氏を問わず、当時の武士たちの目はあくまでも都(中央)に向いていました。中央で官位を得、公家の地位に仲間入りすることが第一の目的であり、名誉であり、荘園経営などの面でも実利を伴っていたことでした。ただ、中央の主流(天皇家および藤原氏)から見ると、血筋もあやしく、政治的な力もないため、次善の策として関東(平氏の場合、西国)があったわけです。
もう少し続けましょう。頼義のあとを継いで源氏の嫡流となったのが、のちに“八幡太郎”の名で伝説化される義家です。彼には父祖をしのぐ将才、人望があったと言われ、安倍氏のあと奥州を実質支配していた清原氏の内紛(後三年の役)に介入し、うまく乱を収めることで武名を挙げます。朝廷は、乱は私闘であったと恩賞を与えませんでしたが、義家が私財をなげうって武士たちに報いたため、関東における彼=源氏の地位はさらに高まったと言われます。ただ、義家にしても目は中央に向いていたわけで、後年の頼朝のように関東への土着を考えていたわけではありません。
ちなみに、源氏三代というと征夷大将軍になった「頼朝・頼家・実朝」をイメージするかもしれませんが、関東での基盤を築いたという意味では、「頼信・頼義・義家」の三代のほうが功績は大きいでしょう。が、源氏の活躍は、義家の代でいったん途絶えます。素行に問題のあったと言われる彼の嫡子・義親が、山陰で乱を起こしてしまうからです。この乱を鎮圧したのが、伊勢平氏の正盛(清盛の祖父)でした。
こう書くと源氏と平氏の対立関係のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、そういうわけではありません。要は、どちらも朝廷に仕える傭兵のような立場であったということ。戦乱を治めることで出世ができ、恩賞が与えられるので、源平ともに半ば言われるままに従って、一族であろうが、他族であろうが刃を交えていたわけです。その実績の積み重ねの上に、中央の政争に参入し、打ち勝った清盛の存在があるわけです。
●新時代の追い風を受けた伊勢平氏
源氏が「頼信・頼義・義家」の三代で勢いを失ったのと入れ替わるように、平氏の三代「正盛・忠盛・清盛」が勃興します。彼らは先に触れた「平忠常の乱」に失敗した伊勢平氏の嫡流とは、別の系統です。嫡流が衰えたため、彼らの血統が事実上の嫡流になるわけですが、かといって、それほどトントン拍子に地盤が築けたわけではありません。ただ追い風となるような要素がいくつかありました。その点を理解するため、まず、当時(12世紀前半)の中央政界の勢力分布をのぞいてみましょう。
12世紀後半というのは、政治の主体が藤原氏から上皇(院)へと移行しつつあった時期です。開祖の鎌足・不比等以来、500年以上にわたって政界の中心に居続けてきた藤原氏も、外戚関係のない天皇(後三条天皇)が即位することで、影響力を一歩後退させます。後三条のあと、皇位を次いだのが白河天皇。彼は藤原氏の影響力をさらに払拭するため、彼らと血のつながりのない自分の子(堀河天皇)を皇位につけ、自らは法皇の立場で政治の実権を握るようになります。これがいわゆる院政です。
といっても、藤原氏も全国に膨大な荘園を抱えています。多少落ち目にあっても、巻き返しを図ろうという意志も当然ある。では、法皇と藤原氏、この中央政界の二大勢力に対して、源氏や平氏の武家はどのようなポジションにあったのか? 清盛の祖父・正盛は、白河院の近衛兵のような立場(「北面の武士」などと言います)を得、先の源義親の乱を討つことで、院の軍事力の中心を担うようになります。院はいわば政治的新興勢力なので、権威よりも忠誠心や能力が重視されたのでしょう。
息子の忠盛も同様。白河上皇の後を継いで院政を敷いた鳥羽上皇のもと、北面の武士として活躍し、ついには昇殿を許されます。ちなみに、昇殿というのは、天皇の住まう内裏(正確には、清涼殿の殿上間)に出入りの許されることを言い、公家のガードマンにすぎなかった武家にすれば、なかなか超えられない壁でした。まあ、公家、武家といっても、後代(鎌倉時代以降)のようにはっきりと色分けがされているわけではありません。要は、昇殿が許されるかどうかが、その人物(一族)の立場を決める重要な基準だったわけです。ともあれ、これが平家の中央政界への本格進出となりました。
●優れた政治、経済感覚が武器だった平氏
ただ、昇殿は言ってみれば、相撲で幕内力士(十両以上)に昇進できたようなものです。喜びは当然あったでしょうが、「上」を見上げれば、ようやくスタートラインに立ったというくらいの感覚だったかもしれません。実際、本格進出のためには、昇殿の先にもう一つ大きな壁がありました。それは「公卿になる」ということです。相撲の譬えで続けるのなら、三役力士(関脇・小結以上)に出世するというくらいのイメージ。十両に昇進したばかりの「力士」から見れば、早々楽に手にできる地位ではない、はるか上位の世界の話であることは理解できるはずです。
具体的に言えば、位階でいう三位以上、官職でいう大納言、参議以上の地位が公卿と呼ばれ、要するに当時の日本の政治の担い手です。我々が貴族としてイメージしているのは、イコール公卿であることがわかるでしょう。しかも世襲が基本と書いたように、平安時代においては、公卿といえばほとんどが藤原氏。昇殿が許されようと、公卿になるなど本来は夢のまた夢であったわけですが、ここまで書いたように、忠盛の活躍時期は院が台頭し、藤原氏の影響力が落ちつつあった時代。院という新しい権威のバックアップを得た忠盛は、その最晩年に公卿まであと一歩という四位まで出世を果たし、息子の清盛にバトンタッチするわけです。
こうして見ると、関東や東北の兵乱で勢力をのばした源氏よりも、中央政界にダイレクトにアプローチし、着実に地位を築いた平氏のほうが政治感覚が高かったことがわかります。政治感覚が優れていれば、わざわざ生命の危険性のある戦争をしてまで地位を確保しようとは発想しません。また平氏は、この時代の新興勢力として、もうひとつの優れた感性、すなわち独自の経済感覚を身につけていました。忠盛の時代、鳥羽院の保護のもと西国に基盤を築いた平氏は、瀬戸内の海運の価値に目覚め、日宋貿易に着手します。土地への縛りを受けない形で財政基盤を築く道を見いだしたわけです。
イメージしやすく言えば、当時(12世紀初頭)は、江戸時代末期、黒船のやって来た幕末の状況と似ています。黒船のような外圧が具体的にあったわけではありませんが、遣唐使の廃止(894年)以来、事実上の「鎖国」を続けてきた平安朝の日本は、徐々に「世界」に目が向きはじめていました。貴族が牛耳ってきた日本の社会も徐々に成熟し(マンネリ化し)、武家をはじめ低い地位に甘んじてきた人々の自我が目覚めつつあったと言い換えてもいいかもしれません。この目覚めは鎌倉〜室町時代への流れの中で、末端の庶民にまで及んでいきます。
父・忠盛の意志を継いで海運貿易を本格化させた清盛は、タイトルにもあるように、その意味で時代の先駆者と言っていい存在。外へ外へと自らの意識を押し広げていく、この時代の最先端とも言えるセンスを発揮しつつ、のちに登場する鎌倉の頼朝とまた違った形で、旧泰然とした政治体制への変革を志します。よく語られているように、平氏は藤原氏の貴族政治をそのまま踏襲し、ただ栄華に酔っていたわけではないのです。新興勢力であった分、若々しい志というものがそこに見いだせます。
次の稿では、日本史全体を俯瞰し、時代の流れを見据えつつ、清盛の推し進めた「政治改革」について見ていくことにしましょう。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月24日 00:00