« 先駆者としての平清盛(2)〜変革期に登場した伊勢平氏の系譜 | メイン | シリーズ・秀吉と日本人(1)〜日本史のピークを演出した男 »
2004年12月24日
先駆者としての平清盛(3)〜「公武合体」を目指した改革者
●分裂してしまった権威
さて、いよいよ清盛の登場です。彼は父祖の築き上げた政治的基盤をベースに、往年の藤原氏を凌駕する実権を手に入れます。それを可能にしたのは、院(上皇)と天皇家に、権威の中心が分裂したことが関係あります。じつは結果論になってしまいますが、この権威の分裂は、清盛の「政治改革」が最終的に挫折したことで、本質的に解消しきれないままその後の歴史で推移していきます。「権威の中心」を確立することが、清盛以降の「最大の政治課題」にもなってくるのです。
この分裂の引き金となったのは、天皇家が天皇と上皇とに分裂してしまった以上、ひとつは院政という政治システムに原因が求められます。もちろん、院政自体は必ずしも悪いシステムではありません。「権威」だけになりかけていた天皇家が、長らく政治を支配してきた藤原氏から「権力」を奪い取ろうと画策した結果、生まれたものだからです。空想にすぎませんが、やりようによっては天皇家を中心に、より強固な権威の構築も可能だったかもしれません。しかし現実には、肝心の天皇家内部で新たな対立が生まれてしまいます。
前回の稿をおさらいすると、院政を始めたのは白河上皇。それを引き継いだのは、孫にあたる鳥羽上皇。大ざっぱに書くと、次のような流れです。
白河上皇の院政(堀河ー鳥羽ー崇徳天皇の時代・約44年)
↓
鳥羽上皇の院政(崇徳ー近衛ー後白河天皇の時代・約28年)
これだけだとわからないと思いますが、分裂のカギを握るのは崇徳天皇(上皇)です。系図の上では鳥羽上皇の第一子なのですが、じつは祖父の白河上皇の落胤であったと言われ、これが鳥羽と白河(ひいては崇徳)の不仲を生み出します。白河は何と自分の愛人(待賢門院)を鳥羽の后に据えますが、その時点で彼女が白河の子種を宿していたようなのです。事実かどうかはわかりませんが、少なくとも鳥羽はそう信じており、崇徳を「叔父子」と呼んだ記録も残っています。
鳥羽上皇としては、崇徳の子供は当然、皇位につけたくありません。白河上皇が亡くなると崇徳を退位させ、寵愛する美福門院の子(近衛天皇)を皇位につけます。ところがこの近衛天皇が病弱で二十歳にならないうちに亡くなってしまう。この時点で皇位継承の最有力は、「長男」である崇徳の子(重仁親王)です。しかしあくまで崇徳の血統を嫌う鳥羽は、ここで皇位継承の圏外に置かれていた「次男」を皇位につけます。のちに鳥羽の院政を引き継ぎ、「大天狗」などとも称された権謀術数で清盛、頼朝とやりあう後白河法皇です。
●「官軍」に組みした平氏の嫡流
ここに「鳥羽上皇ー後白河天皇」、「崇徳上皇」という対立軸が生まれました。崇徳は上皇の地位にありますが、院の政務は父の鳥羽が握っているため政治的実権はありません。しかし、後白河が皇位についた翌年(1156年)、鳥羽が亡くなってしまいます。院としての政治実績のない崇徳上皇と、皇位についたばかりの後白河天皇、権威としてはどちらも「中途半端」。特に後白河は、自分が天皇になれるとは思っていなかったらしく、相当な遊び人だったと言われています。朝廷での儀礼にも通じていない。権威の面で軽んじられるところがあったようです。
中心が分裂し、しかもそのどちらにも決定的な力がないと、得てして兵乱が生じます。それが歴史で言うところの、保元の乱です。といっても、皇位についている後白河天皇は「官軍」。つまり、「権威薄弱」とはいえ、国家権力として、公式な形で武家勢力の動員ができる立場にありました。対立軸があるといっても、崇徳とは「対等」でなかったのです。父の代から鳥羽院に仕えていた清盛も、頽勢を挽回しつつあった源氏の義朝も、「官軍」である後白河天皇の動員令に応じたのです。
ただ、乱という以上、この「官軍」の招集に応じなかった勢力も、当然存在しました。源氏の場合、義朝の父・為義、弟の為朝は、崇徳上皇の側に加担。平氏でも、主流から外れていますが、清盛の叔父・忠正の一族は上皇側についています。彼らの仕える左大臣・藤原頼長が、上皇側に加担していたからです。藤原家は頼長の兄・忠通が関白の地位にありましたが、父の忠実(前関白)が頼長を後継者に据えたため、荘園などの私的財産は頼長のほうに譲り渡していたのです。官位は低くても頼長がいわば藤原氏の主力であり、その財力、勢力基盤がイコール、「反主流派」であった崇徳上皇の兵力を支える形となったわけです。
結果は波乱なく「官軍」であった白河天皇側が勝利を収め、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦傷死。関白・忠通は官軍についていましたが、主力の敗れた藤原氏の権威、権力基盤は、ここで大きく失墜します。一方、後白河側として戦功のあった清盛は、播磨守、太宰府大弐に任じられました。播磨(兵庫県)は国としてのランクの最上位にあり、すでに四位の位階を受け継いでいた彼は、この時点(36歳)で父・忠盛のキャリアを凌駕します。また、太宰府大弐は、大陸への窓口である北九州地区の事実上の最高責任者です。父の代から展開してきた日宋貿易が、公的にも認証されたことになったわけです。
●「一人勝ち」した平治の乱
政治・経済面で大きな実利を得た清盛に対して、戦功では清盛を上回り、しかも父と弟を処罰するなど大きな痛手を負った義朝は、武官である左馬頭(さまのかみ)にとどまります。この冷遇ぶりに義朝が不満を抱き、それが次の平治の乱(1159年)につながった……と一般的には言われていますが、父祖の代から中央政界に基盤を築いてきた平氏一族と、保元の乱も含め一族から「トラブルメーカー」ばかり出してきた源氏とでは、昇進に差が出るのも仕方ない話です。義朝は、保元の乱で源氏復活のきっかけがようやくつかめたという段階だったわけです。
保元のあとに起こった平治の乱も、もちろん一つの権力争いですが、その特徴は没落しつつあった藤原氏の、新興勢力どうしの争いであったという点です。対立軸となった藤原信西(通憲)も信頼も、公卿ではあっても摂政関白クラスではなく、藤原氏の主流ではありません。彼らは院の近臣として台頭し、それを背景にそれぞれの政治的基盤を築いてきました。特に信西は学者の出身で身分は低かったのですが、妻が後白河天皇の乳母であったことから重用されます。そして、後白河が退位し院政を始めた段階(1158年)で、院の近臣のトップ(別当)となった信頼と対立関係が発生したわけです。
院の近臣のトップでありながら、信頼は実務に長けた信西の台頭を抑えられません。そのため、新たに即位した二条天皇の親政を望む藤原氏の別勢力と手を結び、反信西の兵を挙げたのが平治の乱。この信頼軍の主力が、源氏の棟梁・義朝であったわけです。もともと院よりも藤原氏との結びつきが強い源氏でしたが、こと地盤である関東の中心・武蔵国は信頼の知行国でした。武家はこの時点ではまだまだ権力者の傭兵的な存在です。よく語られる清盛への対抗意識というより、信頼との結びつきから、義朝は挙兵に踏み切ったと考えたほうが自然です。
この事実上のクーデター軍は、信西の殺害に成功。「官軍」の主力と言っていい平家の清盛は京を留守にしていましたが(それを狙っての挙兵でもあったわけです)、彼を討つかどうかでクーデター軍は意見が割れてしまいます。反信西であっても、反清盛ではなかったわけです(政治手腕のあった清盛には、明確な政敵は存在しませんでした)。結局、清盛の兵力を恐れた二条天皇派の公卿が天皇を密かに内裏から逃し、後白河法皇も行方をくらましてしまうと、信頼と義朝は孤立します。清盛は官軍の立場で彼らを撃破し、結果を見れば「一人勝ち」を収めてしまうわけです。
●必然的に転がり込んだ政治の実権
すでに藤原氏の主流は没落し、摂政関白クラスに政治を仕切れる実力者はいません。院の近臣として台頭しつつあった傍流(信西、信頼)も、いわば共倒れ。同じく台頭の兆しのあった源氏も、縁の深かった藤原氏とともに完全に没落します。よく語られるように、棟梁の義朝は逃亡中の尾張で家臣に殺され、嫡子の義平も惨首。伊豆に流罪になった13歳の頼朝、寺に預けられた幼い子供たち(今若、乙若、牛若)など、血脈はわずかに残されますが、再起を断たれたのも同様の状態となりました(言うまでもないですが、牛若がのちの義経であるわけです)。
頼朝や義経が殺されずに済んだのは、清盛の義母である池禅尼の助命嘆願にあったと言われていますが、清盛の感覚からすれば、源氏と戦はしたが、ことさら遺恨はないわけです。また、平治の乱自体、彼にとってはタナボタ的な要素が強く(彼自身が野心を抱いて引き起こしたという性質のものではなく)、この時点で「天下を取る」という意志がどこまであったかも疑問です。清盛の判断を「甘い」と言ってしまうのは、結果を知っている後世の人間のある種「傲慢な発言」にすぎないと筆者は感じます。まあ、「歴史を歪める」典型的な見方でしょう。
ともあれ、平治の乱以降、現実問題として中央で政務を担える人材が枯渇してしまった。清盛は、国の軍事の一翼を担う伊勢平氏の棟梁というだけでなく、政治的手腕も備えていた人物です。保元・平治の乱で勝者の側にまわったのも、軍事的な実力という以前に、状況に対する的確な判断力が感じられます。もちろん野心そのものはあったでしょうが、彼が政界の中心に登場したのは、必然的な、自然な流れがあったと言えます。武家が政務を担うようになった点がとかく強調されますが、「藤原氏以外の氏族である」という点を、本来重視すべきなのです。
もちろん清盛だけでなく、もとは皇位継承の数にも数えられなかった「遊び人」の後白河法皇も、乱後、急速に力を得ます。信頼に加担し、のちに裏切る形となった二条天皇派(親政派)の公卿を失脚させることができたからです。後白河と清盛は、保元の乱で結びつきましたが、以降も仲が良かったわけではなく、つかず離れずの関係が続きます。後白河は、一人勝ちした清盛の一門を牽制しながら、白河、鳥羽と続いた新しい政治形態(院政)の強化を図ります。事実上両者に絞られた政務の実権をめぐって、虚々実々の駆け引きが展開されていくわけです。
●自らも「院政」を始めた清盛
清盛は平治の乱後、正三位に立身し、一族の念願だった公卿のランクを手に入れます。この時点で参議、翌年に権中納言。そして、6年後の1165年には大納言、翌66年には内大臣、67年には太政大臣と、往年の藤原氏を上回るような速度で立身していきます。もちろんこの間に、平家一族の多くも公卿に列せられ、徐々に政治の中枢に入り込んできます。一方の後白河法皇も、二条天皇、六条天皇と院政を続け、68年の高倉天皇の即位に際しては、清盛の協力も取り付けています。
先に触れたように、二条天皇には衰えたとはいえ反院政派と言うべき公卿がついており、息子の六条天皇は後白河の孫であっても、二条側の息のかかった天皇でした(即位した時、わずか2歳でしたが)。後白河としては反院政派と無縁の、二条の弟(のちの高倉天皇)を皇位につけたい。そして、じつはこの弟親王の妻(平滋子)が、清盛の妻(時子)の妹だったわけです。両者の政治基盤がともに強化できるという点で、利害関係が合致していたわけです。
と、ここで清盛が起こした面白い動きに触れておきましょう。太政大臣に任官した清盛は、3ヶ月後には辞任し、念願の高倉天皇の即位の直前には、大病を患ったこともあり、出家し隠居してしまいます。といっても政界を引退してしまったわけではなく、当然影響力を持ち続けます。要は、院政と同じ方式で、後白河の権力に牽制を与えようとしたと考えるのが妥当です。しかもこのとき、清盛は都を離れ、日宋貿易の拠点である播磨の福原に移住してしまいます。晩年には400年来絶えてなかった遷都すら挙行してしまうわけですが、このあたりに藤原氏の政治スタイルを超えようとする、政治家・清盛の斬新な感覚、発想が見えてきます。
この清盛の「隠居→商都・福原への移住」は、前に一度示唆しましたが、後年の豊臣秀吉の政治手法を重ね合わせることで、その意図がより鮮明になってきます。正面切って話を進めるとかなりのボリュームになってしまうので、まあ、ここではアウトラインだけ記しておきましょう。簡単に言えば、清盛の「政治改革」をより明確に実践したのが、500年後に「天下人」となった秀吉なのです。政治家・清盛のある意味での進化系が秀吉だったと言えるわけです。
●「政治と軍事をどう融合させるか」という課題
清盛が「隠居」で意図したのは、ひとつは官位を辞することで、院の上皇のように自由な政治立場を手に入れるということ(秀吉も関白を辞することで太閤となり、絶対的自由な権力者の地位を獲得します)。言い換えるなら、官位に頼らずとも、その実力・存在感だけで一つの権威を形成できるという自信を、この時点で清盛は得ていたと考えられます。といっても、(後年の秀吉がそうだったように)皇位そのものを算奪しようとしたわけではありません。ある意味でそれ以上に重要なのは、彼が「個人としての自信を得た」ということです。一見藤原氏の政治スタイルの模倣のように見えて、この点が明らかに異なります。
一見抽象的な話に思えるかもしれませんが、この「個人としての自信」は、清盛が武家であったということと大きく関係しているものです。武家らしさを引き継いだのは関東に地盤を築いた源氏で、平家は都で出世して公家化したというのが通説ですが、そうではなかったということです。実力主義を強いられてきた武家の末裔らしく、彼は彼のやり方で「実利に根ざした権威の形成」を目指したのです。もちろん、ここまで書けばおわかりのように、その実利には貿易(商業)による経済基盤の確立も含まれています。土地からの収入だけでは、既成の権威からの自由は得られないことを、彼が感覚的に理解していたからです。
また、清盛の目指した「政治改革」には、もうひとつ、じつは鎌倉幕府を開いた頼朝の「改革」以上に重要と言っていい要素が隠されています。それは藤原氏の政治スタイルの欠陥の克服でもあったわけですが、簡単に言えば、「政治と軍事をどう融合させるか」という課題です。大局的に見て、国を揺るがすような戦乱のほとんどなかった平安時代は、軍事はあくまで政治の添え物、臨時的な役職でしかありませんでした。様々な経緯から発生した武家にしても、正規の職というより、これまで繰り返してきたように、天皇や貴族が私的に雇ったガードマン、傭兵といった立場。事実上、武家は私兵をもって国家の兵乱に参加してきたわけです。
しかし、国が乱れ、実際に軍事的力を持った平家が政治的実権を握ると、政治と軍事が遊離していた藤原氏の政治(貴族政治)の欠落、不自然さが、嫌が応にも浮き彫りになってしまいました。頼朝は武家の政権を朝廷から切り離すことで、結果的には政治と軍事の融合した独自の政権を作り出し、事実上の「日本政府」にすることに成功しました。しかし、よく指摘されるように、形式的とは言え、権威(官職)そのものの発給元は京都の朝廷が握り続けます。そのため幕府の力が衰えると、天皇家を担いで叛旗を起こす勢力も出てくるわけです。
●何が「先駆者」なのか?
清盛のやろうとしたことは、そのように手続きの面倒な「二重政権」ではなく、既成の天皇を中心にしたシステムを受け継ぎながら、公家政権に武家的な実利、実力を注入し、一体化させようとしたことにあったのだと、筆者は思います。それが後代の秀吉政治の根幹でもあったわけですが、ここではそれよりさらにはるかのち、江戸時代末期(幕末)に生まれた「公武合体」という政治用語を思い浮かべてください。公(朝廷・公家)と武(幕府・武家)との合体(融合)が、そんな先の時代の、ひとつの政治課題となり、時の政局を左右しているのです。
そうした歴史の展開をふまえるならば、清盛が先駆者であったという意味もより理解しやすいはずです。先駆者としての清盛は、公家と武家がぶつがりあったその初期の段階で、すでに彼なりのやり方で「公武合体」を目指していたわけです。鎌倉の幕府政治がその後の歴史のスタンダードとなるため、清盛の意図した「改革」は闇のなかに葬り去られてしまいますが(それは秀吉をただの「立身出世絵巻」の延長としてしか描けない、従来の歴史の通説ともつながるわけですが)、「融合」に目をつけた清盛の政治手法は、ある意味で「融合」そのものをはなから視野に入れなかった頼朝以上に困難を伴ったものであったはずです。
……ここまで、清盛の活動を前置きなしに「政治改革」と記してきました。その改革の実態については、また稿を改めて書くことにしたいと思います。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月24日 16:27