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2004年12月15日
義経を知る3つのキーワード(1)〜“コイン”を裏返すと「頼朝」がいた
●「二人で一人」の類まれな兄弟関係
源義経は、源氏の棟梁・義朝の末子として生まれますが、はっきりと歴史の表舞台に姿を現すのは、1180(治承4)年、兄・頼朝との黄瀬川での対面の時です。兄の挙兵をかくまわれていた奥州で知り、矢てもたまらず、わずかな手勢で参陣したと伝えられています。そして以後約9年、平家追討の華々しい活躍から、奥州・衣川での「死」に至るまで、兄の影はつきまといます。
これは頼朝の側から見た場合も同様。二人はいわば、コインの裏表であり、解釈によってどちらかが影になり、光になるという関係。天皇と藤原氏による政治システムから独立し、以後700年続く武家の政権を打ち立てた頼朝。ありえない戦術を次々と成功させ、悲劇をまとった希代の英雄として後世に名をとどめた義経。それぞれの生涯をたどっていくと、どちらが欠けても成り立たない、まさに対照的としか言いようのない「役割分担」が見て取れるから不思議です。
義経は、平家追討の第一戦ともいうべき一の谷の戦いに勝利を収めた1184(寿永3)年、後白河法皇より検非違使左衛門尉に任官されます。通称、判官。鎌倉には無断の任官であったことから、兄・頼朝の不興を買ったと言われています。後世の人間は、弟に冷たくあたる頼朝を「悪役」に仕立て、やがて悲劇の末路へと向かう義経に同情、これが「判官びいき」の語源となったわけですが……。
この「判官びいき」の反動からか、近年では頼朝の政治感覚、業績を再評価する見方も出てきました。頼朝は父・義朝の敗死後、兄も相次いで亡くなったため、源氏の棟梁の立場にありました。しかし実態を言えば、伊豆に幽閉された流人です。誇示できるのは血筋という権威だけ。打倒平家の挙兵後、いくつかの幸運が重なって鎌倉武士の頭目に推戴されはしましたが、非常に不安定な立場にありました。彼に対する評価は、この不安定さと大きな関係があるのです。
●「危機」を感じていたのは、北条氏
このあたりの機微について少し説明していきましょう。流人だった頼朝には、当然、累代の家臣も、戦を起こす兵力もありません。彼に将来を託した関東の豪族・北条氏が、実質的には彼の権威を支えていたわけです。もっと具体的に言えば、後に尼将軍などとも呼ばれる妻の政子の「愛」が、頼朝の「力」の源泉でした。彼女が愛想を尽かせば、北条氏との関係も険悪になり、破滅につながります。
北条氏の立場から見れば、頼朝と政子の結びつきは他の御家人を圧し、新たに台頭しつつあった武家政権のイニシアチブを握るための「玉」のような関係です。ある意味、持ちつ持たれつではありますが、後の歴史の展開を見てもわかる通り(後述しますが)、頼朝の立場のほうがずっと弱かったことが想像できます。極論すれば、頼朝は北条氏の傀儡であったとすら言えるわけです。
要は、この不安定な関係のうえに成り立っていたのが、初期の鎌倉武家政権の実態なのです。そこに、この実態を知らない義経という弟が、奥州からやって来る。その背後には、すでに実質的な独立政権として君臨していた奥州藤原氏の影が見え隠れする。しかも驚くべきことに、この弟に信じられないような軍事的才能があることが判明する。はっきり言って、義経の存在に最も危機感を抱いたのは北条氏であったことは容易に想像できることです。そして、頼朝はその立場上、彼らの危機感を最も敏感に感じ取っていたはずなのです。
このあたりの義経、頼朝、北条氏(政子)の心理は、小説の題材としてもおいしすぎるくらいの綾が折り重なっています。義経にすれば弟が兄を慕うのは当然の感情となるし、頼朝と北条氏の微妙な関係を知ったとしても、「兄上は、私を取るのか、妻を取るのか?」と、ストレートに問いただしたかもしれません。司馬遼太郎氏のように、義経を兄の不安定な立場を理解しない(できない)政治的愚者のように捉える見方もありますが、筆者には異論があります。彼の感覚からすれば、問題はもっと単純なところにあったはずだからです。
●見落とされがちな、兄・頼朝の悲劇性
確かに頼朝は、鎌倉に独立した武家政権を立ち上げるために、兄弟の情も捨てる必要があったという解釈も成り立ちます。権力者の堕落は身内に対する「甘さ」から始まるという見方もあるし、短期間で没落した平氏をそのような視点から批判することも可能でしょう(平家は一族のつながり、血縁というものを非常に大事にしていました)。つまり、頼朝が義経を特別扱いしなかったのも、御家人たちの信任を勝ち取るための適切な判断であったとなるわけですが……。
しかし、考えてみてください。身内という点で言えば、妻の実家である北条氏もまた身内なのです。頼朝が北条氏に対しても特別扱いせず、是々非々で対応できる立場にあったのなら、義経に対する「冷たさ」も公平であったと評価できます。しかし現実的には、それをしたら彼の命はなかったはず。事実、頼朝は征夷大将軍に就任した7年後(1199・建久10年)、不可解な死を遂げます。落馬が原因とも伝えられますが、北条氏が影でその死に関与したという説もあります。
それが事実でなかったとしても、ご存知のように、源氏は頼朝からわずか3代で絶え、鎌倉幕府は実質的に北条氏の政権へと転換していきます。2代・頼家、3代・実朝の横死には、北条氏が明らかに関与しています。平家の栄華も短かったが、源氏の栄華も同じように短かったのです。頼朝を単純に勝者とは言えない、あえて言えば勝者は北条氏であるわけですが、それをふまえたならば、弟(義経)ではなく、妻(北条氏)を選ばなければならなかった頼朝もまた、じつは義経にも勝るとも劣らない、悲劇の人物であることがわかるはずです。
頼朝が無能な人間でないかぎり、自分が実質的な力を持った権力者ではなく、京都の天皇の地位にも近い、武家にとっての権威にすぎないことを心の中で感じていたはずです。しかし、それを口にしてしまってはおしまいだというプライドもあったでしょう。当然、義経にそんな「窮状」を打ち明けることもできるわけがない。二人が仲良くするという事実自体が、こと北条氏に対する政治的行動につながるのです。好き嫌いだけで言動ができない、彼の難しい立場は十分想像できます。
●「単純さ」という義経の才能
もちろん、こうした点をふまえたとしても、やはり義経には「自分が兄に疎まれるのはおかしい」という、非常に単純な感覚があったと思います。なぜなら、それが「道理」であり、「正しい」からです。史料などでは戦目付(軍監)だった梶原景時との確執が伝えられますが、それらの逸話を見ても、義経の思考法は非常にわかりやすく、決して複雑ではありません。それどころか、複雑にもなりかねない様々な状況判断を、余計なものをそぎ落として単純化させる能力を持っていた、だからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのだと言えるのです。
複雑な現実を単純化させ、本質をえぐり出す。これは愚者にできる発想ではありません。その発想から見れば、「兄の目は曇っている」となります。わかりますか? 事実、彼の権威は結果として北条氏に利用され、源氏の血筋は絶えてしまう。頼朝が正しい判断をしていたわけでも、義経が愚かだったわけでもないのです。そのように善悪でこの兄弟を色分けしてしまうのではなく、そして北条氏を悪役にするのでもなく、もっとありのままに歴史を見る必要があります。
要は、兄・頼朝は、自らが生き延びるために、複雑すぎるほどの思考法が求められていました。しかし義経もまた、生き延びるためにその対極にある単純な思考法を手に入れていたのです。誰がどう努力しても、この二人は絶対に交われません。後世から見れば、ともに悲劇の運命をたどるのを約束されていたかのような生涯が与えられ、その生涯の中で希有な転換期の重要な役割を担っているわけです。善悪の感覚から抜け出すことで、歴史の「面白さ」が見えてきます。
●足りないものを補い合う関係
この稿の最後に、もう一つこの兄弟の「コインの裏表」を物語る面白い対比をしてみましょう。頼朝は関東の武士たちに推戴された「軍事政権の長」でありながら、実戦経験はほとんどありません。源氏の棟梁という血=権威によってアイデンティティを築いていたという点で、実態は限りなく公家的です。一方の義経は、関東の武士とは無縁の存在で、都(京都)との結びつきの強い存在でありながら、アイデンティティはすべて戦闘行為によって作り上げていました。
客観的に見ればどちらも何かが足りず、一方の足りないものを一方が十分すぎるくらいに持っていた。この二人が結びついたらまさに無敵です。だからこそ、北条氏が義経を恐れたわけだし、兄弟の仲を離間させるための策もプレッシャーも、頼朝に浴びせ続けたことが想像できるはずです。言ってみれば、義経と頼朝は、すれ違いを強いられるあやふやで不安定な関係でありながら、実態としては協力し合い、役割分担し、新しい時代の扉を押し開いたわけです。義経という人間に注目するということは、頼朝を注目することにつながります。頼朝の評価が高まっていけばいくほど、義経の評価も高まっていく関係にあるわけです。
次のキーワードは「戦術」。常識離れと言うより、日本人離れしていた義経の戦術の秘密について、筆者なりの視点でつづってみます。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月15日 16:36