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2004年12月15日
義経を知る3つのキーワード(2)〜「戦術」の背後に見える異人の影
●「夷」に支持された異能の「将軍」
義経は、当時の軍人(武士)としては画期的な才能を持っていました。前の稿でも書きましたが、征夷大将軍となった頼朝が、実戦経験のほとんどない権威としての将軍であったのに対し、義経はバリバリの、しかも負け知らずの常勝将軍。義経=源氏の強さの象徴と、当時の庶民の目には映っていたわけです。
でも、ちょっと面白いなと思うのは、いくら事実上の「将軍」であっても、「征夷」とはまったく無縁であったと言うこと。征夷とは「夷(えびす)=朝廷に歯向かう敵」を「征討する」という意味。平安時代初期、東北で蝦夷(えみし)を破った坂上田村麻呂が初めて任命された職として知られていますが、義経の時代、蝦夷といえば、奥州藤原氏のことです。奥州は彼の支持基盤であったわけだから、これまでの時代の「将軍」の概念とも、どこか異質な存在であったわけです。
わかりやすく言えば、将軍(征夷大将軍)とは、イコール武家の棟梁。武家とは地方に自立した職業軍人のようなもので、中央の政府(朝廷)の命令で外敵を討つ役目がある。日本は平安の御代以来、海外からの侵略の危機はほぼなくなったため、この職の任官は長く途絶えていました。しかし、関東の武士たちの間では権威の象徴として認知されていたらしく、頼朝も武家の棟梁としての地位を確固たるものにするため、征夷大将軍への任官を切望します。
義経の戦術とどんな関係があるのかと思うかもしれませんが、じつはこのへんが一番重要なポイントなのです。要は、義経は土地という基盤がない。言い換えれば、「個人」としてしか存在していない。当時の国の基盤は農業です(以後もずっとそうであるわけですが)。鎌倉武士の気概を表す言葉に「一所懸命」というものがありますが、一所は言うまでもなく土地のこと。土地を守り、一族を養う、そのために戦う。頼朝という権威は、時代的にはまだ新興勢力にすぎなかった武家の「一所」を保証する存在として機能し、敬意を集めていたわけです。
●「土地を持っていない」という異質さ
繰り返しますが、義経にはこの「一所=土地」がない。戦功を立てたあと伊予守(伊予国の国司)に任官されたり、平家の没官領を得たりしますが、これは彼が早くに没落したこともあり、実質を伴ってはいません。また、源氏の棟梁の「末子」という血筋は、頼朝の存在を前にしたら、相当に希薄な権威です。土地もなく権威も曖昧なとらえどころのない存在、しかし、どこからともなく現れたかと思うと、「一所懸命」の精神とはかけ離れた戦術、戦略で、強敵だった平氏を打ち破ってしまう。義経は牛若丸時代に、鞍馬の天狗に戦術を教わったなどという逸話がありますが、この逸話の背景にはこうした異質さが見え隠れします。
先ほど筆者は何気なく「個人としてしか存在していない」と書きましたが、そもそもこうした彼のアイデンティティ自体が、異質なのです。日本の社会は、伝統的に「個人」の生まれにくい社会です。それぞれの人の背後には生んで育ててくれた家族(親族)と、生活基盤である土地(故郷)が濃厚に存在しています。前にも書いたことがありますが、原始社会のプリミティブな血縁関係が、歴史時代になって以降も「和」という形で連綿と続いていった社会なのです。
しかし、数奇な生涯をたどった義経は、この「当たり前」を持つことのできなかった人間なのです。生まれてすぐに父を戦で失い、母(常磐御前)は敵将(平清盛)の情婦となったのち、他家に再婚する。その後寺に入れられますが、出家を拒み、出奔します。金売りの吉次という商人に伴われて奥州に向かったと言われますが、こうした幼少期の逸話をたどっただけでも根無し草の人生、いわゆる「一所懸命」の武士とは異なる生活環境にあったことが見えてきます。
奥州藤原氏のことはまた別の機会に書きますが、先に触れたように、彼らは蝦夷の末裔です。初代の藤原清衡以来、都にも劣らない独自の仏教文化を花開かせ、中央の貴族との混血も進みますが、しかし、あくまでも彼らは「蝦夷」の生活スタイル、文化を守っていました。わかりやすく言えば、奥州藤原氏の政権は、農業を基盤としたものではなかったということ。基盤の一つではあったと思いますが、奥州は金と馬の産地であり、彼らは日本海を挟んでの対外貿易で巨利を得ていたようです。当時の日本のスタンダードとは異なる生活環境がそこにはありました。
●「天才」的発想の秘密はどこにあるか?
義経が「天才」と呼ばれるとしたら、それは発想が自由であったからに他なりません。この発想の自由は、天賦の才能などと言う前に、彼の意識が土地というしがらみに支配されていなかった結果であると筆者は捉えます。土地は確かに、自らのアイデンティティを保証する大事な基盤ですが、当時のように貴族と武家の権威の入り交じった社会では、守り抜く意志がなければあっという間に奪い取られ、没落してしまいます。人間的に有能でも、そこで発想が縛られてしまいます。現代人ではなかなか想像ができないほど、それは強い縛りであったと思うのです。
義経はその点、良くも悪くも守るべきものがありません。あるのは、宿敵である平家を倒すという意識だけです。余計なことを考えずに、ただその一点だけに集中して考えることができました。現在でも人には多々しがらみがあり、発想はそこに左右されます。しかし義経は「自由」でした。他の武士たちと戦術の面で「差」が出てしまったのは、ある意味当然です。加えて、一所懸命の武士にも、都の貴族にも経験できないような、漂泊の人生を経験しています。奥州藤原氏との出会いによって、土地に縛られない貿易立国的な国づくりを目の当たりにします。
たとえば、漂泊という言い方ではわかりにくいかもしれませんが、「農業を基盤にしない生活」と言い換えると、もうひとつの「日本の顔」が見えてきます。農耕が大陸より伝わる以前の、日本列島で展開された生活です。当時の日本人のことを考古学の世界では、縄文人と呼んでいます。縄文時代にも農耕はあったという指摘もありますが、かといって彼らは農耕に依存していたわけではありません。わざわざ田畑を耕さなくても生きていける環境が、そこにはありました。
具体的には、狩猟・採集・漁労の生活です。ここでは深入りしませんが、かつての日本人(縄文人)は、日本列島に特有な、四季の巡り来る非常に恵まれた自然環境のおかげで、土地に縛られない自由な生活をほぼ1万年にわたって続けることができた。農耕を取り入れなかったのは、「遅れていた」からではありません。あえてそんな努力をする必要に迫られなかったからです。逆に、農耕を取り入れざるをえなくなったのは、一つは日本列島が寒冷化し、狩猟や採集だけでは食べていけなくなったから。その時点で、大陸の戦乱などから逃れた移民が、日本列島に、断続的に渡ってきていたようです。彼らが弥生人です。農耕の技術を持っていたため、自然とイニシアチブを取ることになっていきます。
●義経を支えた「非農耕民」の影
縄文人はもともと栗やドングリなどを採取し、粉にして、パンなどの主食にしていたと考えられています。要するに、平地というより、山里が生活のフィールドだったわけですが、弥生人の農耕文化が伝播するに従い、その山里も徐々に浸食され、彼らと同化したり、あるいはより奥地に追いやられたりするようになったと考えられます。奥地は山間部というだけでなく、西から東へというベクトルとも重なります。日本の歴史は、大陸民を中心にした弥生人の活動とともに、徐々に西から東へと形作られていきます。司馬遼太郎氏風に言えば、弥生文化は「農耕と武具と天皇制とともに」日本列島に広がり、同化しない地域は征討の対象となりました。縄文人が蝦夷と呼ばれるようになったのもこうした過程によってです。
長々とエライ昔の話を書いてしまいましたが、蝦夷とは基本は非農耕民であり、縄文人の血を引く原日本人であり、弥生人の子孫によって作り上げられた大和朝廷(天皇家)の政治システムの「外部」に存在していた異物であったわけです。義経の逸話に登場する天狗、昔話に頻繁に登場する鬼などは、この外部の存在に対する異称です。逃亡中に義経が扮したという山伏(修験者)の一行も、体制に収まりきらない「外部」です。土地を持たない義経には、彼らとの関わりが非常に強く感じられるのです。
この日本の歴史の中の「二重構造」を、民俗学者の柳田国男は、平地民と山人の対比という位置づけで語っています。日本という国は、ご存知のように関東(東日本)と関西(西日本)で文化が大きく異なります。しかしそれだけではなく、一見農耕社会を基盤にしているように見えて、その背後には山人たち(縄文人の末裔)の見えない影響力がちらつきます。義経という希代の「軍事的天才」の秘密も、農耕文化=平地民の感覚、視点からだけでは見えてきません。
中国大陸の歴史が、農耕民(漢民族)と遊牧民(騎馬民)のせめぎ合いの中で紡ぎ出されたように、日本には日本の、特有の二重構造が存在する。じつは義経と頼朝の関係も、この二重構造の型の反映とも言えるわけです。もちろん、謎の多い奥州藤原氏の存在も、この二重構造のなかから実態が浮かび上がってきます。歴史を裏舞台から支える山人たちを「まつろわぬ民」と表現する人もいますが、義経の郎党(武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛)などは、まさにまつろわぬ民の象徴です。
●「英雄」とは、失われた感覚を思い出させる存在
要するに平地民の感覚で義経を捉えようとすると、神出鬼没、何を考えているかわからない不気味な存在となります。頼朝や、彼を担ぐ北条氏ら鎌倉武士が、義経にどうしてもなじめなかったのは、彼らもまた平地民であったからです。頼朝が血を分けた弟にもかかわらず、義経を他人のように扱ったのも、政治的意図であるという以上に、存在としてどこか気持ち悪かったからだと筆者は思います。
もう少し細かく言うと、縄文人そのものは大陸系の農耕民とは違った意味で、定住志向を持っていたと考えられます。なかには丸木舟で海洋に乗り出して、果てはアメリカ大陸まで渡ったエネルギッシュな縄文人の存在も指摘されていますが、彼らを取り巻く平穏で豊かな生活環境は、基本的にのんびり、ゆったりしたものだったと思います。少なくとも、戦乱の絶えない大陸のスタンダードであった「弱肉強食」の感覚はあまり必要としなかったでしょう。一面の甘さにつながる彼らの精神性は、農耕社会の定着したのちも、日本人の意識に大きな影響を及ぼします。
「和」を大事にし、争いごと(戦争)を極端に嫌う平安貴族、「正々堂々」の戦いを理想とする鎌倉武士、彼らは平地民の文化にどっぷり漬かりながら、じつは原日本人(縄文人)のDNAを無意識に受け継いでいると筆者は思います。しかし同時に、彼らの持っていたもう一つの顔、先に書いた丸木舟で大陸まで渡ってしまうような進取の精神、機動性、好奇心と言った感覚は、どこかで見失っていたのではないか? 都の秩序に背を向けて関東の原野を開拓した武士たちも、弥生人がもたらした大陸流の「弱肉強食」の感覚は十分受け継いでいました。しかし、「一所=土地」に執着する彼らは、「自由な冒険者」とは言い難かったはずです。
要するに、義経が「英雄」として空前の人気を集めたのは、ただ単に戦が強かったからではないのです。当時の日本人が知らない間に見失っていた感覚(縄文時代の記憶の一部)を、彼は存在として体現していた。それはどこか子供っぽさを残した、既成概念にとらわれない自由な発想と行動力です。かつて自分たちも持っていたかもしれない感覚が、この小柄な若者の活躍で呼び起こされた。そこに義経の存在価値、人気の秘密が見いだせます。非農耕民的な生き方を強いられることで(実際にそうした系統の人々と接することで)、彼の中に縄文時代1万年のDNAが甦ったわけです。
弥生人的な生き方をせざるをえなかった頼朝は、もしかしたら縄文人としての義経に恐れだけでなく、嫉妬を覚えたのかもしれません。そして義経もまた、縄文人が弥生人に生活圏を奪われていったように、束の間の栄華ののち、再び漂泊の運命を強いられ、歴史の表舞台から姿を消します。血のなせる業というなら、それはまさに歴史を俯瞰したときに見えてくる巨大な運命の綾のように思えるのです。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月15日 16:35