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2004年12月15日
義経を知る3つのキーワード(3)〜「奥州藤原氏」の不思議
●無視できない「縄文人=蝦夷」の影響力
義経の背後に「異人」の影が見え隠れすることは前回指摘しましたが、この異人とは、東北に生活拠点をもつ蝦夷(えみし)とイコールと言ってもよく、特に精神的な面で、原日本人=縄文人のDNAを引き継いでいたと考えられます。縄文人は農耕文化を持った弥生人に追いやられた敗者のように捉えられがちですが、事実はそうでありません。繰り返し触れてきたように、有形無形に、後世の日本人の精神形成に大きな影を及ぼしています。
飛躍に思われるかもしれませんが、義経を理解するには、縄文人の影響力を理解する必要があるということ。彼の活躍した時代、その影響力を具体的な形で体現していたのが、蝦夷の末裔であった奥州藤原氏の政権。後世の我々は単純に源氏が平氏に勝利して武士の政権(鎌倉幕府)が打ち立てられたと捉えがちですが、当時の情勢はもっと複雑です。少しそのあたりについて解説していきましょう。
まず、当時の日本には、天皇制(律令システム)を戴く藤原氏の政権がありました。彼らの政治基盤は荘園と呼ばれる私領です。律令のシステムによって五幾七道に区分された全国の国々に国司が派遣され、一定の土地を割り当てられた農民から税を徴収し、財源とします。しかし、それは理念上のことで、実際には未開墾の土地が全国にいくらでもあったわけです。未開墾地も制度の上では国家のものですが、せっかく開墾した土地を所有できなければ張り合いがありません。
地方の有力者は農民たちを使役して開墾した土地を、中央の有力者に形式的に寄進し、保護してもらうことで実利(管理料)を得るという道を選びました。これが荘園です。藤原氏が全盛の時代は、彼らのもとに土地の寄進が相次ぎました。藤原氏自身が作ったと言ってもいい律令の土地徴税システムは、彼ら自身によって形骸化され、彼らの繁栄のために都合よく作り替えられていたわけです。
●「第四の勢力」としての奥州藤原氏
源氏や平氏などの武家は、もともと皇族から枝分かれした存在で、血筋も決して悪くはありませんでしたが、こうした貴族たちのガードマンのような、低い身分に甘んじていました。都ではうだつがあがらないため、平安時代の400年のなかで、彼らの中から地方に土着し、開墾する勢力が現れはじめます。当然、各地には貴族の開墾した荘園がありますから、権利の衝突が起こります。
今の時代は「一つの土地に一人の権利」が当たり前で、日本の場合、「誰のものでもない土地」など、ほとんど存在しないので、なかなか実感できないかもしれません。しかし、当時の社会をイメージすると、開墾地と未開墾地が混在し、法律も十分に整備されていないため(荘園そのものが厳密には違法だったわけです)、所有者の権利も曖昧。中央で権力を独占していた藤原氏は、庇護者の立場でこうした「弱者の心理」を巧みに利用し、空前規模の繁栄を築いていきます。
このやり方は藤原氏が衰退したのち、都で政権を握った平氏が踏襲します。もちろん平氏と一線を画す形で、院政を敷いていた法皇=天皇家(朝廷)も、国ガ領と呼ばれる事実上の私領を有していました。そして、関東には鎌倉武士の庇護者である源氏の勢力があり、彼らの頭目である頼朝は、後白河法皇との政治的駆け引きのなかで、全国各地に守護・地頭の設置を認めさせます。貴族の荘園がなくなったわけではなく、その荘園の新たな管理者として地頭が鎌倉から派遣されたわけです。となれば、権利の衝突にさらに拍車がかかるでしょう。土地をめぐる権利争いが、当時の政治・経済の中心課題であったことがわかるはずです。
前置きが長くなってしまいましたが、奥州藤原氏の政権は、こうした朝廷、平氏、源氏の勢力とは、一線を画す「第4の勢力」でした。中央の藤原氏に対しては、領内の荘園、物産品を含め法外とも言える寄進を行うことで懐柔し、武力的・政治的衝突を極力避ける形で、実質的な独立政権として100年の繁栄を築いていました。中央からは俘囚などと蔑まれながら、史上名高い中尊寺の金色堂、毛越寺など、こと文化面での成熟度は都のレベルを数段上回っていたと評されています。
●義経の「不気味さ」と「優しさ」
義経は京都を出奔したのち、この奥州藤原氏のもとで青春時代を過ごします。兄・頼朝の挙兵に際しては、当主・秀衡の政治的意図で、わずかな手勢のみで駆けつけますが、バックに奥州がついているという事実は変わりません。繰り返しますが、藤原を名乗っていても、彼らは得体の知れぬ蝦夷です。それがいつの間にか巧みな政治力すらも身につけ、中央の政権にも勝る勢力を築き上げている。情報の少なかった当時のことを考えれば、不気味さは増幅されていたでしょう。義経がいくら兄を慕ったところで、頼朝は素直に彼を受け入れられなかったはずです。
奥州藤原氏の軍勢は、当時17万騎と称されていました。朝廷には軍事力がありませんから、平安末期は事実上、源氏、平氏、奥州藤原氏が並ぶ三国鼎立の状況です(源氏は一時期、鎌倉の頼朝と木曽の義仲とに二分されていました)。要するに、奥州の庇護をうけていた義経は、軍事的才能を語る以前に、すでに存在自体が政治的であったわけです。奥州のバックアップに、異例の戦果が加わることで、義経の神秘性(悪く言えば不気味さ)が増幅されていったのです。奥州政権の存在を過小評価してしまうと、義経の人間像も見誤ってしまいます。
ただ面白いことに、義経はこうした強い政治的背景と軍事的才能を持ちながら、頼朝に対しては奇妙なまでに決定的な敵意を抱かなかったと言われています。「彼の性格が純粋だったからだ」というのが一般的な解釈かもしれませんが、それでは説明不足です。生まれつきの純粋さなど、環境の中でいくらでも変化します。筆者はここでも、土地に対する執着心のない彼の半生が大きく影響していると考えます。平家追討に執念を燃やした生き方は執着心の現れのように思えますが、史料をたどるかぎり、現代のスポーツマンに近いような印象があるからです。
単純に言えば、純粋であったというより、どうにも人間が「優しい」のです。そして囚われというものが、淡白なほどにない。宿敵であった平家を滅ぼしてしまえば、彼らに対する恨みも消えてしまうのが義経です。壇ノ浦の戦いで生き残った平家の棟梁・宗盛の助命を口にしたり、「平家にあらずば人にあらず」と放言した平時忠の娘を京に凱旋してそうそうに娶ったり(そうした言動の一つ一つが政治家としての頼朝をいら立たせますが)、要はそれが義経という人間の本質であり、言い換えるなら、体制に収まりきらない自由人であったということです。だから英雄として憧れの対象にもなり、政治的に排除される存在にもなるわけです。
●奥州藤原氏にも通じる、義経の「優しさ」
この優しさは、奥州藤原氏にも相通じる不思議な性質として、筆者の目には映ります。たびたび名前を出して申し訳ないですが、司馬遼太郎氏の語るような「政治的状況の読めない痴人、愚者」という辛口の義経評は、一つの見方にすぎません。それが間違いだったと言っているわけではないですが、義経の意識の根本には、政治的判断以前に、もっと単純な「兄とは争いたくない」という感情があったわけです。単純すぎる評価と思うかもしれませんが、この単純さは奥州藤原氏=蝦夷の持っていたであろう感覚、価値観ともつながってきます。
頼朝から見れば、確かに義経は秩序の紊乱者です。彼の存在を許し、認めてしまえば、傘下の鎌倉武士たちにしめしがつきません。しかし、それはあくまでも頼朝の都合でしかないものです。もっと言ってしまえば、これまで繰り返してきたように、頼朝を操ろうとする北条氏の都合です。彼らの都合に振り回されすぎず、義経の本音をひもといていけば、「わざわざ兄と戦う意味がどこにあるのか?」ということに尽きていたはずです。それ以上の複雑さがないのが義経なのです。
義経が平家を倒したのは彼自身の存在証明のようなもので、避けるわけにはいかない宿命であったことが感じ取れます。しかし、同じ戦でも、兄と戦うことにそのような宿命を見いだせたかどうか? 政治的判断と称して割り切ってしまえることのほうが、「愚か」だという見方も成り立ちます。実際、頼朝に宛てた有名な腰越状がにべもなく拒絶され、京都で彼からの刺客(土佐坊昌俊)に襲われたのちも、義経は鎌倉に攻め入ろうとはしていません。動員できる兵力がなかったことも理由の一つかもしれませんが、単純に気が乗らなかったからだと思うのです。
九州で再起を図ろうという消去法のような選択をした義経は、船の難破でそれも果たせず、頼朝の追捕を逃れながら第二の故郷・奥州にたどり着きます。不運なことに、最大の庇護者であった当主の秀衡は、義経が奥州入りした1年後(1187・文治3年)に病死しますが、その臨終の間際に、世継ぎの泰衡、国衡(泰衡の異母兄)らに「義経を大将にして鎌倉と戦え」と遺言したと言われています。一般に泰衡は当主の器でなく、鎌倉の圧力を恐れるあまり、義経を衣川に襲い、殺害したということになっていますが、果たしてそうなのでしょうか?
●なぜ戦わなければならないのか?
泰衡が無能だったかどうかは、じつは歴史的にハッキリ証明できるものではありません。「ロクに戦いもせずに、奥州藤原氏をあっさり滅ぼしてしまった張本人」という事実だけを前提にして、彼の器量も人間性も決めつけられている感があるのではないか? 仮に遺言通りに義経を大将にして鎌倉と一戦を交えれば、勝敗はともかく奥州は戦火に巻き込まれ、多くの人々が犠牲になったでしょう。そのうえで勝ったとしても、では、その先どのような展望があるのか?
奥州藤原氏の祖・清衡の父・藤原経清は、無益な戦を仕掛けてきた中央の政府に反抗し、前九年の役(1051〜1062年)で、当時の奥州の覇者であった安倍氏に加担し、敗れて斬首されます。頼朝=鎌倉の圧力は、戦を回避しようと自重する安倍氏を挑発し続け、最後には滅ぼした当時の棟梁・頼義のやり方と重なります。源氏の基盤を確固たるものにするために、蝦夷を敵として利用したわけです。
経清の遺児・清衡は、後三年の役(1083〜1087年)を経て、奥州の覇権を確立したのち、あまりに多くの犠牲者を出した戦乱の傷跡を癒すため、大陸との交易で積極的に仏教文化を吸収し、国づくりの基盤にしています。精鋭17万騎と喧伝された兵力よりも、今日の東北人の気質にもどこか通じる平和志向の政治が、そこからは浮かび上がってきます。戦をしろと遺言した秀衡にしても、基本的には防衛思想がベースであり、長生きしたとしても、義経を先陣に鎌倉に攻め入ろうというような積極的な野心があったとは思えません。
先に筆者は、義経と奥州藤原氏は、優しさの感覚でつながっていたのではと書きました。根拠についてはこれまで触れた通りです。要は、やる気のない(やる意義のない)戦争で勝っても、あるいは負けても、奥州は戦場となり、焦土になる可能性がある。祖先の供養を第一とする当時の最先端と言っていい仏教文化の中で、4代目の当主になった泰衡も育っています。中央の政治的思惑に振り回され、辛酸をなめてきた蝦夷の歴史も、少なからず聞かされてきたはずです。
●軍事的才能を濫用しなかった義経
従来の解釈では、奥州藤原氏を滅亡に追いやった泰衡は「愚者」と位置づけられているわけですが、その必ずしも根拠のない前提を取り払ってしまえば、結果として、自らが滅びることを代償に戦争を回避した、平和志向の蝦夷の思想、精神性が浮かび上がってきます。義経が衣川で殺されたという定説自体、多くの書籍に当たり前のように書かれていますが、史実であったかどうか確証がないのが現実です。これは別の機会に書きますが、「泰衡が義経を殺したと見せかけて北に逃がした」という解釈も、状況的には十分に成り立つのです。
ここまで読まれた方のなかには、おそらく、作家・高橋克彦氏が描いた長編小説「炎立つ」の世界観を思い浮かべた人もいるでしょう。「炎立つ」の評価についてもまた別の稿に譲りたいと思いますが、別に受け売りを書いてきたわけではありません。筆者がこの作品に共感をおぼえたのは確かですが、それは日本史の様々な場面で、同じようなシチュエーションが韻を踏むように繰り返されていることを知っていたからでもあります。奥州藤原氏だけに特異な例ではないのです。
最近「振り返れば「神」になる」のなかで書いた徳川慶喜などは、この韻の一つの典型です。慶喜もまた才知があり、フランス仕込みの近代軍隊を握っていながら、薩摩・長州との政争に敗北したと知るや、味方を欺いて江戸に逃げ帰り、徹底的に恭順を表明します。慶喜の行為をただの腰抜けと見るか、無用な戦を回避した有能な政治家と見るかは、そのまま泰衡に対する評価とも重なります。
もちろん同時に、卓越した軍事的才能を持ちながら、いたずらにその才能を浪費しなかった(自分にとって意味のある戦争にだけ用いた)義経の感覚は、時代の敗者になったことで逆に浮き彫りになったというのが、筆者の見方です。もちろん、泰衡が好戦的な人間で、秀衡の遺言をそのまま実行しようとする「愚直な」人間だったとしたら、多大な恩を受けてきた義経も異は唱えられなかったと思います。「自分たちが生き延びるために、義経の才能を用いようとしなかった」泰衡の判断があったからこそ、悲惨な戦争が避けられた。そういう解釈も成り立つわけです。
義経と奥州藤原氏の背後には、蝦夷という言葉をキーワードに、縄文時代以来の日本特有の精神風土が隠れています。この風土の本質を理解し、日本人が何者であるかを知り、そのうえで個々の時代、人物、事績をたどっていくことで、ありのままの歴史が浮かび上がってくる。それが義経という「代表的日本人」を理解する、最も確実な方法であると言えるのではないでしょうか。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年12月15日 16:32