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2004年12月24日

先駆者としての平清盛(3)〜「公武合体」を目指した改革者

●分裂してしまった権威

 さて、いよいよ清盛の登場です。彼は父祖の築き上げた政治的基盤をベースに、往年の藤原氏を凌駕する実権を手に入れます。それを可能にしたのは、院(上皇)と天皇家に、権威の中心が分裂したことが関係あります。じつは結果論になってしまいますが、この権威の分裂は、清盛の「政治改革」が最終的に挫折したことで、本質的に解消しきれないままその後の歴史で推移していきます。「権威の中心」を確立することが、清盛以降の「最大の政治課題」にもなってくるのです。

 この分裂の引き金となったのは、天皇家が天皇と上皇とに分裂してしまった以上、ひとつは院政という政治システムに原因が求められます。もちろん、院政自体は必ずしも悪いシステムではありません。「権威」だけになりかけていた天皇家が、長らく政治を支配してきた藤原氏から「権力」を奪い取ろうと画策した結果、生まれたものだからです。空想にすぎませんが、やりようによっては天皇家を中心に、より強固な権威の構築も可能だったかもしれません。しかし現実には、肝心の天皇家内部で新たな対立が生まれてしまいます。

 前回の稿をおさらいすると、院政を始めたのは白河上皇。それを引き継いだのは、孫にあたる鳥羽上皇。大ざっぱに書くと、次のような流れです。

 白河上皇の院政(堀河ー鳥羽ー崇徳天皇の時代・約44年)
    ↓
 鳥羽上皇の院政(崇徳ー近衛ー後白河天皇の時代・約28年)

 これだけだとわからないと思いますが、分裂のカギを握るのは崇徳天皇(上皇)です。系図の上では鳥羽上皇の第一子なのですが、じつは祖父の白河上皇の落胤であったと言われ、これが鳥羽と白河(ひいては崇徳)の不仲を生み出します。白河は何と自分の愛人(待賢門院)を鳥羽の后に据えますが、その時点で彼女が白河の子種を宿していたようなのです。事実かどうかはわかりませんが、少なくとも鳥羽はそう信じており、崇徳を「叔父子」と呼んだ記録も残っています。

 鳥羽上皇としては、崇徳の子供は当然、皇位につけたくありません。白河上皇が亡くなると崇徳を退位させ、寵愛する美福門院の子(近衛天皇)を皇位につけます。ところがこの近衛天皇が病弱で二十歳にならないうちに亡くなってしまう。この時点で皇位継承の最有力は、「長男」である崇徳の子(重仁親王)です。しかしあくまで崇徳の血統を嫌う鳥羽は、ここで皇位継承の圏外に置かれていた「次男」を皇位につけます。のちに鳥羽の院政を引き継ぎ、「大天狗」などとも称された権謀術数で清盛、頼朝とやりあう後白河法皇です。

●「官軍」に組みした平氏の嫡流

 ここに「鳥羽上皇ー後白河天皇」、「崇徳上皇」という対立軸が生まれました。崇徳は上皇の地位にありますが、院の政務は父の鳥羽が握っているため政治的実権はありません。しかし、後白河が皇位についた翌年(1156年)、鳥羽が亡くなってしまいます。院としての政治実績のない崇徳上皇と、皇位についたばかりの後白河天皇、権威としてはどちらも「中途半端」。特に後白河は、自分が天皇になれるとは思っていなかったらしく、相当な遊び人だったと言われています。朝廷での儀礼にも通じていない。権威の面で軽んじられるところがあったようです。

 中心が分裂し、しかもそのどちらにも決定的な力がないと、得てして兵乱が生じます。それが歴史で言うところの、保元の乱です。といっても、皇位についている後白河天皇は「官軍」。つまり、「権威薄弱」とはいえ、国家権力として、公式な形で武家勢力の動員ができる立場にありました。対立軸があるといっても、崇徳とは「対等」でなかったのです。父の代から鳥羽院に仕えていた清盛も、頽勢を挽回しつつあった源氏の義朝も、「官軍」である後白河天皇の動員令に応じたのです。

 ただ、乱という以上、この「官軍」の招集に応じなかった勢力も、当然存在しました。源氏の場合、義朝の父・為義、弟の為朝は、崇徳上皇の側に加担。平氏でも、主流から外れていますが、清盛の叔父・忠正の一族は上皇側についています。彼らの仕える左大臣・藤原頼長が、上皇側に加担していたからです。藤原家は頼長の兄・忠通が関白の地位にありましたが、父の忠実(前関白)が頼長を後継者に据えたため、荘園などの私的財産は頼長のほうに譲り渡していたのです。官位は低くても頼長がいわば藤原氏の主力であり、その財力、勢力基盤がイコール、「反主流派」であった崇徳上皇の兵力を支える形となったわけです。

 結果は波乱なく「官軍」であった白河天皇側が勝利を収め、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦傷死。関白・忠通は官軍についていましたが、主力の敗れた藤原氏の権威、権力基盤は、ここで大きく失墜します。一方、後白河側として戦功のあった清盛は、播磨守、太宰府大弐に任じられました。播磨(兵庫県)は国としてのランクの最上位にあり、すでに四位の位階を受け継いでいた彼は、この時点(36歳)で父・忠盛のキャリアを凌駕します。また、太宰府大弐は、大陸への窓口である北九州地区の事実上の最高責任者です。父の代から展開してきた日宋貿易が、公的にも認証されたことになったわけです。

●「一人勝ち」した平治の乱

 政治・経済面で大きな実利を得た清盛に対して、戦功では清盛を上回り、しかも父と弟を処罰するなど大きな痛手を負った義朝は、武官である左馬頭(さまのかみ)にとどまります。この冷遇ぶりに義朝が不満を抱き、それが次の平治の乱(1159年)につながった……と一般的には言われていますが、父祖の代から中央政界に基盤を築いてきた平氏一族と、保元の乱も含め一族から「トラブルメーカー」ばかり出してきた源氏とでは、昇進に差が出るのも仕方ない話です。義朝は、保元の乱で源氏復活のきっかけがようやくつかめたという段階だったわけです。

 保元のあとに起こった平治の乱も、もちろん一つの権力争いですが、その特徴は没落しつつあった藤原氏の、新興勢力どうしの争いであったという点です。対立軸となった藤原信西(通憲)も信頼も、公卿ではあっても摂政関白クラスではなく、藤原氏の主流ではありません。彼らは院の近臣として台頭し、それを背景にそれぞれの政治的基盤を築いてきました。特に信西は学者の出身で身分は低かったのですが、妻が後白河天皇の乳母であったことから重用されます。そして、後白河が退位し院政を始めた段階(1158年)で、院の近臣のトップ(別当)となった信頼と対立関係が発生したわけです。

 院の近臣のトップでありながら、信頼は実務に長けた信西の台頭を抑えられません。そのため、新たに即位した二条天皇の親政を望む藤原氏の別勢力と手を結び、反信西の兵を挙げたのが平治の乱。この信頼軍の主力が、源氏の棟梁・義朝であったわけです。もともと院よりも藤原氏との結びつきが強い源氏でしたが、こと地盤である関東の中心・武蔵国は信頼の知行国でした。武家はこの時点ではまだまだ権力者の傭兵的な存在です。よく語られる清盛への対抗意識というより、信頼との結びつきから、義朝は挙兵に踏み切ったと考えたほうが自然です。

 この事実上のクーデター軍は、信西の殺害に成功。「官軍」の主力と言っていい平家の清盛は京を留守にしていましたが(それを狙っての挙兵でもあったわけです)、彼を討つかどうかでクーデター軍は意見が割れてしまいます。反信西であっても、反清盛ではなかったわけです(政治手腕のあった清盛には、明確な政敵は存在しませんでした)。結局、清盛の兵力を恐れた二条天皇派の公卿が天皇を密かに内裏から逃し、後白河法皇も行方をくらましてしまうと、信頼と義朝は孤立します。清盛は官軍の立場で彼らを撃破し、結果を見れば「一人勝ち」を収めてしまうわけです。

●必然的に転がり込んだ政治の実権

 すでに藤原氏の主流は没落し、摂政関白クラスに政治を仕切れる実力者はいません。院の近臣として台頭しつつあった傍流(信西、信頼)も、いわば共倒れ。同じく台頭の兆しのあった源氏も、縁の深かった藤原氏とともに完全に没落します。よく語られるように、棟梁の義朝は逃亡中の尾張で家臣に殺され、嫡子の義平も惨首。伊豆に流罪になった13歳の頼朝、寺に預けられた幼い子供たち(今若、乙若、牛若)など、血脈はわずかに残されますが、再起を断たれたのも同様の状態となりました(言うまでもないですが、牛若がのちの義経であるわけです)。

 頼朝や義経が殺されずに済んだのは、清盛の義母である池禅尼の助命嘆願にあったと言われていますが、清盛の感覚からすれば、源氏と戦はしたが、ことさら遺恨はないわけです。また、平治の乱自体、彼にとってはタナボタ的な要素が強く(彼自身が野心を抱いて引き起こしたという性質のものではなく)、この時点で「天下を取る」という意志がどこまであったかも疑問です。清盛の判断を「甘い」と言ってしまうのは、結果を知っている後世の人間のある種「傲慢な発言」にすぎないと筆者は感じます。まあ、「歴史を歪める」典型的な見方でしょう。

 ともあれ、平治の乱以降、現実問題として中央で政務を担える人材が枯渇してしまった。清盛は、国の軍事の一翼を担う伊勢平氏の棟梁というだけでなく、政治的手腕も備えていた人物です。保元・平治の乱で勝者の側にまわったのも、軍事的な実力という以前に、状況に対する的確な判断力が感じられます。もちろん野心そのものはあったでしょうが、彼が政界の中心に登場したのは、必然的な、自然な流れがあったと言えます。武家が政務を担うようになった点がとかく強調されますが、「藤原氏以外の氏族である」という点を、本来重視すべきなのです。

 もちろん清盛だけでなく、もとは皇位継承の数にも数えられなかった「遊び人」の後白河法皇も、乱後、急速に力を得ます。信頼に加担し、のちに裏切る形となった二条天皇派(親政派)の公卿を失脚させることができたからです。後白河と清盛は、保元の乱で結びつきましたが、以降も仲が良かったわけではなく、つかず離れずの関係が続きます。後白河は、一人勝ちした清盛の一門を牽制しながら、白河、鳥羽と続いた新しい政治形態(院政)の強化を図ります。事実上両者に絞られた政務の実権をめぐって、虚々実々の駆け引きが展開されていくわけです。

●自らも「院政」を始めた清盛

 清盛は平治の乱後、正三位に立身し、一族の念願だった公卿のランクを手に入れます。この時点で参議、翌年に権中納言。そして、6年後の1165年には大納言、翌66年には内大臣、67年には太政大臣と、往年の藤原氏を上回るような速度で立身していきます。もちろんこの間に、平家一族の多くも公卿に列せられ、徐々に政治の中枢に入り込んできます。一方の後白河法皇も、二条天皇、六条天皇と院政を続け、68年の高倉天皇の即位に際しては、清盛の協力も取り付けています。

 先に触れたように、二条天皇には衰えたとはいえ反院政派と言うべき公卿がついており、息子の六条天皇は後白河の孫であっても、二条側の息のかかった天皇でした(即位した時、わずか2歳でしたが)。後白河としては反院政派と無縁の、二条の弟(のちの高倉天皇)を皇位につけたい。そして、じつはこの弟親王の妻(平滋子)が、清盛の妻(時子)の妹だったわけです。両者の政治基盤がともに強化できるという点で、利害関係が合致していたわけです。

 と、ここで清盛が起こした面白い動きに触れておきましょう。太政大臣に任官した清盛は、3ヶ月後には辞任し、念願の高倉天皇の即位の直前には、大病を患ったこともあり、出家し隠居してしまいます。といっても政界を引退してしまったわけではなく、当然影響力を持ち続けます。要は、院政と同じ方式で、後白河の権力に牽制を与えようとしたと考えるのが妥当です。しかもこのとき、清盛は都を離れ、日宋貿易の拠点である播磨の福原に移住してしまいます。晩年には400年来絶えてなかった遷都すら挙行してしまうわけですが、このあたりに藤原氏の政治スタイルを超えようとする、政治家・清盛の斬新な感覚、発想が見えてきます。

 この清盛の「隠居→商都・福原への移住」は、前に一度示唆しましたが、後年の豊臣秀吉の政治手法を重ね合わせることで、その意図がより鮮明になってきます。正面切って話を進めるとかなりのボリュームになってしまうので、まあ、ここではアウトラインだけ記しておきましょう。簡単に言えば、清盛の「政治改革」をより明確に実践したのが、500年後に「天下人」となった秀吉なのです。政治家・清盛のある意味での進化系が秀吉だったと言えるわけです。

●「政治と軍事をどう融合させるか」という課題

 清盛が「隠居」で意図したのは、ひとつは官位を辞することで、院の上皇のように自由な政治立場を手に入れるということ(秀吉も関白を辞することで太閤となり、絶対的自由な権力者の地位を獲得します)。言い換えるなら、官位に頼らずとも、その実力・存在感だけで一つの権威を形成できるという自信を、この時点で清盛は得ていたと考えられます。といっても、(後年の秀吉がそうだったように)皇位そのものを算奪しようとしたわけではありません。ある意味でそれ以上に重要なのは、彼が「個人としての自信を得た」ということです。一見藤原氏の政治スタイルの模倣のように見えて、この点が明らかに異なります。

 一見抽象的な話に思えるかもしれませんが、この「個人としての自信」は、清盛が武家であったということと大きく関係しているものです。武家らしさを引き継いだのは関東に地盤を築いた源氏で、平家は都で出世して公家化したというのが通説ですが、そうではなかったということです。実力主義を強いられてきた武家の末裔らしく、彼は彼のやり方で「実利に根ざした権威の形成」を目指したのです。もちろん、ここまで書けばおわかりのように、その実利には貿易(商業)による経済基盤の確立も含まれています。土地からの収入だけでは、既成の権威からの自由は得られないことを、彼が感覚的に理解していたからです。

 また、清盛の目指した「政治改革」には、もうひとつ、じつは鎌倉幕府を開いた頼朝の「改革」以上に重要と言っていい要素が隠されています。それは藤原氏の政治スタイルの欠陥の克服でもあったわけですが、簡単に言えば、「政治と軍事をどう融合させるか」という課題です。大局的に見て、国を揺るがすような戦乱のほとんどなかった平安時代は、軍事はあくまで政治の添え物、臨時的な役職でしかありませんでした。様々な経緯から発生した武家にしても、正規の職というより、これまで繰り返してきたように、天皇や貴族が私的に雇ったガードマン、傭兵といった立場。事実上、武家は私兵をもって国家の兵乱に参加してきたわけです。

 しかし、国が乱れ、実際に軍事的力を持った平家が政治的実権を握ると、政治と軍事が遊離していた藤原氏の政治(貴族政治)の欠落、不自然さが、嫌が応にも浮き彫りになってしまいました。頼朝は武家の政権を朝廷から切り離すことで、結果的には政治と軍事の融合した独自の政権を作り出し、事実上の「日本政府」にすることに成功しました。しかし、よく指摘されるように、形式的とは言え、権威(官職)そのものの発給元は京都の朝廷が握り続けます。そのため幕府の力が衰えると、天皇家を担いで叛旗を起こす勢力も出てくるわけです。

●何が「先駆者」なのか?

 清盛のやろうとしたことは、そのように手続きの面倒な「二重政権」ではなく、既成の天皇を中心にしたシステムを受け継ぎながら、公家政権に武家的な実利、実力を注入し、一体化させようとしたことにあったのだと、筆者は思います。それが後代の秀吉政治の根幹でもあったわけですが、ここではそれよりさらにはるかのち、江戸時代末期(幕末)に生まれた「公武合体」という政治用語を思い浮かべてください。公(朝廷・公家)と武(幕府・武家)との合体(融合)が、そんな先の時代の、ひとつの政治課題となり、時の政局を左右しているのです。

 そうした歴史の展開をふまえるならば、清盛が先駆者であったという意味もより理解しやすいはずです。先駆者としての清盛は、公家と武家がぶつがりあったその初期の段階で、すでに彼なりのやり方で「公武合体」を目指していたわけです。鎌倉の幕府政治がその後の歴史のスタンダードとなるため、清盛の意図した「改革」は闇のなかに葬り去られてしまいますが(それは秀吉をただの「立身出世絵巻」の延長としてしか描けない、従来の歴史の通説ともつながるわけですが)、「融合」に目をつけた清盛の政治手法は、ある意味で「融合」そのものをはなから視野に入れなかった頼朝以上に困難を伴ったものであったはずです。

 ……ここまで、清盛の活動を前置きなしに「政治改革」と記してきました。その改革の実態については、また稿を改めて書くことにしたいと思います。

投稿者 長沼敬憲 : 16:27 | コメント (0)

先駆者としての平清盛(2)〜変革期に登場した伊勢平氏の系譜

●対立していたわけではない源氏と平氏

 平清盛の「新しさ」に焦点を当てる前に、まず、源氏と平氏という二大武家勢力の話から。源氏も平氏も、勃興した平安時代の歴史の中で、それぞれ勢いがあった時と、なかった時(衰えた時)がある。均等な力関係になった時というのはほとんどなく、どちらかが浮上するとどちらかが沈むというような関係。といって、ライバル関係とも言い難く、クライマックスの源平争乱(治承・寿永の乱)は別として、始終張り合っていたわけでもない。その点をざっとたどっておきます。

 まず平氏から。平氏と言うと、10世紀中葉の「平将門の乱」がまず思い浮かびます。これは東国に土着した皇族の末裔(桓武平氏)の、一種の内輪もめのような一面がありますが、朝廷に叛旗をひるがえし「新皇」を名乗った将門を討ったのは、同じ一族の貞盛。血筋としては貞盛が桓武平氏の嫡流で、乱を平定したのち、彼の一族はローカルな関東ではなく、都に近い伊勢に土着。中央政界への進出を試みます。

 しかし、11世紀に入り、またべつの身内の平忠常が関東で反乱を起こし、一族の不始末という理由から、伊勢平氏が鎮圧に向かうも失敗。代わりにこの反乱で戦功を立てたのが、源頼信です。頼信はのちに鎮守府将軍に任じられ、晩年はこれも都に近い河内(大阪)に土着します。頼信の嫡子が頼義。彼は中央への基盤をさらに築くため、父と同様、東国で武名を挙げようと画策します。そして目をつけたのが、東北(奥州)に土着していた蝦夷(えみし)の末裔、安倍氏の勢力です。

 安倍氏の話は、義経のところでも少し書きました。縄文人の血を引く蝦夷の勢力は、坂上田村麻呂の時代から征伐の対象にされ、中央の政治の道具にされてきた歴史があります。頼義も戦う意志のあったとは思えない安倍氏を挑発し続け、ついには半ば無理矢理に乱を起こさせ(前九年の役)、何とかそれを討伐することで、狙い通り動員した関東武士を束ねるポジションを築きます。はじめ平氏の土着していた関東は、頼義の時代でほぼ完全に源氏の地盤となっていくわけです。

●“次善の策”としての関東

 ここまで話してわかるように、源氏・平氏を問わず、当時の武士たちの目はあくまでも都(中央)に向いていました。中央で官位を得、公家の地位に仲間入りすることが第一の目的であり、名誉であり、荘園経営などの面でも実利を伴っていたことでした。ただ、中央の主流(天皇家および藤原氏)から見ると、血筋もあやしく、政治的な力もないため、次善の策として関東(平氏の場合、西国)があったわけです。

 もう少し続けましょう。頼義のあとを継いで源氏の嫡流となったのが、のちに“八幡太郎”の名で伝説化される義家です。彼には父祖をしのぐ将才、人望があったと言われ、安倍氏のあと奥州を実質支配していた清原氏の内紛(後三年の役)に介入し、うまく乱を収めることで武名を挙げます。朝廷は、乱は私闘であったと恩賞を与えませんでしたが、義家が私財をなげうって武士たちに報いたため、関東における彼=源氏の地位はさらに高まったと言われます。ただ、義家にしても目は中央に向いていたわけで、後年の頼朝のように関東への土着を考えていたわけではありません。

 ちなみに、源氏三代というと征夷大将軍になった「頼朝・頼家・実朝」をイメージするかもしれませんが、関東での基盤を築いたという意味では、「頼信・頼義・義家」の三代のほうが功績は大きいでしょう。が、源氏の活躍は、義家の代でいったん途絶えます。素行に問題のあったと言われる彼の嫡子・義親が、山陰で乱を起こしてしまうからです。この乱を鎮圧したのが、伊勢平氏の正盛(清盛の祖父)でした。

 こう書くと源氏と平氏の対立関係のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、そういうわけではありません。要は、どちらも朝廷に仕える傭兵のような立場であったということ。戦乱を治めることで出世ができ、恩賞が与えられるので、源平ともに半ば言われるままに従って、一族であろうが、他族であろうが刃を交えていたわけです。その実績の積み重ねの上に、中央の政争に参入し、打ち勝った清盛の存在があるわけです。

●新時代の追い風を受けた伊勢平氏

 源氏が「頼信・頼義・義家」の三代で勢いを失ったのと入れ替わるように、平氏の三代「正盛・忠盛・清盛」が勃興します。彼らは先に触れた「平忠常の乱」に失敗した伊勢平氏の嫡流とは、別の系統です。嫡流が衰えたため、彼らの血統が事実上の嫡流になるわけですが、かといって、それほどトントン拍子に地盤が築けたわけではありません。ただ追い風となるような要素がいくつかありました。その点を理解するため、まず、当時(12世紀前半)の中央政界の勢力分布をのぞいてみましょう。
 
 12世紀後半というのは、政治の主体が藤原氏から上皇(院)へと移行しつつあった時期です。開祖の鎌足・不比等以来、500年以上にわたって政界の中心に居続けてきた藤原氏も、外戚関係のない天皇(後三条天皇)が即位することで、影響力を一歩後退させます。後三条のあと、皇位を次いだのが白河天皇。彼は藤原氏の影響力をさらに払拭するため、彼らと血のつながりのない自分の子(堀河天皇)を皇位につけ、自らは法皇の立場で政治の実権を握るようになります。これがいわゆる院政です。

 といっても、藤原氏も全国に膨大な荘園を抱えています。多少落ち目にあっても、巻き返しを図ろうという意志も当然ある。では、法皇と藤原氏、この中央政界の二大勢力に対して、源氏や平氏の武家はどのようなポジションにあったのか? 清盛の祖父・正盛は、白河院の近衛兵のような立場(「北面の武士」などと言います)を得、先の源義親の乱を討つことで、院の軍事力の中心を担うようになります。院はいわば政治的新興勢力なので、権威よりも忠誠心や能力が重視されたのでしょう。

 息子の忠盛も同様。白河上皇の後を継いで院政を敷いた鳥羽上皇のもと、北面の武士として活躍し、ついには昇殿を許されます。ちなみに、昇殿というのは、天皇の住まう内裏(正確には、清涼殿の殿上間)に出入りの許されることを言い、公家のガードマンにすぎなかった武家にすれば、なかなか超えられない壁でした。まあ、公家、武家といっても、後代(鎌倉時代以降)のようにはっきりと色分けがされているわけではありません。要は、昇殿が許されるかどうかが、その人物(一族)の立場を決める重要な基準だったわけです。ともあれ、これが平家の中央政界への本格進出となりました。

●優れた政治、経済感覚が武器だった平氏

 ただ、昇殿は言ってみれば、相撲で幕内力士(十両以上)に昇進できたようなものです。喜びは当然あったでしょうが、「上」を見上げれば、ようやくスタートラインに立ったというくらいの感覚だったかもしれません。実際、本格進出のためには、昇殿の先にもう一つ大きな壁がありました。それは「公卿になる」ということです。相撲の譬えで続けるのなら、三役力士(関脇・小結以上)に出世するというくらいのイメージ。十両に昇進したばかりの「力士」から見れば、早々楽に手にできる地位ではない、はるか上位の世界の話であることは理解できるはずです。

 具体的に言えば、位階でいう三位以上、官職でいう大納言、参議以上の地位が公卿と呼ばれ、要するに当時の日本の政治の担い手です。我々が貴族としてイメージしているのは、イコール公卿であることがわかるでしょう。しかも世襲が基本と書いたように、平安時代においては、公卿といえばほとんどが藤原氏。昇殿が許されようと、公卿になるなど本来は夢のまた夢であったわけですが、ここまで書いたように、忠盛の活躍時期は院が台頭し、藤原氏の影響力が落ちつつあった時代。院という新しい権威のバックアップを得た忠盛は、その最晩年に公卿まであと一歩という四位まで出世を果たし、息子の清盛にバトンタッチするわけです。

 こうして見ると、関東や東北の兵乱で勢力をのばした源氏よりも、中央政界にダイレクトにアプローチし、着実に地位を築いた平氏のほうが政治感覚が高かったことがわかります。政治感覚が優れていれば、わざわざ生命の危険性のある戦争をしてまで地位を確保しようとは発想しません。また平氏は、この時代の新興勢力として、もうひとつの優れた感性、すなわち独自の経済感覚を身につけていました。忠盛の時代、鳥羽院の保護のもと西国に基盤を築いた平氏は、瀬戸内の海運の価値に目覚め、日宋貿易に着手します。土地への縛りを受けない形で財政基盤を築く道を見いだしたわけです。

 イメージしやすく言えば、当時(12世紀初頭)は、江戸時代末期、黒船のやって来た幕末の状況と似ています。黒船のような外圧が具体的にあったわけではありませんが、遣唐使の廃止(894年)以来、事実上の「鎖国」を続けてきた平安朝の日本は、徐々に「世界」に目が向きはじめていました。貴族が牛耳ってきた日本の社会も徐々に成熟し(マンネリ化し)、武家をはじめ低い地位に甘んじてきた人々の自我が目覚めつつあったと言い換えてもいいかもしれません。この目覚めは鎌倉〜室町時代への流れの中で、末端の庶民にまで及んでいきます。

 父・忠盛の意志を継いで海運貿易を本格化させた清盛は、タイトルにもあるように、その意味で時代の先駆者と言っていい存在。外へ外へと自らの意識を押し広げていく、この時代の最先端とも言えるセンスを発揮しつつ、のちに登場する鎌倉の頼朝とまた違った形で、旧泰然とした政治体制への変革を志します。よく語られているように、平氏は藤原氏の貴族政治をそのまま踏襲し、ただ栄華に酔っていたわけではないのです。新興勢力であった分、若々しい志というものがそこに見いだせます。

 次の稿では、日本史全体を俯瞰し、時代の流れを見据えつつ、清盛の推し進めた「政治改革」について見ていくことにしましょう。

投稿者 長沼敬憲 : 00:00 | コメント (0)

2004年12月15日

義経を知る3つのキーワード(1)〜“コイン”を裏返すと「頼朝」がいた

●「二人で一人」の類まれな兄弟関係

 源義経は、源氏の棟梁・義朝の末子として生まれますが、はっきりと歴史の表舞台に姿を現すのは、1180(治承4)年、兄・頼朝との黄瀬川での対面の時です。兄の挙兵をかくまわれていた奥州で知り、矢てもたまらず、わずかな手勢で参陣したと伝えられています。そして以後約9年、平家追討の華々しい活躍から、奥州・衣川での「死」に至るまで、兄の影はつきまといます。

 これは頼朝の側から見た場合も同様。二人はいわば、コインの裏表であり、解釈によってどちらかが影になり、光になるという関係。天皇と藤原氏による政治システムから独立し、以後700年続く武家の政権を打ち立てた頼朝。ありえない戦術を次々と成功させ、悲劇をまとった希代の英雄として後世に名をとどめた義経。それぞれの生涯をたどっていくと、どちらが欠けても成り立たない、まさに対照的としか言いようのない「役割分担」が見て取れるから不思議です。

 義経は、平家追討の第一戦ともいうべき一の谷の戦いに勝利を収めた1184(寿永3)年、後白河法皇より検非違使左衛門尉に任官されます。通称、判官。鎌倉には無断の任官であったことから、兄・頼朝の不興を買ったと言われています。後世の人間は、弟に冷たくあたる頼朝を「悪役」に仕立て、やがて悲劇の末路へと向かう義経に同情、これが「判官びいき」の語源となったわけですが……。

 この「判官びいき」の反動からか、近年では頼朝の政治感覚、業績を再評価する見方も出てきました。頼朝は父・義朝の敗死後、兄も相次いで亡くなったため、源氏の棟梁の立場にありました。しかし実態を言えば、伊豆に幽閉された流人です。誇示できるのは血筋という権威だけ。打倒平家の挙兵後、いくつかの幸運が重なって鎌倉武士の頭目に推戴されはしましたが、非常に不安定な立場にありました。彼に対する評価は、この不安定さと大きな関係があるのです。

●「危機」を感じていたのは、北条氏

 このあたりの機微について少し説明していきましょう。流人だった頼朝には、当然、累代の家臣も、戦を起こす兵力もありません。彼に将来を託した関東の豪族・北条氏が、実質的には彼の権威を支えていたわけです。もっと具体的に言えば、後に尼将軍などとも呼ばれる妻の政子の「愛」が、頼朝の「力」の源泉でした。彼女が愛想を尽かせば、北条氏との関係も険悪になり、破滅につながります。

 北条氏の立場から見れば、頼朝と政子の結びつきは他の御家人を圧し、新たに台頭しつつあった武家政権のイニシアチブを握るための「玉」のような関係です。ある意味、持ちつ持たれつではありますが、後の歴史の展開を見てもわかる通り(後述しますが)、頼朝の立場のほうがずっと弱かったことが想像できます。極論すれば、頼朝は北条氏の傀儡であったとすら言えるわけです。

 要は、この不安定な関係のうえに成り立っていたのが、初期の鎌倉武家政権の実態なのです。そこに、この実態を知らない義経という弟が、奥州からやって来る。その背後には、すでに実質的な独立政権として君臨していた奥州藤原氏の影が見え隠れする。しかも驚くべきことに、この弟に信じられないような軍事的才能があることが判明する。はっきり言って、義経の存在に最も危機感を抱いたのは北条氏であったことは容易に想像できることです。そして、頼朝はその立場上、彼らの危機感を最も敏感に感じ取っていたはずなのです。

 このあたりの義経、頼朝、北条氏(政子)の心理は、小説の題材としてもおいしすぎるくらいの綾が折り重なっています。義経にすれば弟が兄を慕うのは当然の感情となるし、頼朝と北条氏の微妙な関係を知ったとしても、「兄上は、私を取るのか、妻を取るのか?」と、ストレートに問いただしたかもしれません。司馬遼太郎氏のように、義経を兄の不安定な立場を理解しない(できない)政治的愚者のように捉える見方もありますが、筆者には異論があります。彼の感覚からすれば、問題はもっと単純なところにあったはずだからです。

●見落とされがちな、兄・頼朝の悲劇性

 確かに頼朝は、鎌倉に独立した武家政権を立ち上げるために、兄弟の情も捨てる必要があったという解釈も成り立ちます。権力者の堕落は身内に対する「甘さ」から始まるという見方もあるし、短期間で没落した平氏をそのような視点から批判することも可能でしょう(平家は一族のつながり、血縁というものを非常に大事にしていました)。つまり、頼朝が義経を特別扱いしなかったのも、御家人たちの信任を勝ち取るための適切な判断であったとなるわけですが……。

 しかし、考えてみてください。身内という点で言えば、妻の実家である北条氏もまた身内なのです。頼朝が北条氏に対しても特別扱いせず、是々非々で対応できる立場にあったのなら、義経に対する「冷たさ」も公平であったと評価できます。しかし現実的には、それをしたら彼の命はなかったはず。事実、頼朝は征夷大将軍に就任した7年後(1199・建久10年)、不可解な死を遂げます。落馬が原因とも伝えられますが、北条氏が影でその死に関与したという説もあります。

 それが事実でなかったとしても、ご存知のように、源氏は頼朝からわずか3代で絶え、鎌倉幕府は実質的に北条氏の政権へと転換していきます。2代・頼家、3代・実朝の横死には、北条氏が明らかに関与しています。平家の栄華も短かったが、源氏の栄華も同じように短かったのです。頼朝を単純に勝者とは言えない、あえて言えば勝者は北条氏であるわけですが、それをふまえたならば、弟(義経)ではなく、妻(北条氏)を選ばなければならなかった頼朝もまた、じつは義経にも勝るとも劣らない、悲劇の人物であることがわかるはずです。

 頼朝が無能な人間でないかぎり、自分が実質的な力を持った権力者ではなく、京都の天皇の地位にも近い、武家にとっての権威にすぎないことを心の中で感じていたはずです。しかし、それを口にしてしまってはおしまいだというプライドもあったでしょう。当然、義経にそんな「窮状」を打ち明けることもできるわけがない。二人が仲良くするという事実自体が、こと北条氏に対する政治的行動につながるのです。好き嫌いだけで言動ができない、彼の難しい立場は十分想像できます。

●「単純さ」という義経の才能

 もちろん、こうした点をふまえたとしても、やはり義経には「自分が兄に疎まれるのはおかしい」という、非常に単純な感覚があったと思います。なぜなら、それが「道理」であり、「正しい」からです。史料などでは戦目付(軍監)だった梶原景時との確執が伝えられますが、それらの逸話を見ても、義経の思考法は非常にわかりやすく、決して複雑ではありません。それどころか、複雑にもなりかねない様々な状況判断を、余計なものをそぎ落として単純化させる能力を持っていた、だからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのだと言えるのです。

 複雑な現実を単純化させ、本質をえぐり出す。これは愚者にできる発想ではありません。その発想から見れば、「兄の目は曇っている」となります。わかりますか? 事実、彼の権威は結果として北条氏に利用され、源氏の血筋は絶えてしまう。頼朝が正しい判断をしていたわけでも、義経が愚かだったわけでもないのです。そのように善悪でこの兄弟を色分けしてしまうのではなく、そして北条氏を悪役にするのでもなく、もっとありのままに歴史を見る必要があります。

 要は、兄・頼朝は、自らが生き延びるために、複雑すぎるほどの思考法が求められていました。しかし義経もまた、生き延びるためにその対極にある単純な思考法を手に入れていたのです。誰がどう努力しても、この二人は絶対に交われません。後世から見れば、ともに悲劇の運命をたどるのを約束されていたかのような生涯が与えられ、その生涯の中で希有な転換期の重要な役割を担っているわけです。善悪の感覚から抜け出すことで、歴史の「面白さ」が見えてきます。

●足りないものを補い合う関係

 この稿の最後に、もう一つこの兄弟の「コインの裏表」を物語る面白い対比をしてみましょう。頼朝は関東の武士たちに推戴された「軍事政権の長」でありながら、実戦経験はほとんどありません。源氏の棟梁という血=権威によってアイデンティティを築いていたという点で、実態は限りなく公家的です。一方の義経は、関東の武士とは無縁の存在で、都(京都)との結びつきの強い存在でありながら、アイデンティティはすべて戦闘行為によって作り上げていました。

 客観的に見ればどちらも何かが足りず、一方の足りないものを一方が十分すぎるくらいに持っていた。この二人が結びついたらまさに無敵です。だからこそ、北条氏が義経を恐れたわけだし、兄弟の仲を離間させるための策もプレッシャーも、頼朝に浴びせ続けたことが想像できるはずです。言ってみれば、義経と頼朝は、すれ違いを強いられるあやふやで不安定な関係でありながら、実態としては協力し合い、役割分担し、新しい時代の扉を押し開いたわけです。義経という人間に注目するということは、頼朝を注目することにつながります。頼朝の評価が高まっていけばいくほど、義経の評価も高まっていく関係にあるわけです。

 次のキーワードは「戦術」。常識離れと言うより、日本人離れしていた義経の戦術の秘密について、筆者なりの視点でつづってみます。

投稿者 長沼敬憲 : 16:36 | コメント (0)

義経を知る3つのキーワード(2)〜「戦術」の背後に見える異人の影

●「夷」に支持された異能の「将軍」

 義経は、当時の軍人(武士)としては画期的な才能を持っていました。前の稿でも書きましたが、征夷大将軍となった頼朝が、実戦経験のほとんどない権威としての将軍であったのに対し、義経はバリバリの、しかも負け知らずの常勝将軍。義経=源氏の強さの象徴と、当時の庶民の目には映っていたわけです。

 でも、ちょっと面白いなと思うのは、いくら事実上の「将軍」であっても、「征夷」とはまったく無縁であったと言うこと。征夷とは「夷(えびす)=朝廷に歯向かう敵」を「征討する」という意味。平安時代初期、東北で蝦夷(えみし)を破った坂上田村麻呂が初めて任命された職として知られていますが、義経の時代、蝦夷といえば、奥州藤原氏のことです。奥州は彼の支持基盤であったわけだから、これまでの時代の「将軍」の概念とも、どこか異質な存在であったわけです。

 わかりやすく言えば、将軍(征夷大将軍)とは、イコール武家の棟梁。武家とは地方に自立した職業軍人のようなもので、中央の政府(朝廷)の命令で外敵を討つ役目がある。日本は平安の御代以来、海外からの侵略の危機はほぼなくなったため、この職の任官は長く途絶えていました。しかし、関東の武士たちの間では権威の象徴として認知されていたらしく、頼朝も武家の棟梁としての地位を確固たるものにするため、征夷大将軍への任官を切望します。

 義経の戦術とどんな関係があるのかと思うかもしれませんが、じつはこのへんが一番重要なポイントなのです。要は、義経は土地という基盤がない。言い換えれば、「個人」としてしか存在していない。当時の国の基盤は農業です(以後もずっとそうであるわけですが)。鎌倉武士の気概を表す言葉に「一所懸命」というものがありますが、一所は言うまでもなく土地のこと。土地を守り、一族を養う、そのために戦う。頼朝という権威は、時代的にはまだ新興勢力にすぎなかった武家の「一所」を保証する存在として機能し、敬意を集めていたわけです。

●「土地を持っていない」という異質さ

 繰り返しますが、義経にはこの「一所=土地」がない。戦功を立てたあと伊予守(伊予国の国司)に任官されたり、平家の没官領を得たりしますが、これは彼が早くに没落したこともあり、実質を伴ってはいません。また、源氏の棟梁の「末子」という血筋は、頼朝の存在を前にしたら、相当に希薄な権威です。土地もなく権威も曖昧なとらえどころのない存在、しかし、どこからともなく現れたかと思うと、「一所懸命」の精神とはかけ離れた戦術、戦略で、強敵だった平氏を打ち破ってしまう。義経は牛若丸時代に、鞍馬の天狗に戦術を教わったなどという逸話がありますが、この逸話の背景にはこうした異質さが見え隠れします。

 先ほど筆者は何気なく「個人としてしか存在していない」と書きましたが、そもそもこうした彼のアイデンティティ自体が、異質なのです。日本の社会は、伝統的に「個人」の生まれにくい社会です。それぞれの人の背後には生んで育ててくれた家族(親族)と、生活基盤である土地(故郷)が濃厚に存在しています。前にも書いたことがありますが、原始社会のプリミティブな血縁関係が、歴史時代になって以降も「和」という形で連綿と続いていった社会なのです。

 しかし、数奇な生涯をたどった義経は、この「当たり前」を持つことのできなかった人間なのです。生まれてすぐに父を戦で失い、母(常磐御前)は敵将(平清盛)の情婦となったのち、他家に再婚する。その後寺に入れられますが、出家を拒み、出奔します。金売りの吉次という商人に伴われて奥州に向かったと言われますが、こうした幼少期の逸話をたどっただけでも根無し草の人生、いわゆる「一所懸命」の武士とは異なる生活環境にあったことが見えてきます。

 奥州藤原氏のことはまた別の機会に書きますが、先に触れたように、彼らは蝦夷の末裔です。初代の藤原清衡以来、都にも劣らない独自の仏教文化を花開かせ、中央の貴族との混血も進みますが、しかし、あくまでも彼らは「蝦夷」の生活スタイル、文化を守っていました。わかりやすく言えば、奥州藤原氏の政権は、農業を基盤としたものではなかったということ。基盤の一つではあったと思いますが、奥州は金と馬の産地であり、彼らは日本海を挟んでの対外貿易で巨利を得ていたようです。当時の日本のスタンダードとは異なる生活環境がそこにはありました。

●「天才」的発想の秘密はどこにあるか?

 義経が「天才」と呼ばれるとしたら、それは発想が自由であったからに他なりません。この発想の自由は、天賦の才能などと言う前に、彼の意識が土地というしがらみに支配されていなかった結果であると筆者は捉えます。土地は確かに、自らのアイデンティティを保証する大事な基盤ですが、当時のように貴族と武家の権威の入り交じった社会では、守り抜く意志がなければあっという間に奪い取られ、没落してしまいます。人間的に有能でも、そこで発想が縛られてしまいます。現代人ではなかなか想像ができないほど、それは強い縛りであったと思うのです。

 義経はその点、良くも悪くも守るべきものがありません。あるのは、宿敵である平家を倒すという意識だけです。余計なことを考えずに、ただその一点だけに集中して考えることができました。現在でも人には多々しがらみがあり、発想はそこに左右されます。しかし義経は「自由」でした。他の武士たちと戦術の面で「差」が出てしまったのは、ある意味当然です。加えて、一所懸命の武士にも、都の貴族にも経験できないような、漂泊の人生を経験しています。奥州藤原氏との出会いによって、土地に縛られない貿易立国的な国づくりを目の当たりにします。

 たとえば、漂泊という言い方ではわかりにくいかもしれませんが、「農業を基盤にしない生活」と言い換えると、もうひとつの「日本の顔」が見えてきます。農耕が大陸より伝わる以前の、日本列島で展開された生活です。当時の日本人のことを考古学の世界では、縄文人と呼んでいます。縄文時代にも農耕はあったという指摘もありますが、かといって彼らは農耕に依存していたわけではありません。わざわざ田畑を耕さなくても生きていける環境が、そこにはありました。

 具体的には、狩猟・採集・漁労の生活です。ここでは深入りしませんが、かつての日本人(縄文人)は、日本列島に特有な、四季の巡り来る非常に恵まれた自然環境のおかげで、土地に縛られない自由な生活をほぼ1万年にわたって続けることができた。農耕を取り入れなかったのは、「遅れていた」からではありません。あえてそんな努力をする必要に迫られなかったからです。逆に、農耕を取り入れざるをえなくなったのは、一つは日本列島が寒冷化し、狩猟や採集だけでは食べていけなくなったから。その時点で、大陸の戦乱などから逃れた移民が、日本列島に、断続的に渡ってきていたようです。彼らが弥生人です。農耕の技術を持っていたため、自然とイニシアチブを取ることになっていきます。

●義経を支えた「非農耕民」の影

 縄文人はもともと栗やドングリなどを採取し、粉にして、パンなどの主食にしていたと考えられています。要するに、平地というより、山里が生活のフィールドだったわけですが、弥生人の農耕文化が伝播するに従い、その山里も徐々に浸食され、彼らと同化したり、あるいはより奥地に追いやられたりするようになったと考えられます。奥地は山間部というだけでなく、西から東へというベクトルとも重なります。日本の歴史は、大陸民を中心にした弥生人の活動とともに、徐々に西から東へと形作られていきます。司馬遼太郎氏風に言えば、弥生文化は「農耕と武具と天皇制とともに」日本列島に広がり、同化しない地域は征討の対象となりました。縄文人が蝦夷と呼ばれるようになったのもこうした過程によってです。

 長々とエライ昔の話を書いてしまいましたが、蝦夷とは基本は非農耕民であり、縄文人の血を引く原日本人であり、弥生人の子孫によって作り上げられた大和朝廷(天皇家)の政治システムの「外部」に存在していた異物であったわけです。義経の逸話に登場する天狗、昔話に頻繁に登場する鬼などは、この外部の存在に対する異称です。逃亡中に義経が扮したという山伏(修験者)の一行も、体制に収まりきらない「外部」です。土地を持たない義経には、彼らとの関わりが非常に強く感じられるのです。

 この日本の歴史の中の「二重構造」を、民俗学者の柳田国男は、平地民と山人の対比という位置づけで語っています。日本という国は、ご存知のように関東(東日本)と関西(西日本)で文化が大きく異なります。しかしそれだけではなく、一見農耕社会を基盤にしているように見えて、その背後には山人たち(縄文人の末裔)の見えない影響力がちらつきます。義経という希代の「軍事的天才」の秘密も、農耕文化=平地民の感覚、視点からだけでは見えてきません。

 中国大陸の歴史が、農耕民(漢民族)と遊牧民(騎馬民)のせめぎ合いの中で紡ぎ出されたように、日本には日本の、特有の二重構造が存在する。じつは義経と頼朝の関係も、この二重構造の型の反映とも言えるわけです。もちろん、謎の多い奥州藤原氏の存在も、この二重構造のなかから実態が浮かび上がってきます。歴史を裏舞台から支える山人たちを「まつろわぬ民」と表現する人もいますが、義経の郎党(武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛)などは、まさにまつろわぬ民の象徴です。

●「英雄」とは、失われた感覚を思い出させる存在

 要するに平地民の感覚で義経を捉えようとすると、神出鬼没、何を考えているかわからない不気味な存在となります。頼朝や、彼を担ぐ北条氏ら鎌倉武士が、義経にどうしてもなじめなかったのは、彼らもまた平地民であったからです。頼朝が血を分けた弟にもかかわらず、義経を他人のように扱ったのも、政治的意図であるという以上に、存在としてどこか気持ち悪かったからだと筆者は思います。

 もう少し細かく言うと、縄文人そのものは大陸系の農耕民とは違った意味で、定住志向を持っていたと考えられます。なかには丸木舟で海洋に乗り出して、果てはアメリカ大陸まで渡ったエネルギッシュな縄文人の存在も指摘されていますが、彼らを取り巻く平穏で豊かな生活環境は、基本的にのんびり、ゆったりしたものだったと思います。少なくとも、戦乱の絶えない大陸のスタンダードであった「弱肉強食」の感覚はあまり必要としなかったでしょう。一面の甘さにつながる彼らの精神性は、農耕社会の定着したのちも、日本人の意識に大きな影響を及ぼします。

 「和」を大事にし、争いごと(戦争)を極端に嫌う平安貴族、「正々堂々」の戦いを理想とする鎌倉武士、彼らは平地民の文化にどっぷり漬かりながら、じつは原日本人(縄文人)のDNAを無意識に受け継いでいると筆者は思います。しかし同時に、彼らの持っていたもう一つの顔、先に書いた丸木舟で大陸まで渡ってしまうような進取の精神、機動性、好奇心と言った感覚は、どこかで見失っていたのではないか? 都の秩序に背を向けて関東の原野を開拓した武士たちも、弥生人がもたらした大陸流の「弱肉強食」の感覚は十分受け継いでいました。しかし、「一所=土地」に執着する彼らは、「自由な冒険者」とは言い難かったはずです。

 要するに、義経が「英雄」として空前の人気を集めたのは、ただ単に戦が強かったからではないのです。当時の日本人が知らない間に見失っていた感覚(縄文時代の記憶の一部)を、彼は存在として体現していた。それはどこか子供っぽさを残した、既成概念にとらわれない自由な発想と行動力です。かつて自分たちも持っていたかもしれない感覚が、この小柄な若者の活躍で呼び起こされた。そこに義経の存在価値、人気の秘密が見いだせます。非農耕民的な生き方を強いられることで(実際にそうした系統の人々と接することで)、彼の中に縄文時代1万年のDNAが甦ったわけです。

 弥生人的な生き方をせざるをえなかった頼朝は、もしかしたら縄文人としての義経に恐れだけでなく、嫉妬を覚えたのかもしれません。そして義経もまた、縄文人が弥生人に生活圏を奪われていったように、束の間の栄華ののち、再び漂泊の運命を強いられ、歴史の表舞台から姿を消します。血のなせる業というなら、それはまさに歴史を俯瞰したときに見えてくる巨大な運命の綾のように思えるのです。

投稿者 長沼敬憲 : 16:35 | コメント (0)

義経を知る3つのキーワード(3)〜「奥州藤原氏」の不思議

●無視できない「縄文人=蝦夷」の影響力

 義経の背後に「異人」の影が見え隠れすることは前回指摘しましたが、この異人とは、東北に生活拠点をもつ蝦夷(えみし)とイコールと言ってもよく、特に精神的な面で、原日本人=縄文人のDNAを引き継いでいたと考えられます。縄文人は農耕文化を持った弥生人に追いやられた敗者のように捉えられがちですが、事実はそうでありません。繰り返し触れてきたように、有形無形に、後世の日本人の精神形成に大きな影を及ぼしています。

 飛躍に思われるかもしれませんが、義経を理解するには、縄文人の影響力を理解する必要があるということ。彼の活躍した時代、その影響力を具体的な形で体現していたのが、蝦夷の末裔であった奥州藤原氏の政権。後世の我々は単純に源氏が平氏に勝利して武士の政権(鎌倉幕府)が打ち立てられたと捉えがちですが、当時の情勢はもっと複雑です。少しそのあたりについて解説していきましょう。

 まず、当時の日本には、天皇制(律令システム)を戴く藤原氏の政権がありました。彼らの政治基盤は荘園と呼ばれる私領です。律令のシステムによって五幾七道に区分された全国の国々に国司が派遣され、一定の土地を割り当てられた農民から税を徴収し、財源とします。しかし、それは理念上のことで、実際には未開墾の土地が全国にいくらでもあったわけです。未開墾地も制度の上では国家のものですが、せっかく開墾した土地を所有できなければ張り合いがありません。

 地方の有力者は農民たちを使役して開墾した土地を、中央の有力者に形式的に寄進し、保護してもらうことで実利(管理料)を得るという道を選びました。これが荘園です。藤原氏が全盛の時代は、彼らのもとに土地の寄進が相次ぎました。藤原氏自身が作ったと言ってもいい律令の土地徴税システムは、彼ら自身によって形骸化され、彼らの繁栄のために都合よく作り替えられていたわけです。

●「第四の勢力」としての奥州藤原氏

 源氏や平氏などの武家は、もともと皇族から枝分かれした存在で、血筋も決して悪くはありませんでしたが、こうした貴族たちのガードマンのような、低い身分に甘んじていました。都ではうだつがあがらないため、平安時代の400年のなかで、彼らの中から地方に土着し、開墾する勢力が現れはじめます。当然、各地には貴族の開墾した荘園がありますから、権利の衝突が起こります。

 今の時代は「一つの土地に一人の権利」が当たり前で、日本の場合、「誰のものでもない土地」など、ほとんど存在しないので、なかなか実感できないかもしれません。しかし、当時の社会をイメージすると、開墾地と未開墾地が混在し、法律も十分に整備されていないため(荘園そのものが厳密には違法だったわけです)、所有者の権利も曖昧。中央で権力を独占していた藤原氏は、庇護者の立場でこうした「弱者の心理」を巧みに利用し、空前規模の繁栄を築いていきます。

 このやり方は藤原氏が衰退したのち、都で政権を握った平氏が踏襲します。もちろん平氏と一線を画す形で、院政を敷いていた法皇=天皇家(朝廷)も、国ガ領と呼ばれる事実上の私領を有していました。そして、関東には鎌倉武士の庇護者である源氏の勢力があり、彼らの頭目である頼朝は、後白河法皇との政治的駆け引きのなかで、全国各地に守護・地頭の設置を認めさせます。貴族の荘園がなくなったわけではなく、その荘園の新たな管理者として地頭が鎌倉から派遣されたわけです。となれば、権利の衝突にさらに拍車がかかるでしょう。土地をめぐる権利争いが、当時の政治・経済の中心課題であったことがわかるはずです。

 前置きが長くなってしまいましたが、奥州藤原氏の政権は、こうした朝廷、平氏、源氏の勢力とは、一線を画す「第4の勢力」でした。中央の藤原氏に対しては、領内の荘園、物産品を含め法外とも言える寄進を行うことで懐柔し、武力的・政治的衝突を極力避ける形で、実質的な独立政権として100年の繁栄を築いていました。中央からは俘囚などと蔑まれながら、史上名高い中尊寺の金色堂、毛越寺など、こと文化面での成熟度は都のレベルを数段上回っていたと評されています。

●義経の「不気味さ」と「優しさ」

 義経は京都を出奔したのち、この奥州藤原氏のもとで青春時代を過ごします。兄・頼朝の挙兵に際しては、当主・秀衡の政治的意図で、わずかな手勢のみで駆けつけますが、バックに奥州がついているという事実は変わりません。繰り返しますが、藤原を名乗っていても、彼らは得体の知れぬ蝦夷です。それがいつの間にか巧みな政治力すらも身につけ、中央の政権にも勝る勢力を築き上げている。情報の少なかった当時のことを考えれば、不気味さは増幅されていたでしょう。義経がいくら兄を慕ったところで、頼朝は素直に彼を受け入れられなかったはずです。

 奥州藤原氏の軍勢は、当時17万騎と称されていました。朝廷には軍事力がありませんから、平安末期は事実上、源氏、平氏、奥州藤原氏が並ぶ三国鼎立の状況です(源氏は一時期、鎌倉の頼朝と木曽の義仲とに二分されていました)。要するに、奥州の庇護をうけていた義経は、軍事的才能を語る以前に、すでに存在自体が政治的であったわけです。奥州のバックアップに、異例の戦果が加わることで、義経の神秘性(悪く言えば不気味さ)が増幅されていったのです。奥州政権の存在を過小評価してしまうと、義経の人間像も見誤ってしまいます。

 ただ面白いことに、義経はこうした強い政治的背景と軍事的才能を持ちながら、頼朝に対しては奇妙なまでに決定的な敵意を抱かなかったと言われています。「彼の性格が純粋だったからだ」というのが一般的な解釈かもしれませんが、それでは説明不足です。生まれつきの純粋さなど、環境の中でいくらでも変化します。筆者はここでも、土地に対する執着心のない彼の半生が大きく影響していると考えます。平家追討に執念を燃やした生き方は執着心の現れのように思えますが、史料をたどるかぎり、現代のスポーツマンに近いような印象があるからです。

 単純に言えば、純粋であったというより、どうにも人間が「優しい」のです。そして囚われというものが、淡白なほどにない。宿敵であった平家を滅ぼしてしまえば、彼らに対する恨みも消えてしまうのが義経です。壇ノ浦の戦いで生き残った平家の棟梁・宗盛の助命を口にしたり、「平家にあらずば人にあらず」と放言した平時忠の娘を京に凱旋してそうそうに娶ったり(そうした言動の一つ一つが政治家としての頼朝をいら立たせますが)、要はそれが義経という人間の本質であり、言い換えるなら、体制に収まりきらない自由人であったということです。だから英雄として憧れの対象にもなり、政治的に排除される存在にもなるわけです。

●奥州藤原氏にも通じる、義経の「優しさ」

 この優しさは、奥州藤原氏にも相通じる不思議な性質として、筆者の目には映ります。たびたび名前を出して申し訳ないですが、司馬遼太郎氏の語るような「政治的状況の読めない痴人、愚者」という辛口の義経評は、一つの見方にすぎません。それが間違いだったと言っているわけではないですが、義経の意識の根本には、政治的判断以前に、もっと単純な「兄とは争いたくない」という感情があったわけです。単純すぎる評価と思うかもしれませんが、この単純さは奥州藤原氏=蝦夷の持っていたであろう感覚、価値観ともつながってきます。

 頼朝から見れば、確かに義経は秩序の紊乱者です。彼の存在を許し、認めてしまえば、傘下の鎌倉武士たちにしめしがつきません。しかし、それはあくまでも頼朝の都合でしかないものです。もっと言ってしまえば、これまで繰り返してきたように、頼朝を操ろうとする北条氏の都合です。彼らの都合に振り回されすぎず、義経の本音をひもといていけば、「わざわざ兄と戦う意味がどこにあるのか?」ということに尽きていたはずです。それ以上の複雑さがないのが義経なのです。

 義経が平家を倒したのは彼自身の存在証明のようなもので、避けるわけにはいかない宿命であったことが感じ取れます。しかし、同じ戦でも、兄と戦うことにそのような宿命を見いだせたかどうか? 政治的判断と称して割り切ってしまえることのほうが、「愚か」だという見方も成り立ちます。実際、頼朝に宛てた有名な腰越状がにべもなく拒絶され、京都で彼からの刺客(土佐坊昌俊)に襲われたのちも、義経は鎌倉に攻め入ろうとはしていません。動員できる兵力がなかったことも理由の一つかもしれませんが、単純に気が乗らなかったからだと思うのです。

 九州で再起を図ろうという消去法のような選択をした義経は、船の難破でそれも果たせず、頼朝の追捕を逃れながら第二の故郷・奥州にたどり着きます。不運なことに、最大の庇護者であった当主の秀衡は、義経が奥州入りした1年後(1187・文治3年)に病死しますが、その臨終の間際に、世継ぎの泰衡、国衡(泰衡の異母兄)らに「義経を大将にして鎌倉と戦え」と遺言したと言われています。一般に泰衡は当主の器でなく、鎌倉の圧力を恐れるあまり、義経を衣川に襲い、殺害したということになっていますが、果たしてそうなのでしょうか?

●なぜ戦わなければならないのか?

 泰衡が無能だったかどうかは、じつは歴史的にハッキリ証明できるものではありません。「ロクに戦いもせずに、奥州藤原氏をあっさり滅ぼしてしまった張本人」という事実だけを前提にして、彼の器量も人間性も決めつけられている感があるのではないか? 仮に遺言通りに義経を大将にして鎌倉と一戦を交えれば、勝敗はともかく奥州は戦火に巻き込まれ、多くの人々が犠牲になったでしょう。そのうえで勝ったとしても、では、その先どのような展望があるのか? 

 奥州藤原氏の祖・清衡の父・藤原経清は、無益な戦を仕掛けてきた中央の政府に反抗し、前九年の役(1051〜1062年)で、当時の奥州の覇者であった安倍氏に加担し、敗れて斬首されます。頼朝=鎌倉の圧力は、戦を回避しようと自重する安倍氏を挑発し続け、最後には滅ぼした当時の棟梁・頼義のやり方と重なります。源氏の基盤を確固たるものにするために、蝦夷を敵として利用したわけです。

 経清の遺児・清衡は、後三年の役(1083〜1087年)を経て、奥州の覇権を確立したのち、あまりに多くの犠牲者を出した戦乱の傷跡を癒すため、大陸との交易で積極的に仏教文化を吸収し、国づくりの基盤にしています。精鋭17万騎と喧伝された兵力よりも、今日の東北人の気質にもどこか通じる平和志向の政治が、そこからは浮かび上がってきます。戦をしろと遺言した秀衡にしても、基本的には防衛思想がベースであり、長生きしたとしても、義経を先陣に鎌倉に攻め入ろうというような積極的な野心があったとは思えません。

 先に筆者は、義経と奥州藤原氏は、優しさの感覚でつながっていたのではと書きました。根拠についてはこれまで触れた通りです。要は、やる気のない(やる意義のない)戦争で勝っても、あるいは負けても、奥州は戦場となり、焦土になる可能性がある。祖先の供養を第一とする当時の最先端と言っていい仏教文化の中で、4代目の当主になった泰衡も育っています。中央の政治的思惑に振り回され、辛酸をなめてきた蝦夷の歴史も、少なからず聞かされてきたはずです。

●軍事的才能を濫用しなかった義経

 従来の解釈では、奥州藤原氏を滅亡に追いやった泰衡は「愚者」と位置づけられているわけですが、その必ずしも根拠のない前提を取り払ってしまえば、結果として、自らが滅びることを代償に戦争を回避した、平和志向の蝦夷の思想、精神性が浮かび上がってきます。義経が衣川で殺されたという定説自体、多くの書籍に当たり前のように書かれていますが、史実であったかどうか確証がないのが現実です。これは別の機会に書きますが、「泰衡が義経を殺したと見せかけて北に逃がした」という解釈も、状況的には十分に成り立つのです。

 ここまで読まれた方のなかには、おそらく、作家・高橋克彦氏が描いた長編小説「炎立つ」の世界観を思い浮かべた人もいるでしょう。「炎立つ」の評価についてもまた別の稿に譲りたいと思いますが、別に受け売りを書いてきたわけではありません。筆者がこの作品に共感をおぼえたのは確かですが、それは日本史の様々な場面で、同じようなシチュエーションが韻を踏むように繰り返されていることを知っていたからでもあります。奥州藤原氏だけに特異な例ではないのです。

 最近「振り返れば「神」になる」のなかで書いた徳川慶喜などは、この韻の一つの典型です。慶喜もまた才知があり、フランス仕込みの近代軍隊を握っていながら、薩摩・長州との政争に敗北したと知るや、味方を欺いて江戸に逃げ帰り、徹底的に恭順を表明します。慶喜の行為をただの腰抜けと見るか、無用な戦を回避した有能な政治家と見るかは、そのまま泰衡に対する評価とも重なります。

 もちろん同時に、卓越した軍事的才能を持ちながら、いたずらにその才能を浪費しなかった(自分にとって意味のある戦争にだけ用いた)義経の感覚は、時代の敗者になったことで逆に浮き彫りになったというのが、筆者の見方です。もちろん、泰衡が好戦的な人間で、秀衡の遺言をそのまま実行しようとする「愚直な」人間だったとしたら、多大な恩を受けてきた義経も異は唱えられなかったと思います。「自分たちが生き延びるために、義経の才能を用いようとしなかった」泰衡の判断があったからこそ、悲惨な戦争が避けられた。そういう解釈も成り立つわけです。

 義経と奥州藤原氏の背後には、蝦夷という言葉をキーワードに、縄文時代以来の日本特有の精神風土が隠れています。この風土の本質を理解し、日本人が何者であるかを知り、そのうえで個々の時代、人物、事績をたどっていくことで、ありのままの歴史が浮かび上がってくる。それが義経という「代表的日本人」を理解する、最も確実な方法であると言えるのではないでしょうか。

投稿者 長沼敬憲 : 16:32 | コメント (0)

2004年12月11日

先駆者としての平清盛(1)〜「システム」はいかにつくられたか

●「権威」の正体は……?

 平清盛のことを理解するには、彼の前に立ちふさがった「権威」の象徴である、藤原氏について、まず理解する必要があります。清盛の活躍した時代(12世紀後半)から、とりあえず8世紀前後にさかぼのってみましょう。じつに400年前。この歴史の長さこそが、権威の正体であることも、自然と見えてくるはずです。

 藤原氏の祖で、「大化の改新」の主要人物として登場する鎌足の名前は有名ですが、その子の不比等(ふひと 659〜720年)となると意外と知られていません。しかし、後世への影響を考えると、彼の果たした役割のほうがはるかに重要。じつに19世紀中葉、明治時代に至るまで、1000年以上続いた「律令」という社会システムの基礎を築いた人物と考えられているからです。

 システムというのは、社会を円滑に動かしていくためのルールと考えてください。このルールは共同体が形成される中で、初めのうちは暗黙のうちに決められていきます。たとえば田を荒らしてはいけないとか、近親相姦は駄目だとか。しかし、ある程度社会の規模が大きくなってくると、きちんと形にしなければならなくなる。律とは法律の律であり、刑法にあたります。令は法令の令、行政法や民法のこと。これらを、中国のシステムをもとに創案した中心人物が不比等であったわけです。

 律令のシステムが構築された不比等の時代は、そのシステムが一新された明治時代の初期とやや情勢が似ています。
 明治維新は黒船の来航が発端となりましたが、彼の時代も、父・鎌足の時に朝鮮半島に出兵、白村江の戦いで百済を助け、唐・新羅の連合軍に大敗しています(663年)。当時の社会は、一般にイメージされているような閉鎖された島国社会などではありません。東アジアという大きなエリアの中で、大小様々な国の興亡が繰り広げられ、日本列島にも大陸や半島から相当数の渡来人が流入していました。

 白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、即位して天智天皇となりましたが、唐や新羅の侵略に怯えながら、671年、失意のうちに亡くなります(暗殺という説もある)。このあと天智の子・大友皇子と、弟の大海人皇子が「壬申の乱」で争い(672年)、勝利した大海人が天武天皇となって実権を握る。天武が天智の弟であったことにも異説があり、じつは両者とも、渡来系の王族だったと考える研究者もいます。


●日本のシステムをつくった男

 要は、当時の「日本」は、現在の我々がイメージしているような「国」ではなかったということ。「万世一系」で語られる天皇家にしても、実際には外部の血がかなり混じっていたと考えるのが妥当でしょう。
 日本という国号自体、正式に用いられるようになったのはこの頃のこと。法律や政令が明確に定められたのも、「古事記」や「日本書紀」のような歴史書が編纂されたのも、平城京という本格的な王城(都)が奈良に建設されたのも……、同じ時期に属しています。そして、これら国づくりの初期段階には欠かせない諸事業に、不比等という人物はおそらくすべて関わっているわけです。

 彼が政治家として活躍したのは天武天皇の死後、妻である持統天皇の即位(690年)のころから。720年が没年だから、ほぼ30年にわたって政治の実権を握っていたことになります。後世から見れば、この30年で、日本という国に固有の政治システムが確立したということができます。聖徳太子を幕末の吉田松陰や島津斉彬に例えるなら、不比等は明治後の大久保利通、伊藤博文という位置づけです。

 当時、白村江の戦いで勝利した新羅が北方の高句麗をも滅ぼし、朝鮮半島を統一(676年)。大陸では唐が全盛期を迎え、東アジアは混乱期から安定期に入り、日本の為政者の間でも侵略の危機が徐々に薄れていきます。
 不比等の死後、藤原氏は四家(南家、北家、式家、京家)に分かれました。そして、そのなかから北家が台頭し、平安時代に藤原氏中心の貴族政治が展開されます。不比等のつくったシステムは、徐々に権力争いの場として機能しはじめるのです。


●日本独自の「和」のシステム

 日本の律令システムは、中国を手本にしたものですが、時代とともに日本独自の形にどんどんと変容していきます。簡単に言えば、シズテムの中にあってもまず天皇家の血筋が尊ばれ、この血筋を中心として、律(法律)と令(政令)が社会の末端まで網の目のように張り巡らされている。たとえば役職(二官八省)と、それに相当する官位(位階)があります。これらの官職はまず中央(都)に中心機関があり、徴税や兵役などの面で地方のシステム(国郡里制)とつながっています。官と職の組み合わせで、人のランク付けが全国規模でできあがっていくという仕組みなのです。

 こうした仕組み自体は、中国にも朝鮮にもありました。ヨーロッパにもあったでしょう。しかし、これらの地域では、革命が起きます。そうすると新しい王朝が立ち上がり、システムの構成人員ががらっと変わってしまいます。
 日本の場合、システムそのものは時代に応じて変容しますが、同じ王朝はずっと続きます。明治維新になっても、藤原氏の子孫は生き残り、地位は保証されました。要するに、革命というものが起きにくい構造なのです。

 なぜこうした構造になったかと言えば、それは日本が「和」の社会であったからでしょう。「和」の社会では、構造を根こそぎ変革してしまう革命は好まれず、代わりに、血脈や人間関係などが大事にされます。原始社会のプリミティブな感覚が、文明化していく過程でも失われず、システムと共存している形態とでも言えばいいしょうか? それが日本社会の特有の面白さであり、絶対権力を握った藤原氏にしても、天皇位を算奪しようとは考えませんでした。和が乱れると、権力基盤そのものが崩れてしまうからです。

 彼らは代わりに、この「和」のシステムをうまく利用しようと考えました。
 その根底には、実権を握っても表舞台に立たず、たえず黒幕的にふるまった不比等政治の影響が見え隠れすると、ぼくは感じています。
 不比等の政治的才能を評価するならば、それはシステムを構築したという構想力以上に、日本社会の「和」の本質を見抜いていた洞察力にあるように思えるのです。なぜならシステムというハードを作っただけで、社会が動くとは言えません。ハードに収まるのは、人の心、意識というソフトです。この本質を見抜く目がなければ、1000年も続き、いまも影響を残しているシステムはつくれないからです。


●天皇すらも取り込んだ日本流システム

 律令制度においては、官職を任免するのは、建前は天皇です。
 しかし天皇は原則として政治をやりません。初めのうちは天皇の親政も行われましたが(皇親政治)、藤原氏が権力を確立していく過程で、摂政や関白という代行者がそれを担うようになります。むろん、それらの官位には藤原氏の中でも「氏の長者」と呼ばれる有力者が就くことになります。不比等の敷いたシステムが変容しながらも機能していたので、政治はこの官職の任免が中心になっていきます。

 こうした状況に加え、平安時代になると、大陸では唐の勢いが衰え、国内でも反乱があまり起こらなくなりました。正確には平将門の乱(935〜940年)などが起こっていますが、結論を言えば、藤原氏の権力自体が根底から揺らぐことはありませんでした。なぜか? システムが強大な権威として、社会の隅々にまで浸透していたからです。本当に反乱を企てるなら、不比等の作った以上のシステムを作り出さなければなりません。しかし、そこまで社会のカラクリを理解した人間はなかなか現れなかったのです。

 このシステムがいかに強固だったかという話をもう少ししましょう。
 藤原氏も代を重ねるごとに、一族の構成人員はどんどんと増大していきます。藤原四家のうち北家が勝ち残った話は先に書きましたが、北家のなかでも血筋が天皇家に近いかどうかで、権威のランク付けがなされていきました。そうなると、藤原氏以外の勢力など、満足な官職につけなくなります。そして、官職につけなければ力も発揮できません。これは天皇家の血脈である皇族にもあてはまります。

 権威の中心である皇族のなかでも、天皇の血筋に近いかどうかのランク付けが生まれます。具体的には、皇位継承に近い血筋には、藤原家の氏の長者の娘が嫁がされ、将来の地位(天皇位)が保証されます。逆に血筋が薄くなれば薄くなるほど、居場所自体がなくなっていく。時代が進めば皇族も構成人員が増え、すべての血族を養う費用も馬鹿にならないため、中には「姓」を賜って皇室を離れる者も出てきました(賜姓皇族)。


●武士はシステムとどう向き合ったか?

 日本の最大の貴種である天皇家には、姓というものがありません。
 だから、姓を得るということは、その貴種としての特権を捨ててしまうということを意味します。平安時代初期、皇位継承から外れた桓武天皇や嵯峨天皇の皇子たちは平氏を名乗り、清和天皇の皇子は源氏を名乗りました。はじめのうちは中央で官職を得られましたが、代を重ね、藤原氏の力が強大になってくると、それも次第におぼつかなくなります。彼らのなかから中央を離れ、野に下る者も出てきました。地方ならば貴種として尊ばれ、それなりの実利が得られるからです。

 日本の歴史の面白いところは(と、たびたび書きますが)、こうした都落ちの源氏や平氏の中から「武士」が生まれたということです。武士というのは、要するに権威よりも実利に目覚めた集団と言えるかもしれません。というより、ほかに自分の力を養い、一族を繁栄させる手段がなかったというのが実情であるわけですが。
 彼らは、律令のシステムの十分に及んでいない地方で、地元の有力者たち(豪族層)と手を結び、土地を開墾し、武力をためることで独立心を養いました。豪族層から見れば、貴種を引き入れることで、自分たちの力を増大させた。武士団の形成は、両者の合作のようなものです。いまでいうインディペンデント。平将門が関東で反乱を起こしたあたりから、徐々にそうした気風(独立心)が芽生えてきました。しかし、数百年にわたって根を張った権威の魔力は、あまりに強大でした。

 たとえば、関東で反乱し、最後は新皇を称した平将門も、天皇家の遠い血筋でありながら、都にいた頃は検非違使の官職にすらありつけませんでした。検非違使は警察官のような役職です。また、時代は下って11世紀、東北の乱(後三年の役)を平定した源氏の棟梁・源義家でさえ、戦果を挙げながら恩賞はなく、ようやく昇殿が許されるという程度の待遇に甘んじました。義家の時代、藤原氏の力はすでに衰えつつありましたが、それでも権威の壁はなかなか崩せなかったのです。
 システムだけは機能し続けていたため、今度は退位した天皇(上皇)が院政を始め、父の立場で天皇の権威を利用し実権を握るようになっていくのです。

 こうした院政の時代に登場したのが、もう一方の武門の家柄、平家の嫡流である、平清盛でした。「平家にあらずの人にあらず」の全盛期を演出した清盛は、どのようにしてこのシステムと向き合ったのか? 「成功」した源氏と「失敗」した平氏。しかし、構想したものの可能性においては、両者に明確な差はありません。
 ここでも結論を先に言ってしまえば……、清盛の構想した新しいシステムは、400年後、豊臣秀吉によって受け継がれます。先駆者としての清盛も、システムの構築者という点で、十分に注目できる存在なのです。

 この続きは、また次の機会に……。

投稿者 長沼敬憲 : 16:38 | コメント (0)