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2005年03月21日

シリーズ・秀吉と日本人(5)〜秀吉・家康の「対立構造」から見えてくるもの

●家康を表舞台に押し上げた力

 日本史のピークを演出した豊臣秀吉。彼と対比させられるのが、江戸幕府の創始者である徳川家康。とりあえず秀吉が太陽としたら、家康は月のような存在。この二人にはそれぞれ織田信長も関係しているが、歴史的に見た場合、二人の組み合わせ自体に非常に重要な意味があると筆者は理解している。

 家康は、“武田信玄の後継者”として位置づけることで、その実像がわかりやすく浮かび上がってくる。戦国武将・家康の前に現れた最初の巨大な敵が信玄。よく信玄が天下を取っていたら室町幕府の二の舞だったとか、中世の時代が続いただけだといったような解釈があるが、だとしたら家康の開いた江戸幕府はどうなるのか? 家康もまた、それほど革新的な人物だったわけではない。古いとか新しいとか、そんな言葉に惑わされたら、時代の実像が見えなくなる。

 時代には一つの大きな流れがある。その流れを操っているのは特定の歴史人物などではない。なぜなら、社会という器が初めにあってそこに人がいるわけではなく、人が集まってそれが社会になった。自分が生まれる前から社会があるからなかなか後者のような実感は持てないかもしれないが、存在として実体のあるのは、むろん人のほう。人の意識の変化が根底にあって、それに促されるように英雄が生まれたり、新しいシステムが作り出されたりする。発明発見ももたらされる。時代が進むのも停滞するのも逆行するのも、前提にあるのは人の意識と捉えたらいい。英雄もまた時代に動かされている面がある。

 その視点で見ると、信玄は志半ばで倒れたし、武田家は次の代で滅びた。しかし、信玄を押し上げた時代の力そのものは失われたわけではなく、似通った志向性をもつ家康に受け継がれた。家康自身、生涯意識し続けたのは、若い頃苦杯を喫した信玄の存在としての巨大さだったと言われている。もちろん、秀吉には秀吉を押し上げた力があった。単純な話、彼が武田家に仕えてもその実力を十分には発揮できなかっただろう。彼の場合、信長がいたから成長ができた。そこには偶然の産物としては処理できない、有機的なつながりが見えてくる。

●家康が学んだ信玄の「保守本流」感覚

 新しいとか古いとか、そういう観点にとらわれるということは、歴史を一種の進歩史観で見ているということだ。筆者はこれまで「自我の成長」といった表現を用いてきたが、それはそうした直線的な発想とは違った捉え方であると思ってほしい。人は必ずしも成長し続けるわけではないし、成長が善であるとも限らないからだ。進歩史観にとらわれてきた人たちは、信長を革新的と見ると同時に、江戸時代は一種の停滞期のようにとらえてきた。しかし、近年になって進歩が善とは限らないという意識が広がるにつれ、江戸時代も再評価されはじめている。

 革新的だからいい政治家、武将であるわけではなく、その革新性にしても、時代の要請(人の意識)が背景にある。だから、歴史も人の意識の集合として見たほうが、当然のことながら生の息づかいが感知できるようになる。変革されることはいいことだ、停滞することは悪だといった前提をアタマのなかに持ってしまうと、この息づかいが見失われる。人が社会を構成して、その社会が歴史を作り出すという当たり前の基本がどこかに飛んでいってしまう。信玄も生の人間として見た場合、巨人というにふさわしい側面を持っている。それは信長も及ばない。家康はその巨大さを引き継ごうとした。そう捉えると彼の生涯も見えやすくなる。

 信玄のやってきたことは、今あるものの中から最高のものを作り出すということだ。これができてしまえば、ことさら革新性は必要なくなる。政治用語でいえば、保守本流ということ。これは、甲斐の守護大名という権威と地盤を持っていた信玄だったからできたことだ。家康にも、三河という自分自身のか弱い権威と地盤があった。これを使える組織のレベルに育てていくのにモデルとなったのは、革新派の信長ではあるまい。家康は三方原の惨敗を経て、間接的ながら信玄から保守本流の極意のようなものを学ぼうとしたのだと思う。

 家康に仕えた三河武士には、戦場でも背中を向けて戦死するような弱い武士はいなかったなどという“最強伝説”がある。そうした伝説が許されるくらいの家臣団の成長があったから、家康の天下取りも可能になったとも言える。事実、江戸幕府の職制である老中、若年寄といった呼称は、徳川家(松平家)が三河時代から用いていたものだったという。つまり、まず徳川という「家」を機能させる。その家も戦国時代を勝ち抜くことで徐々に整備され、巨大になっていく。結果、小さな「家」の組織がそのまま天下の職制に成長する。あるもののなかから最高のものを作り出した信玄の手法と、非常に重なりあったものが感じられるはずだ。

●“混成部隊”の質を一気に変えた秀吉のマジック

 言ってみれば、何も持っていないところからスタートした秀吉とは、根本的に違った土壌で成長の仕方をしてきたのが家康。その異質のものどうしが衝突し、渡り合ったのが、1584年の小牧長久手の戦いだった。これは一般に、戦術面では家康が勝利したが、戦略で秀吉が優っていたため、最終的には秀吉の軍門に家康が下ることになってしまったと評されている。確かにそれが妥当な見方だろう。秀吉は長久手の局地戦で大敗を喫したことから、家康を戦上手とみなし、生涯彼に対しコンプレックスを持ったとも言われる。この点は本当だろうか?

 じつはこの一戦は、秀吉の立場から見た場合、家康へのコンプレックスがどうとかいう以前に、非常に重要な側面を持っていることがわかる。まず、戦の展開を大ざっぱにたどってみよう。よく語られているように、家康は信長の次男・信雄を助け、秀吉の天下取りに非を鳴らすという立場で挙兵。しかし、数で劣る自軍の不利を知って、小牧山の陣から軽々に動こうとしない。一方、大軍を擁する秀吉軍も動かない。大軍ではあるが、内実は勢いのある秀吉についた武将たちの混成部隊。天下人になりきっていない秀吉の立場も、非常に微妙なものがあったからだ。

 この膠着を破ったのが、秀吉軍に参陣していた池田恒興の提案だった。一軍を編成して家康の本拠岡崎を奇襲したらどうかというもの。恒興には、娘婿の森長可が前哨戦で家康方に敗れた汚名を晴らそうという意図があったと言われる。元同僚である恒興の提案を、秀吉は断りきれなかった。結局、甥の秀次を総大将に抜擢することで、この奇襲作戦の決行を許可したが、家康軍に察知され恒興、長可も戦死するという大敗を喫することとなった。自分で意図した作戦だったならばともかく、この一戦はまた別の力関係の中で生まれたもの。戦に敗れたこと自体の悔しさ、危機感よりも、混成部隊を率いていくことの難しさをまず実感したはずだ。

 これまで繰り返してきたように、秀吉には家康の三河武士にあたるような強力なバックボーンはない。急速に勢力を拡大した小牧長久手の戦いの段階では、配下の将の多くは恒興のような同僚・先輩であり、利害によっては集合離散する外様の武将たちだった。なんらかの化学変化を起こさねば、この微妙な力関係の上で成り立っている新組織が、この先そうそう様変わりするわけはない。自分が戦いやすい状況を作り出さなければ、勝てる戦も勝てなくなる。この危機感が、秀吉の前代未聞の関白任官につながった。他の武将たちを凌駕する圧倒的な権威を身につけることで、この微妙な力関係をリセットしてしまおうと発想したわけである。

●“絶対に負けない状況”を作り出すには?

 この意味では、混成軍の弱点が露呈した家康との一戦は、秀吉が政権運営を確立させていく上でも重要な意味を持っていたことが見えてくる。繰り返すが、家康に局地戦で負けたから重要なのではない。それは家康にとっては重要な実績となったはずだが、破れたほうの秀吉の意識はさらにその先へと向けられていた。勝たなければ先の見えなかった家康よりも、この点では「余裕」があったということもできる。大局的に見るならば、小牧長久手の戦いは、家康にとっても秀吉にとっても“プラス”の方向に作用した。ともに実力がアップしたため、この時から両者の対立構造が歴史上に表面化することになった。

 小牧長久手の戦いそのものは、秀吉が信雄を得意の“人たらし”で取り込んでしまい、和議が結ばれることで決着した。一方の戦の当事者でありながら置き去りにされてしまった感のある家康だが、秀吉軍を破ったという実績をタテに居直って、容易に軍門に下らないスタンスをとり続けた。こうすることで自分自身の存在価値を高めようという意図もあったようだ。この間の両者の虚々実々のかけひきは、史実でもよく伝えられている。大ざっぱにたどってみると、次のような展開である。

 1584(天正12)年
 3月 秀吉、出陣。家康、信雄と同盟し、小牧山に布陣。
  *小牧長久手の戦い始まる。
 4月 家康、長久手で秀吉軍を破る。
 11月 秀吉、信雄と和睦。
 12月 秀吉、家康と和睦。家康、次男の秀康を秀吉の養子とする。

 1585(天正13)年
 7月 秀吉、関白に任官。四国を平定。

 1586(天正14)年
 5月 家康、秀吉の妹(朝日姫)を正室に迎える。
 10月 秀吉、生母大政所を家康のもとに人質として送る。家康、大阪城で秀吉に臣従。
 12月 秀吉、太政大臣に任官し、豊臣姓を賜る。

 ……家康との和議を結んだあと、秀吉は彼を臣従させるために、じつの妹や生母までも手駒に使って、なりふり構わない外交を展開している。それだけ家康の力を畏れていたからだという捉え方もあるが、果たしてそうだろうか? 上記の年表を見てもわかる通り、この時期、秀吉は家康外交と並行して、関白任官、豊臣姓の創始と急カーブの任官工作も続けている。家康との戦いで得られた教訓から、圧倒的な権威の力によって自分の足元を着々と固めていたことがわかる。

 ただ武力で凌駕するだけでは、天下は取れない。軍勢で圧倒している以上、作戦次第で相手を倒すこともできるかもしれないが、逆に破れる可能性もある。そんな家康と戦った時のような“一進一退の攻防”を繰り広げていたら、いつ天下統一が叶うかわからない。“絶対に負けない状況”を作り出すにはどうしたらよいか? そのように発想した上で、彼がベストと思った戦略が関白任官、豊臣姓の創始という朝廷権威に対する“平定事業”だったわけである。これによって政権基盤が確立するまでは、家康にいかようにも譲歩する。妹でも母でも差し出す。しかし、戦略を持っている以上、ただの譲歩ではない。「これだけのことをするのだから、わかっているだろうな?」というある種暗黙の脅しも、そこには含まれていた。

●家康をも完全籠絡させた秀吉の“人たらし”

 秀吉が希代の“人たらし”と呼ばれる由縁は、このように目的のためには一般にありえないことすらも平然と行ってしまえる度量の大きさにあった。家康にしてみれば、和議で自分の息子を養子に差し出すことまでは理解できただろう。実質的には体のいい人質であるわけだが、不利な立場にあるのは自分。局地戦に勝ったとはいえさすがに状況は理解していたから、「養子」という自己の体面も守れる秀吉の提案に乗ったわけである。しかし、次の手があったかというと、緊張関係を優位に維持しながら、状況の変化を待つというくらいしかなかったのではないか。

 秀吉の妹を娶った時点で、上洛する名分はできていた。しかし、のこのこ出かけていったのはいいが、策略にはまって殺されてしまうことだってあるかもしれない。家康のこうした疑念を察した秀吉は、生母を事実上の人質として家康のもとに送りつけてきた。母を預けるから安心して上洛してくるがいいというメッセージである。
裏を返せば最後通告。ここで拒んだらいよいよ決戦しかなくなる。しかし、秀吉はすでに関白に就任している。前回の失敗から自軍の弱点は修正して乗り込んでくる。関白に対して同僚感覚で作戦を提案する武将はもういないだろう。

 かくして家康は、戦火を交えないままに、上洛して臣下の礼をとらざるをえないところまで追い込まれてしまった。秀吉は公式の対面の前に家康のもとを訪ね、自分は成り上がりで政権は盤石でない、家康の助けが必要だなどと、内情を包み隠さず打ち明けてしまったと言われる。本当にそんな舞台裏があったかわからないが、ここまでの経緯を考えればありえる話だろう。そして一転、居並ぶ諸将の前で家康は臣従を誓わされる。結局のところ、秀吉の“人たらし”に彼も籠絡されてしまった。歯向かおうにも、戦意はもう完全に失せてしまっただろう。

 このようにして見ると、秀吉と家康の対立構造は、圧倒的な差で秀吉に分があったことがわかるはずだ。後年家康が天下を取ったからさも対等のように思われるかもしれないが、そうした結果のわからない段階で(秀吉在世中の政権下で)両者の関係を見たら、多分比べるという発想すらなかったかもしれない。筆者の想像も多分に含まれるが、茶飲み話のような場で、秀吉が小牧長久手の頃の思い出話をして、「家康どのには戦では敵いませんでした」などと持ち上げるような発言をしたことはあっただろう。しかし、その話を聞いた家康が得意げになれたかどうか。もしかしたら、冷や汗すら流してへりくだったかもしれない。

●「現実路線」の継承で対立した、家康と三成

 秀吉の生前にはこのような圧倒的な力関係が生まれてしまった家康だが、ご存知のように、彼の死後に天下を取り、しかもその政権(江戸幕府)は15代、260年にわたって継続した。歴史的なボリュームという点で見れば、“師匠”である信玄も凌駕し、秀吉にも比肩する影響力を後世に残したことになる。では、その影響力とはどんな内容のものなのか? なぜ秀吉との対立構造などが指摘できるのか? この点は、秀吉の実像をイメージすることで容易に解けてくる。

 秀吉の実像、すなわち彼の人間としての器量は、従来の日本という枠組みの中では収まりきらないエネルギーを持っていた。だからこそ、愚行、失政などと後世に非難される「唐入り」が挙行されたのであり、それが失敗してしまったところに、日本人の課題があるとも書いた。秀吉を生み出した時代のエネルギーは、突拍子もなく、偶発的に湧いてきたものではない。彼を表舞台に押し上げたエネルギーは、それまでの日本人の歩みの結果そのものでもある。単純に彼の海外志向を愚行と言いきってしてしまったら、秀吉以前の日本史が否定される。

 とはいえ、“地に足の着いた政策”とは言い切れなかったことも事実。日本人に潜在していた、“太陽”にも形容されるエネルギーの片鱗は見えた。しかし、そのエネルギーを使いこなして、広く世界に展開させていくだけの準備まではできていなかったということだ。本当の日本人は太陽のように明るい。日本史を有史以前から俯瞰していけば、それは確かに指摘できるが、現実に通用するかどうかはまた別の話。「唐入り」という秀吉の提示した壮大な夢を受け取りきれなかった日本人は、まさに夢を封印して、身の丈にあった現実路線へと軌道修正した。信玄から“保守本流”の手法を学んできた家康の力量が必要とされたのは、まさにその時だ。

 “夢破れた”とはいえ、秀吉が統一した「天下」を維持・継承していくという現実の作業は誰かがやらなければならない。手を挙げたのは家康と、秀吉の懐刀でもあった石田三成の2人だった。ともに秀吉の“夢”を実現させようとしたわけではない。彼の遺した一方の現実路線に対して、後継者に名乗り出たわけである。関ヶ原の戦いを経て、家康が勝利したことを我々は知っている。しかしその勝利は、一般に語らされているほどの圧勝劇だったわけではない。三成が勝っていれば、また異なる現実路線が展開されていたことになる。

●三成の「中央集権化構想」に欠けていたもの

 話がやや脱線する気もするが、家康の「天下」を浮き彫りにするためにも、この二つの現実路線の違いを大ざっぱに見てみよう。仮に三成が関ヶ原に勝利し、最終的に天下の実権を握った場合、日本の政治・文化の中心は当然畿内(京都、大阪)となる。江戸文化は生まれない。また、公武の融合がさらに進んでいくため、おそらく従来の公家=藤原氏は完全に没落して、武家貴族である豊臣氏の政治体制が確立する。尊王攘夷や公武合体の言葉が飛び交った、江戸末期(幕末)のイデオロギー闘争も起こらなくなる。秀吉の目指していたものを国内政治の部分のみ継承していくと、なにやらずいぶんすっきりした政治体制になってしまう。

 この“すっきりした政治体制”は、中央集権という言葉で理解してもいいだろう。関ヶ原の戦いを“中央集権派”の三成と“地方分権派”の家康の対立として捉える見方もあるが、本人たちがどこまで自覚していたかは別に、そうした対立構造はあっただろう。しかし、この対立を見ていくと、ここにもある種のねじれ現象が存在していることが見えてくる。秀吉政権の意思を継ぐということを強く意識していたのは、“中央集権派”の三成。しかし、秀吉の構想した“中央集権=システムの一本化”の背後には、壮大な「唐入り」という海外戦略があった。

 「唐入り」は朝鮮半島の人々からすれば間違いなく侵略戦争。しかし、戦国武将であった秀吉の感覚からすれば、日本の影響力を東アジア全体に拡大させ、従来の“中華秩序”に代わる日本発の交易圏を確立させようと意図したものだ。それによって、アジアに食指を伸ばそうとしていた南蛮勢力(スペイン、ポルトガル)の思惑をくじき、彼らをも朝貢の対象にしてしまおうという野心もあっただろう。賢しらげにこれを妄想と言ってしまう人は、たとえば戦後の日本の経済成長に対しては安易に“奇跡的な”などという言葉を使う。朝鮮人の心情を思いやるなどと口では言いながら、じつはつねに勝者の味方でしかない冷淡さがそこに見え隠れする。

 東アジア全体に展開される日本人の活気、躍動感が前提にあってこそ、中央集権化という政治体制の“引き締め”にも意味が出てくる。前者の要素が欠けてしまえば、“引き締め”は当然のことながら“抑圧”に変わっていく。三成は官僚の立場で政治運営の効率化を推し進めたかもしれないが、何らかの“遊び”の部分が設定できなければ、一種の恐怖政治が出現したはずだ。天下統一後の秀吉政権に恐怖政治の側面が見いだせるのは、ひとえに「唐入り」戦略の失敗の結果に他ならない。しかし、秀吉自身にすれば苦肉の策以外の何物でもなかったはずだ。

●日本史の対立構造を維持した家康の「バランス感覚」

 さて、ねじれ現象の核心に迫ってみたい。海外戦略なき三成の中央集権化構想では、社会の“遊び”の側面が欠落してしまうと書いた。遊びといっても、娯楽のことを言っているのではない。力を逃がすための“すき間”、“ゆとり”といった意味での“遊び”である。秀吉はそれを、「唐入り」という大風呂敷にも似た大構想によって生み出そうとした。一般人の感覚からすれば妄想に違いないが、日本人の潜在能力を十二分に生かしきるには、それくらいの風呂敷は必要とも評価できる。しかし、フタを空けてみればうまくはいかなかった。秀吉には代案がない。

 権力者としての秀吉はしばらく延命したが、彼の夢は辞世の句にあるように「夢のまた夢」で終わった。そして、家康と三成の対立が起き、勝利した家康が新たな天下人として、江戸に幕府を開いた。ここで何かに気づかないだろうか? “遊び”という点を考えた場合、“地方分権派”の家康のほうが秀吉の構想したモデルに近いということだ。秀吉によって統一された公武の政権は、再び京都(公家)と江戸(武家)とに二分され、結果として、日本史特有の(それこそ縄文人と弥生人以来の)対立構造は形を変えて継続された。秀吉のなした構造改革は否定された。

 しかし、もう少し俯瞰してみるならば、秀吉は国内の分裂を一本化させながら、自我の成長を促す対立構造そのものは生かそうとした。日本人の体験してきた「成長の法則」を東アジア全体に広げようとしたわけである。スケールはあまりに違うが、江戸に武家の政権を確立させた家康は、対立構造を生かしたという点で秀吉の「天下」の基本部分を引き継いだとも言える。逆に、三成の路線では、対立構造は消えてしまう。本人の意思とは別に、秀吉の「夢」も消えてしまうことになる。日本人の自我の成長も妨げられてしまったことだろう。

 家康は家康で、現実の政治家としてのバランス感覚を持ち続けていたということだ。彼が江戸に政権の拠点を置いたのは多分に成り行き的な面があるが、その身の丈にあった保守的な政治手腕によって日本史のバランスそのものが維持された。そこに、近年うたわれている“江戸再評価”の根本的な意味があると筆者は思う。こうした点をふまえるなら、関ヶ原の戦いで最後の最後まで“裏切り”を迷ったという小早川秀秋の決断には、天の意思が働いたとしか思えない。そんな感覚すらも湧いてくる不思議さがある。家康が勝たなければ、日本が日本でなくなった(日本史が停滞した)可能性すらあったからだ。

 “太陽”は日本人の意識下に潜在してしまったが、秀吉と家康の歴史的な対立構造は、後世の日本人に様々なことを教えてくれる。

投稿者 長沼敬憲 : 04:56 | コメント (0)

シリーズ・秀吉と日本人(4)〜“和と太陽の国”が生んだ「英雄」

●「唐入り」が成功していたら……?

 井沢元彦氏「逆説の日本史」の“秀吉編”を以前読んだら、「秀吉が(唐入りに)成功していたら、次のようなことになったかもしれない」という前提で、百科事典風の次のような記述があった。要点になる部分だけ、かいつまんで引用させていただこう。

 大[だい]
 中国の王朝の一、日本族のヒデヨシが高麗を滅ぼし、明を併合し、都を寧波に移し、十七世紀初頭国号を「大」と号し、秀吉は初代皇帝「太宗」となった。……

 なぜ「大」かといえば、秀吉の一番好きな字だったからだが、こういうことを書くと「右翼だ」とか「大東亜共栄圏の亡霊を追い求めている」などと評する人々がいる。/とんでもない。……(*私は)こうならなかった現状のほうがよかったと思っている。/というのは、「大」が成立すればかなり高い確率で次のようなことになった可能性があるからだ。

 日本[にほん]
 現在の中華人民共和国日本省(省都大阪)に存在した独立国家のこと。十七世紀初頭まで中原からは「東夷」と呼ばれた蛮族の地だったが、英雄ヒデヨシ(大の太宗)が出るに及んで中原を制し、以後中国の一部になった。ちなみに「源氏物語」はもともとこの国の古典で、昔は日本古語で書かれており……。

 事実の記述がこのように中国語で記されることは、決して有り得ない想像ではない。/かつて満州文字でしか正確に記せなかった「ヌルハチ」(*清朝の初代皇帝)の子孫が、今は「愛新覚羅」と漢字(中国文字)でしか、自分の姓を記せなくなっているのだから。
(「逆説の日本史11戦国乱世編〜朝鮮出兵と秀吉の謎」より *のカッコは筆者)

 なかなかこのような見方をする人はいないので、面白いと思った。確かに日本の勢力圏が東アジア全体にまで広がってしまえば、その時、日本は今あるような日本でなくなる。中国大陸の習俗や文化がかなりの度合いで融合するはずだし、住んでいる土地が変われば、代を重ねるごとに気質も民族性も変わっていく。

 ……と、ここまでイメージを広げたところで、ふと思った。いわゆる中国人は「中国」に住んでいるから中国人と呼ばれている。この「中国」とは、国の話なのだろうか? それとも風土の話なのだろうか? 筆者の脳裏には、すぐに後者だと答えが浮かんだ。風土としての「中国」(言ってみれば、中国大陸か)に住み続けることで、満州族であろうと日本族であろうと、「中国人」になってしまう。少々表現がややこしいが、要は構成民族にかかわりなく、一つの風土の中でその風土性に根ざした文化圏が形成されるということ。この点を錯覚してしまっている人が多いのではないだろうか?

 もう少しわかりやすく説明しよう。よく「中華4000年」といったフレーズを口にする人がいる。しかし、前出の井沢氏も言っているが、ここでいう中華をいまの中国の主流民族である「漢民族」の歴史として捉えるなら、4000年(あるいは3000年?)という年月は「虚偽」となる。元や清は明らかに異民族王朝だし、古代の隋や唐の王族もじつは異民族(北方の鮮卑族)の血を引いてたと言われている。中国史全体で見れば、漢民族以外の異民族が王朝を開いた時代もかなりの比重を占めるからだ。たとえば、(ありえないだろうが)いまのモンゴルがかつての元のように中国に攻め入って新たに王朝を開いたら、いまの中国人は「国が滅びた」と思うだろう。過去にあったそういう現実もひっくるめて、「中華4000年」という言い方がされているわけである。

●国家すらも呑み込んでしまう「風土」

 ただ、ここで妙なことに気づくのではないだろうか? そう。日本が中国大陸を制圧して新しい王朝を開いたら、日本はもとの日本ではなくなる。異民族による新王朝が東アジアに誕生し、日本列島は確かにその省の一つになるかもしれない。しかし、そうであるとするならば、それもまた「中華4000」年ということではないのか? つまり、異民族であろうが漢民族であろうが、いわゆる中原(中国大陸の中心部)を制した者が“中華”なのである(*)。もちろん、漢民族の立場からすれば、それは亡国を意味する。しかし、彼らの文化もまた異民族の文化と混じりあいながら、「中華4000年」という枠組みの中で後世に継承されていく。

*古代中国においては、万里の長城以北の遊牧民のことを「異民族」とみなし、農耕主体の中原の文明と区別していたようだ。純血の「漢民族」という種族がいたわけではない。

 このように見ていくと、国家と呼ばれるものの土台に、それすらもすっぽり包み込んでしまう「風土」が存在していることがわかる。国家とは、“三権分立”ではないが、行政と立法と司法という集団生活を保障するシステムを管理・統括している機関のようなものだ。それは時代によって、その機関の支配層の考え方によって、いかようにも変わっていく。しかし、風土は基本的には変わらない。逆に外部からの侵入者さえ、その風土によって性質を変えられてしまう。

 だから、モンゴル民族がチンギスハンの血統によって、中原の明王朝を滅ぼして元を打ち立て、さらにはユーラシア大陸全土に勢力圏を広げた。そして各地の風土と融合しながら、新しい国家を生み出した。しかし、そのモンゴル民族を生み出した風土、つまりはモンゴル高原が大陸から消え去ってしまったわけではない。だから、元王朝が衰退し、ついには国を追われた末裔は再び「故郷」へと撤退していったと伝えられる。あるいは、その「故郷」に残って暮らし続けた人々が、その風土から生み出される文化を継承し続けた。それが今日まで続いている。

 一つの社会で多数の人々が生活を続ける上で、国家は必要なシステムとして機能している。しかし、風土はそれ以上に意識し、大切にしなければならないベースであるということだ。その意味で筆者は、日本の歴史というものを語る時、国家としての歴史と同時に、風土が作り出した歴史も見る。先の話で言えば、日本列島が中国大陸に都を持つ「日本族」の王朝の省の一つになろうと、それによって日本列島の風土までは変わらない。日本列島の構成人員が「日本族」のままであり続けるかはわからないが、風土の中で生み出される人間性や価値観は、風土のほうが変わらないかぎり、基本的に代々受け継がれていく。

●風土が結びつける「秀吉」と「縄文日本」

 筆者は、秀吉のことを“代表的日本人”として捉えてきた。言ってみれば、日本列島の特有の風土が生み出した最も典型的な日本人。「英雄」と呼ばれる存在は、国家としての歴史に大きく関与する存在ではあるが、その存在を生み出し、育て上げるのは風土である。これまで律令制度の成立から始まって、秀吉の天下統一まで、国家としての歴史に焦点を当てて「日本」を見てきた。その「日本」の歴史の最大のピークを演出した男は、風土の作り出した“代表作”でもあったわけである。ある意味で当然と言えば当然の話。しかし、国家の歴史ばかりを見ていると、その当然が見落とされてしまう。

 では、風土の重要性はわかったとして、日本の風土とは具体的にどんなものだろうか? それを知るためには、国家の歴史が形成される前の段階までさかのぼってみるといいかもしれない。その風土の原点は、歴史で言えば縄文時代の中にある。国家のシステムによってではなく、風土の中の“決まり”だけで人の暮らしが十二分に成り立ち、深刻なあつれきや混乱が生じなかった時代。考古学の研究によると、日本列島が大陸から切り離され、風土的な独自性が生まれて以来、そんな時代が1万年は続いたと言われている。この1万年の記憶が日本人の感覚のベースになっているわけである。

 ここで、日本の風土の特徴をいくつか挙げていってみよう。まず思い浮かぶのが、四季のうつろいの繊細さ、という点。4つの季節が1年を通じて万遍なく経験できる環境というのは、日本人的に当たり前のようでいて、世界を見渡せば非常に恵まれた環境であることがわかる。また、季節だけでなく、地理的な環境そのものも恵まれている。海もあり、山もあり、川があり、森がある。狭い島国であるがゆえスケール感には欠けるが、山川草木のすべてが整っている。箱庭の中にそのすべてが詰まっているというイメージ。こうした風土で暮らすと、手前味噌に近い言い方になるが、自然と感受性が強くなることがわかるだろう。

 また、恵まれた自然環境の中で生活できれば、性格もあまり攻撃的なものにはなりにくい。良くも悪くも、ハングリー精神の欠けた人間の生まれやすい環境と言うべきか。事実、縄文時代の1万年間、大陸では初期の国家が生まれ(中華4000年の歴史が始まり)、幾度となく戦争状態に陥っている。しかし、日本列島は自然との共存生活が延々と続いていたようだ。国家が生まれていない、イコール遅れているというのは、最近では一面的すぎると思う人が増えきている。確かに縄文時代をただ遅れた時代と捉えてしまうと、ここでも多くのものを見落としてしまう。

 たとえば、四季のうつろいを感じ取れる繊細な感受性、これが人間関係に向けられると、生まれてくるのが“和”の精神だ。“人たらし”と呼ばれた秀吉の卓越した人間力は、要はこの“和”のバリエーションであることにお気づきだろうか? 恵まれた自然環境の中で生きる民族は、基本的に多神教になるケースが多い。これは要するに、山川草木すべてに神は宿っているという感覚。一神教のような、天(神)と自己とのタテ軸的な“一対一”の関係ではなく、人間関係も含めた万物とのヨコ軸的な“つながり”に力点が置かれる。秀吉はこの“和”の特性を最大限に生かすことで立身し、後世に名を残すことになったわけである。

●縄文の自然が育んだ“和”と“太陽信仰”

 日本の風土によってもたらされる感性は、こうした“和”ばかりではない。古来の「太陽信仰」に由来する、底抜けの明るさ、生命エネルギーの高揚感というものも、その一つに挙げられると筆者は思う。つまり、争いがなかったからと言って、こじんまりと自然の脅威にびくびく怯えながら生きていたわけでは必ずしもない。縄文時代の火焔式土器に代表されるようなエネルギッシュな生命感、躍動感が、日々の生活の中に息づいていた。「原始女性は太陽だった」という言葉があるが、太陽だったのは女性ばかりではない。生きる上での厳しさをも含め、彼らは感覚器官をフルに生かしてたくましく生きていた。どうだろう、これって歴史に伝えられる秀吉のイメージそのものではないだろうか?

 縄文時代に太陽信仰があったなどということは、考古学的には何も証明されてはいない。ただ、日本列島のような恵まれた自然環境、つまりは山川草木に神の存在を意識する多神教の世界では、太陽という天体のインパクトが強烈であったことは想像できる。インパクトだけでない。現代のように暦もなく、自然の移ろいそのものを感じることで生活を続ける当時の社会では、太陽の動き、月の満ち欠けといった“変化”に対して、人々は相当敏感に反応したはずだ。問題は、その敏感な感受性によって捉えた太陽とはどんな存在だったのか、ということ。

 この点を当時の縄文人の感覚になって、少しイメージしていってみよう。太陽は東から昇って西に沈む。視覚的に言えば、山間部の多い日本では山の一方の端から登って、天空で軌道を描いて、反対側の山の端に沈む。当たり前と言われそうだが、ひとつ見落としがちな点がある。この太陽の運行を基準にすると、西や東の概念は、一日ごとに位置が変わってしまう。地球が自転しながら太陽のまわりを公転しているからだ。わかるだろうか? 方位が毎日変わるのである。この融通無碍な動きは現代人には無秩序に映るかもしれない。しかし、実際には法則性に基づいた自然の姿そのものであり、多神教のもつ雑多で非統一な世界のありようとも重なりあう。

 ご存知のように、我々にとっての「常識」である東西南北の方位というのは、北極星を基準にしている。天空に浮かぶ1年を通して動かない“不動の星”を、方位の基準と定めたわけである。こんな基準をなぜ定める必要があったのだろう? 一番イメージしやすいのは見渡すかぎりの平原、砂漠。あるいは海。そんな光景の広がる世界を旅する時、迷わないで目的地に進むには天空の星が非常に重要な目印であったということ。中でも“不動”の北極星は、旅人たちに重視され、信仰の対象になりえた。これは遊牧民、騎馬民の文化であり、一神教を奉ずる人々の精神性、感覚とも合致する。太陽信仰は、この北極星信仰の対極になるものと考えたらいい。

●“物的証拠”の残らない「感覚」としての世界

 日本のような風土には、北極星信仰は基本的には根づかない。北極星に意識が向けられたとしても、それもまた山川草木、森羅万象の一つであって、それだけを信仰して崇める感覚にはなりはしないからだ。事実、北極星信仰をベースにした暦も、東西南北の方位も、縄文時代よりずっと後代、国家の原型が形作られた古代の日本社会にもたらされた大陸起源の概念。時代とともに農作業をはじめ日々の生活に欠かせない“常識”に変わっていくが、それが世界を感知する基準のすべてだと思ってしまうと縄文の頃の記憶は消えていく。そうなれば、いくら考古学的検証を積み重ねても、暦のなかった(自然な“暦感覚”しかなかった)時代の意識は見えてこない。その意識の中心、つまり後世の北極星にあたる基準が「太陽」だったと言えるわけである。

 これは考古学的にどうというものではなく、感覚的な問題。学問の世界では感覚をベースに時代を論証することは忌避される傾向になるかもしれないが、筆者に言わせれば、人間の感覚は時代にかかわらず共通の「素材」と呼べるもの。人が時間を超えて過去の出来事に共感したり、時に実感すらできるのは、身体の中にそうした“感じる機能”があるからだ。考古学的な証拠が完全に揃っているから確かなのではなく、それをも「素材」にして、最終的には人が“ありえる”と感じるから一つの時代像が構築される。イデオロギー(思想)でつくられたものは時代を経て廃れたりもするが、感覚的に認められたものは、思想を超えて生き残っていく。

 以上のような意味で、筆者は縄文時代の「太陽信仰」を“ありえる”と実感しているわけだが、どうだろうか? もちろん、考古学の立場から見れば、やはりそれを裏づける物的証拠、つまりは遺跡の存在が認められなければなかなか肯定できない(しにくい)というのが現実だろう。なかにはストーンサークルのようなものをその遺跡の一つに挙げる人もいるかもしれないが、この点に関しても、筆者の発想はまったくちがう。考えてみてほしい。縄文時代に残る遺跡は、基本的には日常生活の痕跡だ。信仰に関係したものも見いだせるだろうが、太陽信仰の遺跡だからといって、ピラミッドに類するものが出てこないとならないのだろうか?

 日本列島にはわざわざピラミッドのような人工物を建造しなくても、山川草木がそのまま信仰対象になる生活環境がある。仰ぎ見るものとしては、具体的には山があれば十分。エジプトや中南米のようなピラミッドは要らない。要するに、考古学的アプローチだけでは、そんな信仰の痕跡までは見いだせない。筆者のいう太陽信仰にしても、遺跡がどうとかいう以前に、その根底にあるのは、日々の生活の中にほとんど自覚できないままに溶け込んだ“感覚”の一つだったということ。巨大な遺跡を建造して信仰の対象にするといった発想自体、基本的には、大陸の一神教信仰の人々に由来する“感覚”であり、縄文人にそんな“欲”があったとは想定する必要はない。証拠など残らないものが多いのである。だからといって、それをなかったと言ってしまえば、精神的なものは何も見えなくなってしまう。 

●縄文人の感性を呼び覚ました秀吉の「英雄性」

 まだまだ書き足りない部分はあるので、このあたりに関してはいずれ稿を改めて触れることにしよう。ただ、こうした点をふまえるだけでも、縄文時代の人々の意識の中心に“和”と“太陽”が根づいていたことは、それなりにイメージできるのではないだろうか? この二つの感覚が1万年の歳月の中で醸成され、その後の日本人の“らしさ=個性”のベースになっていった。秀吉は、この二つの感覚を体現した存在であったからこそ、日本史上の最大の「英雄」となりえたのである。“和”の精神の権化であると同時に、無類の明るさを備えた“太陽の子”。それが社会の最下層の中から躍り出て、混乱から平和へと向かう社会の総仕上げ、秩序の再構築を行った。

 秀吉以前の歴史を振り返ってみれば、これまで繰り返してきたように、8世紀に藤原不比等が整えた律令制度が「秩序」のベースとして機能し続けてきた。これはもう少し俯瞰した見方をすると、縄文社会という国家の形成される以前の風土的なベースに、弥生時代以降の大陸からもたらされた国家運営のシステムが割り込み、溶け込むことで成立したものだと言うことができる。この国で人が集団生活していく上で必要なものであったことは確かであるとしても、国家のシステムが社会に浸透して行けば行くほど、当然のことながら、縄文時代の風土的な感覚は潜在化していく。その意味では「個性」が抑圧されるという側面も持っていた。

 あるいは歴史的事実を見ても、縄文人の文化は“遅れたもの”“野蛮なもの”とみなされ、農耕(稲作)の普及とともにその勢力圏は東へ、東へと後退していった。大和朝廷が畿内で政権基盤を確保した段階では、東国(関東以北)の縄文人の血を引く人々は異端視され、蝦夷(えみし)という名で蔑まれ、排除の対象、討伐の対象として苦難の歴史を歩むようにもなった。また、平地が国の管理する農地に変わってしまったため、山の民として、定住地を持たない漂泊の民として、これまた社会の影の部分に追いやられた人々もいる。彼らは歴史の中で商人や芸能人、あるいは何らかの技術を持った職人として、日本文化を側面から支えた。

 こうした点をふまえれば、日本人は稲作民族、日本は農業国家であるという捉え方も、非常に表面的なことが見えてくる。それも一面の真実ではあるだろうが、日本の社会を活性化させる原動力となったのは、むしろ「秩序=農耕社会」からはみ出た、抜け出た存在であったこともわかるだろう。江戸時代の「士農工商」の概念で言えば、“工”と“商”のなかにその原動力が見いだせる。農本主義的な封建社会が基盤でありながら、経済大国、工業立国化した近代の日本の姿も、そこにダブってくるだろう。それらが可能になったのは、風土に由来する縄文人の感覚、感性が巧妙な形で社会の中に温存され続けてきたからだと筆者は思う。

●“士農工商”のすべてを兼ね備えた多面的存在

 なぜ、縄文人の文化が、国家の秩序が形成されて以降も、社会のベースの部分に息づいてきたのか? 答えは簡単だ。それが人工的に生み出されたものではなく、風土に根ざしたものであったからだ。国家のシステムが農業に財政基盤を求めようと、風土の中で培われた感受性は、その枠の中だけに閉じ込められるものではない。武士にしても、秩序からはみ出した存在が自我を持ち、団結したからこそ、逆に新たな秩序の担い手ともなった。「天下人」となった秀吉の場合、その武士でもなかった。我々のイメージする意味での農民(農業従事者)だったわけでもなく、言うなれば、士農工商、すべての要素を持った非常に多面的な存在だった。

 「百姓」という言葉はイコール「農民」ではなく、本来そうした多様な職能の総称としての意味が込められていたと言われている。その意味において、秀吉は「百姓」であったということもできる。その百姓、つまりは言い換えれば「庶民」が天下を取ったというところに、彼の時代に至る日本史の充実ぶり、自我の成長というものが確認できるのではないか? 秀吉になぜ人気があるのかということも、ただ単に立身出世が痛快だったからではない。同じ日本列島で暮らす人間として、共感できる成功の仕方だったから愛されてきた。晩年の「失政」に対するもどかしさや同情も含め、自分たちの“らしさ”と重ね合わせられてきたのである。

 そして、あるいはお気づきの人もいるかもしれないが、「百姓」が「天下人」になることを可能にしたエネルギー、しかも失敗に終わったとはいえ「唐入り」までも実行してしまう当時の日本社会のダイナミックな充実ぶりは、「秩序」のなかに押し込められていた原始の感覚、「太陽信仰」に象徴される生命エネルギーの躍動感があの時代に甦ったことを意味している。繰り返すならば、“和”と“太陽”が、日本列島の生み出し、育んできた「個性」なのである。そして、その象徴が秀吉という「天下人」。しかし同時に、“和”はともかく、“太陽”の感覚はその後の歴史で急速に萎んでいってしまったことにも気づかされるだろう。

 秀吉の政権を引き継いだ江戸時代が、自然に優しい、リサイクル性の高い社会システムを実現した時代として、近年、再評価されはじめている。身分制度に縛られた、農民を抑圧する窮屈な社会といったような、筆者が子供の頃の教科書で読んだような社会像は、過去の“偏った観念”になりつつある。しかしそれらの像を肯定した上でもはっきりと言えることは、秀吉が体現したような“太陽エネルギー”は、彼の死をもって再び社会の闇へ封印されてしまったということ。縄文人のDNAは日本人の深層意識に潜在化していき、以後、良くも悪くも、世界とのむすびつきがどこか希薄な、こじんまりとした箱庭文化が展開されていく。

 言い換えるならば、日本史のピークであった秀吉の時代を、その後の日本人はいまだに超えられないでいるということ。本当の日本人は太陽のように明るい。そのように言ってもピンと来ない人が多いとしたら、ここまで話してきたような、知識だけでは捉えきれない歴史の歩みを忘れてしまったからだ。ただ情報として理解すればいいという話ではない。想像力の幅を広げ、身体的な実感として受け止められるようになった時、近年の“江戸再評価”の先にあるものが見えてくる。秀吉と縄文が一つのラインで結ばれ、秀吉と現代をつなぐ一本のラインの存在にも気づかされるはずだ。日本史は俯瞰してみると、秀吉以前と以後とに分けることができるからだ。

 次は、太陽=秀吉に対する月としての役割を持つ徳川家康にスポットを当てながら、両者の対立構造、江戸幕府が秀吉から継承したものと、しなかったものについて、より鮮明に浮き上がらせていきたいと思う。

投稿者 長沼敬憲 : 03:59 | コメント (0)

2005年03月17日

シリーズ・秀吉と日本人(3)〜「唐入り」という世界戦略はなぜ失敗したか?

●「本能寺の変」というスタートライン

 秀吉の「唐入り=朝鮮出兵」について語る前に、まず、本能寺の変をめぐる話から始めたいと思う。天下人・秀吉の政権運営、ビジョンと言ったものを見ていく上で、ここが一つのスタートラインになってくるからだ。

 筆者はこれまで何度か書いてきたように、織田信長を世間が思っているような英雄とはあまりイメージしていない。というより、彼を“不世出の天才”と見なして、あたかも日本史のキーパーソンに据えてしまう風潮に違和感をおぼえてしまう。その理由については、大ざっぱながらすでに書いてきたので、ここでは繰り返さない(→こちらを参照)。ただ、「信長=天才」という前提をひとつ取り払ってしまうと、この時代の歴史もまた違ったように見えてくる。

 一番評価が変わってしまうのは、おそらく明智光秀だろう。彼は主君・信長の“天才性”と対比させられて、何か天才を理解できなかった凡人の代表、保守的・古典的発想のカタマリのように描かれたりしている。だから、本能寺の変を起こした動機も、大まかに言ってしまえば「怨恨」。
 もちろん、あんな殺伐とした(しかし生命力のギラギラした)時代に生きていたのだ。怨恨の一つや二つはあっただろう。しかし、従来の怨恨説はもっと単純な「事実」を見落としてしまっている。一つは、光秀にとって恨みがどうとか言う以前に、この変が「チャンス」であったということだ。なにしろ信長はほとんど手勢だけの状態で、京都に宿泊していた。しかも、ライバルとなる織田家の家臣(秀吉や柴田勝家など)はみな地方に散らばってしまっている。

 このへんの状況はよく語られるところだが、問題なのは、どうしてこうした状況が生まれたのか、ということだ。光秀の領国、つまり活動拠点は近江や丹波の一帯。また、彼の傘下(与力)に組み込まれていた細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和と、歴史家が「近畿管領」などと呼ぶように、その影響力は畿内に集中していた。畿内は、言うまでもなく織田政権の中心である。そこに活動基盤があったということは、要するに、信長に信頼されていたのである。なぜか? 有能だったからだ。だから信長が、裸同然の状態で本能寺に宿泊するような“油断”も生まれたわけである。

●「信長=天才」説を保留にする

 こうして見れば、光秀が古典的な教養にとらわれた、カビ臭い人物であるわけがないことも見えてくるはずだ。合理主義者で能力第一主義などと言われる信長の目から見ても、非常に有能であり、そこらの家臣よりもずっと使える男だった。この点は、ライバルと言ってもいい秀吉や滝川一益なども同様。当たり前の話だが、彼らは能力があったから織田家で頭角を現した。光秀に至っては、本能寺の変という“千載一遇のチャンス”を生かすだけの野心や実行力も持っていた。

 さて、後世の我々は「謀反」を起こした光秀が、秀吉の“想定外”の行動力によって、「三日天下」に終わってしまったことを知っている。正確にはわずか11日あまりの「天下」であったわけだが、おかげで彼がどのような政権運営を構想していたのかは、永遠の謎になってしまっている。ただ、保守的発想の光秀の天下が続いていれば、日本は「中世」の時代に逆戻りしてしまったはずだ、などという解釈は、ここまでの話をふまえればさして根拠がないことはわかるだろう。

 ともあれ、天下の主権は光秀から秀吉に推移した。「信長=天才」説を採る人は、新たに天下を制した秀吉を、天才の模倣者というくらいにしか見ていない面がある。言い換えるなら、信長の後継政権、彼の敷いた「天下布武」の路線をただ継承しただけだという評価。秀吉の類まれなる人間性、“人たらし”としての頭抜けた個性を認めつつも、信長ほどの独創性はなかったと言いたいようだ。これから触れることになる「唐入り=朝鮮侵攻」にしても、信長の海外戦略の構想がベースにあった。彼自身の発案ではなかったと強調されることが多い。

 要するに、秀吉政権には確固とした(信長レベルの?)ビジョンなどなかったいう話になるわけだが、本当にそうか? 確かに光秀は天下人としての自らのビジョンを公開する前に破れてしまった。だから、天下人としての器量は永遠の謎。しかし彼を破った秀吉は、実際に政権を握っている。信長に対する過大な(と筆者は思っている)評価をいったん保留にし、現在残されている歴史的事実をありのままに追っていくだけでも、彼のビジョンは浮かび上がってくる。“人たらし”の才能と政治家としての力量は、彼の中で表裏一体に機能していたことがわかる。
 
●公武を統一させた前代未聞の「関白任官」

 前の稿でも強調したことだが、秀吉はまったくの裸一貫から身を起こし、ついには天下の表舞台にまで駆け上がった人物である。裸一貫、つまり何も持っていない存在。それが個人の実力で最終的には「天下人」にまでなった。北条早雲や斎藤道三を持ち出すまでもなく、戦国武将ともなれば少なからず似た条件のなかにいたわけだが、こと歴代の「天下人」と比べた場合、彼がいかに「不利」な立場にいたか、その点は理解できるのではないだろうか?

 天下を取ったといっても、自分の磨き上げた人間力(器)だけでもっているような、砂上の楼閣に近い政権である。最低限、信長を超えるような政権ビジョンを打ち出さなければ、第二の光秀にもなりかねない立場にある。この危機感を解消させるために、まず秀吉が採ったのが、関白という朝廷の最高位への任官である。征夷大将軍になれなかった代償に関白を狙ったなどという説が流布しているが、少し考えればそんな発想は成り立たない。なぜなら、関白も征夷大将軍もともに朝廷の官位。そのどちらが上かと言えば、もちろん関白のほうではないか。

 裸一貫の浮浪者にすぎなかった“サル”が、武家の「最高官位」を飛び越えて、人臣の最高位に就いてしまう。インパクトという点を考えたら、関白任官のほうがはるかに衝撃的だったことはわかるだろう。武力で実権を握った以上、将軍位に就くということなら、当時でもある程度想像の許される範囲の話であったはずだ(これ自体も彼の出自を思えば異例であるが)。しかし、関白任官となると前代未聞。武家がなるという以前に、不浪人あがりが天皇の補佐役に就いてしまったわけだから、後世の我々はこの衝撃の大きさをもっと理解する必要がある。

 いや、衝撃というだけでない。筆者の目には、この関白任官自体も、彼の天下統一事業に組み込まれた構想の一つだったと映っている。つまり、出世して権力を握りたい、政権を安定させたいという、彼の政治家としての「欲」以上の意味が、そこにはあったと思うのである。なぜなら、秀吉は素性定かならぬとはいえ、武家である。その武家が公家の占有していた最高位に就く。これで「公武合体」は実現し、畿内(京都)と関東(鎌倉)に分裂していた日本の政治機関は一本化される。それもまた、文字通りの「天下統一」であったことが見えてくるはずだ。

*こうした秀吉の構想の先駆をなしたのが平清盛である(→こちらを参照)。

●統一政権に必要だった「唐入り」という「夢」

 公武合体という「統一」を実現した秀吉は、この時点で、公的な「天下人」の称号を勝ち得たと言っていい。武力で政権を奪った将軍よりもはるかに上位の、史上最強の「天下人」である。秀吉は早速、天皇の補佐役の立場から、服属していなかった九州、関東、東北の諸将に「惣無事令」を公布している。中央では公家と武家が統合され、これまでにないまったく新しい政府ができた。今後は天皇の代行者である関白・秀吉が世の政治(まつりごと)を執行していく。だから、もう無用な争いはやめ、帰属せよという、“私戦停止命令”である。

 公武の政権一本化→天下惣無事令(私戦停止命令)→従わない諸将に対する武力行使

 こうした大義を掲げるのと同時進行して、秀吉は有名な「太閤検地」も実施している。これは、大宝律令の制定(720年)以来の、本格的な土地制度改革である。現代人にはあまりピンと来ないかもしれないが、秀吉が全国レベルで検地を実施するまでは、一つの土地に武家や公家などの複数の権利が重なっていたり、その土地で取れる作物の収量も明確に把握されていなかった。また、収量をはかる秤のサイズなどもまちまちだった。これらが統一され、「1つの土地に1つの権利」という現代社会の“常識”が当たり前になったのは、秀吉時代以降のことなのである。

 正確に言えば、検地自体は秀吉が初めて行ったものではない。武田氏、北条氏など政治力を持った戦国武将は、少なからず領国内の検地を実施していた。前の稿で日本人の「自我の成長」の歴史についてつづってきたが、ここで大事なことは、この歴史の中で代々リレーされてきたものが、社会の最下層から成り上がった彼によって集大成されたということだ。検地によって秀吉は、日本人の農業総生産を数値として把握できるようになった。全国の土地が実態に近い石高で割り出され、この石高を基準に配下の武将たちに一定の軍役を課せられるようにもなった。

 農民たちから武具を取り上げた「刀狩り令」の布告も、この過程のことだ。土地制度という「秩序」が確立した以上、もう土地を守るための武具は必要ない、安心して農作業に励め(国の生産力を高めてくれ)というのが秀吉の理屈。兵制も同時に確立しているから、軍事は武士階級に任せるようにという「兵農分離」の政策でもある。これらが江戸時代の身分制度の基礎になっていることは理解できるだろう。しかし、決定的に違う点もある。秀吉はこのようにして出来上がった国の新たなシステムの維持に一番大切なのは、「夢」であると考えた。この夢の実現のために、「唐入り」という壮大な「ビジョン=政権構想」が提示されることになるのである。

●自我エネルギーの沸点に出現した秀吉政権

 国内のあらゆる「統一」、つまり武力的な統一も、公武の官位の統一も、経済・社会のシステムの統一も実現されたことで、日本は事実上、豊臣秀吉という天下人のもと“ひとつ”になった。すべてを統一したからこそ、独自の姓もまた創案された。このことについても前回書いたが、要するに秀吉は、日本史上において秦の始皇帝のような立場にあったことが理解できるだろう。しかも、彼の一声で右にも左にも進退する、戦国時代の乱世を勝ち抜いてきた数十万にも及ぶ軍勢がいる。兵の質から言えば、当時「世界最強」とも評される精兵である。

 筆者は秀吉が天下人になったのは、日本人の「自我の成長」の一つの結果、つまりは到達点であったと繰り返してきた。それは、社会の最下層の人間が天下人になってしまうくらいのエネルギッシュな社会が到来したということ。この当時の日本人は、日本列島という一つの枠の中からはみ出るくらいの精神の沸騰期にあった。天下人となった秀吉は、自らを太陽の子、日輪から生まれた存在であると宣言しているが、そんな表現が許されるくらいの(現在では想像できない)活力がみなぎっていた。鉱山開発などが飛躍的に進み、空前の金産出国となったのもこの時期のことである。

 秀吉の「唐入り」は、こうした社会的な活力を背景に構想され、実施されたのである。政権のビジョンという側面から言えば、海外雄飛、大陸進出という壮大な「夢」を庶民の前に提示した。それを誇大妄想などと言ってしまったら、この時代のエネルギーは見えてこないし、庶民が秀吉政権に抱いた夢も否定されてしまう。後世の太閤人気も理解できない。信長も同様の大陸進出を構想していたかもしれないが、庶民の夢のレベルにまで直結したものだったかどうか。“自我の成長”の歴史の頂点、沸騰点に位置するだけの器であったとまで言えるだろうか? やはり秀吉のような“成り上がり”が表舞台に躍り出ることで、天下の混乱は終息し「統一」されたのである。

 もうひとつの側面をつけ加えるならば、ゼロからスタートした秀吉には、信頼できる譜代の家臣もほとんどいなかった。側近となった石田三成ら近江出身の文官たちは、事実上、太閤検地などの経済政策を通して育て上げた。加藤清正ら武官は、まさにこれから話す「唐入り」という実戦で武将としてのキャリアを積んだ。ハイレベルに沸騰した日本人の自我エネルギーをうまく発散させながら、組織そのものをゼロから作り上げていかなければならない立場。「唐入り」などしなければ政権はもっと延命できたはずだというのは、彼のこうした状況が見えていない。結果を知っている後世の人間の、一つの観念にすぎないことがわかるのではないだろうか。

●「人間力」を前提にした秀吉の戦法

 では、そのようにしていわば理性的に実行された「唐入り」が、なぜ失敗に終わってしまったのか? 政策として考えた場合、決して無謀だったわけではない。よく語られることだが、当時の朝鮮の王朝(李氏朝鮮)は、日本で言えば平安時代末期レベルで腐敗が進んでいて、政府としての機能をほとんど果たしていなかった。そのため宗主国の明に援軍を求めることになるわけだが、この明とて、秀吉の大陸出兵ののちに衰退し、1644年に滅亡。北方からの侵略者(満州族)が、新たな清王朝を打ち立てるに至っている。「世界最強」の軍隊で構成されていた秀吉軍にも、この清と同様の「チャンス」があったと指摘することは、状況的にも別におかしな話ではない。

 朝鮮民衆の予想以上の反抗、海将・李舜臣の活躍、“和平派”小西行長と“交戦派”加藤清正の対立など、「失敗の原因」は様々に挙げられるが、これらが決定的に関与していたとまで筆者には思えない。では、その決定的要因は何だったのか? 最も重視しないとならないのは、戦国武将としての秀吉の戦い方。彼が得意だったのは、よく知られているように調略である。すなわち、“戦わずして勝つ”という戦法。彼は、戦闘行為そのものが特別に得意だったわけではない。その点に敗因を探っていく、一つのカギが隠されていると思うのである。

 結論を出してしまう前に、秀吉の戦法についてもう少し検討しておこう。天下取りの段階になると、この“戦わずして勝つ”という彼の戦法は、さらに徹底されていく。小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、小田原攻めと、どの軍役も敵を圧倒する大軍を編成し、それを誇示することで戦意を喪失させてしまっている。華々しい合戦絵巻が繰り広げられたわけではない。歴史学者の山室恭子氏の言葉を借りるならば、戦とは彼にとって純粋な戦闘行為であったというより、天下人としての自分の存在を日本中に宣伝するための「手段」であったということになる。さて、それの何が問題か?

 そう。この戦法は基本的に、秀吉という存在の人間力、カリスマ性が前提となっている。初期の調略にしても、ベースになっているのはその並外れた“人たらし”の才能にあったことはよく語られている。いくら精兵であろうと、ただ海を渡って暴れれば(個々の武将の戦術に一任すれば)敵地が征服できるわけでない。少なくとも秀吉は、そんなやり方で天下取りを実現してきたわけではない。自分が陣頭指揮を執らないかぎり、成功の見込みはない。彼自身、それを理解していたからこそ、開戦初期、家臣の制止を振り切って、半島への渡海=「唐入り」の陣頭指揮を試みるわけである。

●リーダー不在で臨んだ、初めての「異国体験」

 結果を言えば、この渡海は実現しなかった。最愛の母・大政所の危篤という“緊急事態”が渡海寸前のタイミングで発生したからだ。すでに秀吉は、彼の政権の片腕と言ってもいい弟の秀長を病気で亡くしている。後継者に期待した愛児・鶴松もわずか3歳で夭逝。そして、ここに来て母の命すら危ないという。秀吉はこの時、“天が自分の仕事を邪魔している”と感じたかもしれない。いくら歴戦の精兵でも、現場に統率するリーダーがいなければまとまるはずがない。といってリーダーになれるのは、このビッグ・プロジェクトの推進者である秀吉自身しかいなかった。それがわかっていながら、どうにもならない理由で“待った”がかかったわけである。小説的な推理が許されるなら、渡海のチャンスを母の死で逸した秀吉は、事実上、この瞬間に「失敗」を悟ったのかもしれない。
 
 もちろん、秀吉が渡海したところで「唐入り」が成功したという確かな保証があるわけではない。少なくとも国内での統一事業よりも、はるかに苦戦を強いられただろう。ここで理解すべきなのは、これが当時の日本人にとって実質的に初めての「異国体験」であったということだ。鎌倉、室町と時代が進む過程で日本人の自我は成長し、国内に収まりきらないほどに膨れ上がってはいた。しかし、多くの人にとって活動範囲は日本国内に限られていた。キリスト教などを経由して異国の情報がもたらされたといっても、日常的に活発な「国際交流」が行われていたわけではない。
 
 海の向こうには、自分たちとは異なる文化が存在している。そこでは自分たちにとっての常識も、権威も必ずしも通じない。言葉にしてしまえば簡単になってしまうが、現代の日本人でもこのことを心底理解できている人は、どれだけいるだろうか? 誠意を持って話し合えば問題は解決する。そんなふうに思っているのは日本人だけで、実際には宗教の壁、文化の壁が大きく立ちはだかっているのが現実でもある。希代の“人たらし”で天下人まで登りつめた太陽の子、“代表的日本人”である秀吉も、「唐入り」を企てることで、この壁を少なからず感じたのではないかと筆者は思う。

 歴史をさかのぼってみれば、律令制度が敷かれ、国の基礎が作られる8〜9世紀より以前、日本列島と朝鮮半島の間は、今では信じられないくらい往来がさかんだったと考えられている。大和朝廷を構成する有力氏族の大半が渡来系、つまりは朝鮮半島などからの帰化人で占められていた。当時の皇室にも朝鮮系の王族の血はかなりの割合で入り込んでいるし、戦争も含め半島に進出する日本人、日本の氏族も数多くいたはずだ。日本も朝鮮もまだ国家としては混沌としていて、これまた前の稿にも書いたが、今でいう関東と関西くらいの感覚の違いしかなかったように筆者は感じている。

●国際社会で「和」を生かすには?

 要するに、半島と列島の文化の違いはあっても、日本と朝鮮は、もとは親戚同士くらいの間柄なのである。それが日本は平安朝、朝鮮は新羅王朝、それぞれの形に国が統一されていく過程で、次第に活発な往来は失われていき、こうした血縁的な感覚が薄れてしまった。そこに秀吉の大陸出兵が失敗した根本的な原因がひそんでいると、筆者は思う。為政者としての秀吉の能力や政策の問題以前の話。“代表的日本人”である彼の失敗を探っていくと、もう少し根深い「歴史的背景」が見えてくる。それがいまも、日本人が超えなければならない壁として目の前にある。

 今日の我々の価値観で、朝鮮侵攻そのものを「悪」と捉えてしまうことはたやすい。しかし、まず秀吉すらも忘れていた古代東アジアの「世界」を思い出してみる。この時の「国際感覚」が身体の中にあれば、あるいは秀吉の世界戦略ももっと違う結果が生まれたかもしれない。その名人芸と言ってもいい“戦わずして勝つ”戦法も、異国の地で十分に発揮できたかもしれない。それはすなわち、“和”の感覚をベースにした政略、戦略。この感覚の権化であったはずの秀吉が、海外では一転して身勝手な侵略者となってしまった現実を、我々は強く意識する必要がある。このギャップは、現代の日本と国際社会の間にひそむギャップと同質のもの。秀吉時代以降も、幾度となく同じ形での「失敗」を繰り返している。おかしな話だが、国際社会で日本流の“和”を実現させていくためには、まず、日本と世界の違いを肌で理解することが求められる。でなければ、秀吉の「夢」も見えてはこない。

 秀吉は様々な意味で、日本の良さも悪さもすべてを体現している存在である。その“すべて”という言葉がすっぽり当てはまってしまう器の大きさを感じてみることで、日本史の本質ももっとよく見えてくる。秀吉の抱いた「夢」とは何だったのか? 何がいったい“夢のまた夢”だったのか? 次の稿では、“太陽の子”としての彼の一面に迫りながら、その実態を探っていくことにしよう。

投稿者 長沼敬憲 : 03:06 | コメント (0)

2005年03月14日

シリーズ・秀吉と日本人(2)〜“英雄・秀吉”を再評価する必然性

●「英雄」は「器」の大きさで決まる

 日本史で「英雄」を選ぶとしたら、豊臣秀吉と源義経。個人の好き嫌いは別として、客観的に歴史を見渡した場合、この2人の名前を挙げないわけにいかない。
 ここでいう「英雄」とは、日本という文化圏全体を呑み込んでしまうような大きな「器」を持った存在という意味。数値に表せるものではないし、政策(彼らの場合戦歴も含む)をいくら分析しても、それは浮かび上がってこない。なぜなら「感じる」ものであるからだ。人が感じるものは曖昧で、捉えどころがないと思われがちだが、歴史を俯瞰した場合、それが一番確実に残るものだったりする。

 器と呼ばれるものは、当然のことながら現代の学校教育では身につけることはできない。学校の成績が優秀な人間は、俗に秀才と呼ばれる。彼らが官僚になって、政治を動かすことで、国がおかしくなったと語る人がいる。一面正しい指摘だが、国が混乱するのは官僚のせいでは必ずしもない。器を持った中心的存在がいないから、組織が束ねられなくなっているだけの話。そしてそれは現代だけでなく(現代社会だけが特別悪いわけでも、おかしいわけでもなく)、過去の時代を振り返れば無数にあった。周期があると言い換えてもいい。

 問題があるとするなら、こうした現実が見えていないままに、どうしたら混乱を収束できるかとあれこれ考える人が多いということ。そういう人に限って、政治に一番重要なのは政策だ。派閥の論理で首相を決めるのではなく、政策について議論し、国民の審判を仰ぐべきだと言う。しかし、そんなことが正論?として通っているうちは、器の重要性には意識が向かない。器のある人間がいたとしても社会の中に埋もれてしまう。つまり人々の意識が社会のありようを規定し、混乱させたり、その混乱をまとめたりする。一部の政治家が国を動かしているわけではなく、そうした政治家も、英雄すらも、じつは大衆がつくり出している面があるわけだ。

 秀吉の話でありながら、なぜ長々と器などというものについて語るのかというと、器というものが重要視されていない社会では、英雄は矮小化され、過小評価されてしまう。ある意味でその一番の“被害”を被っているのが、彼であると言えるからだ。特に日本は、60年前に「世界戦争」を体験したことで、ヘンな話、「英雄」に対するある種のアレルギー、拒絶反応が生まれてしまった。特に朝鮮半島に出兵した秀吉は、日本史最大の「英雄」でありながら、同時にあまり声高に評価できないような後ろめたい存在にもなってしまっている。

●いま、新しい「歴史」が生まれる時

 この点にある種のねじれ現象があることが理解できるだろうか? 日本の代表的な「英雄」を素直に「英雄」として認められず、後ろめたいどころか、どこかでダサイとすら感じてしまう風潮。これは大衆的なリーダーというものを拒絶する感覚と、心理的につながっている。なぜか? リーダー=英雄は戦争を引き起こす存在でもありうるからだ。戦争など引き起こしてしまえば、他国に迷惑がかかる。独裁は駄目だ、ファシズムは駄目だ、これからは民主主義で行こう。……そんなふうにして大衆に選ばれた人に、なおかつリーダーシップを求めようとする。

 言ってしまえば、リーダーシップを否定される風土で、リーダーはリーダーらしく振る舞えと、無茶な要求をしてきているわけである。リーダーであるべきはずの政治家の多くもこのねじれ現象が自覚できないまま、先に触れたように、“政策についてもっと議論しよう”、“選挙の争点は政策であるべきだ”という。政策はブレーンが考えればいいものだ。政権を握った場合は、官僚たちが考える。政治家に必要なのは、こうした頭脳集団を束ねる人望、つまりは器であるはず。しかし器が大事という視点が欠けているため、なかなかこの単純な結論が導けない。

 よく知られた話ではあるが、「三国志」の諸葛孔明は並外れた知略の持ち主として描かれているが、自分自身がリーダーになろうとは思わなかった。劉備玄徳のほうが自分より大きな器を持っていることを、彼は理解していたからだ。だから劉備の死んで、彼の治めた国(蜀)の事実上のリーダーとなったあとの彼は、器以上のものが要求される局面に立たされたため、つねに悲劇がつきまとった。しかし彼の場合、器がなければ国は収まらないという前提を理解したうえで、できるかぎりのことをした。だからギリギリのところで国をまとめる中心となりえたわけだ。

 さて、話がそれたが、先の戦争が終結してことしで60年。人間で言えば還暦にあたる。60年は、干支(*)を組み合わせた東洋流の時間の単位。この60年を一区切りに歴史は循環し、推移していくものと捉えられてきた。東洋人でありながら西洋の直線的な歴史観に慣れてしまっている現代の我々にとって、この時間が60年を一単位で循環する発想は意外に忘れ去られている。しかし、一般的な感覚と照らし合わせても、だいたいこれくらいの歳月で「過去」が「歴史」となるということは実感できる。言い換えるなら、戦後を区切りとした場合、新たな歴史が作られようとしている段階に、いまさしかかっている。

*12年単位の十二支(子、丑、寅……)と10年単位の十干(甲、乙、丙、丁……)の組み合わせ。12と10の最大公約数が60となる。壬申の乱(672年)、戊辰戦争(1868年)などといった呼び方は、この干支をもとに名づけられた。


●過去のものになりつつある「民主主義」

 新しい歴史の生まれる段階では、新しい発想が生まれ、それが世の主流となったりする。過去の60年で言えば、民主主義という発想が新しかった。しかし、温故知新という言葉ではないが、東洋人の感覚で言えば、新しいと思えるものでも必ず前例はある。歴史は循環するものであるから、一つの型が形を変えて何度も繰り返されている面があるということだ。何も難しいことを言っているわけではない。会社などでもワンマン社長が亡くなったり、失脚したあとは、得てして集団合議制などが採用される。ワンマンの負の部分が問題視され、話し合いが大事という意識になるからだ。あるいは、束ねる人がいないという現実問題も発生する。

 民主主義も一つの大事な発想だが、一歩間違えば衆愚政治になることは、古代ギリシャ・ローマの頃から教訓にされてきた話。いまの政治家や評論家が語るような永遠の目標でも理念でもなんでもない。逆にいま社会がうまくいかなくなってきたのは、民主主義の負の部分が表面化してきたからだ。いい部分はいい部分として残し(というより、いいものであるならそれは自然に残ってゆくし、廃れはしない)、欠落したものを補う必要がある。それが器という感覚。といっても、何かの政策を実施して変えられる類のものではない。人々の意識が変わっていくことで、自然と変わるべくして変わってゆく。その空気を読み取ることが必要なのである。

 大局的に見れば、この日本社会にも、これからしばらく戦国時代的にいろいろな「英雄」が現れてくるように、筆者は思う。「豊臣秀吉」の段階までに到達できるかわからないし、できるとしてもすぐというわけではないだろう。また、「秀吉」が出現したからといって、別にガチガチの独裁者が恐怖政治を行うといったようなマンガチックな危機感を必要以上に抱かなくてもいい。どんな人がどう現れるかなど筆者は知らないし、そこに何の保証もないが、「戦争反対」を訴える人たちが訴えるまでもなく、日本の大衆は軍事的成功も、経済的成功も一度味わい、いま、その先の“何か”を求めはじめている。歴史を循環しながら、成長もしている。いまさら昭和にも、戦国時代にも、戻りたいとは誰も思ってはいない。

 大衆の意識などある意味漠然としたものではあるが、しかし繰り返すなら、どの時代においても、大衆が意識し、望んだリーダー(英雄)が現れるのである。混乱から調和を生み出したいというなら、まとめる力が必要であることをまず意識する必要がある。まとめる力とは、繰り返すが諸葛孔明的な知略でもないし、いまの政治家がさかんに語る政策でもない。そんなものを一切持っていない「愚人」でも、「器」さえ持っていれば「英雄」になれる。そんなことは日本史以前に、古代の中国史からも当たり前のように「学べる」話ではないか。

●スポーツの中だけに閉じ込められた「英雄」

 先ほど筆者は、いまの社会の混乱に原因があるなら、それは日本人の意識の「ねじれ現象」にあると書いた。言い換えるならば、すごい人は素直にすごいと思う。その感情を抑圧せず、ありのままに認めてしまえば、違った景色が見えてくるということ。“還暦”の60年がすぎ、先の戦争を「過去」ではなく「歴史」として感じられる世代の眼から見れば、「昭和天皇が溥儀(満州国皇帝)のような人でなくて良かった」と素直に思えてしまう。器が違いすぎるからだ。

 これを右寄りだとか、天皇制礼賛だとか仰々しく言われてしまうと困ってしまう世代が、もう確実に存在していることを、いわゆる“旧世代”の人には理解してほしいと思ったりもする。民主主義全盛の時代では、「英雄」はすべてスポーツの世界の中だけに閉じ込められてきた。同じ器の大きさを持った存在でも、スポーツが得意な(運動神経の優れた)者のほうが本領を発揮しやすいような、そんな“閉ざされた土壌”が一方で存在していた。この閉ざされた土壌の背景には、閉ざされた日本人の感覚がある。しかし、サッカーの日本代表の活躍に熱狂する若い世代の心理は、もはやこの壁を打ち破れるすぐ手前まできている。

 一つの予言として言えることは、これからの新しい“60年”の時間の中で、おそらく存在価値(人気)が急浮上してくる歴史人物の筆頭が、豊臣秀吉であるということ。「脳を超えてハラで生きる」の中でも書いたが、織田信長や幕末の坂本龍馬などの人気は、振り返ると「あれ?」というくらいに失速するかもしれない。といって、彼らに魅力がないということを言っているわけではない。幕末では西郷隆盛のような当たり前の中心人物が、当たり前にクローズアップされるようになる。そのように、少しずつ時間をかけて大衆の心理が変化していくということだ。

 秀吉に対する再評価が浮かび上がっていく過程で、別に“秀吉ブーム”が起こるとかそういう現象は、あるかもしれないし、ないかもしれない(というより、そこに興味があるわけではない)。ただ、秀吉的なものが浮かび上がってくることで、日本と朝鮮との「過去の問題」も初めて正面から問い直せるようになるのではないだろうか。これは英雄・秀吉が日本人に残した「宿題」のようなものであり、その点でも彼の存在は象徴的だ。良いものも悪いものもすべてスッポリ呑み込んでしまっているからこそ「英雄」は「英雄」だからだ。象徴的存在には、当然、負の問題もある。善人や聖人と英雄を同一視してしまわないことだ。

●日朝問題のキーパーソンとしての「秀吉」

 日本の“代表的英雄”が秀吉である以上、今の日本人は、良くも悪くも「秀吉」という枠の中から抜け出せていない。400年前に生み出された型のなかで、何度も歴史を循環させながら、その枠の近くまで肉薄したり、逆に小さくまとまって枠自体を見失ったり、そんな意識の変遷を繰り返しているのである。そもそも、簡単に抜け出せるような小さな枠ではない。まず彼の器の大きさを体感し、その底抜けの、恐ろしいまでの人間力を、日本人の作り出した作品として感じてみる。そして、彼がなぜ「大陸出兵」に挫折したのか? その点も問うてみる。

 ここではすべての答えまで出してはしまわない。ただ言えることは、いま日本人に何が問われているのか? この点が大きく関係してくるということ。もしかしたら、「大陸」をキーワードに、国際交流、グローバルスタンダード……そんなお手軽なフレーズが浮かんでくるかもしれない。しかし、そのじつ蓋を空けてみると、自分たちの作ったルールと、世界で広く通用しているルールの違いすらも、我々の多くはまだ実感できていない。ドイツ人がフランス人を認識するような感覚で、我々は韓国人や中国人を認識できない。簡単に言えば、じつは親戚同士なのだということだが、おそらく日本人一般の感覚では、まだまだ「近くて遠い」のレベルだろう。これでは400年前の秀吉を批判もできないし、笑えもしない。

 いずれにせよ、「秀吉」の向こうに、彼も一時は渡ろうとした朝鮮半島の影が見えてきた。一般には「近くて遠い」と言われて久しいかもしれないが、じつは筆者の感覚では、関東と関西の違いくらいの差異しか感じていない。韓国に旅行したこともないし、日本に住んで在日の人と語ったような経験もほとんどない。しかし、自分の意識の中の壁さえ取り払っていけば、必ずしもそんな必要はない。なぜなら歴史の旅は、誰もが意識の中で行っている。現実の旅とそれは質において変わらない。現実という有限の世界をすべてと思って「現場主義」を唱える人が、いくら「取材」を繰り返そうが、意識の世界の広さに目を向けられなければ、実質的には何も変わらない。まさに意識次第で、距離はいくらでも縮められるのである。

 次の稿では、いまなぜ「秀吉」なのかという問いの一つの核心、日本と朝鮮の歴史について、循環する歴史を切り取りながら解きほぐしていこう。様々な経緯からもつれ、こじれた問題だが、糸口はある。一番身近なところから突破することで、秀吉の夢みた「大陸=世界」の姿も見えてくるかもしれない。

投稿者 長沼敬憲 : 03:07 | コメント (0)

2005年03月12日

シリーズ・秀吉と日本人(1)〜日本史のピークを演出した男

●秀吉を知ると日本が見えてくる

 誰もが知っている名前でありながら、なかなかその実像が捉えきれない。豊臣秀吉は、その点でじつに不思議な人物である。どれくらい不思議かということを話していくと、日本史そのものを掘り起こしていかなければならない。彼があの時代に生まれ、卑賤の身から立身を遂げ、天下まで取ってしまった事実が、それまでの歴史の「必然」としてはっきり浮かび上がってくるからだ。

 フランスがナポレオンを生んだように、モンゴルがチンギスハンを生んだように……、日本という風土が生んだ“代表的日本人”が秀吉。だから秀吉のことを知れば知るだけ、日本が見えてくる。日本という国の個性も、特異性も見えてくるし、同時に課題もわかってくる。以前にも話したが、その点においては彼の主君・織田信長など足元に及ばない、はるかに大きな「器」を持っている。

 まず日本史の大きな流れの中から、秀吉のポジションというものを割り出してみよう。最初に結論を言ってしまえば、筆者は日本の歴史は「秀吉以前」「秀吉以後」に分かれると思っている。彼が天下をとり、壮大で絢爛な桃山文化を築き上げたのが日本史の最大のピーク。そして現在は、秀吉の遺した課題をDNAにしまいこみながら、再びまったく新しい山に登ろうとしている。そうしたシチュエーションにあるからこそ、秀吉の「再評価」が必要となってくるわけである。

●「自我を持った人間」の溢れていた時代

 さて、秀吉の不思議といえば、まず素性がはっきりわからない点が指摘される。小瀬甫庵の「太閤記」に書かれた「鉄砲足軽の子」という記載はさすがに否定されているようだが、それでも「尾張の貧しい農家の子」とイメージしている人は多いのではないか? しかし、中世史の網野善彦氏などが再三語っているように、当時の百姓はイコール農家とは限らない。「水呑百姓の子」を「貧しい農家の子」と結びつけてしまうと、あの下克上時代の人々の実像が見えてこなくなる。

 ただ、「農家」でなかったにしてもある程度ハッキリしているのは、氏素性の定かでない、その意味で社会の最下層の出自であったという点。しかも武芸に秀でていたわけでも、人に惚れられるような容姿を持っていたわけでもない。小柄で猿に似た容貌。裸一貫というならば、世の天下人のなかで、秀吉くらいの裸一貫(何も持っていない存在)はなかなか見当たらない。言い換えるなら、天下人になったのは彼だけだが、そんな境遇の人間が、当時は掃いて捨てるほどいたということだ。

 掃いて捨てるほどということは、当時の日本の社会全体が「自我を持った人間」で溢れていたということ。自我というのは意思と言い換えてもいい。現在の日本社会のように「平等」だとピンと来ないかもしれないが、過去においては、「こうしたい」という意思を持つことすら、身分や立場によってできない時代があった。これは社会制度の問題では必ずしもない。肝心の人々に、意思を持とうという発想すら生まれなかった。だから、一部の自我を持った人間=権力者にいいように利用されてきた。

 権力者という言葉を使っただけで拒否反応を示す人もいるが、権力者とは「自我を獲得した人」と位置づけることもできる。だから、大衆のリーダー=英雄にもなりえたわけだし、共通のルール(法律)を決め、システム(制度)を施行するだけの資格を手にできた。もちろんそうした権力者が、イコール聖人君子であったら理想だが、そんなケースは現実的にほとんどない。だから、支配される側の大衆の中には潜在的な不満が鬱積する。不満が新しい自我が生む。その自我が新しい権力者を生み出し、新しい歴史をつくりだしていく。

●天皇系の血統から派生した「権力者の家系」

 そのようにして日本の歴史を見ていくと、そもそも、日本列島に「国としての自我」が形成されたのはいつなのかという話にもなる。やはり、7〜8世紀、律令制度が根を下ろした飛鳥・奈良時代あたりからになるだろう。その国家の自我の形成に大きく関与したのが、藤原氏。大化の改新に功績のあった鎌足が祖にあたるが、「権力者としての自我」という点では、息子の不比等のほうがはるかに強烈。のちに公家政権の頂点に立つ藤原氏の、事実上の元祖であると言ってもいい。

 不比等については平清盛について書いた時に触れているので、ここではあまり繰り返さない(→こちらを参照)。ただ言えることは、彼の時代の権力者は、天皇家の血筋に近い者たちで占められていたということだ。平安時代になると、この権力者の枠はさらに絞られ、不比等の子孫のみが独占した。彼の4人の息子のうちの次男の家系(北家)が勝ち残り、その血筋のなかで権力の座をめぐる「骨肉の争い」が繰り広げられた。国としての自我と言ったところで、非常に限定的で、微弱だったことも見えるはずだ。

 藤原氏の権力闘争という非常に閉鎖的な自我の攻防が繰り返される中、この平安時代の400年に新たに勃興したのが、武士という自我だ。しかし武士といっても、やはりここでも血筋が重んじられた。中央の貴族(藤原氏)の血筋よりは劣るものの、関東に土着した源氏も、畿内・西国に基盤を築いた平氏も、もとはと言えば天皇家の子孫にあたる。

 平安末期、平家が滅びて、源氏が鎌倉に幕府を開くと、源氏の血を引く者が武家政権の後継者といった不文律が新たに生まれた。正確に言うと、藤原氏独占の時代が終わり、基本的に「源平藤橘」という天皇家の血筋を引く4つの姓(家系)が、権力者の資格を得ることとなった。最後の橘氏は平安初期の段階で衰退したので、実質的には、源氏・平氏・藤原氏の3家が「権力者の家系」となったわけである。

●分散化する権力→「実力主義」の時代へ

 といっても、ただ単に1家が3家になっただけでなく、時代とともにそれぞれの子孫は繁栄し、家系は枝分かれし、無数の傍流が生まれていく。その結果、権力者の「資格」を持つ者の数は相対的に増加する。そうした中で迎えたのが、室町時代である。この時代の権力の中心となったのは、京都に開かれた武家政権・室町幕府。その政権のトップの座(征夷大将軍)についたのが、源氏の血を引く足利尊氏。しかし、この時代になると、源氏の末裔といっても相当に血が薄まってしまっている。その薄まった分は、当然、個人としての実力で補う必要が出てくる。

 初代の尊氏には、この実力、つまり国中を完全に束ねきるだけの強烈なカリスマ性まではなかったようだ。幕府の発足の時点で、公権力を保証する皇室が南朝と北朝に分かれて、その権力を争うような図式が出来上がっていた。尊氏は北朝側の天皇を支持し、南朝と争ったが、この分裂を統一させることはできなかった。ただ、ここで言いたいのは、尊氏の資質についてではない。彼一人の力量をもってしてもどうにもならないくらい、この時点での日本が多様化していたという点だ。

 多様化……、つまりは権力の分散化と言い換えてもよい。平安時代に生まれた武士勢力は、確かに血筋を拠り所のひとつにしていたが、最終的には個人としての自我そのものが力であることを肌身で理解していた。武力を持った勢力が政権を握ったからすごいというわけではない。自我を持った人間が地方の至るところでも現れはじめ、中央の巨大な自我を持ってしても制御できなくなった。鎌倉時代の100数十年を経ると、実力主義に目覚めた権力者(足利将軍家)ですら権力を操れなくなっていった。それがのちに戦乱を生む室町時代の実相と化してゆく。

 実力主義に目覚めた権力者すら、権力を操れない。……言い換えるならこれは、出自(つまりは家系)のハッキリしない者が、自己意思で活動しはじめ、世に影響を与える段階になってきたことを意味する。南朝に属して足利氏に対抗した楠木正成などは、その象徴であり、彼のような勢力は悪党と呼ばれた。既成の権力者から見れば、それは「悪」としか言いようのない存在だったわけである。

●「天」が選んだのは、何も持ってなかった秀吉

 この「悪」は、室町時代の展開されていく中で、社会の末端へ、末端へと浸透していく。よく知られているように、庶民のレベルでも、理不尽なことに対しては異を唱えるまでの自我が生まれ、彼らは様々な形態の一揆を起こし、権力者の抑圧に対抗した。そして、15世紀の応仁の乱で武家政権の中枢を担う権力者たちが完全に分裂し、国を束ねるリーダーの権威が失墜してしまうと、庶民レベルで目覚めた自我を押さえつける存在は、この日本にはいなくなってしまった。氏素性の良し悪しにかかわらず、基本的にはあらゆる境遇の人間に、権力を得ることの資格が生まれた。下克上の世、すなわち戦国時代が始まるわけである。

 こうした下克上の世の中で、最終的に天下を勝ち取ったのが秀吉であったわけだが、ここでもう一度、冒頭の話を振り返ってみてほしい。彼は文字通り、何も持っていなかった人間である。自分自身の自我だけで這い上がり、その自我の力を純粋な権力に変えていった。それが、最終的な天下人になる条件であったわけではない。自我の力さえあれば、血筋やそれに伴う経済力、武力などの面でもっと有利な立場にいた人間が天下人になることもありえたはずだ。にもかかわらず、「天」が最終的な勝者に選んだのは、何も持っていなかった秀吉だった。

 東洋人の感覚で言うと、こうした運命を持つ人間は「天に選ばれた」と表現する。確率論で言えば、一番不利な立場にいた人間が、自己の知恵や才覚のみで人の心を動かし、権力を握っているわけだから、その知恵や才覚も偶然の産物ではない、天与のものだと捉えるわけである。これは一つの見方だから絶対視する必要はない。しかし、秀吉の「出身出世絵巻」の背景には、少なくとも藤原氏の登場以来の、日本という国の営々とした「自我の発達の歴史」がある。目覚めていった自我の先に、現れるべくして現れたのが秀吉だったわけである。

 その意味では、同じ才覚、同じ感性を持った人間がいたとしても、彼の時代より前に生まれていたら、天下人になるレベルにまでその能力は引き出せなかったはずだ。もちろん、この後の時代に生まれたとしても同様。言うなれば、日本という国はまさにこの16世紀末の段階で、「何も持っていない人間でも、自らの努力次第で自己の意思を遂げられる状態」にまで成長したということになる。秀吉という人間の生涯をたどるだけで、そうした歴史的な日本人の“努力の跡”が確認できる。それゆえに、彼を“代表的日本人”と呼べうるわけである。

●「名前」を獲得しながら成長した存在

 “代表的日本人”秀吉は、代表的であるがゆえに、政治の面でも経済の面でも、非常にシンボリックな事績を遺している。というより、そうした視点を持つことで、改めて見えてくることが無数にある。それについてはこの稿の中で少しずつ追いかけてゆくつもりだが、ここでは一つだけ、それらの中でも最も「劇的」と言っていい点について触れておくことにしよう。

 これまで繰り返してきたように、秀吉は“何も持っていなかった存在”。だから、自分自身ですべてを生み出していかなければ、一歩も先には進んでいけなかった。彼の場合、幼名すらはっきりとわかっていない。きちんとした姓などはなく、名前は当然あっただろうが、ただ単純に「猿、猿」と呼ばれていただけだったとも言われる。それがある段階から、木下姓を名乗るようになる。秀吉の妻・おねの実家の姓を用いたという説もあるが、このへんの経緯は諸説あるのでよくわからない。いずれにせよ血縁なのか地名なのか、何らかの「由緒」にちなんで彼は「木下藤吉郎」となった。そうした名前が必要になったということは、要は、それだけの力をつけたということだ。

 その後、織田信長のもとで頭角を現した彼は、やがて木下から羽柴に姓を変えた。重臣の丹羽氏と柴田氏から一字ずつ拝借したなどと言われるが、これも真偽はわからない。ただ同じ改姓でも、木下時代に比べると彼は大きく飛躍している。何らかの理由にかこつけて、結局彼は自分自身で姓(正確には苗字)を創案したからだ。ありものの「木下」では、彼の自我が収まりきらなくなっていた。そこまで個人としての力をつけてきたから、それにふさわしい名前が欲しくなった。そういう衝動に駆られた。そのように解釈することで、秀吉の中の強烈な意思、個性が見えてくる。

 本能寺の変で主君・信長が横死すると、秀吉の蓄積された自我エネルギーは一気に解き放たれていく。織田家の対抗馬を滅ぼし、朝廷を押さえ、中央の権力者としての地位を獲得した彼は、ご存知のようにここで関白という朝廷の最高官位を手に入れる。彼の氏素性のハッキリしないことは、当時、庶民でも知っている事実であったようだ。そのため彼は、ぬけぬけと関白家(藤原氏)の養子に入ることで、その資格を得た。権力者の象徴であった四姓(源平藤橘)も、乱世を勝ち抜いた彼にとっては、官位を得る手段でしかなかったわけである。

 関白となった秀吉は、次に何をしたか? そう、「豊臣」という自ら姓を創出したのである。ただの名乗りではない、公的な、正真正銘の「姓」の創出である。言ってみれば、“源氏、平氏、藤原氏の血筋だけが権力者ではないんですよ、過去の血筋が力を失ったいま、これから権力者の血筋をつくっていくのは「豊臣」ですよ”、と天下に宣言したことになる。彼がただ天下を取ったからすごいという話ではない。文字通り、何も持っていなかった社会の最下層の“サル”が、藤原氏以来の権力システムの頂点に立って、豊臣姓による「新しい時代」を宣言した。この新しさを彼自身が十二分に自覚していたから、新姓創案という前代未聞のアイデアが実現した。

●新しいシステムを創出しようとした権力者

 この先の稿でも様々に触れていくが、権力者としての秀吉の事績が、すべてパーフェクトだったわけではない。「豊臣」という新姓にしても、自家の血を汚さないための藤原氏(ひいては天皇家)の、一種の策略だったという見方もある。当然のことながら権力者の周辺には、様々な思惑、意図が渦巻いている。それにまったく気づかなかった秀吉ではないだろうし、心理的な駆け引きは当然あったはずだ。しかしそれらをふまえた上でも、筆者はここに秀吉の「夢」を感じる。

 おそらく秀吉は関白に就いて、豊臣姓を創案して、天下人になって、それだけで新しい権力システムが作動するとは考えていなかった。言い換えれば、豊臣家の権力が安泰になるなどと、おめでたいことは思い浮かべもできなかったと筆者は思う。なにしろ、何もないところから短期間で成り上がり、事実上のこの国の支配者までに登りつめた。しかし、そんな彼の目の前には、藤原不比等以来の、この時点でも900年近く続いてきた形骸化した権力システムがある。

 不比等の作り上げたシステムは、もはや十分には作動していない。制度疲労を起こしていた。天下人である以上、彼は作り替えなければならない立場にいた。ここに彼の実施した「太閤検地」や「唐入り」(朝鮮出兵)などが複雑に絡み合ってくるわけだが、彼の意図通りの成果が出せたとは思えない。ただ、後世の目からは批判の対象でしかない朝鮮出兵にしても、最近では、あながち「権力者の誇大妄想」とは言い切れない、様々な政策的要素のあることがわかってきている。

 現在の日韓関係、日朝関係への影響(悪影響)も考慮に入れる必要はある。しかし、権力者は「悪」だというような単純な発想から離れ、日本史の流れの中で秀吉を捉えていくと、「新しいシステムを創出しようとした権力者」としての姿が見えてくる。日本史では藤原不比等の次は秀吉、次に来るのが西郷隆盛と徳川慶喜、そして次が昭和天皇……。その中で日本人の自我のピークは、秀吉の時代にあったと筆者は理解している。皮肉を言うわけではないが、秀吉から得られる理解は、信長を天才と捉えたがる巷間の視点よりも、はるかに多様で、可能性に満ちたものになるはずだ。これからそれを明らかにしていこう。

投稿者 長沼敬憲 : 03:09 | コメント (0)