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2005年03月21日
シリーズ・秀吉と日本人(5)〜秀吉・家康の「対立構造」から見えてくるもの
●家康を表舞台に押し上げた力
日本史のピークを演出した豊臣秀吉。彼と対比させられるのが、江戸幕府の創始者である徳川家康。とりあえず秀吉が太陽としたら、家康は月のような存在。この二人にはそれぞれ織田信長も関係しているが、歴史的に見た場合、二人の組み合わせ自体に非常に重要な意味があると筆者は理解している。
家康は、“武田信玄の後継者”として位置づけることで、その実像がわかりやすく浮かび上がってくる。戦国武将・家康の前に現れた最初の巨大な敵が信玄。よく信玄が天下を取っていたら室町幕府の二の舞だったとか、中世の時代が続いただけだといったような解釈があるが、だとしたら家康の開いた江戸幕府はどうなるのか? 家康もまた、それほど革新的な人物だったわけではない。古いとか新しいとか、そんな言葉に惑わされたら、時代の実像が見えなくなる。
時代には一つの大きな流れがある。その流れを操っているのは特定の歴史人物などではない。なぜなら、社会という器が初めにあってそこに人がいるわけではなく、人が集まってそれが社会になった。自分が生まれる前から社会があるからなかなか後者のような実感は持てないかもしれないが、存在として実体のあるのは、むろん人のほう。人の意識の変化が根底にあって、それに促されるように英雄が生まれたり、新しいシステムが作り出されたりする。発明発見ももたらされる。時代が進むのも停滞するのも逆行するのも、前提にあるのは人の意識と捉えたらいい。英雄もまた時代に動かされている面がある。
その視点で見ると、信玄は志半ばで倒れたし、武田家は次の代で滅びた。しかし、信玄を押し上げた時代の力そのものは失われたわけではなく、似通った志向性をもつ家康に受け継がれた。家康自身、生涯意識し続けたのは、若い頃苦杯を喫した信玄の存在としての巨大さだったと言われている。もちろん、秀吉には秀吉を押し上げた力があった。単純な話、彼が武田家に仕えてもその実力を十分には発揮できなかっただろう。彼の場合、信長がいたから成長ができた。そこには偶然の産物としては処理できない、有機的なつながりが見えてくる。
●家康が学んだ信玄の「保守本流」感覚
新しいとか古いとか、そういう観点にとらわれるということは、歴史を一種の進歩史観で見ているということだ。筆者はこれまで「自我の成長」といった表現を用いてきたが、それはそうした直線的な発想とは違った捉え方であると思ってほしい。人は必ずしも成長し続けるわけではないし、成長が善であるとも限らないからだ。進歩史観にとらわれてきた人たちは、信長を革新的と見ると同時に、江戸時代は一種の停滞期のようにとらえてきた。しかし、近年になって進歩が善とは限らないという意識が広がるにつれ、江戸時代も再評価されはじめている。
革新的だからいい政治家、武将であるわけではなく、その革新性にしても、時代の要請(人の意識)が背景にある。だから、歴史も人の意識の集合として見たほうが、当然のことながら生の息づかいが感知できるようになる。変革されることはいいことだ、停滞することは悪だといった前提をアタマのなかに持ってしまうと、この息づかいが見失われる。人が社会を構成して、その社会が歴史を作り出すという当たり前の基本がどこかに飛んでいってしまう。信玄も生の人間として見た場合、巨人というにふさわしい側面を持っている。それは信長も及ばない。家康はその巨大さを引き継ごうとした。そう捉えると彼の生涯も見えやすくなる。
信玄のやってきたことは、今あるものの中から最高のものを作り出すということだ。これができてしまえば、ことさら革新性は必要なくなる。政治用語でいえば、保守本流ということ。これは、甲斐の守護大名という権威と地盤を持っていた信玄だったからできたことだ。家康にも、三河という自分自身のか弱い権威と地盤があった。これを使える組織のレベルに育てていくのにモデルとなったのは、革新派の信長ではあるまい。家康は三方原の惨敗を経て、間接的ながら信玄から保守本流の極意のようなものを学ぼうとしたのだと思う。
家康に仕えた三河武士には、戦場でも背中を向けて戦死するような弱い武士はいなかったなどという“最強伝説”がある。そうした伝説が許されるくらいの家臣団の成長があったから、家康の天下取りも可能になったとも言える。事実、江戸幕府の職制である老中、若年寄といった呼称は、徳川家(松平家)が三河時代から用いていたものだったという。つまり、まず徳川という「家」を機能させる。その家も戦国時代を勝ち抜くことで徐々に整備され、巨大になっていく。結果、小さな「家」の組織がそのまま天下の職制に成長する。あるもののなかから最高のものを作り出した信玄の手法と、非常に重なりあったものが感じられるはずだ。
●“混成部隊”の質を一気に変えた秀吉のマジック
言ってみれば、何も持っていないところからスタートした秀吉とは、根本的に違った土壌で成長の仕方をしてきたのが家康。その異質のものどうしが衝突し、渡り合ったのが、1584年の小牧長久手の戦いだった。これは一般に、戦術面では家康が勝利したが、戦略で秀吉が優っていたため、最終的には秀吉の軍門に家康が下ることになってしまったと評されている。確かにそれが妥当な見方だろう。秀吉は長久手の局地戦で大敗を喫したことから、家康を戦上手とみなし、生涯彼に対しコンプレックスを持ったとも言われる。この点は本当だろうか?
じつはこの一戦は、秀吉の立場から見た場合、家康へのコンプレックスがどうとかいう以前に、非常に重要な側面を持っていることがわかる。まず、戦の展開を大ざっぱにたどってみよう。よく語られているように、家康は信長の次男・信雄を助け、秀吉の天下取りに非を鳴らすという立場で挙兵。しかし、数で劣る自軍の不利を知って、小牧山の陣から軽々に動こうとしない。一方、大軍を擁する秀吉軍も動かない。大軍ではあるが、内実は勢いのある秀吉についた武将たちの混成部隊。天下人になりきっていない秀吉の立場も、非常に微妙なものがあったからだ。
この膠着を破ったのが、秀吉軍に参陣していた池田恒興の提案だった。一軍を編成して家康の本拠岡崎を奇襲したらどうかというもの。恒興には、娘婿の森長可が前哨戦で家康方に敗れた汚名を晴らそうという意図があったと言われる。元同僚である恒興の提案を、秀吉は断りきれなかった。結局、甥の秀次を総大将に抜擢することで、この奇襲作戦の決行を許可したが、家康軍に察知され恒興、長可も戦死するという大敗を喫することとなった。自分で意図した作戦だったならばともかく、この一戦はまた別の力関係の中で生まれたもの。戦に敗れたこと自体の悔しさ、危機感よりも、混成部隊を率いていくことの難しさをまず実感したはずだ。
これまで繰り返してきたように、秀吉には家康の三河武士にあたるような強力なバックボーンはない。急速に勢力を拡大した小牧長久手の戦いの段階では、配下の将の多くは恒興のような同僚・先輩であり、利害によっては集合離散する外様の武将たちだった。なんらかの化学変化を起こさねば、この微妙な力関係の上で成り立っている新組織が、この先そうそう様変わりするわけはない。自分が戦いやすい状況を作り出さなければ、勝てる戦も勝てなくなる。この危機感が、秀吉の前代未聞の関白任官につながった。他の武将たちを凌駕する圧倒的な権威を身につけることで、この微妙な力関係をリセットしてしまおうと発想したわけである。
●“絶対に負けない状況”を作り出すには?
この意味では、混成軍の弱点が露呈した家康との一戦は、秀吉が政権運営を確立させていく上でも重要な意味を持っていたことが見えてくる。繰り返すが、家康に局地戦で負けたから重要なのではない。それは家康にとっては重要な実績となったはずだが、破れたほうの秀吉の意識はさらにその先へと向けられていた。勝たなければ先の見えなかった家康よりも、この点では「余裕」があったということもできる。大局的に見るならば、小牧長久手の戦いは、家康にとっても秀吉にとっても“プラス”の方向に作用した。ともに実力がアップしたため、この時から両者の対立構造が歴史上に表面化することになった。
小牧長久手の戦いそのものは、秀吉が信雄を得意の“人たらし”で取り込んでしまい、和議が結ばれることで決着した。一方の戦の当事者でありながら置き去りにされてしまった感のある家康だが、秀吉軍を破ったという実績をタテに居直って、容易に軍門に下らないスタンスをとり続けた。こうすることで自分自身の存在価値を高めようという意図もあったようだ。この間の両者の虚々実々のかけひきは、史実でもよく伝えられている。大ざっぱにたどってみると、次のような展開である。
1584(天正12)年
3月 秀吉、出陣。家康、信雄と同盟し、小牧山に布陣。
*小牧長久手の戦い始まる。
4月 家康、長久手で秀吉軍を破る。
11月 秀吉、信雄と和睦。
12月 秀吉、家康と和睦。家康、次男の秀康を秀吉の養子とする。
1585(天正13)年
7月 秀吉、関白に任官。四国を平定。
1586(天正14)年
5月 家康、秀吉の妹(朝日姫)を正室に迎える。
10月 秀吉、生母大政所を家康のもとに人質として送る。家康、大阪城で秀吉に臣従。
12月 秀吉、太政大臣に任官し、豊臣姓を賜る。
……家康との和議を結んだあと、秀吉は彼を臣従させるために、じつの妹や生母までも手駒に使って、なりふり構わない外交を展開している。それだけ家康の力を畏れていたからだという捉え方もあるが、果たしてそうだろうか? 上記の年表を見てもわかる通り、この時期、秀吉は家康外交と並行して、関白任官、豊臣姓の創始と急カーブの任官工作も続けている。家康との戦いで得られた教訓から、圧倒的な権威の力によって自分の足元を着々と固めていたことがわかる。
ただ武力で凌駕するだけでは、天下は取れない。軍勢で圧倒している以上、作戦次第で相手を倒すこともできるかもしれないが、逆に破れる可能性もある。そんな家康と戦った時のような“一進一退の攻防”を繰り広げていたら、いつ天下統一が叶うかわからない。“絶対に負けない状況”を作り出すにはどうしたらよいか? そのように発想した上で、彼がベストと思った戦略が関白任官、豊臣姓の創始という朝廷権威に対する“平定事業”だったわけである。これによって政権基盤が確立するまでは、家康にいかようにも譲歩する。妹でも母でも差し出す。しかし、戦略を持っている以上、ただの譲歩ではない。「これだけのことをするのだから、わかっているだろうな?」というある種暗黙の脅しも、そこには含まれていた。
●家康をも完全籠絡させた秀吉の“人たらし”
秀吉が希代の“人たらし”と呼ばれる由縁は、このように目的のためには一般にありえないことすらも平然と行ってしまえる度量の大きさにあった。家康にしてみれば、和議で自分の息子を養子に差し出すことまでは理解できただろう。実質的には体のいい人質であるわけだが、不利な立場にあるのは自分。局地戦に勝ったとはいえさすがに状況は理解していたから、「養子」という自己の体面も守れる秀吉の提案に乗ったわけである。しかし、次の手があったかというと、緊張関係を優位に維持しながら、状況の変化を待つというくらいしかなかったのではないか。
秀吉の妹を娶った時点で、上洛する名分はできていた。しかし、のこのこ出かけていったのはいいが、策略にはまって殺されてしまうことだってあるかもしれない。家康のこうした疑念を察した秀吉は、生母を事実上の人質として家康のもとに送りつけてきた。母を預けるから安心して上洛してくるがいいというメッセージである。
裏を返せば最後通告。ここで拒んだらいよいよ決戦しかなくなる。しかし、秀吉はすでに関白に就任している。前回の失敗から自軍の弱点は修正して乗り込んでくる。関白に対して同僚感覚で作戦を提案する武将はもういないだろう。
かくして家康は、戦火を交えないままに、上洛して臣下の礼をとらざるをえないところまで追い込まれてしまった。秀吉は公式の対面の前に家康のもとを訪ね、自分は成り上がりで政権は盤石でない、家康の助けが必要だなどと、内情を包み隠さず打ち明けてしまったと言われる。本当にそんな舞台裏があったかわからないが、ここまでの経緯を考えればありえる話だろう。そして一転、居並ぶ諸将の前で家康は臣従を誓わされる。結局のところ、秀吉の“人たらし”に彼も籠絡されてしまった。歯向かおうにも、戦意はもう完全に失せてしまっただろう。
このようにして見ると、秀吉と家康の対立構造は、圧倒的な差で秀吉に分があったことがわかるはずだ。後年家康が天下を取ったからさも対等のように思われるかもしれないが、そうした結果のわからない段階で(秀吉在世中の政権下で)両者の関係を見たら、多分比べるという発想すらなかったかもしれない。筆者の想像も多分に含まれるが、茶飲み話のような場で、秀吉が小牧長久手の頃の思い出話をして、「家康どのには戦では敵いませんでした」などと持ち上げるような発言をしたことはあっただろう。しかし、その話を聞いた家康が得意げになれたかどうか。もしかしたら、冷や汗すら流してへりくだったかもしれない。
●「現実路線」の継承で対立した、家康と三成
秀吉の生前にはこのような圧倒的な力関係が生まれてしまった家康だが、ご存知のように、彼の死後に天下を取り、しかもその政権(江戸幕府)は15代、260年にわたって継続した。歴史的なボリュームという点で見れば、“師匠”である信玄も凌駕し、秀吉にも比肩する影響力を後世に残したことになる。では、その影響力とはどんな内容のものなのか? なぜ秀吉との対立構造などが指摘できるのか? この点は、秀吉の実像をイメージすることで容易に解けてくる。
秀吉の実像、すなわち彼の人間としての器量は、従来の日本という枠組みの中では収まりきらないエネルギーを持っていた。だからこそ、愚行、失政などと後世に非難される「唐入り」が挙行されたのであり、それが失敗してしまったところに、日本人の課題があるとも書いた。秀吉を生み出した時代のエネルギーは、突拍子もなく、偶発的に湧いてきたものではない。彼を表舞台に押し上げたエネルギーは、それまでの日本人の歩みの結果そのものでもある。単純に彼の海外志向を愚行と言いきってしてしまったら、秀吉以前の日本史が否定される。
とはいえ、“地に足の着いた政策”とは言い切れなかったことも事実。日本人に潜在していた、“太陽”にも形容されるエネルギーの片鱗は見えた。しかし、そのエネルギーを使いこなして、広く世界に展開させていくだけの準備まではできていなかったということだ。本当の日本人は太陽のように明るい。日本史を有史以前から俯瞰していけば、それは確かに指摘できるが、現実に通用するかどうかはまた別の話。「唐入り」という秀吉の提示した壮大な夢を受け取りきれなかった日本人は、まさに夢を封印して、身の丈にあった現実路線へと軌道修正した。信玄から“保守本流”の手法を学んできた家康の力量が必要とされたのは、まさにその時だ。
“夢破れた”とはいえ、秀吉が統一した「天下」を維持・継承していくという現実の作業は誰かがやらなければならない。手を挙げたのは家康と、秀吉の懐刀でもあった石田三成の2人だった。ともに秀吉の“夢”を実現させようとしたわけではない。彼の遺した一方の現実路線に対して、後継者に名乗り出たわけである。関ヶ原の戦いを経て、家康が勝利したことを我々は知っている。しかしその勝利は、一般に語らされているほどの圧勝劇だったわけではない。三成が勝っていれば、また異なる現実路線が展開されていたことになる。
●三成の「中央集権化構想」に欠けていたもの
話がやや脱線する気もするが、家康の「天下」を浮き彫りにするためにも、この二つの現実路線の違いを大ざっぱに見てみよう。仮に三成が関ヶ原に勝利し、最終的に天下の実権を握った場合、日本の政治・文化の中心は当然畿内(京都、大阪)となる。江戸文化は生まれない。また、公武の融合がさらに進んでいくため、おそらく従来の公家=藤原氏は完全に没落して、武家貴族である豊臣氏の政治体制が確立する。尊王攘夷や公武合体の言葉が飛び交った、江戸末期(幕末)のイデオロギー闘争も起こらなくなる。秀吉の目指していたものを国内政治の部分のみ継承していくと、なにやらずいぶんすっきりした政治体制になってしまう。
この“すっきりした政治体制”は、中央集権という言葉で理解してもいいだろう。関ヶ原の戦いを“中央集権派”の三成と“地方分権派”の家康の対立として捉える見方もあるが、本人たちがどこまで自覚していたかは別に、そうした対立構造はあっただろう。しかし、この対立を見ていくと、ここにもある種のねじれ現象が存在していることが見えてくる。秀吉政権の意思を継ぐということを強く意識していたのは、“中央集権派”の三成。しかし、秀吉の構想した“中央集権=システムの一本化”の背後には、壮大な「唐入り」という海外戦略があった。
「唐入り」は朝鮮半島の人々からすれば間違いなく侵略戦争。しかし、戦国武将であった秀吉の感覚からすれば、日本の影響力を東アジア全体に拡大させ、従来の“中華秩序”に代わる日本発の交易圏を確立させようと意図したものだ。それによって、アジアに食指を伸ばそうとしていた南蛮勢力(スペイン、ポルトガル)の思惑をくじき、彼らをも朝貢の対象にしてしまおうという野心もあっただろう。賢しらげにこれを妄想と言ってしまう人は、たとえば戦後の日本の経済成長に対しては安易に“奇跡的な”などという言葉を使う。朝鮮人の心情を思いやるなどと口では言いながら、じつはつねに勝者の味方でしかない冷淡さがそこに見え隠れする。
東アジア全体に展開される日本人の活気、躍動感が前提にあってこそ、中央集権化という政治体制の“引き締め”にも意味が出てくる。前者の要素が欠けてしまえば、“引き締め”は当然のことながら“抑圧”に変わっていく。三成は官僚の立場で政治運営の効率化を推し進めたかもしれないが、何らかの“遊び”の部分が設定できなければ、一種の恐怖政治が出現したはずだ。天下統一後の秀吉政権に恐怖政治の側面が見いだせるのは、ひとえに「唐入り」戦略の失敗の結果に他ならない。しかし、秀吉自身にすれば苦肉の策以外の何物でもなかったはずだ。
●日本史の対立構造を維持した家康の「バランス感覚」
さて、ねじれ現象の核心に迫ってみたい。海外戦略なき三成の中央集権化構想では、社会の“遊び”の側面が欠落してしまうと書いた。遊びといっても、娯楽のことを言っているのではない。力を逃がすための“すき間”、“ゆとり”といった意味での“遊び”である。秀吉はそれを、「唐入り」という大風呂敷にも似た大構想によって生み出そうとした。一般人の感覚からすれば妄想に違いないが、日本人の潜在能力を十二分に生かしきるには、それくらいの風呂敷は必要とも評価できる。しかし、フタを空けてみればうまくはいかなかった。秀吉には代案がない。
権力者としての秀吉はしばらく延命したが、彼の夢は辞世の句にあるように「夢のまた夢」で終わった。そして、家康と三成の対立が起き、勝利した家康が新たな天下人として、江戸に幕府を開いた。ここで何かに気づかないだろうか? “遊び”という点を考えた場合、“地方分権派”の家康のほうが秀吉の構想したモデルに近いということだ。秀吉によって統一された公武の政権は、再び京都(公家)と江戸(武家)とに二分され、結果として、日本史特有の(それこそ縄文人と弥生人以来の)対立構造は形を変えて継続された。秀吉のなした構造改革は否定された。
しかし、もう少し俯瞰してみるならば、秀吉は国内の分裂を一本化させながら、自我の成長を促す対立構造そのものは生かそうとした。日本人の体験してきた「成長の法則」を東アジア全体に広げようとしたわけである。スケールはあまりに違うが、江戸に武家の政権を確立させた家康は、対立構造を生かしたという点で秀吉の「天下」の基本部分を引き継いだとも言える。逆に、三成の路線では、対立構造は消えてしまう。本人の意思とは別に、秀吉の「夢」も消えてしまうことになる。日本人の自我の成長も妨げられてしまったことだろう。
家康は家康で、現実の政治家としてのバランス感覚を持ち続けていたということだ。彼が江戸に政権の拠点を置いたのは多分に成り行き的な面があるが、その身の丈にあった保守的な政治手腕によって日本史のバランスそのものが維持された。そこに、近年うたわれている“江戸再評価”の根本的な意味があると筆者は思う。こうした点をふまえるなら、関ヶ原の戦いで最後の最後まで“裏切り”を迷ったという小早川秀秋の決断には、天の意思が働いたとしか思えない。そんな感覚すらも湧いてくる不思議さがある。家康が勝たなければ、日本が日本でなくなった(日本史が停滞した)可能性すらあったからだ。
“太陽”は日本人の意識下に潜在してしまったが、秀吉と家康の歴史的な対立構造は、後世の日本人に様々なことを教えてくれる。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年03月21日 04:56