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2005年03月21日
シリーズ・秀吉と日本人(4)〜“和と太陽の国”が生んだ「英雄」
●「唐入り」が成功していたら……?
井沢元彦氏の「逆説の日本史」の“秀吉編”を以前読んだら、「秀吉が(唐入りに)成功していたら、次のようなことになったかもしれない」という前提で、百科事典風の次のような記述があった。要点になる部分だけ、かいつまんで引用させていただこう。
大[だい]
中国の王朝の一、日本族のヒデヨシが高麗を滅ぼし、明を併合し、都を寧波に移し、十七世紀初頭国号を「大」と号し、秀吉は初代皇帝「太宗」となった。……
なぜ「大」かといえば、秀吉の一番好きな字だったからだが、こういうことを書くと「右翼だ」とか「大東亜共栄圏の亡霊を追い求めている」などと評する人々がいる。/とんでもない。……(*私は)こうならなかった現状のほうがよかったと思っている。/というのは、「大」が成立すればかなり高い確率で次のようなことになった可能性があるからだ。
日本[にほん]
現在の中華人民共和国日本省(省都大阪)に存在した独立国家のこと。十七世紀初頭まで中原からは「東夷」と呼ばれた蛮族の地だったが、英雄ヒデヨシ(大の太宗)が出るに及んで中原を制し、以後中国の一部になった。ちなみに「源氏物語」はもともとこの国の古典で、昔は日本古語で書かれており……。
事実の記述がこのように中国語で記されることは、決して有り得ない想像ではない。/かつて満州文字でしか正確に記せなかった「ヌルハチ」(*清朝の初代皇帝)の子孫が、今は「愛新覚羅」と漢字(中国文字)でしか、自分の姓を記せなくなっているのだから。
(「逆説の日本史11戦国乱世編〜朝鮮出兵と秀吉の謎」より *のカッコは筆者)
なかなかこのような見方をする人はいないので、面白いと思った。確かに日本の勢力圏が東アジア全体にまで広がってしまえば、その時、日本は今あるような日本でなくなる。中国大陸の習俗や文化がかなりの度合いで融合するはずだし、住んでいる土地が変われば、代を重ねるごとに気質も民族性も変わっていく。
……と、ここまでイメージを広げたところで、ふと思った。いわゆる中国人は「中国」に住んでいるから中国人と呼ばれている。この「中国」とは、国の話なのだろうか? それとも風土の話なのだろうか? 筆者の脳裏には、すぐに後者だと答えが浮かんだ。風土としての「中国」(言ってみれば、中国大陸か)に住み続けることで、満州族であろうと日本族であろうと、「中国人」になってしまう。少々表現がややこしいが、要は構成民族にかかわりなく、一つの風土の中でその風土性に根ざした文化圏が形成されるということ。この点を錯覚してしまっている人が多いのではないだろうか?
もう少しわかりやすく説明しよう。よく「中華4000年」といったフレーズを口にする人がいる。しかし、前出の井沢氏も言っているが、ここでいう中華をいまの中国の主流民族である「漢民族」の歴史として捉えるなら、4000年(あるいは3000年?)という年月は「虚偽」となる。元や清は明らかに異民族王朝だし、古代の隋や唐の王族もじつは異民族(北方の鮮卑族)の血を引いてたと言われている。中国史全体で見れば、漢民族以外の異民族が王朝を開いた時代もかなりの比重を占めるからだ。たとえば、(ありえないだろうが)いまのモンゴルがかつての元のように中国に攻め入って新たに王朝を開いたら、いまの中国人は「国が滅びた」と思うだろう。過去にあったそういう現実もひっくるめて、「中華4000年」という言い方がされているわけである。
●国家すらも呑み込んでしまう「風土」
ただ、ここで妙なことに気づくのではないだろうか? そう。日本が中国大陸を制圧して新しい王朝を開いたら、日本はもとの日本ではなくなる。異民族による新王朝が東アジアに誕生し、日本列島は確かにその省の一つになるかもしれない。しかし、そうであるとするならば、それもまた「中華4000」年ということではないのか? つまり、異民族であろうが漢民族であろうが、いわゆる中原(中国大陸の中心部)を制した者が“中華”なのである(*)。もちろん、漢民族の立場からすれば、それは亡国を意味する。しかし、彼らの文化もまた異民族の文化と混じりあいながら、「中華4000年」という枠組みの中で後世に継承されていく。
*古代中国においては、万里の長城以北の遊牧民のことを「異民族」とみなし、農耕主体の中原の文明と区別していたようだ。純血の「漢民族」という種族がいたわけではない。
このように見ていくと、国家と呼ばれるものの土台に、それすらもすっぽり包み込んでしまう「風土」が存在していることがわかる。国家とは、“三権分立”ではないが、行政と立法と司法という集団生活を保障するシステムを管理・統括している機関のようなものだ。それは時代によって、その機関の支配層の考え方によって、いかようにも変わっていく。しかし、風土は基本的には変わらない。逆に外部からの侵入者さえ、その風土によって性質を変えられてしまう。
だから、モンゴル民族がチンギスハンの血統によって、中原の明王朝を滅ぼして元を打ち立て、さらにはユーラシア大陸全土に勢力圏を広げた。そして各地の風土と融合しながら、新しい国家を生み出した。しかし、そのモンゴル民族を生み出した風土、つまりはモンゴル高原が大陸から消え去ってしまったわけではない。だから、元王朝が衰退し、ついには国を追われた末裔は再び「故郷」へと撤退していったと伝えられる。あるいは、その「故郷」に残って暮らし続けた人々が、その風土から生み出される文化を継承し続けた。それが今日まで続いている。
一つの社会で多数の人々が生活を続ける上で、国家は必要なシステムとして機能している。しかし、風土はそれ以上に意識し、大切にしなければならないベースであるということだ。その意味で筆者は、日本の歴史というものを語る時、国家としての歴史と同時に、風土が作り出した歴史も見る。先の話で言えば、日本列島が中国大陸に都を持つ「日本族」の王朝の省の一つになろうと、それによって日本列島の風土までは変わらない。日本列島の構成人員が「日本族」のままであり続けるかはわからないが、風土の中で生み出される人間性や価値観は、風土のほうが変わらないかぎり、基本的に代々受け継がれていく。
●風土が結びつける「秀吉」と「縄文日本」
筆者は、秀吉のことを“代表的日本人”として捉えてきた。言ってみれば、日本列島の特有の風土が生み出した最も典型的な日本人。「英雄」と呼ばれる存在は、国家としての歴史に大きく関与する存在ではあるが、その存在を生み出し、育て上げるのは風土である。これまで律令制度の成立から始まって、秀吉の天下統一まで、国家としての歴史に焦点を当てて「日本」を見てきた。その「日本」の歴史の最大のピークを演出した男は、風土の作り出した“代表作”でもあったわけである。ある意味で当然と言えば当然の話。しかし、国家の歴史ばかりを見ていると、その当然が見落とされてしまう。
では、風土の重要性はわかったとして、日本の風土とは具体的にどんなものだろうか? それを知るためには、国家の歴史が形成される前の段階までさかのぼってみるといいかもしれない。その風土の原点は、歴史で言えば縄文時代の中にある。国家のシステムによってではなく、風土の中の“決まり”だけで人の暮らしが十二分に成り立ち、深刻なあつれきや混乱が生じなかった時代。考古学の研究によると、日本列島が大陸から切り離され、風土的な独自性が生まれて以来、そんな時代が1万年は続いたと言われている。この1万年の記憶が日本人の感覚のベースになっているわけである。
ここで、日本の風土の特徴をいくつか挙げていってみよう。まず思い浮かぶのが、四季のうつろいの繊細さ、という点。4つの季節が1年を通じて万遍なく経験できる環境というのは、日本人的に当たり前のようでいて、世界を見渡せば非常に恵まれた環境であることがわかる。また、季節だけでなく、地理的な環境そのものも恵まれている。海もあり、山もあり、川があり、森がある。狭い島国であるがゆえスケール感には欠けるが、山川草木のすべてが整っている。箱庭の中にそのすべてが詰まっているというイメージ。こうした風土で暮らすと、手前味噌に近い言い方になるが、自然と感受性が強くなることがわかるだろう。
また、恵まれた自然環境の中で生活できれば、性格もあまり攻撃的なものにはなりにくい。良くも悪くも、ハングリー精神の欠けた人間の生まれやすい環境と言うべきか。事実、縄文時代の1万年間、大陸では初期の国家が生まれ(中華4000年の歴史が始まり)、幾度となく戦争状態に陥っている。しかし、日本列島は自然との共存生活が延々と続いていたようだ。国家が生まれていない、イコール遅れているというのは、最近では一面的すぎると思う人が増えきている。確かに縄文時代をただ遅れた時代と捉えてしまうと、ここでも多くのものを見落としてしまう。
たとえば、四季のうつろいを感じ取れる繊細な感受性、これが人間関係に向けられると、生まれてくるのが“和”の精神だ。“人たらし”と呼ばれた秀吉の卓越した人間力は、要はこの“和”のバリエーションであることにお気づきだろうか? 恵まれた自然環境の中で生きる民族は、基本的に多神教になるケースが多い。これは要するに、山川草木すべてに神は宿っているという感覚。一神教のような、天(神)と自己とのタテ軸的な“一対一”の関係ではなく、人間関係も含めた万物とのヨコ軸的な“つながり”に力点が置かれる。秀吉はこの“和”の特性を最大限に生かすことで立身し、後世に名を残すことになったわけである。
●縄文の自然が育んだ“和”と“太陽信仰”
日本の風土によってもたらされる感性は、こうした“和”ばかりではない。古来の「太陽信仰」に由来する、底抜けの明るさ、生命エネルギーの高揚感というものも、その一つに挙げられると筆者は思う。つまり、争いがなかったからと言って、こじんまりと自然の脅威にびくびく怯えながら生きていたわけでは必ずしもない。縄文時代の火焔式土器に代表されるようなエネルギッシュな生命感、躍動感が、日々の生活の中に息づいていた。「原始女性は太陽だった」という言葉があるが、太陽だったのは女性ばかりではない。生きる上での厳しさをも含め、彼らは感覚器官をフルに生かしてたくましく生きていた。どうだろう、これって歴史に伝えられる秀吉のイメージそのものではないだろうか?
縄文時代に太陽信仰があったなどということは、考古学的には何も証明されてはいない。ただ、日本列島のような恵まれた自然環境、つまりは山川草木に神の存在を意識する多神教の世界では、太陽という天体のインパクトが強烈であったことは想像できる。インパクトだけでない。現代のように暦もなく、自然の移ろいそのものを感じることで生活を続ける当時の社会では、太陽の動き、月の満ち欠けといった“変化”に対して、人々は相当敏感に反応したはずだ。問題は、その敏感な感受性によって捉えた太陽とはどんな存在だったのか、ということ。
この点を当時の縄文人の感覚になって、少しイメージしていってみよう。太陽は東から昇って西に沈む。視覚的に言えば、山間部の多い日本では山の一方の端から登って、天空で軌道を描いて、反対側の山の端に沈む。当たり前と言われそうだが、ひとつ見落としがちな点がある。この太陽の運行を基準にすると、西や東の概念は、一日ごとに位置が変わってしまう。地球が自転しながら太陽のまわりを公転しているからだ。わかるだろうか? 方位が毎日変わるのである。この融通無碍な動きは現代人には無秩序に映るかもしれない。しかし、実際には法則性に基づいた自然の姿そのものであり、多神教のもつ雑多で非統一な世界のありようとも重なりあう。
ご存知のように、我々にとっての「常識」である東西南北の方位というのは、北極星を基準にしている。天空に浮かぶ1年を通して動かない“不動の星”を、方位の基準と定めたわけである。こんな基準をなぜ定める必要があったのだろう? 一番イメージしやすいのは見渡すかぎりの平原、砂漠。あるいは海。そんな光景の広がる世界を旅する時、迷わないで目的地に進むには天空の星が非常に重要な目印であったということ。中でも“不動”の北極星は、旅人たちに重視され、信仰の対象になりえた。これは遊牧民、騎馬民の文化であり、一神教を奉ずる人々の精神性、感覚とも合致する。太陽信仰は、この北極星信仰の対極になるものと考えたらいい。
●“物的証拠”の残らない「感覚」としての世界
日本のような風土には、北極星信仰は基本的には根づかない。北極星に意識が向けられたとしても、それもまた山川草木、森羅万象の一つであって、それだけを信仰して崇める感覚にはなりはしないからだ。事実、北極星信仰をベースにした暦も、東西南北の方位も、縄文時代よりずっと後代、国家の原型が形作られた古代の日本社会にもたらされた大陸起源の概念。時代とともに農作業をはじめ日々の生活に欠かせない“常識”に変わっていくが、それが世界を感知する基準のすべてだと思ってしまうと縄文の頃の記憶は消えていく。そうなれば、いくら考古学的検証を積み重ねても、暦のなかった(自然な“暦感覚”しかなかった)時代の意識は見えてこない。その意識の中心、つまり後世の北極星にあたる基準が「太陽」だったと言えるわけである。
これは考古学的にどうというものではなく、感覚的な問題。学問の世界では感覚をベースに時代を論証することは忌避される傾向になるかもしれないが、筆者に言わせれば、人間の感覚は時代にかかわらず共通の「素材」と呼べるもの。人が時間を超えて過去の出来事に共感したり、時に実感すらできるのは、身体の中にそうした“感じる機能”があるからだ。考古学的な証拠が完全に揃っているから確かなのではなく、それをも「素材」にして、最終的には人が“ありえる”と感じるから一つの時代像が構築される。イデオロギー(思想)でつくられたものは時代を経て廃れたりもするが、感覚的に認められたものは、思想を超えて生き残っていく。
以上のような意味で、筆者は縄文時代の「太陽信仰」を“ありえる”と実感しているわけだが、どうだろうか? もちろん、考古学の立場から見れば、やはりそれを裏づける物的証拠、つまりは遺跡の存在が認められなければなかなか肯定できない(しにくい)というのが現実だろう。なかにはストーンサークルのようなものをその遺跡の一つに挙げる人もいるかもしれないが、この点に関しても、筆者の発想はまったくちがう。考えてみてほしい。縄文時代に残る遺跡は、基本的には日常生活の痕跡だ。信仰に関係したものも見いだせるだろうが、太陽信仰の遺跡だからといって、ピラミッドに類するものが出てこないとならないのだろうか?
日本列島にはわざわざピラミッドのような人工物を建造しなくても、山川草木がそのまま信仰対象になる生活環境がある。仰ぎ見るものとしては、具体的には山があれば十分。エジプトや中南米のようなピラミッドは要らない。要するに、考古学的アプローチだけでは、そんな信仰の痕跡までは見いだせない。筆者のいう太陽信仰にしても、遺跡がどうとかいう以前に、その根底にあるのは、日々の生活の中にほとんど自覚できないままに溶け込んだ“感覚”の一つだったということ。巨大な遺跡を建造して信仰の対象にするといった発想自体、基本的には、大陸の一神教信仰の人々に由来する“感覚”であり、縄文人にそんな“欲”があったとは想定する必要はない。証拠など残らないものが多いのである。だからといって、それをなかったと言ってしまえば、精神的なものは何も見えなくなってしまう。
●縄文人の感性を呼び覚ました秀吉の「英雄性」
まだまだ書き足りない部分はあるので、このあたりに関してはいずれ稿を改めて触れることにしよう。ただ、こうした点をふまえるだけでも、縄文時代の人々の意識の中心に“和”と“太陽”が根づいていたことは、それなりにイメージできるのではないだろうか? この二つの感覚が1万年の歳月の中で醸成され、その後の日本人の“らしさ=個性”のベースになっていった。秀吉は、この二つの感覚を体現した存在であったからこそ、日本史上の最大の「英雄」となりえたのである。“和”の精神の権化であると同時に、無類の明るさを備えた“太陽の子”。それが社会の最下層の中から躍り出て、混乱から平和へと向かう社会の総仕上げ、秩序の再構築を行った。
秀吉以前の歴史を振り返ってみれば、これまで繰り返してきたように、8世紀に藤原不比等が整えた律令制度が「秩序」のベースとして機能し続けてきた。これはもう少し俯瞰した見方をすると、縄文社会という国家の形成される以前の風土的なベースに、弥生時代以降の大陸からもたらされた国家運営のシステムが割り込み、溶け込むことで成立したものだと言うことができる。この国で人が集団生活していく上で必要なものであったことは確かであるとしても、国家のシステムが社会に浸透して行けば行くほど、当然のことながら、縄文時代の風土的な感覚は潜在化していく。その意味では「個性」が抑圧されるという側面も持っていた。
あるいは歴史的事実を見ても、縄文人の文化は“遅れたもの”“野蛮なもの”とみなされ、農耕(稲作)の普及とともにその勢力圏は東へ、東へと後退していった。大和朝廷が畿内で政権基盤を確保した段階では、東国(関東以北)の縄文人の血を引く人々は異端視され、蝦夷(えみし)という名で蔑まれ、排除の対象、討伐の対象として苦難の歴史を歩むようにもなった。また、平地が国の管理する農地に変わってしまったため、山の民として、定住地を持たない漂泊の民として、これまた社会の影の部分に追いやられた人々もいる。彼らは歴史の中で商人や芸能人、あるいは何らかの技術を持った職人として、日本文化を側面から支えた。
こうした点をふまえれば、日本人は稲作民族、日本は農業国家であるという捉え方も、非常に表面的なことが見えてくる。それも一面の真実ではあるだろうが、日本の社会を活性化させる原動力となったのは、むしろ「秩序=農耕社会」からはみ出た、抜け出た存在であったこともわかるだろう。江戸時代の「士農工商」の概念で言えば、“工”と“商”のなかにその原動力が見いだせる。農本主義的な封建社会が基盤でありながら、経済大国、工業立国化した近代の日本の姿も、そこにダブってくるだろう。それらが可能になったのは、風土に由来する縄文人の感覚、感性が巧妙な形で社会の中に温存され続けてきたからだと筆者は思う。
●“士農工商”のすべてを兼ね備えた多面的存在
なぜ、縄文人の文化が、国家の秩序が形成されて以降も、社会のベースの部分に息づいてきたのか? 答えは簡単だ。それが人工的に生み出されたものではなく、風土に根ざしたものであったからだ。国家のシステムが農業に財政基盤を求めようと、風土の中で培われた感受性は、その枠の中だけに閉じ込められるものではない。武士にしても、秩序からはみ出した存在が自我を持ち、団結したからこそ、逆に新たな秩序の担い手ともなった。「天下人」となった秀吉の場合、その武士でもなかった。我々のイメージする意味での農民(農業従事者)だったわけでもなく、言うなれば、士農工商、すべての要素を持った非常に多面的な存在だった。
「百姓」という言葉はイコール「農民」ではなく、本来そうした多様な職能の総称としての意味が込められていたと言われている。その意味において、秀吉は「百姓」であったということもできる。その百姓、つまりは言い換えれば「庶民」が天下を取ったというところに、彼の時代に至る日本史の充実ぶり、自我の成長というものが確認できるのではないか? 秀吉になぜ人気があるのかということも、ただ単に立身出世が痛快だったからではない。同じ日本列島で暮らす人間として、共感できる成功の仕方だったから愛されてきた。晩年の「失政」に対するもどかしさや同情も含め、自分たちの“らしさ”と重ね合わせられてきたのである。
そして、あるいはお気づきの人もいるかもしれないが、「百姓」が「天下人」になることを可能にしたエネルギー、しかも失敗に終わったとはいえ「唐入り」までも実行してしまう当時の日本社会のダイナミックな充実ぶりは、「秩序」のなかに押し込められていた原始の感覚、「太陽信仰」に象徴される生命エネルギーの躍動感があの時代に甦ったことを意味している。繰り返すならば、“和”と“太陽”が、日本列島の生み出し、育んできた「個性」なのである。そして、その象徴が秀吉という「天下人」。しかし同時に、“和”はともかく、“太陽”の感覚はその後の歴史で急速に萎んでいってしまったことにも気づかされるだろう。
秀吉の政権を引き継いだ江戸時代が、自然に優しい、リサイクル性の高い社会システムを実現した時代として、近年、再評価されはじめている。身分制度に縛られた、農民を抑圧する窮屈な社会といったような、筆者が子供の頃の教科書で読んだような社会像は、過去の“偏った観念”になりつつある。しかしそれらの像を肯定した上でもはっきりと言えることは、秀吉が体現したような“太陽エネルギー”は、彼の死をもって再び社会の闇へ封印されてしまったということ。縄文人のDNAは日本人の深層意識に潜在化していき、以後、良くも悪くも、世界とのむすびつきがどこか希薄な、こじんまりとした箱庭文化が展開されていく。
言い換えるならば、日本史のピークであった秀吉の時代を、その後の日本人はいまだに超えられないでいるということ。本当の日本人は太陽のように明るい。そのように言ってもピンと来ない人が多いとしたら、ここまで話してきたような、知識だけでは捉えきれない歴史の歩みを忘れてしまったからだ。ただ情報として理解すればいいという話ではない。想像力の幅を広げ、身体的な実感として受け止められるようになった時、近年の“江戸再評価”の先にあるものが見えてくる。秀吉と縄文が一つのラインで結ばれ、秀吉と現代をつなぐ一本のラインの存在にも気づかされるはずだ。日本史は俯瞰してみると、秀吉以前と以後とに分けることができるからだ。
次は、太陽=秀吉に対する月としての役割を持つ徳川家康にスポットを当てながら、両者の対立構造、江戸幕府が秀吉から継承したものと、しなかったものについて、より鮮明に浮き上がらせていきたいと思う。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年03月21日 03:59