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2005年03月17日
シリーズ・秀吉と日本人(3)〜「唐入り」という世界戦略はなぜ失敗したか?
●「本能寺の変」というスタートライン
秀吉の「唐入り=朝鮮出兵」について語る前に、まず、本能寺の変をめぐる話から始めたいと思う。天下人・秀吉の政権運営、ビジョンと言ったものを見ていく上で、ここが一つのスタートラインになってくるからだ。
筆者はこれまで何度か書いてきたように、織田信長を世間が思っているような英雄とはあまりイメージしていない。というより、彼を“不世出の天才”と見なして、あたかも日本史のキーパーソンに据えてしまう風潮に違和感をおぼえてしまう。その理由については、大ざっぱながらすでに書いてきたので、ここでは繰り返さない(→こちらを参照)。ただ、「信長=天才」という前提をひとつ取り払ってしまうと、この時代の歴史もまた違ったように見えてくる。
一番評価が変わってしまうのは、おそらく明智光秀だろう。彼は主君・信長の“天才性”と対比させられて、何か天才を理解できなかった凡人の代表、保守的・古典的発想のカタマリのように描かれたりしている。だから、本能寺の変を起こした動機も、大まかに言ってしまえば「怨恨」。
もちろん、あんな殺伐とした(しかし生命力のギラギラした)時代に生きていたのだ。怨恨の一つや二つはあっただろう。しかし、従来の怨恨説はもっと単純な「事実」を見落としてしまっている。一つは、光秀にとって恨みがどうとか言う以前に、この変が「チャンス」であったということだ。なにしろ信長はほとんど手勢だけの状態で、京都に宿泊していた。しかも、ライバルとなる織田家の家臣(秀吉や柴田勝家など)はみな地方に散らばってしまっている。
このへんの状況はよく語られるところだが、問題なのは、どうしてこうした状況が生まれたのか、ということだ。光秀の領国、つまり活動拠点は近江や丹波の一帯。また、彼の傘下(与力)に組み込まれていた細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和と、歴史家が「近畿管領」などと呼ぶように、その影響力は畿内に集中していた。畿内は、言うまでもなく織田政権の中心である。そこに活動基盤があったということは、要するに、信長に信頼されていたのである。なぜか? 有能だったからだ。だから信長が、裸同然の状態で本能寺に宿泊するような“油断”も生まれたわけである。
●「信長=天才」説を保留にする
こうして見れば、光秀が古典的な教養にとらわれた、カビ臭い人物であるわけがないことも見えてくるはずだ。合理主義者で能力第一主義などと言われる信長の目から見ても、非常に有能であり、そこらの家臣よりもずっと使える男だった。この点は、ライバルと言ってもいい秀吉や滝川一益なども同様。当たり前の話だが、彼らは能力があったから織田家で頭角を現した。光秀に至っては、本能寺の変という“千載一遇のチャンス”を生かすだけの野心や実行力も持っていた。
さて、後世の我々は「謀反」を起こした光秀が、秀吉の“想定外”の行動力によって、「三日天下」に終わってしまったことを知っている。正確にはわずか11日あまりの「天下」であったわけだが、おかげで彼がどのような政権運営を構想していたのかは、永遠の謎になってしまっている。ただ、保守的発想の光秀の天下が続いていれば、日本は「中世」の時代に逆戻りしてしまったはずだ、などという解釈は、ここまでの話をふまえればさして根拠がないことはわかるだろう。
ともあれ、天下の主権は光秀から秀吉に推移した。「信長=天才」説を採る人は、新たに天下を制した秀吉を、天才の模倣者というくらいにしか見ていない面がある。言い換えるなら、信長の後継政権、彼の敷いた「天下布武」の路線をただ継承しただけだという評価。秀吉の類まれなる人間性、“人たらし”としての頭抜けた個性を認めつつも、信長ほどの独創性はなかったと言いたいようだ。これから触れることになる「唐入り=朝鮮侵攻」にしても、信長の海外戦略の構想がベースにあった。彼自身の発案ではなかったと強調されることが多い。
要するに、秀吉政権には確固とした(信長レベルの?)ビジョンなどなかったいう話になるわけだが、本当にそうか? 確かに光秀は天下人としての自らのビジョンを公開する前に破れてしまった。だから、天下人としての器量は永遠の謎。しかし彼を破った秀吉は、実際に政権を握っている。信長に対する過大な(と筆者は思っている)評価をいったん保留にし、現在残されている歴史的事実をありのままに追っていくだけでも、彼のビジョンは浮かび上がってくる。“人たらし”の才能と政治家としての力量は、彼の中で表裏一体に機能していたことがわかる。
●公武を統一させた前代未聞の「関白任官」
前の稿でも強調したことだが、秀吉はまったくの裸一貫から身を起こし、ついには天下の表舞台にまで駆け上がった人物である。裸一貫、つまり何も持っていない存在。それが個人の実力で最終的には「天下人」にまでなった。北条早雲や斎藤道三を持ち出すまでもなく、戦国武将ともなれば少なからず似た条件のなかにいたわけだが、こと歴代の「天下人」と比べた場合、彼がいかに「不利」な立場にいたか、その点は理解できるのではないだろうか?
天下を取ったといっても、自分の磨き上げた人間力(器)だけでもっているような、砂上の楼閣に近い政権である。最低限、信長を超えるような政権ビジョンを打ち出さなければ、第二の光秀にもなりかねない立場にある。この危機感を解消させるために、まず秀吉が採ったのが、関白という朝廷の最高位への任官である。征夷大将軍になれなかった代償に関白を狙ったなどという説が流布しているが、少し考えればそんな発想は成り立たない。なぜなら、関白も征夷大将軍もともに朝廷の官位。そのどちらが上かと言えば、もちろん関白のほうではないか。
裸一貫の浮浪者にすぎなかった“サル”が、武家の「最高官位」を飛び越えて、人臣の最高位に就いてしまう。インパクトという点を考えたら、関白任官のほうがはるかに衝撃的だったことはわかるだろう。武力で実権を握った以上、将軍位に就くということなら、当時でもある程度想像の許される範囲の話であったはずだ(これ自体も彼の出自を思えば異例であるが)。しかし、関白任官となると前代未聞。武家がなるという以前に、不浪人あがりが天皇の補佐役に就いてしまったわけだから、後世の我々はこの衝撃の大きさをもっと理解する必要がある。
いや、衝撃というだけでない。筆者の目には、この関白任官自体も、彼の天下統一事業に組み込まれた構想の一つだったと映っている。つまり、出世して権力を握りたい、政権を安定させたいという、彼の政治家としての「欲」以上の意味が、そこにはあったと思うのである。なぜなら、秀吉は素性定かならぬとはいえ、武家である。その武家が公家の占有していた最高位に就く。これで「公武合体」は実現し、畿内(京都)と関東(鎌倉)に分裂していた日本の政治機関は一本化される。それもまた、文字通りの「天下統一」であったことが見えてくるはずだ。
*こうした秀吉の構想の先駆をなしたのが平清盛である(→こちらを参照)。
●統一政権に必要だった「唐入り」という「夢」
公武合体という「統一」を実現した秀吉は、この時点で、公的な「天下人」の称号を勝ち得たと言っていい。武力で政権を奪った将軍よりもはるかに上位の、史上最強の「天下人」である。秀吉は早速、天皇の補佐役の立場から、服属していなかった九州、関東、東北の諸将に「惣無事令」を公布している。中央では公家と武家が統合され、これまでにないまったく新しい政府ができた。今後は天皇の代行者である関白・秀吉が世の政治(まつりごと)を執行していく。だから、もう無用な争いはやめ、帰属せよという、“私戦停止命令”である。
公武の政権一本化→天下惣無事令(私戦停止命令)→従わない諸将に対する武力行使
こうした大義を掲げるのと同時進行して、秀吉は有名な「太閤検地」も実施している。これは、大宝律令の制定(720年)以来の、本格的な土地制度改革である。現代人にはあまりピンと来ないかもしれないが、秀吉が全国レベルで検地を実施するまでは、一つの土地に武家や公家などの複数の権利が重なっていたり、その土地で取れる作物の収量も明確に把握されていなかった。また、収量をはかる秤のサイズなどもまちまちだった。これらが統一され、「1つの土地に1つの権利」という現代社会の“常識”が当たり前になったのは、秀吉時代以降のことなのである。
正確に言えば、検地自体は秀吉が初めて行ったものではない。武田氏、北条氏など政治力を持った戦国武将は、少なからず領国内の検地を実施していた。前の稿で日本人の「自我の成長」の歴史についてつづってきたが、ここで大事なことは、この歴史の中で代々リレーされてきたものが、社会の最下層から成り上がった彼によって集大成されたということだ。検地によって秀吉は、日本人の農業総生産を数値として把握できるようになった。全国の土地が実態に近い石高で割り出され、この石高を基準に配下の武将たちに一定の軍役を課せられるようにもなった。
農民たちから武具を取り上げた「刀狩り令」の布告も、この過程のことだ。土地制度という「秩序」が確立した以上、もう土地を守るための武具は必要ない、安心して農作業に励め(国の生産力を高めてくれ)というのが秀吉の理屈。兵制も同時に確立しているから、軍事は武士階級に任せるようにという「兵農分離」の政策でもある。これらが江戸時代の身分制度の基礎になっていることは理解できるだろう。しかし、決定的に違う点もある。秀吉はこのようにして出来上がった国の新たなシステムの維持に一番大切なのは、「夢」であると考えた。この夢の実現のために、「唐入り」という壮大な「ビジョン=政権構想」が提示されることになるのである。
●自我エネルギーの沸点に出現した秀吉政権
国内のあらゆる「統一」、つまり武力的な統一も、公武の官位の統一も、経済・社会のシステムの統一も実現されたことで、日本は事実上、豊臣秀吉という天下人のもと“ひとつ”になった。すべてを統一したからこそ、独自の姓もまた創案された。このことについても前回書いたが、要するに秀吉は、日本史上において秦の始皇帝のような立場にあったことが理解できるだろう。しかも、彼の一声で右にも左にも進退する、戦国時代の乱世を勝ち抜いてきた数十万にも及ぶ軍勢がいる。兵の質から言えば、当時「世界最強」とも評される精兵である。
筆者は秀吉が天下人になったのは、日本人の「自我の成長」の一つの結果、つまりは到達点であったと繰り返してきた。それは、社会の最下層の人間が天下人になってしまうくらいのエネルギッシュな社会が到来したということ。この当時の日本人は、日本列島という一つの枠の中からはみ出るくらいの精神の沸騰期にあった。天下人となった秀吉は、自らを太陽の子、日輪から生まれた存在であると宣言しているが、そんな表現が許されるくらいの(現在では想像できない)活力がみなぎっていた。鉱山開発などが飛躍的に進み、空前の金産出国となったのもこの時期のことである。
秀吉の「唐入り」は、こうした社会的な活力を背景に構想され、実施されたのである。政権のビジョンという側面から言えば、海外雄飛、大陸進出という壮大な「夢」を庶民の前に提示した。それを誇大妄想などと言ってしまったら、この時代のエネルギーは見えてこないし、庶民が秀吉政権に抱いた夢も否定されてしまう。後世の太閤人気も理解できない。信長も同様の大陸進出を構想していたかもしれないが、庶民の夢のレベルにまで直結したものだったかどうか。“自我の成長”の歴史の頂点、沸騰点に位置するだけの器であったとまで言えるだろうか? やはり秀吉のような“成り上がり”が表舞台に躍り出ることで、天下の混乱は終息し「統一」されたのである。
もうひとつの側面をつけ加えるならば、ゼロからスタートした秀吉には、信頼できる譜代の家臣もほとんどいなかった。側近となった石田三成ら近江出身の文官たちは、事実上、太閤検地などの経済政策を通して育て上げた。加藤清正ら武官は、まさにこれから話す「唐入り」という実戦で武将としてのキャリアを積んだ。ハイレベルに沸騰した日本人の自我エネルギーをうまく発散させながら、組織そのものをゼロから作り上げていかなければならない立場。「唐入り」などしなければ政権はもっと延命できたはずだというのは、彼のこうした状況が見えていない。結果を知っている後世の人間の、一つの観念にすぎないことがわかるのではないだろうか。
●「人間力」を前提にした秀吉の戦法
では、そのようにしていわば理性的に実行された「唐入り」が、なぜ失敗に終わってしまったのか? 政策として考えた場合、決して無謀だったわけではない。よく語られることだが、当時の朝鮮の王朝(李氏朝鮮)は、日本で言えば平安時代末期レベルで腐敗が進んでいて、政府としての機能をほとんど果たしていなかった。そのため宗主国の明に援軍を求めることになるわけだが、この明とて、秀吉の大陸出兵ののちに衰退し、1644年に滅亡。北方からの侵略者(満州族)が、新たな清王朝を打ち立てるに至っている。「世界最強」の軍隊で構成されていた秀吉軍にも、この清と同様の「チャンス」があったと指摘することは、状況的にも別におかしな話ではない。
朝鮮民衆の予想以上の反抗、海将・李舜臣の活躍、“和平派”小西行長と“交戦派”加藤清正の対立など、「失敗の原因」は様々に挙げられるが、これらが決定的に関与していたとまで筆者には思えない。では、その決定的要因は何だったのか? 最も重視しないとならないのは、戦国武将としての秀吉の戦い方。彼が得意だったのは、よく知られているように調略である。すなわち、“戦わずして勝つ”という戦法。彼は、戦闘行為そのものが特別に得意だったわけではない。その点に敗因を探っていく、一つのカギが隠されていると思うのである。
結論を出してしまう前に、秀吉の戦法についてもう少し検討しておこう。天下取りの段階になると、この“戦わずして勝つ”という彼の戦法は、さらに徹底されていく。小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、小田原攻めと、どの軍役も敵を圧倒する大軍を編成し、それを誇示することで戦意を喪失させてしまっている。華々しい合戦絵巻が繰り広げられたわけではない。歴史学者の山室恭子氏の言葉を借りるならば、戦とは彼にとって純粋な戦闘行為であったというより、天下人としての自分の存在を日本中に宣伝するための「手段」であったということになる。さて、それの何が問題か?
そう。この戦法は基本的に、秀吉という存在の人間力、カリスマ性が前提となっている。初期の調略にしても、ベースになっているのはその並外れた“人たらし”の才能にあったことはよく語られている。いくら精兵であろうと、ただ海を渡って暴れれば(個々の武将の戦術に一任すれば)敵地が征服できるわけでない。少なくとも秀吉は、そんなやり方で天下取りを実現してきたわけではない。自分が陣頭指揮を執らないかぎり、成功の見込みはない。彼自身、それを理解していたからこそ、開戦初期、家臣の制止を振り切って、半島への渡海=「唐入り」の陣頭指揮を試みるわけである。
●リーダー不在で臨んだ、初めての「異国体験」
結果を言えば、この渡海は実現しなかった。最愛の母・大政所の危篤という“緊急事態”が渡海寸前のタイミングで発生したからだ。すでに秀吉は、彼の政権の片腕と言ってもいい弟の秀長を病気で亡くしている。後継者に期待した愛児・鶴松もわずか3歳で夭逝。そして、ここに来て母の命すら危ないという。秀吉はこの時、“天が自分の仕事を邪魔している”と感じたかもしれない。いくら歴戦の精兵でも、現場に統率するリーダーがいなければまとまるはずがない。といってリーダーになれるのは、このビッグ・プロジェクトの推進者である秀吉自身しかいなかった。それがわかっていながら、どうにもならない理由で“待った”がかかったわけである。小説的な推理が許されるなら、渡海のチャンスを母の死で逸した秀吉は、事実上、この瞬間に「失敗」を悟ったのかもしれない。
もちろん、秀吉が渡海したところで「唐入り」が成功したという確かな保証があるわけではない。少なくとも国内での統一事業よりも、はるかに苦戦を強いられただろう。ここで理解すべきなのは、これが当時の日本人にとって実質的に初めての「異国体験」であったということだ。鎌倉、室町と時代が進む過程で日本人の自我は成長し、国内に収まりきらないほどに膨れ上がってはいた。しかし、多くの人にとって活動範囲は日本国内に限られていた。キリスト教などを経由して異国の情報がもたらされたといっても、日常的に活発な「国際交流」が行われていたわけではない。
海の向こうには、自分たちとは異なる文化が存在している。そこでは自分たちにとっての常識も、権威も必ずしも通じない。言葉にしてしまえば簡単になってしまうが、現代の日本人でもこのことを心底理解できている人は、どれだけいるだろうか? 誠意を持って話し合えば問題は解決する。そんなふうに思っているのは日本人だけで、実際には宗教の壁、文化の壁が大きく立ちはだかっているのが現実でもある。希代の“人たらし”で天下人まで登りつめた太陽の子、“代表的日本人”である秀吉も、「唐入り」を企てることで、この壁を少なからず感じたのではないかと筆者は思う。
歴史をさかのぼってみれば、律令制度が敷かれ、国の基礎が作られる8〜9世紀より以前、日本列島と朝鮮半島の間は、今では信じられないくらい往来がさかんだったと考えられている。大和朝廷を構成する有力氏族の大半が渡来系、つまりは朝鮮半島などからの帰化人で占められていた。当時の皇室にも朝鮮系の王族の血はかなりの割合で入り込んでいるし、戦争も含め半島に進出する日本人、日本の氏族も数多くいたはずだ。日本も朝鮮もまだ国家としては混沌としていて、これまた前の稿にも書いたが、今でいう関東と関西くらいの感覚の違いしかなかったように筆者は感じている。
●国際社会で「和」を生かすには?
要するに、半島と列島の文化の違いはあっても、日本と朝鮮は、もとは親戚同士くらいの間柄なのである。それが日本は平安朝、朝鮮は新羅王朝、それぞれの形に国が統一されていく過程で、次第に活発な往来は失われていき、こうした血縁的な感覚が薄れてしまった。そこに秀吉の大陸出兵が失敗した根本的な原因がひそんでいると、筆者は思う。為政者としての秀吉の能力や政策の問題以前の話。“代表的日本人”である彼の失敗を探っていくと、もう少し根深い「歴史的背景」が見えてくる。それがいまも、日本人が超えなければならない壁として目の前にある。
今日の我々の価値観で、朝鮮侵攻そのものを「悪」と捉えてしまうことはたやすい。しかし、まず秀吉すらも忘れていた古代東アジアの「世界」を思い出してみる。この時の「国際感覚」が身体の中にあれば、あるいは秀吉の世界戦略ももっと違う結果が生まれたかもしれない。その名人芸と言ってもいい“戦わずして勝つ”戦法も、異国の地で十分に発揮できたかもしれない。それはすなわち、“和”の感覚をベースにした政略、戦略。この感覚の権化であったはずの秀吉が、海外では一転して身勝手な侵略者となってしまった現実を、我々は強く意識する必要がある。このギャップは、現代の日本と国際社会の間にひそむギャップと同質のもの。秀吉時代以降も、幾度となく同じ形での「失敗」を繰り返している。おかしな話だが、国際社会で日本流の“和”を実現させていくためには、まず、日本と世界の違いを肌で理解することが求められる。でなければ、秀吉の「夢」も見えてはこない。
秀吉は様々な意味で、日本の良さも悪さもすべてを体現している存在である。その“すべて”という言葉がすっぽり当てはまってしまう器の大きさを感じてみることで、日本史の本質ももっとよく見えてくる。秀吉の抱いた「夢」とは何だったのか? 何がいったい“夢のまた夢”だったのか? 次の稿では、“太陽の子”としての彼の一面に迫りながら、その実態を探っていくことにしよう。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年03月17日 03:06