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2005年03月12日
シリーズ・秀吉と日本人(1)〜日本史のピークを演出した男
●秀吉を知ると日本が見えてくる
誰もが知っている名前でありながら、なかなかその実像が捉えきれない。豊臣秀吉は、その点でじつに不思議な人物である。どれくらい不思議かということを話していくと、日本史そのものを掘り起こしていかなければならない。彼があの時代に生まれ、卑賤の身から立身を遂げ、天下まで取ってしまった事実が、それまでの歴史の「必然」としてはっきり浮かび上がってくるからだ。
フランスがナポレオンを生んだように、モンゴルがチンギスハンを生んだように……、日本という風土が生んだ“代表的日本人”が秀吉。だから秀吉のことを知れば知るだけ、日本が見えてくる。日本という国の個性も、特異性も見えてくるし、同時に課題もわかってくる。以前にも話したが、その点においては彼の主君・織田信長など足元に及ばない、はるかに大きな「器」を持っている。
まず日本史の大きな流れの中から、秀吉のポジションというものを割り出してみよう。最初に結論を言ってしまえば、筆者は日本の歴史は「秀吉以前」「秀吉以後」に分かれると思っている。彼が天下をとり、壮大で絢爛な桃山文化を築き上げたのが日本史の最大のピーク。そして現在は、秀吉の遺した課題をDNAにしまいこみながら、再びまったく新しい山に登ろうとしている。そうしたシチュエーションにあるからこそ、秀吉の「再評価」が必要となってくるわけである。
●「自我を持った人間」の溢れていた時代
さて、秀吉の不思議といえば、まず素性がはっきりわからない点が指摘される。小瀬甫庵の「太閤記」に書かれた「鉄砲足軽の子」という記載はさすがに否定されているようだが、それでも「尾張の貧しい農家の子」とイメージしている人は多いのではないか? しかし、中世史の網野善彦氏などが再三語っているように、当時の百姓はイコール農家とは限らない。「水呑百姓の子」を「貧しい農家の子」と結びつけてしまうと、あの下克上時代の人々の実像が見えてこなくなる。
ただ、「農家」でなかったにしてもある程度ハッキリしているのは、氏素性の定かでない、その意味で社会の最下層の出自であったという点。しかも武芸に秀でていたわけでも、人に惚れられるような容姿を持っていたわけでもない。小柄で猿に似た容貌。裸一貫というならば、世の天下人のなかで、秀吉くらいの裸一貫(何も持っていない存在)はなかなか見当たらない。言い換えるなら、天下人になったのは彼だけだが、そんな境遇の人間が、当時は掃いて捨てるほどいたということだ。
掃いて捨てるほどということは、当時の日本の社会全体が「自我を持った人間」で溢れていたということ。自我というのは意思と言い換えてもいい。現在の日本社会のように「平等」だとピンと来ないかもしれないが、過去においては、「こうしたい」という意思を持つことすら、身分や立場によってできない時代があった。これは社会制度の問題では必ずしもない。肝心の人々に、意思を持とうという発想すら生まれなかった。だから、一部の自我を持った人間=権力者にいいように利用されてきた。
権力者という言葉を使っただけで拒否反応を示す人もいるが、権力者とは「自我を獲得した人」と位置づけることもできる。だから、大衆のリーダー=英雄にもなりえたわけだし、共通のルール(法律)を決め、システム(制度)を施行するだけの資格を手にできた。もちろんそうした権力者が、イコール聖人君子であったら理想だが、そんなケースは現実的にほとんどない。だから、支配される側の大衆の中には潜在的な不満が鬱積する。不満が新しい自我が生む。その自我が新しい権力者を生み出し、新しい歴史をつくりだしていく。
●天皇系の血統から派生した「権力者の家系」
そのようにして日本の歴史を見ていくと、そもそも、日本列島に「国としての自我」が形成されたのはいつなのかという話にもなる。やはり、7〜8世紀、律令制度が根を下ろした飛鳥・奈良時代あたりからになるだろう。その国家の自我の形成に大きく関与したのが、藤原氏。大化の改新に功績のあった鎌足が祖にあたるが、「権力者としての自我」という点では、息子の不比等のほうがはるかに強烈。のちに公家政権の頂点に立つ藤原氏の、事実上の元祖であると言ってもいい。
不比等については平清盛について書いた時に触れているので、ここではあまり繰り返さない(→こちらを参照)。ただ言えることは、彼の時代の権力者は、天皇家の血筋に近い者たちで占められていたということだ。平安時代になると、この権力者の枠はさらに絞られ、不比等の子孫のみが独占した。彼の4人の息子のうちの次男の家系(北家)が勝ち残り、その血筋のなかで権力の座をめぐる「骨肉の争い」が繰り広げられた。国としての自我と言ったところで、非常に限定的で、微弱だったことも見えるはずだ。
藤原氏の権力闘争という非常に閉鎖的な自我の攻防が繰り返される中、この平安時代の400年に新たに勃興したのが、武士という自我だ。しかし武士といっても、やはりここでも血筋が重んじられた。中央の貴族(藤原氏)の血筋よりは劣るものの、関東に土着した源氏も、畿内・西国に基盤を築いた平氏も、もとはと言えば天皇家の子孫にあたる。
平安末期、平家が滅びて、源氏が鎌倉に幕府を開くと、源氏の血を引く者が武家政権の後継者といった不文律が新たに生まれた。正確に言うと、藤原氏独占の時代が終わり、基本的に「源平藤橘」という天皇家の血筋を引く4つの姓(家系)が、権力者の資格を得ることとなった。最後の橘氏は平安初期の段階で衰退したので、実質的には、源氏・平氏・藤原氏の3家が「権力者の家系」となったわけである。
●分散化する権力→「実力主義」の時代へ
といっても、ただ単に1家が3家になっただけでなく、時代とともにそれぞれの子孫は繁栄し、家系は枝分かれし、無数の傍流が生まれていく。その結果、権力者の「資格」を持つ者の数は相対的に増加する。そうした中で迎えたのが、室町時代である。この時代の権力の中心となったのは、京都に開かれた武家政権・室町幕府。その政権のトップの座(征夷大将軍)についたのが、源氏の血を引く足利尊氏。しかし、この時代になると、源氏の末裔といっても相当に血が薄まってしまっている。その薄まった分は、当然、個人としての実力で補う必要が出てくる。
初代の尊氏には、この実力、つまり国中を完全に束ねきるだけの強烈なカリスマ性まではなかったようだ。幕府の発足の時点で、公権力を保証する皇室が南朝と北朝に分かれて、その権力を争うような図式が出来上がっていた。尊氏は北朝側の天皇を支持し、南朝と争ったが、この分裂を統一させることはできなかった。ただ、ここで言いたいのは、尊氏の資質についてではない。彼一人の力量をもってしてもどうにもならないくらい、この時点での日本が多様化していたという点だ。
多様化……、つまりは権力の分散化と言い換えてもよい。平安時代に生まれた武士勢力は、確かに血筋を拠り所のひとつにしていたが、最終的には個人としての自我そのものが力であることを肌身で理解していた。武力を持った勢力が政権を握ったからすごいというわけではない。自我を持った人間が地方の至るところでも現れはじめ、中央の巨大な自我を持ってしても制御できなくなった。鎌倉時代の100数十年を経ると、実力主義に目覚めた権力者(足利将軍家)ですら権力を操れなくなっていった。それがのちに戦乱を生む室町時代の実相と化してゆく。
実力主義に目覚めた権力者すら、権力を操れない。……言い換えるならこれは、出自(つまりは家系)のハッキリしない者が、自己意思で活動しはじめ、世に影響を与える段階になってきたことを意味する。南朝に属して足利氏に対抗した楠木正成などは、その象徴であり、彼のような勢力は悪党と呼ばれた。既成の権力者から見れば、それは「悪」としか言いようのない存在だったわけである。
●「天」が選んだのは、何も持ってなかった秀吉
この「悪」は、室町時代の展開されていく中で、社会の末端へ、末端へと浸透していく。よく知られているように、庶民のレベルでも、理不尽なことに対しては異を唱えるまでの自我が生まれ、彼らは様々な形態の一揆を起こし、権力者の抑圧に対抗した。そして、15世紀の応仁の乱で武家政権の中枢を担う権力者たちが完全に分裂し、国を束ねるリーダーの権威が失墜してしまうと、庶民レベルで目覚めた自我を押さえつける存在は、この日本にはいなくなってしまった。氏素性の良し悪しにかかわらず、基本的にはあらゆる境遇の人間に、権力を得ることの資格が生まれた。下克上の世、すなわち戦国時代が始まるわけである。
こうした下克上の世の中で、最終的に天下を勝ち取ったのが秀吉であったわけだが、ここでもう一度、冒頭の話を振り返ってみてほしい。彼は文字通り、何も持っていなかった人間である。自分自身の自我だけで這い上がり、その自我の力を純粋な権力に変えていった。それが、最終的な天下人になる条件であったわけではない。自我の力さえあれば、血筋やそれに伴う経済力、武力などの面でもっと有利な立場にいた人間が天下人になることもありえたはずだ。にもかかわらず、「天」が最終的な勝者に選んだのは、何も持っていなかった秀吉だった。
東洋人の感覚で言うと、こうした運命を持つ人間は「天に選ばれた」と表現する。確率論で言えば、一番不利な立場にいた人間が、自己の知恵や才覚のみで人の心を動かし、権力を握っているわけだから、その知恵や才覚も偶然の産物ではない、天与のものだと捉えるわけである。これは一つの見方だから絶対視する必要はない。しかし、秀吉の「出身出世絵巻」の背景には、少なくとも藤原氏の登場以来の、日本という国の営々とした「自我の発達の歴史」がある。目覚めていった自我の先に、現れるべくして現れたのが秀吉だったわけである。
その意味では、同じ才覚、同じ感性を持った人間がいたとしても、彼の時代より前に生まれていたら、天下人になるレベルにまでその能力は引き出せなかったはずだ。もちろん、この後の時代に生まれたとしても同様。言うなれば、日本という国はまさにこの16世紀末の段階で、「何も持っていない人間でも、自らの努力次第で自己の意思を遂げられる状態」にまで成長したということになる。秀吉という人間の生涯をたどるだけで、そうした歴史的な日本人の“努力の跡”が確認できる。それゆえに、彼を“代表的日本人”と呼べうるわけである。
●「名前」を獲得しながら成長した存在
“代表的日本人”秀吉は、代表的であるがゆえに、政治の面でも経済の面でも、非常にシンボリックな事績を遺している。というより、そうした視点を持つことで、改めて見えてくることが無数にある。それについてはこの稿の中で少しずつ追いかけてゆくつもりだが、ここでは一つだけ、それらの中でも最も「劇的」と言っていい点について触れておくことにしよう。
これまで繰り返してきたように、秀吉は“何も持っていなかった存在”。だから、自分自身ですべてを生み出していかなければ、一歩も先には進んでいけなかった。彼の場合、幼名すらはっきりとわかっていない。きちんとした姓などはなく、名前は当然あっただろうが、ただ単純に「猿、猿」と呼ばれていただけだったとも言われる。それがある段階から、木下姓を名乗るようになる。秀吉の妻・おねの実家の姓を用いたという説もあるが、このへんの経緯は諸説あるのでよくわからない。いずれにせよ血縁なのか地名なのか、何らかの「由緒」にちなんで彼は「木下藤吉郎」となった。そうした名前が必要になったということは、要は、それだけの力をつけたということだ。
その後、織田信長のもとで頭角を現した彼は、やがて木下から羽柴に姓を変えた。重臣の丹羽氏と柴田氏から一字ずつ拝借したなどと言われるが、これも真偽はわからない。ただ同じ改姓でも、木下時代に比べると彼は大きく飛躍している。何らかの理由にかこつけて、結局彼は自分自身で姓(正確には苗字)を創案したからだ。ありものの「木下」では、彼の自我が収まりきらなくなっていた。そこまで個人としての力をつけてきたから、それにふさわしい名前が欲しくなった。そういう衝動に駆られた。そのように解釈することで、秀吉の中の強烈な意思、個性が見えてくる。
本能寺の変で主君・信長が横死すると、秀吉の蓄積された自我エネルギーは一気に解き放たれていく。織田家の対抗馬を滅ぼし、朝廷を押さえ、中央の権力者としての地位を獲得した彼は、ご存知のようにここで関白という朝廷の最高官位を手に入れる。彼の氏素性のハッキリしないことは、当時、庶民でも知っている事実であったようだ。そのため彼は、ぬけぬけと関白家(藤原氏)の養子に入ることで、その資格を得た。権力者の象徴であった四姓(源平藤橘)も、乱世を勝ち抜いた彼にとっては、官位を得る手段でしかなかったわけである。
関白となった秀吉は、次に何をしたか? そう、「豊臣」という自ら姓を創出したのである。ただの名乗りではない、公的な、正真正銘の「姓」の創出である。言ってみれば、“源氏、平氏、藤原氏の血筋だけが権力者ではないんですよ、過去の血筋が力を失ったいま、これから権力者の血筋をつくっていくのは「豊臣」ですよ”、と天下に宣言したことになる。彼がただ天下を取ったからすごいという話ではない。文字通り、何も持っていなかった社会の最下層の“サル”が、藤原氏以来の権力システムの頂点に立って、豊臣姓による「新しい時代」を宣言した。この新しさを彼自身が十二分に自覚していたから、新姓創案という前代未聞のアイデアが実現した。
●新しいシステムを創出しようとした権力者
この先の稿でも様々に触れていくが、権力者としての秀吉の事績が、すべてパーフェクトだったわけではない。「豊臣」という新姓にしても、自家の血を汚さないための藤原氏(ひいては天皇家)の、一種の策略だったという見方もある。当然のことながら権力者の周辺には、様々な思惑、意図が渦巻いている。それにまったく気づかなかった秀吉ではないだろうし、心理的な駆け引きは当然あったはずだ。しかしそれらをふまえた上でも、筆者はここに秀吉の「夢」を感じる。
おそらく秀吉は関白に就いて、豊臣姓を創案して、天下人になって、それだけで新しい権力システムが作動するとは考えていなかった。言い換えれば、豊臣家の権力が安泰になるなどと、おめでたいことは思い浮かべもできなかったと筆者は思う。なにしろ、何もないところから短期間で成り上がり、事実上のこの国の支配者までに登りつめた。しかし、そんな彼の目の前には、藤原不比等以来の、この時点でも900年近く続いてきた形骸化した権力システムがある。
不比等の作り上げたシステムは、もはや十分には作動していない。制度疲労を起こしていた。天下人である以上、彼は作り替えなければならない立場にいた。ここに彼の実施した「太閤検地」や「唐入り」(朝鮮出兵)などが複雑に絡み合ってくるわけだが、彼の意図通りの成果が出せたとは思えない。ただ、後世の目からは批判の対象でしかない朝鮮出兵にしても、最近では、あながち「権力者の誇大妄想」とは言い切れない、様々な政策的要素のあることがわかってきている。
現在の日韓関係、日朝関係への影響(悪影響)も考慮に入れる必要はある。しかし、権力者は「悪」だというような単純な発想から離れ、日本史の流れの中で秀吉を捉えていくと、「新しいシステムを創出しようとした権力者」としての姿が見えてくる。日本史では藤原不比等の次は秀吉、次に来るのが西郷隆盛と徳川慶喜、そして次が昭和天皇……。その中で日本人の自我のピークは、秀吉の時代にあったと筆者は理解している。皮肉を言うわけではないが、秀吉から得られる理解は、信長を天才と捉えたがる巷間の視点よりも、はるかに多様で、可能性に満ちたものになるはずだ。これからそれを明らかにしていこう。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年03月12日 03:09