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2005年05月17日
大河ドラマ関連企画(1)〜「義経」の向こうに「歴史」が見える
■ただ「好き」「すごい」というだけでは……。
今年の大河ドラマ(「義経」)は、何だかんだとオーソドックスな作品のようです。安心感がある分、ちょっと知的な刺激が少ないという印象。
歴史というものは、同じ事実からでもその人物や出来事の「意味」をより浮き彫りにする解き方が導き出せます。
たとえば自分自身のことでも、人に言われて初めて気づくことって多いですよね? では、その人は自分のことを何でも知っている人でしたか? 知識の量、情報の量が、必ずしも真実(それも本人でさえ気づいていない「意味」)に結びつくとは限らないのです。
本人でさえも気づいていない「意味」。存在することの、していたことの、本質的な評価と言い換えてもいいかもしれません。
人はつねに「正当な評価」をしてもらいたいと思いながら生き続けている存在です。でも、ただ褒めるだけで、同情するだけで、相手の琴線に触れられるかというと、そうではない。
あるいは愛すればいいと言いますが、アイドル歌手のようにむやみに「好き、好き」と追いかけても、そのアイドルはおそらく孤独なままでしょう。
大事なものは「理解」という感覚です。「理解」は「理屈」とは違います。
この「理解」を得るためには、自分自身の感覚器官を有効に働かせて、相手の感覚に近づく努力が必要です。この感覚器官は、読者一人一人にもあるし、そして義経にもあったもの。生物的な機能としては共通のもので、人工的にこしらえた思想などとは異なり、意識の中での感覚的な再現性も可能なものです。
義経はすでにこの世にはいませんから、直接感想は聞くことはできません。
でも、「これは多分本人も納得することだろうな」とか、「嫌な顔をするが受け入れざるを得ないだろう」なんていうぼくや読み手の様々な想像は、感覚に根ざしたものであるかぎり、そうそう外れたものではないのです。
難しい言葉を使うならば、それがいわゆる人間の感覚に起因しているところの「蓋然性」というものです。
【蓋然性(がいぜんせい)】
ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。これを数量化したものが確率。「—の乏しい推測」
(「大辞泉」より)
■義経はなぜ“兄思い”だったの?
まず、以前にも触れたことがありますが、兄・頼朝との不思議な兄弟関係をクローズアップしてみましょう。
治承・寿永の乱(源平合戦)における最大の「謎」は、頼朝と義経の兄弟関係に集約されているとっても過言でないかもしれないからです。
兄弟と言っても異母兄弟で、義経が兄の頼朝と初対面したのは、22歳のとき(駿河の黄瀬川の対面)。兄弟と言っても生まれも育ちも違う。普通に考えたら情だって湧きにくい関係だろうし、実際問題、異母兄弟というのは、古来から家督の相続などをめぐって争い合うケースも少なくないわけです。
にもかかわらず、ほぼ生涯を通じて、異常なまでに兄を慕い続ける義経。
兄に遠ざけられても、梶原景時の讒言が原因であると言い張るなど、純愛ドラマ並みの“片思い”が語り継がれています。
それだけ純粋な人だったんですよ……。まあ、それはそうなのかもしれない。
書店に並ぶ数々の“義経本”をひもといてもだいたいこのあたりで話は止まってしまってますが、これでは答えにはなっていません。
ぼくには彼の性格をたどるだけでも、もっといろいろなものが見えてくるんですけどね……。まあ、ここで義経の出自を思い出してください。
義経は生まれてすぐに父・義朝が敗死し、少年時代に鞍馬山に僧侶の見習いとして預けられる。やがてそこを脱出し、奥州藤原氏のもとへ。
つねに体制の外で生き続けてきた。
もっと具体的にいえば、所領と呼ばれるものと無関係の世界にいた。
当時の鎌倉武士は「一所懸命」という言葉があるように、一所(自分の所領)にこそ命を懸けていた(懸命)。
生きるための基盤が土地にあった。その土地を増やすため、守るために、源氏の嫡流を棟梁に仰いだ。彼らの発想はすべてここからはじまっている。「一所懸命」だからこそ、兄弟どうしが時にいがみあったり、争い合うことがあるわけです。
義経にはこの感覚がすっぽりと欠落しています。
身寄りというものがあるようでない彼の場合、最も大事にしてきたのは(しなければならなかったのは)人間関係。人と人との和。この点が理解できると、彼の異常なまでの兄への情愛の意味も見えてくると思います。
「一所懸命」でない彼にとっては、産みの母が同じであろうがなかろうが、血を分けた兄を大事に思うことは当たり前の感情。
逆に言えば、「一所懸命」の鎌倉武士たちの感覚はよくわからない。彼らが何に対してかくも「懸命」になっているのか、その感覚には鈍感になってしまう。
それでいて戦の天才。過去にない内乱になる怖れさえあった源平の戦いが、彼が彗星のごとく現れることで、わずか5年で決着してしまった。
おそらくまわりの武士たちからは、宇宙人のようにでも思われていたのではないか? それくらい“浮いていた”存在だったのです。
■義経の「情」、頼朝の「遠慮」
頼朝の話をしましょう。彼は、このようにわけのわからない異邦人の弟を嫌っていた、警戒していたと言われていますね?
しかし、心の底から本当に憎んでいたのかというと……それはわかりません。
なぜなら、義経のどこをどのように見ても、通常の異母兄弟にありがちな、兄にとって代わってやろうという野心が見られない。そういう弟を逆に気味悪く思っていた可能性はあるでしょうが、それは憎悪とは違うものです。
頼朝が義経を遠ざけていたのは、そんな好き嫌いの感情ではなく、自分をバックアップしてくれた妻の実家(北条氏)に対する「遠慮」であったと考えたほうが納得がいきます。
弟と嫁とどちらを選ぶのかといわれたら、嫁のほうを選ぶしかありません。
それが彼の地盤であり、北条氏の背後には同じ価値観を共有する多数の鎌倉武士が控えていたからです。
異邦人である義経が持っているのは、特異な軍事的才能だけです。憎めない奴だとわかっていても、その能力や功績だけで優遇してしまったら、自分が北条氏(鎌倉武士)に殺される。そのくらいの危機感はあったでしょう。
というわけで、ここでこの兄弟だけの“心のやりとり”が見えてきます。
果たして二人は本当に憎しみ合っていたのか……、義経の没落をめぐる話から、この点に関するいくつかエピソードを拾ってみましょう。
平家滅亡後、都に凱旋した義経は熱狂的な歓声に迎えられる一方、彼の存在の肥大化を怖れる鎌倉の頼朝との関係は悪化の一途をたどります。
身の潔白を訴えるため鎌倉に赴き、有名な「腰越え状」をしたためますが、これも拒絶され、失意のうちに京都へ去るや、追い討ちをかけるように頼朝の放った刺客(土佐坊昌俊)に襲われます。
これはなんとか(余裕で?)撃退しますが、事ここに至り、もはや兄の心は変わらないことをさすがの義経も悟ったといわれます。
普通に考えれば、いよいよ兄弟どうしの「全面対決」が始まることになるわけですが、義経の場合、なぜか西国に向かうと言い出します。
結果を言えば、その途中で船が嵐に遭って兵も散り散りになり、やむなく奥州藤原氏のもとへ亡命することになるわけですが……。
ここでいろいろな疑問が湧いてきませんか?
なぜ地縁も何もない西国などへ赴こうとしたのか? 義経には官位はあっても、武士たちに所領を与えられる兄頼朝のような政治的特権はありませんでしたから、兵が集まらなかったのは仕方のない話です。
しかし、戦術面だけ考えれば、頼朝の兵(鎌倉武士)と一戦を交えることもできたはず。彼の強さはある種神格化されてましたから、緒戦で勝ってしまえば朝廷も味方につき、鎌倉との力関係もガラッと変わってしまった可能性もあります。
それをせずに西国に行こうとしたのは、要は、兄とは戦いたくなかったからです。叛旗は翻しましたが、本音で言えば、気が進まなかった。いくら天才的戦術家であろうと、大事なのは戦いに対するモチベーションなのです。
この点は生涯にわたって一貫していました。義経は割り切ることができない人なのです。正直。素直。それが彼の美徳だったわけです。
となれば、兄と一戦を交えないまでも、なぜ支持母体である奥州へダイレクトに向かわなかったのも得心できると思います。
自分が行けば奥州が戦の火種になることが見えていたからです。
現実論で言えば、奥州の兵力を味方につけたほうがいいに決まってます。そうすればおそらく義経は負けなかったでしょう。
しかし、それを(兄を倒すことを)彼が望んでいたかどうか?
あるいは戦うのが嫌なら、庇護下にある奥州の地でかくまってもらい、しばらく天下の情勢を見定めたほうがいいではないか? そう思う人もいるかもしれませんが、まあ半分は机上の空論であると思います。
どうであれ、自分が奥州に亡命すれば、世話になった藤原氏に迷惑がかかります。
事実、奥州に身を寄せた彼は、ある意味危惧していた通りというべきか、奥州藤原氏滅亡という「大迷惑」をかけてしまうことになる……。
本当は奥州には行きたくなかった、もちろん兄とも戦いたくない。かなりネガティブな感情で西国行きを決断した。
そして、ネガティブな決断というものは、往々にして失敗してしまうものなのです。
■なぜ戦わなかったのか?という問いかけ
さて、船が難破し、行き場を失い、やむなく奥州へ身を寄せた義経。
この義経と藤原氏との関係も、じつはものすごく謎に包まれています。
考えてみてください。“天下の大罪人”とはいえ、類まれな武略で平家を滅ぼしてしまった義経。そして、奥州藤原氏の都をしのぐ豊富な財産と兵力。これだけの条件が整いながら、なぜああもあっさりと滅亡してしまったのか?
ここに3代秀衡のあとを継いだ泰衡が愚人だったからという通説が出てきます。
しかし、泰衡が愚人であったかどうかも、じつはよくわかりません。
よく知られるように、父秀衡はその死の間際、義経を大将と戴いて鎌倉と決戦せよと遺言したと言われます。これは、京に攻め上れとか、鎌倉を滅ぼせというものではなく、専守防衛的な要素が強い藤原氏伝統の戦略だったでしょう。
しかし、一点だけ肝心なことが抜け落ちていました。
そう。大将に仰ぐべき義経が、鎌倉との決戦を望んでいないということです。
庇護されている身である以上、口に出しては言わなかったかもしれません。
しかし、素直すぎる感情の持ち主であっただろう義経の本心は、秀衡にも、泰衡にも十分伝わっていたように思われます。
それでも「奥州のためだ」と懇願すれば、感情を押し殺して義経も戦ったかもしれませんが、果たしてそこまでして戦う意味がどこにあるのか?
兵力もある、有能な将軍もいる、財力もある、そして敵がいる。これだけの条件がそろえば、必ずと言っていいほど戦争は始まります。
しかし、奥州では戦争らしい戦争もないままに頼朝の手中に落ちてしまった。
奥州藤原氏が義経と一脈通じるのは、彼らもまた鎌倉武士ほど土地への執着心がなかったであろうということです。
彼らが得てきたこの時代では空前と言っていい(中央の貴族であった本家藤原氏の栄華をもしのいでいたのかもしれない)豊かさは、この地で産出する金や馬などを介した交易(商業)にあったと考えられるからです。
繰り返しますが、土地が介在してくると、家督争いも深刻になります。
家督を継げなかった者はイコール十分な土地も得られない、つまりは豊かさを失うという切実な問題があったからです。
しかし、土地以外にものも分与できる状況にあれば、価値がもっと多様化していれば、この問題は起こりにくくなります。
秀衡の子供たちも6人いたと言われますが、長男の国衡は母の出自が卑しいということで、都の貴族の血を引く母を持った次男の泰衡が跡取りになりました。しかし、このふたりが深刻に争い合ったという言い伝えはありません。
これはじつは、平家に対しても言えることです。
彼らの一門は、清盛を頂点に、重盛、宗盛、知盛、重衡……と、あれだけの兄弟がいながら、ライバルの源氏ほど激しい仲違いは見られません。
土地だけを基盤にしていなかったからです。
逆に言えば、鎌倉武士が天下を取り、源氏を経て、北条氏が実権を握って以降、日本はじつに殺伐とした国になりました。
豊臣秀吉が天下を統一するまで、結局のところ、土地争いの争乱が繰り広げられるのです。秀吉はこの土地争いを終息させるために、東洋に一大交易圏を形成し、奥州藤原氏や平氏がやっていたような商業立国化を、数十倍、数百倍スケールアップした形でやろうとして挫折しました。
これが後世に悪名の高い、唐入り(朝鮮出兵)の動機です。
結局のところ、鎌倉幕府が基礎を築いたと言ってもいい「一所懸命」の感覚は、天下人・秀吉の出現でわずかに変化の兆しが現れましたが、それも夢と終わると、以後の日本の歴史そのものになっていきます。
■「一所懸命=土地神話」の先にあるもの
明治以降の近代は、富国強兵というある意味での“価値の多様化”を目指しましたが、時代の趨勢もあり、土地の代わりに軍事に価値が偏重していきました。
その意味で、日本史でもきわめて異質な時代です。
「一所懸命」とは別の感覚、つまりは当時のグローバルスタンダード=帝国主義への適応が求められたからです。
しかし、土地信仰そのものが失ったわけではありません。
戦後の復興から経済成長へと至る過程で、土地というものが嫌というほど介在してきたことはよく語られていることです。武士の世が終わっても、「一所懸命」の感覚だけはまるで怨念のように日本人のDNAにこびりついてきた。
話がだいぶそれてきましたが、その意味で言えば、もしかしたら1990年代のバブル崩壊とは、日本の数百年来の「土地神話崩壊」の一つのきっかけになるかもしれません。
土地神話が崩壊することで甦ってくるのが、義経、平家、奥州藤原氏、そして豊臣秀吉。彼らに対する評価が、これから根本的に変わってくる可能性があります。
事実、いまの時代を見渡せば、土地にこだわる、その延長上でマイホームにこだわる、そのためにしっかりした会社に就職するといった「成功法則」が、かなりの度合いで崩壊していることに気づかされるのではないでしょうか。
少なくともそれらは選択肢の一つでしかありません。
鎌倉武士の呪縛がようやく剥がれかけてきているのか……。
根無し草のようにしか思われてなかった、鎌倉武士からはおそらくエイリアン扱いされていた義経も、現代の若者から見ればおそらく「普通」。
むしろ、まともに思えるかもしれません。
彼のことを政治の視点から見て愚人のように評する向きもありますが、政治家として優れていた頼朝が果たして幸福であったかどうか? 現代では、こんな考え方も成り立ってしまう時代です。
義経だって不幸な最期だったではないか……確かにそうです(衣川で死んでいないという説もありますが、日本史における彼の存在は消失しました)。
しかし、人生のモデルとして彼の生き方を見た場合、共有できる点がいくつも浮かんできます。その点では頼朝も敵いません。
共有できる点とは、繰り返しになりますが、人と人との和を大事にした点。
この和の原点に自分の血筋(血縁関係)というものを置いたという点。
仕事の成功(戦場での功績)を追求しながら、それは誰のためと言えば人のため。現代風に言えば、家族のため、仲間のため。
義経の場合、生涯にわたって驚くくらいこの点の軸足がぶれていません。
彼には、自分の軍人としての成功を誇ったり、喜んだりする無邪気な一面ももちろんありました。しかしそれは無邪気というレベルを超えたものではなく、成功よりも大事なものがあることをわかっていたふしがあります。
相手を蹴落としてでも成功したいというアクの強さがない彼の不思議さ。そんなことまでして成功して、何が楽しいかという感覚。
義経を無邪気というのはわかりますが、それを愚かさとつなげる発想は、冷静に見れば、べつに絶対の価値観ではありません。
そしておそらく、これから世の表舞台に出てくるのは、義経的な感覚を持った若者たちです。彼らに「政治的な才能」があれば、お金や派閥、利権といったものに対する考え方、向き合い方もがらりと変わってしまいます。
そのとき初めて政治が変わるかもしれません。
この場合、頼朝的なものと義経的なものがうまく融合しなければなりませんが、そうなれば日本史のステージも一段上がったことになるはずです。
■平和になれば堕落するという「錯覚」
まあ、ここでもう一度奥州藤原氏に話を戻しましょう。
まず繰り返しになりますが、泰衡は義経の兄とは戦いたくないという気持ちがわかっていた。
これを前提にしてシミュレーションしてみると、やはり父(秀衡)の遺言には従えない、従いにくかった彼の心情が見えてくる。
義経を大将にして鎌倉を迎え撃てば、地の利を得ていることもありかなり優位に立ったと思えます。
奥州勢は百年あまりの泰平に溺れて弱兵になっていたと語る人がいますが、これもどこまで信頼できるかわかりません。
鎌倉武士にしても、本格的に戦を始めたのは頼朝の挙兵以降のこと。また、義経自身、頼朝と対面する以前に、源平合戦に類するような具体的な実戦経験があったわけではないでしょう。つまり、奥州兵でも戦おうと思えば戦えた。勝つこともできた。にもかかわらず、そうした選択をしなかった。
そう考えたほうが自然かもしれません。
なぜかというと、泰衡をはじめ奥州藤原氏の一族には、鎌倉武士のような「執着」がなかったから。つまり、戦いに対する動機づけがどうしてもできなかった……という話になるわけです。
これは、土地への執着というだけでなく、生きることそのものへの執着、と言い換えたほうがいいかもしれません。
こんな言い方をすると彼らが無気力だったように見なされるかもしれませんが、そういうことではありません。
たとえば現代の若者は無気力だと言われています。本当にそう言い切れるでしょうか? 一つの価値観の中で決めつけようとしすぎてはいませんか?
豊かであればハングリーさは欠落します。それが果たして悪いことなのでしょうか? だとするなら、また貧乏にでもなるしかありません。しかし、過去は再現されません。実際に昔のようにはなれないのです。
もちろん個人のレベルで事業などに失敗して、一文無しになり、ハングリーさを「取り戻した」人というのはいるかもしれません。
しかし、社会全体を見ればそれなりの必然の中で底上げされてきたものが、急に無になってしまうことはない。
つねに人は「いま」を出発点にするしかないわけです。
奥州藤原氏も同じです。初代清衡から数えて泰衡で4代。約百年。この時間の中で築き上げてきたものは、簡単には消せません。
豊かになったから馬鹿になる、判断力が落ちると言ってしまえば、歴史はただの繰り返しに過ぎなくなる。
事実、歴史はそういうものだという人もいるでしょうが、それはほんの一面的な、皮相な見方にすぎないと筆者は思います。なぜなら当たり前の話ですが、実際にはどんな時代にも賢い人間はいるし、愚かな人間はいる。ハングリーだから精神が研ぎすまされるわけでもなく、豊かだから堕落するわけでもない。
繰り返しているように見えて、その時代その時代を切り取れば、そこには個々の人の意思がある。意思の質というものは、時代の善し悪しとは比例しません。
こんな酷い時代だから楽しく生きられなかったと訴える人もいれば、こんな酷い時代だったけど結構楽しめたという人もいます。逆に、豊かでラクな時代だから身も心も豊かだと言い切れる人ばかりではないにしても、それなりにそうしたメリットを受け入れ、楽しむこともできる人も確実にいる。
こんな考え方をしていくと、ハングリーでないから泰衡は愚かだったという理屈は成り立たなくなってきます。評価はこんなふうに価値の置きどころによってコロコロ変わるものなのです。
義経の生存説は様々な形で語られていますが、泰衡が彼を逃がした可能性は、確かにかなりあるように筆者には思えます。
このへんはまた別の機会に書くかもしれませんが、ここで言いたいのは、生存説に関する細かい論証ではありません。
日本史が舞台ならそれもありえた、ということです。
日本人には、こうしたギリギリの場面で「戦わない」ことをも選択肢の一つにしてしまう、妙に「潔い」ところがあります。
土地に縛られる以前の、もっと根底にある感覚だから、ぼくはそれは縄文人のDNAだろうと思っているわけですが……。
このへんは徳川慶喜について書いたコラムでも指摘しているところです。
泰衡と義経の間にも、なにがしかの共有できる意思があった(このへんをあんまり強調しすぎると、高橋克彦氏の「炎立つ」の影響を受けすぎていると言われそうなので、これくらいにしておきます)。
逆に頼朝は、土地に縛られなければ成り立たない自分の立場、生き方に、もしかしたら言い様のない不自由さを感じていたかもしれません。
ラクに生きていくことがただの堕落ではなく、そこにはそれなりの極意があり、コツがある。ラクになることに罪悪感を感じる必要はない。かえって自分の能力を引き出すことも可能になる。
どんなもんでしょう? 義経を天才というのなら、彼の中にあった才能と呼ばれるものの実態もなんとなく見えてはきませんか?
本当にまあ、頼朝と義経は、史上まれに見る面白い兄弟です。