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2005年09月03日
シリーズ「夢の王国」(2)〜「日本人」はこうして生まれた
■気候は温暖、でも大雪は降る?
まず、雪の話から始めていこう。
日本は温帯に属していながら、こと日本海側の一帯に関しては世界でも有数の豪雪地帯として知られている。専門家などの間でも、「深い雪の仲に2500万人もの人が住んでいる。そんな地は世界広しといえども他には見当たらない」(若浜五郎「雪と氷の世界」東海大学出版会)、などと言われているわけである。
じつはこの豪雪に、日本特有の気候風土を生み出した鍵が隠されている。そう言ってピンと来る人は、どれくらいいるだろうか?
豪雪を生み出すメカニズムには、気圧の動きが関係してくる。
たとえば天気予報などで「西高東低の冬型の気圧配置」といったコメントを耳にすることがある。大ざっぱに言えば、西(大陸側)に高気圧、東(太平洋側)に低気圧が活動している状態。ただ、高気圧といっても、ここではシベリア寒気団を指し、猛烈な寒気を伴っている。大気は気圧の高いほうから低いほうへと流れる性質があるため、冬になるとこの寒気団が日本列島に襲いかかってくるのである。
で、シベリア寒気団が東へ向かう途中には、日本海が広がっている。
そこには対馬暖流が流れているが、暖流である以上、水温は暖かい。そのため大量の水蒸気が寒気団に吸収され、冷やされた水蒸気は雪雲になる。この雪雲が日本海側の山脈にぶつかることで、世界でも特異と言われる豪雪に見舞われるのである。
要するに、寒気と暖流が結びつくことで、豪雪が生み出される。
もっとさかのぼるならば、日本列島が大陸から分断されることで、それまで巨大な湖だった日本海に暖流が流れ込み、その結果として「温帯でありながら、大雪も降る」という、この国特有と言うべき気候風土がつくられていった。
■豪雪が生み出したブナの森
話はこれだけで終わらない。
雪はやがて春になると融けはじめ、川になって大地を循環する。そうなれば、草木の生長は促進される。樹々が育つことで、山は森で覆われる。雪はやがて森へと化けるのである。
森そのものは、日本海側が豪雪に見舞われる以前から、日本列島を覆っていた。
ただ、東北の一帯は、トウヒ,モミ、ツガなどの針葉樹が中心。これが日本海に対馬暖流が流れはじめた1万3000年前頃を境に、雪に強い特性を持ったブナなどの落葉広葉樹中心の森へと変わっていく。この列島に住み着いた人々が縄目模様の土器を作りはじめたのも、じつはこの頃からととらえられているのである。
さて、豪雪がブナの森になり、ブナの森からは土器が生まれた。
それが、いわゆる縄文時代の始まりである。先の話に照らし合わせるのなら、この土器に象徴される時代は1万年ほど継続し、のちの弥生時代へ引き継がれた。
しかし、不思議に思わないだろうか? もともとこの列島に住み着いた人々は、マンモスなどの獲物を追い求め旅を続けてきた、モンゴロイドの末裔だったはずである。
正確に言えば、彼らの獲物は寒冷地に適応したマンモスではなく、ナウマンゾウやオオツノジカが中心。マンモスの化石は、日本では北海道でしか発見されていない。ただ、獲物は変わっても、そうそうライフスタイルまで変わるものではない。
それがなぜ、ハンティングに関係ない土器などを作りはじめたのか?
じつは彼らの生活していた形跡を探っていくと、ある時期を境に、発掘されるナウマンゾウの化石がパッタリ途絶えてしまうことが確認されている。
たとえば有名な長野県・野尻湖のキルサイト(ハンティングの跡地)の場合、1万6000年ほど前がその境。他の遺跡を探っても、ほぼ同時期が浮かび上がる。オオツノジカにしても、縄文時代へと至る過程でほとんど姿を消してしまう。
ハンターたちの乱獲がここにも関与していることは想像に難くないが、じつはブナの森が日本列島を覆いはじめたのは、この時期と重なり合う。
つまりは、狩りのできなくなった人々が、自然な成り行きとして森の中に移り住み、新たな暮らしを考えはじめた。そこには食糧源として、クリ、クルミ、トチ、ドングリといった木の実がなっている。これらの多くは、アクを抜かなければ食べられない。また、腐るものではないから、貯蔵しておこうという発想も生まれる。
おわかりだろう、そうした際に必要となったのが、土器だったのである。
その意味では、土器を使いはじめた彼らは、非常に恵まれていたことがわかるだろう。
彼らの住み着いた森にはあちこちに川が流れ、そこにはサケが遡上してくる。大型哺乳類が死に絶えたといっても、シカやイノシシ、タヌキやオオカミなどの野生動物は狩りの対象にもなる。海沿いでは多数の貝塚が出土しているように、豊富な魚介類を得ることができた。土器があれば、それらを煮炊きして食べることもできる。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、日本列島が大陸から切り離されたことで、結果として、今日にも至る日本人特有の食生活のベースが作られた。生活するのにあまり困らない、豊かで多様な食材が確保できるようになったのである。
■「ラク」して生きられる環境
同時代、地球上の主だった大河の流域では農耕や牧畜が開始されている。
俗にいう「四大文明」の発祥地(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)がそれにあたるが、そうした生産手段が生み出されたのは、彼らが特別に「進んでいた」からというわけでは、必ずしもない。気候の寒冷化など、従来の狩猟・採集だけでは生き延びれない状況に見舞われたから、新たな知恵が生まれたのである。
日本列島に住み着いた縄文人たちは、ここまで述べたような豊かな森が形成されることで、幸いにもそういった洗礼をさほど受けずにすんだ。
もちろん、だからと言って、無菌室の中で暮らしていたわけではない。
食うに困らないと言っても、そこには先の文明の発祥地とは異なる知恵が求められた。その知恵が彼らの豊かさをもたらしたのである。たとえば、彼らの食生活の一端である木の実の採集について記した次の一文を注目してほしい。
「粒が大きく採集しやすいクヌギの例をとると、なりのよい木の直下では、1平方メートルあたりほぼ150グラムのドングリが採集できます。これを反(一反は300坪=約993平方メートル)になおすと、一反150キロの生産量になります。ちなみに米の生産量は一反あたり178キロといわれているので、両者にあまり差がないことがわかります。ドングリは思いのほか生産量が高い作物なのです。
しかもコメづくりは、田植えから収穫まで、毎日汗水たらして働かなければなりませんが、ドングリはほったらかしにしておいても、勝手に実がなってくれるという利点があります。しかも収穫にかかる労働時間はずいぶん短くてすみます。……みんなが一週間ほど山に出て働けば、一年分の主食がたくわえられてしまうのです」
(小山修三「美と楽の縄文人」扶桑社)
コメを食べ慣れている現代人にすれば、「ドングリが主食になるのか? まずいのではないか?」という疑問が浮かんでくるかもしれないが、きちんとアク抜きし、中身をすりつぶしてダンゴにすれば、かなりのカロリーが確保できる。これに「草の実や山菜、それに肉や魚をまぜる」(同上)ことで、栄養も味も充実する。
しかし、それ以上に注目したいのは、「みんなが一週間ほど山に出て働けば、一年分の主食がたくわえられてしまう」というくだりだろう。
稲作の技術自体はすでに縄文時代に伝わっていたと言われているが、長い間(結局、1万年にもわたり)本格導入しなかったのは、わざわざそんな苦労をしなくても、十分食べていけたからにほかならない。
大陸で文明を築き上げた人々の目には「未開」「野蛮」に映っていたかもしれないが、視点を変えれば、彼らは「最小限の労力で最大限の成果が得られる」、非常に生産効率のいい環境の中にいたわけである。
■アボリジニーと縄文人の“違い”
もちろん、こうした環境を手にしていたのは、縄文人だけではない。
別の著書(「サムライ」)などでもふれているが、たとえばオーストラリアの原住民・アボリジニーの場合、「実際の食料探しのほかに、男なら狩りの道具の手入れ、女なら料理の時間をふくめても、成人男子は1日平均3時間50分、成人女子は3時間44分をさけば、家族を養うことができた」(寒川恒夫・編「図説スポーツ史」朝倉書店)。
残りの時間は、寝る以外絵を描くことに費やされていると言われるが、そのプリミティブな芸術作品は、現代社会でも高い評価を受けている。
一見怠惰に見えるかもしれないが(いや、実際にも怠惰に違いないわけだが)、その背景には、それを維持していくための知恵がある。
しかも、その知恵を使って生きているかぎり、大規模な自然破壊は起こらない。土地に対する所有意識も芽生えないため、大きな争いも生じない。というより、
多少のいさかいはあったとしても、そうしたモチベーション自体湧いてこないのではないか? 戦争とは何かの不足が生じた時に、初めて発生するものであるからだ。
とはいえ、筆者が縄文人に注目しているのは、彼らはナチュラルで、「ラクして生きられる環境」を手にしていたからでは、必ずしもない。
たとえば先のアボリジニーにしても、18世紀の後半、突如侵入してきたイギリス人によって平和な暮らしが打ち破られ、100万いた人口が短期間のうちに30万弱にまで激減してしまうほどの虐殺を受けている。彼らの自然に対するすばらしい英知も、侵略者の銃弾の前にはほとんど無力に等しかったのである。
ヨーロッパ人における同様の侵略は、大航海時代と言われた15世紀以降、アフリカ、南北アメリカ、東南アジアなど、世界の各地で繰り返されてきた。
彼らの行為はもちろん身勝手で、「善」とはほど遠い行為である。
しかし、歴史の異なる者どうしが交われば、当然、そこに少なからぬ摩擦が生じる。
シビアな言い方に聞こえるかもしれないが、ただ単に強者を「悪」と呼んだところで、現実は何も変わらないという側面がある。それぞれに歴史を成り立たせてきた必然がある以上、その構造をまず理解しないことには、ヘタをすると、善悪の基準がひっくり返っただけの話になってしまう。なかなかそこから先へは進めない。
筆者は、異なる文化が混じり合い、どちらかがどちらかを呑み込むのではなく、別の何かに生まれ変わることを、「融合」と呼んでいる。
日本の歴史は、この「融合」の繰り返しの中で育まれてきた。
アボリジニーたちとよく似た暮らしを営んできた縄文人も、後述していくが、渡来してきた弥生人たちによって滅ぼされてしまったわけではない。それどころか、稲作を始めとする大陸系の弥生文化が列島を浸食していく一方で、彼らの培ってきた自然観や世界観は、のちのちの日本社会の中でも強い影響力を及ぼしていく。
「ラクして生きられる環境」でありながら、大陸の文明さえ取り込み、いつの間にか自分たちのスタイルに作り替えてしまう。そうしたこの国特有の「お家芸」が、縄文から弥生にかけての転換期に徐々に形成されていくのである。
それはいったい、どのような過程で生み出されたのだろうか?
■何が「融合」を可能にしたのか?
島というのは、外界の刺激に対して適度な距離のとれる空間でもある。
日本列島が大陸から孤立していたようにとらえる人もいるかもしれないが、絶海の孤島でもないかぎり、たえず何かしらの情報は入ってくる。列島の各地に集落を形成していた縄文人たちも、集落に引きこもって暮らしていたわけではない。互いに交流し、必要に応じて交易などを行っていたことが確認されている。
たとえば、巨大集落の跡として知られる青森県の三内丸山遺跡からは、この土地では採れないヒスイや黒曜石などが多数出土している。
ヒスイは装飾品に、黒曜石は石器の原料などに用いられていたと考えられるが、彼らは丸木舟を乗りこなし、海路をさかんに利用することで、産地と集落、集落と集落の間を行き来していた。断片的なデータをつなぎ合わせていくと、孤立どころか、大陸や周辺の島々も含めたかなり広範囲のネットワークが浮かび上がってくる。
もちろん、島であるということは、同時に海が壁になりうるということでもある。その意味では、大陸とたえず間近で接触していたわけでもない。
つまり縄文人たちは、狩猟・採集に森での生活をミックスさせた独自の生活環境を生み出し、維持させていくと同時に、外界からの刺激も適度に吸収し続けていた。そうした絶妙な距離感の中にいられたからこそ、その刺激が高まり、新しい文化の波となって押し寄せてきても自然に(あるいは何とか)対応ができたと思われるのである。
■大陸文明から放っておかれた日本列島
ここで、当時の東アジア全体の情勢についても簡単に触れておこう。
まず歴史の流れをたどってみると、大陸の黄河流域を中心とした一帯で農耕(アワやヒエなどの栽培)が始まったのは、6000〜7000年ほど前。
やがて農耕を営む集落は初期の都市へと統合され、殷や周といった国が生まれ、その後長い争乱期(春秋・戦国時代)を経たのち、最後に勝ち残った秦の始皇帝が東アジアのほぼ全土の統一に成功したのが、2200年ほど前。
日本列島においては、縄文時代の中期〜後期と重なり合う時期である。
秦は北方の異民族(匈奴)に対する備えとして万里の長城を築かせ、あるいはまだ未開拓だった華南にも侵出し、いまのベトナムの一帯(南越と呼ばれた)まで征服したと伝えられる。このとき動員した兵は50万。匈奴との戦争にも30万を動員したと言われており、これらの数は縄文人の全人口にも匹敵する規模である。
この兵力が日本列島に差し向けられていたら、「融合」どころではなかっただろう。
しかし幸いなことに、この当時、大陸からの最短ルートである朝鮮半島の一帯は、まだ彼らの手中には入っていない。秦に代わって中原を制した漢の5代皇帝(武帝)が、半島北部に侵出。出先機関として4つの郡を設置したのは、弥生時代中期(1900年ほど前)の頃。しかしこの段階でも南方には勢力は及んでいない。日本列島は大陸の国家から放っておかれるような形で、自己の文化を培養できたのである。
もちろん、放っておかれたといっても、人の交流そのものはさかんだった。
ことに春秋・戦国時代は国が乱れ、その時々で多くの避難民が生まれたため、彼らの一部が朝鮮半島などを伝って、日本列島に集団単位で渡来してきたことが確認されている。のちの述べるが、当時の列島は遅ればせながら数千年来の寒冷化に見舞われており、従来のライフスタイルを維持することが難しくなっていた。渡来民の持っていた稲作技術が受け入れられやすい状況が整いつつあったわけである。
■四季がもたらした“感受性”
一万年の中で作り上げられた縄文の文化と、大陸から伝来した新しい稲作文化。
そのどちらが優位とも言えない力関係が、結果として「融合」を後押しをした。稲作文化によってこの列島古来のライフスタイルが断絶してしまったわけでも、もちろん導入した稲作が拒絶されたわけでもない。互いの長所を生かし、取り入れていく環境を、当時の列島の住民は半ば無意識のうちに身につけていた。
融合の過程では戦争を含めた種々の混乱のあったことは間違いないが、結局どちらも滅ぼされることなく、のちの日本の顔となっていくのである。
こうした「融合」を可能にした背景には、もうひとつ、列島内部の特殊事情もひそんでいた。この点についても、若干ふれておくことにしよう。
ご存じのように、日本列島には緯度的な位置関係の結果ではあるが、四季が正確に巡ってくる環境が用意されている。しかも南北に細長い列島ゆえ寒暖も多様であり、それらが組み合わさることで、非常に繊細な気候を味わうことができる。これに山、森、盆地、平野といった土地の特性が加われば、その複雑さは増すだろう。
これらの気候風土のほとんどは、縄文時代の段階から形成されたもの。
繊細な風土の中で暮らしていけば、当然、感受性のほうも繊細になっていくが、そこに外部から適度な刺激がやってくればどうなるか? そう、好奇心が刺激され、物事をより深く吸収したくなる。その結果、学ぶことが好きになる。
しかも生活にゆとりがあるため、学ぶための時間も十分に取ることができる。
そうなれば、物づくりに対する姿勢も養われる。
また、人の気持ちに対しても敏感になるから、それが発展していくと、この列島に特有の、争いを極力避けようとする「和」の感覚も芽生えてくるはずだ。長所は短所に通じる面もあるから手放しに評価することはできないにせよ、これらの要素が重なり合っていけば、自然と「融合」が可能になってくるだろう。
のちの「日本人」のベースはこうした過程で生み出されていったのである。
(参考文献)
若浜五郎「雪と氷の世界」東海大学出版会
小山修三「美と楽の縄文人」扶桑社
寒川恒夫・編「図説スポーツ史」朝倉書店