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2005年10月11日
シリーズ「夢の王国」(3) 〜「和」と「太陽」の国
■アニミズム世界の“先進国”
ここで、縄文人のことをさらに理解するため、彼らの信仰について触れてみよう。
日本には八百万(やおよろず)の神々という言葉があるように、神様がたくさんいる。それは一神教に対して多神教と呼ばれているが、たくさんであるからか、必ずしも崇高な存在ではない。その多くはもっと身近で、親しみやすい存在。一神教を奉じる欧米やイスラム社会とは、神に対する観念が明らかに異なっている。
たとえば自分の祖先や亡くなった身内も神になる。これは、祖霊信仰などと呼ばれる。もちろん人だけでなく、山にも、川にも、海にも……、あらゆる自然が神となる。家にもいる。竈(かまど)や生活道具、あるいは武器などにも神は宿る。動物も植物も神。こちらは、アニミズム(精霊崇拝)などという言葉で表わされる。
ちなみにアニミズムは、アニメーションの語源でもある。
アニメーション(動画)は、一枚一枚のセル画に動きの異なる絵を描き重ねていくことで、無機物に過ぎなかった絵がまるで生きているように動き始める。しかし、語源であるアニミズムの社会では、生きているようにではなく、実際に自然は生きている。そういうものであると受け止められ、信仰対象になっている。
これは、お気づきの通り、縄文人の自然観そのものと重なり合うだろう。
アニミズムは日本だけの専売特許ではない、かつては世界中で見られた信仰形態であったという人もいるかもしれないが、これまで見てきたように、縄文人を取り巻く環境は明らかに恵まれていた。これだけ多種多様な季節感、植生、地形を感じ取れる土地は、事実として、地球上を見渡してもそうは見当たらない。その意味では、彼らの生活圏はアニミズム世界の“先進国”であったと捉えることもできる。
■日本人の行動原理としての「和」
たとえば、前項で触れた「和」の感覚について思い出してほしい。
筆者は、「和」という日本人特有の価値観は縄文時代に生まれたと書いたが、じつはこの「和」、アニミズムと非常に密接な関係にある。
縄文時代とアニミズム。縄文時代と「和」。……「和」とアニミズム? それぞれ日本を語る上で欠かせないキーワードでありながら、一般にはこれらをひとつに結びつける発想がほとんどない。特に「和」は日本人特有と言われながら、そのルーツに関して歴史の本で取り上げられる機会はなぜか少ない。
なかには弥生時代に入って稲作(農耕)が普及し、集団生活が重視されるようになったことで芽生えた感覚であると言う人もいるが、稲作はアジア全域で普及している。農耕にまで範囲を広げれば、ほぼ世界中で営まれている。
しかし、そうした集団生活をする人々が、みな日本人のように「和」を大切にしているかと言うとそうでもない。外国人の日本観などに触れても、我々の「和」は少々度が過ぎていると思われている。つまり異質に映っている。
そこでまず、「和」とはどんなものなのか、簡単に考察してみよう。読者自身思い当たる節があるだろうが、日本人は「和が乱れる」ことを何より嫌う。それは何人だってそうだと言われそうだが、そんなことはない。たとえば、独自の視点でこの「和」を分析する作家・井沢元彦氏の言葉に耳を傾けてみよう。
外国から見て、日本の原理がわかりにくいのも、「わ」のせいである。
「わ」は「話し合い」でまとまりさえすれば、どんな原理を採用してもいい。だから封建社会がたちまちのうちに近代社会になったり、天皇制国家があっという間に「民主主義国」になったりする。よほど無原則か、軽薄に見えるだろう。しかし、原則はちゃんとある。「何事も話し合いで決める(決められる)」という「わ」の原理が、それである。
(「逆説の日本史1古代黎明編〜封印された「倭」の謎」小学館)
どうだろうか? ピンと来ない人は、自分が典型的な日本人であることに気づいていない。いや、いまの国際問題の本質自体見えてはいない。なぜなら、世界の多くの国々は、このように簡単には自分たちのスタイルを変えられない。だから異質なものどうしがぶつかり合うと、紛争が起きる。いくら話し合いをしようが譲れないものがあるから、大がかりな戦争にも発展する。
■「和」の本質はアニミズムにあり
日本人がそんな紛争とは一切無縁の聖人君子であるとはもちろん言わないが、それでも国際的に見れば、過剰なくらいに争いを嫌う、避けたがる面がある。たとえば、人を傷つけたくない。傷つけたら恨みを買う。だから何とか丸く収めたい。事を荒立てたくない。できることなら話し合いで解決させたい……。
現代の日本社会に生きていて、そう発想したことのない人はほとんどいないだろう。これはプラスに見れば「平和志向」に他ならず(裏を返せば、人としての自我の弱さ、国としてのアクの弱さにもつながっている)、日本には、この感覚を武器に世界でも最長の部類に属す歴史を築いてきた過去がある。
繰り返すが、それは国際的には異質。つまりスタンダードではない。
では、そのスタンダードでない感覚は、なぜ日本において顕著に現われているのか? 簡単だ。そうした風土だったから。しかもその風土が長く保持され、そこに暮らす人々の感覚に、簡単には変わらないくらい、大きな影響を及ぼしてきたから。
と、ここまで言えばおわかりだろう。日本という国の風土が生み出され定着した縄文時代の1万年のなかで、「和」の感覚も生み出され、定着した。
アニミズム自体は、いわゆる「原始社会」に広く見られる信仰形態であるかもしれないが、そうした社会の中でも、生存環境に恵まれた縄文社会は、その度合がずば抜けて洗練されていた。それだけの強い影響力があったからこそ、21世紀になった今もなお「和」が失われず、我々の個性になっている。良し悪しは別として、そこから「話し合いの精神」が生み出され、のちの国づくりの不文律、基本方針になっていく。
ハイテクに囲まれ、欧米の文化を大胆に導入しながら、日本には依然として「和」というアニミズムが内在しているのである。
■「太陽」というもう一つのキーワード
さて、信仰の話はこれだけに終わらない。「和」が日本らしさ、つまり個性のルーツであるとするなら、もうひとつそれと並ぶ「個性」がある。
筆者はそれを「太陽」、というキーワードで理解している。
つまり日本人は、「和」だけでなく、天空に浮かぶ「太陽」に対しても特別な敬意を抱いてきた。だからこそ「ひのもと=日本」という国号が生まれたと言えるわけだが(一方の「和」は「大和」という呼称と重なり合う)、……これまた不思議なことに、歴史書をひもといてもこのような視点はあまり語られてはいない。
しかも筆者の場合、こうした「太陽信仰」のルーツもまた、縄文時代にまでさかのぼれるものと捉えている。しかし、これもまた語られることは少ない。
なぜだろうか? 理由はハッキリしている。
「太陽信仰」にまつわる遺跡が、目立ったほどに出土していないからだ。ここ近年では発掘調査も進み、この時代の全貌もかなり明らかになってきているが、エジプトや中南米にあるような太陽神殿が見つかったという話はとんと聞かない。それゆえ縄文時代関連の文献のどこを開いても、「太陽信仰」のことなど触れられていない。
しかし、考えてほしい。それはあくまで考古学上の成果のみ歴史であると捉えられた結果。「和」についても言えることだが、信仰のような心の問題は、目に見える遺跡や出土品だけではなかなか実体がわかりにくい。もっと簡単に言ってしまえば、彼らの感覚になってみないことには、見えてこないものが無数にある。
■「太陽の運行=東西のライン」が「縦」?
まあ、そんな言い方だけでは埒があかないので、筆者なりの視点で、縄文時代と「太陽」(太陽信仰)の関わりについて解きほぐしていってみよう。
まずやや唐突ではあるが、縄文からはるか後代、8世紀初頭に成立した「日本書紀」という歴史書をご存じだろうか? 歴史書というからには、この時代以前のことが対象となっているわけだが、ここで注目したいのは、第13代にあたる成務天皇の事積を記したくだり。「山河を境として国県を分け、たてよこの道にしたがって邑里を定めた」といった何気ない一文のあとに、次のような記述がある。
……こうして東西を日の縦とし、南北を日の横とした。
成務天皇と呼ばれる人物が、どの時代のどんな人物であったか、ここでは問わなくていい。ただ、この文を普通に読んで、おかしいな、と感じないだろうか? そう、方位と縦横の観念が現代の我々のそれと逆になっている。現代人の観念では、南北のラインが「縦」であり、東西は「横」。しかしこの記述を見る限り、少なくとも古代の日本では、東西が「縦」だったことになる。
ご存じのように、南北を「縦」とする基準は、どの季節に見上げても同じ位置に輝いている、北極星という天体にある。
天の不動の一点から自分の立つ大地へと続く、一本のライン。誰もがこの見えないラインを天に思い描き、北という方位の基準にしている。
しかし、無重力である宇宙空間に、本来、方位など存在はしない。
北が上という定義も、北極星という基準があって初めて成り立つもの。あまりに常識すぎて自覚すら失われているが、結局、根拠はそれだけなのである。
では、現代はともかく古代において、他に「根拠」はなかったのか?
そこに浮かび上がってくるのが、最初に触れた「太陽」。この天体を基準にすることで、東西南北の位置関係はガラリと変容してしまうのである。
この点を実感するため、ここでまず「縦」という文字に注目してほしい。
漢和辞典などを引いてみればわかるが、面白いことに、そこに載っているのは「ほしいまま」「思いのまま」といった意味。一般に連想されるタテ(上から下へ伸びる一本のライン)のイメージとは、明らかに異なっている。
少なくとも現代人は、普通タテを「ほしいまま」などと捉えたりはしない。
そんな「いい加減」なものではなく、(ほとんど無意識だろうが)もっとしっかりした基準として認識し、その意味で「縦」という文字を用いている。
■縄文人と「太陽信仰」の結びつき
考えてみればおかしな話だが、この意味と文字のギャップをどう理解すればいいか?
じつは漢字を発明した中国人は、この「しっかりした基準」に対して「縦」という文字ではなく、「経」という文字を用いている。
「経」は、機織りで使うタテ糸の意味。タテ糸は布を織る際の基本であることから、転じて物事の道理、一定不変の法則といった意味につながり、経文、経典などの語にも用いられる。それは文字通りのタテ。現在の我々の感覚とも合致している。
ではなぜ、かつての日本人はこの文字を採用しなかったのか? 彼らがもともと、方位や位置を定める際の基準をタテと呼んでいたことは想像できる。しかしそれは「経」ではなく、「縦」という文字の意味にフィットしていた(だからこそ、この文字が採用された)。つまり彼らにとっては、「ほしいまま」「思いのまま」の感覚こそが「タテ=基準」だったのではないか?
ここには、不動の星である北極星の影響はまったくと言っていいほど感じられない。それよりも、天空を日々運行する太陽の存在が浮かび上がってくる。太陽を基準にしていたからこそ、タテ=縦となったと考えられるのである。
古代日本の「太陽信仰」に関して筆者に示唆を与えていただいた一人、吉村貞治氏は次のように語る。
「北極星はその場をはなれず、はなれないことによって秩序を形成する。ところが太陽は空にあっても、時々刻々、絶えず動いてとどまらない。日出も毎日場所が変るし、日没もまた同じである。……北極星は静止であり、死であり、永遠であるのに対し、太陽は絶え間なく動であり、生命であり、現在である。……北極星の経と、太陽点による縦とは、……全く正反対の世界をつくりあげている」
(吉村貞治「原初の太陽神と固有暦」六興出版)
■「ほしいままに」に生きていた縄文人
どうだろうか? こうした視点こそ発想の転換と言えるのではないか? 先にも書いたように、世界観がガラリと一変し、そこに自然の生の姿が見えてくる。では、古代の日本人が、経=北極星ではなく、縦=太陽の運行を重視したことは想像できるとして、なぜそれが縄文時代と結びついてくるのか?
筆者に言わせれば、タテ=縦の感覚は縄文時代との結びつきなしに語れない。なぜなら、1万年続いたというこの時代、これまで述べてきたように、日本列島は気候に恵まれ、食うにあまり困らない環境が用意されていた。
そう、文字通り、「ほしいまま」に生きることが可能だった。
このような環境の中では、天空の不動の星(北極星)を信仰する発想などあまり起こらない。それよりも、日々のエネルギーの源である太陽に感謝し、その運行にたえず意識を向ける感覚が自然に芽生えてくる。その意識のラインがタテになる。
我々が思っているヨコをタテ(基準)として認識する社会。
あの山の端から太陽が昇るようになったら、そろそろ暖かくなる(=春だ)。後世のような暦はなかったろうが、当時の人々はそんなふうに季節を感じ取っていた。それは、一見不安定にも思える自然の移ろいをそのまま受け入れ、そのサイクルの中で生きていく融通無碍の感覚として捉えることができる。
筆者が「和」や「太陽」(太陽信仰)を、縄文時代に培われた感覚であると理解するのも、この時代の生活がまさに「融通無碍」であったからだ。縄文社会がいわばアニミズム社会の先進国であったという実態も、ここに浮かび上がってくるのである。
■「聖地」を結ぶ太陽ネットワーク
「太陽」に関連して、もうひとつ面白い指摘をしておこう。日本列島には聖地と呼ばれる場所が無数にある。もちろん、そう呼ばれ尊ばれてきた場所は世界各地に点在しているが、日本列島のそれを見渡していくと、日本らしさとも結びつく、いくつか興味深い事実を見い出すことができる。
たとえば、のちの大和朝廷のお膝元(奈良)にある、大神(おおみわ)神社。日本最古の部類に入る由緒ある神社として知られるが、不思議なことに、ここには神を祭る本殿はなく、神社のある山(三輪山)そのものがご神体として祭られている。
山そのものが神様。なにやら縄文時代以来のアニミズムの精神がそのまま反映された感があるが、なぜこの山がそこまで崇められてきたのか?
謎解きの仕方は様々あるだろうが、ここでは測量の視点から解きほぐしてみる。建築家・渡辺豊和氏によると、三輪山の山腹の「広大な張り出し舞台状の台地」と大和三山のひとつ、畝傍山の山頂とを結ぶラインが、「東西軸に対して東北に28度50分」、すなわち「冬至の日の「日の入り」を示す線」と重なり合うという。
しかも、このラインに沿って一定間隔で平行線を引いていくと、畿内はもとより日本全国の聖地(山頂や主要神社など)がつながってしまう。これは夏至の日の「日の入り」の線を基準にしても同様の結果が浮かび上がってくる。
つまり、太陽の運行(しかも、そのなかで最も重視されていた冬至や夏至のライン)を基準にすると、三輪山という神山はただ「尊い山」というだけでなく、日本全国の聖地をひとつに結ぶネットワークの起点ということになってくる。
むろん、山を聖地として尊んできたのは、大和朝廷の時代に始まったことではない。この勢力が畿内に進出したとされる3〜4世紀頃よりずっと以前から、当り前に根づいていた信仰であったと捉えたほうが自然。そう、さかのぼるなら、前代の弥生時代どころか、すでに縄文時代の段階から、そのような聖地のネットワークが存在していたと考えても別におかしな話ではないと筆者は思う。
なにしろ縄文人は、従来捉えられていた以上に活動的だったと言われ、交易などを通して日本列島(広くはアジア一帯)を活発に行き来していた。
この「事実」と重ね合わせるなら、当時大陸で普及していた測量の技術を駆使して要地(聖地)を結び、ひとつの文化圏を形成することなど、十分ありえたこと。少なくとも我々が思っている以上に、彼らは方位(太陽運行)に対し敏感だった。それが自然とともに生きることそのものであったからだ。
■証拠が残らないことが「日本らしさ」である
とはいえ、これは興味深くはあってもひとつの仮説。先にも触れたように、学問(考古学)のレベルから見れば「証拠が少ない」と反論されるにちがいない。しかし筆者は、そのように言う人に対して、「いや、その証拠が少ないということが、日本のらしさと大きく関係しているのです」と答えることにしている。じつはそのカラクリに気づくことのほうが、日本史を理解する上できわめて重要なのである(そのために渡辺氏の説を取り上げさせていただいた面もある)。
証拠が少ないことが、日本的。どういうことかピンと来るだろうか?
筆者は先に、縄文時代には「太陽信仰」にまつわる目立った遺跡が確認されていない、だから、この時代に「太陽信仰」が盛んだったと言われても学問的には認められない、という、考古学上の「常識」について話をした。
しかし、先に紹介した井沢氏がすでに著書(前出「逆説の日本史」)のなかで指摘しているように、「証拠がない(見つからない)から存在しない」という論法は本来成り立つものではない。むしろ証拠の残らないような平凡で、当り前のことのなかに、その時代の本質を知る手がかりが隠されているということができる。
ではその本質とは、いったいどんなものであっただろう? まず日本列島が、地理的な特性から、自然の宝庫であったことを思い出してほしい。
具体的には、国土の約8割が山で占められている。もちろんその山の多くは森に覆われ、清流の源であり、自然の恵と直結していた。この山を感謝し、仰ぎ見る感覚は、そのまま信仰心にもつながっていく。エジプトのようにわざわざピラミッドを建造しなくとも、山(自然)そのものがモニュメントになってしまう。
そう。証拠云々について取り沙汰す以前に、もっと単純に、「証拠に残るようなものを作る必要がなかった」ということが、縄文社会の実態ではなかったのか? 渡辺氏の提唱する太陽運行のネットワーク説にしても、そうした視点を取り入れることで、初めて浮かび上がってくる。というより、この視点がなければ「日本には自然しかない」という認識から抜け出せない。時が過ぎネットワークなど忘れ去られてしまえば、あとはもう「なんだ何も無かったのか」という話になってしまう。
■縄文社会が生んだ“光と影の二面性”
つまり、実態があるようで、ない。ないようである。そこに「わかりにくい」とされる日本という国の「らしさ」が重なり合ってくる。
北極星のような虚空の不変の一点にではなく、日々移ろいゆく自然の象徴であり、同時に生命の源でもある太陽に、自らの生を重ね合せる感覚。
それは、日本文化の代名詞である「もののあはれ」や「わび・さび」の感覚に結びつく一方で、それとは180度対照的な、太陽の存在そのもの、生命力に満ち溢れた、強烈なエネルギーそのものを、仰ぎ見る者の心に刻み込んでいく。光と影の二面性と言えばいいだろうか? その具体的な事例はこの先で様々に語っていくが、そのルーツが縄文時代の1万年に見い出せる。
もちろん、最初に述べた「和」の感覚も同様。「和」と「太陽」、この二つをキーワードは、縄文時代の洗練されたアニミズム文化のなかでこそ自然と芽生えた。そのように理解することで、日本文化の土台が見えてくるのである。
(参考文献)
井沢元彦「逆説の日本史1古代黎明編〜封印された「倭」の謎」小学館
宇治谷孟・訳「日本書紀(下)」講談社学術文庫
吉村貞治「原初の太陽神と固有暦」六興出版*
渡辺俊和「縄文夢通信」徳間書店*
三橋一夫「神社配置から天皇を読む〜古代史の聖三角形3」六興出版*
大和岩雄「天照大神と前方後円墳の謎」六興出版*
水谷慶一「知られざる古代〜謎の北緯32度34分をゆく」NHK出版
栗本慎一郎「縄文式頭脳革命」講談社
*=絶版(図書館などに在庫の可能性あり)
投稿者 長沼敬憲 : 2005年10月11日 14:25