2004年09月25日

「永遠の少年」としての信長

●天才であるとはどういうことか?

 来年の大河ドラマ「義経」の撮影がすでに進んでいるらしく、時折ニュースなども目にする。番組としてのコンセプトも当然決まっているようで、悪役で語られることの多かった平清盛を“早すぎたロマン主義者”と捉え、彼の遺伝子を受け継いだ存在として義経を描くという。面白いと思う。血縁に恵まれなかった義経にとって、命を助けられた清盛は父のような存在、その父を敵にして平家討滅に立ち向かう……というのは、奇想天外とは言えない。十分想像が許される視点だと思う。

 同じ“親子像”でも、以前に竹中直人の主演で話題になった「秀吉」の設定は、これに比べると相当にいただけない。信長を父のように慕い、彼の天下統一事業を助けるというこのドラマの秀吉像は、多くの人のイメージと重なっているとは思うが、あまりに「事実」とかけ離れていると感じたものだ。ドラマ自体の出来は別として……、果たして実際の秀吉が信長を「父」などと思っただろうか? 一般的には違和感を抱く人はあまりいなかったようだが、そこに現代の信長像の「誤解」があると思うのである。

 信長は「父」どころか、素直に史実をひもといていけば大人になれなかった「永遠の少年」、筆者にはそんなイメージが思い浮かぶ。長所と短所は表裏一体だから、これは良いほうに拡大すれば「天才」という評価につながるのかもしれない。「少年の時の好奇心や発想を失わないまま大人になった」という点から言えば、彼のことを「天才」と呼んでもいい。たしかに天才とはそういう人種なのだ。でも、それだけでは人間的に何かが欠落している。面白くはあるが、深みや含蓄がない。だから現実にもこうしたタイプはなかなか大成はしない、できない、ともなる。筆者の感覚からすると、今一つ、物足りないのである。
 

●信長のなかにある「成熟しない子供っぽさ」

 信長のことをあまり知らない人のために、ここで彼がいかに「天才少年」であるか、ひとつ有名なエピソードを紹介しよう。
 その死の前年にあたる1581(天正10)年、彼が黒人に初めて対面した時の感想だ。嘘だ……!と思ったらしい。人が黒いなんてありえない。それで家臣に命じて、体を洗わせた。当然だが、色は落ちない(笑)。かえって艶光りする。そこで初めて「こういう人間もいるのか」と理解したらしい。事前に説明はあっただろうが、自分自身で確かめるまでは認めない。この感性はやはり並ではない。

 並ではないが、「王様の耳はロバの耳」を思い出した人もいるだろう。天才とは「少年」の感性であるという筆者の言葉の意味も、こういう話を聞けば、なるほどと感じるはずだ。しかしこの少年の感性は、「成熟しない子供っぽさ」とも紙一重である。前出の義経もそうだったが、信長は血縁に恵まれていない。簡単に言えば、親の愛を受けずに育った少年の哀しさとか、精神的ないびつさみたいなものが、武将としての彼の足跡をたどっていくと、いくつも見えてくる。

 このへんは歴史好きならみな知っているだろうが、信長は可愛がっていた妹のお市を、北近江の領主・浅井長政のもとに嫁がせている。信長にすれば「かけがえのない妹」である。長政もそれはわかっていただろうが、浅井家の立場からすれば長く続いている越前の朝倉氏との関係も大事である。それが当たり前の「人間関係」なのだが、信長の感覚では「大事な市を長政に渡したのだ。あいつが裏切るはずはない」となる。それで浅井・朝倉の盟約関係を無視して朝倉討伐の兵を挙げてしまう。長政に配慮した形跡がない。

 長政にすれば「何なんだこの人は」となる。もちろん妻(お市)への愛情もあるから板挟みとなるが、人間関係の機微が理解できない信長に信頼感を持てただろうか? 我々は「結果」を知っているから長政が判断を誤ったように感じがちだが、その当時の状況を考えれば、彼はむしろ「何が大事か」冷静な判断ができた人間だったとも言える。それに対し信長は、愛する妹を不幸にし、自分を裏切った長政を骨の髄まで憎み、浅井・朝倉を滅ぼした後、その頭蓋骨で盃を作り、家臣の前で披露したと言われる。いくら戦国の世でも尋常ではないと思われたようだが、彼の本質が「少年」であると理解できれば、これも不思議ではないのかもしれない。
 

●「人間通」秀吉は信長を尊敬したか?

 信長の悪口(欠点)ばかり並べているように思われるかもしれないが、そうではない。どうも世の人は天才という言葉に酔ってしまって、彼のことを持ち上げすぎていると思うから、ちょっと歴史のバランスを揺り戻そうとしているだけだ。信長は良くも悪くも、子供。そこに魅力もあるし、長所もある。しかし神のように崇める存在ではないし、これから話していくが、志半ばで死ぬべくして死んだ。「大人」であった秀吉が、大人の感覚で後を受け持って、そこで「天下」はまとめられたのである。

 秀吉を大人と表現したが、なかには意外に思う人もいるかもしれない。イメージとしての秀吉は子供のように無邪気で、先ほどの信長評ではないが、その無邪気さを失わずに成長したとそれこそ無邪気に解釈している人も案外いのではないか。だから天下を取ったあとの秀吉は、増長しておかしくなった、自滅したなんていう短絡的な評価も生まれる。

 秀吉のことはいずれ別のところでも書くから、ここでは要点だけまとめておこう。秀吉はご存じのように希代の「人たらし」「人間通」と言われる。これを否定する人はいまい。そう。「人間通」だからこそ無邪気も演じられたのである。演じられたというより、それも個性の一つとして表現することが出来た。ここが信長にはない人間の幅なのである。

 信長も秀吉も、殺伐とした明日の見えない時代に生まれ、生き残ることを考え生き抜いてきた、あの時代の「強者」だと思う。しかし秀吉は、素性すら知れない謎の(闇の、と言い換えてもいい)半生のなかで人を理解し、人の心を見抜き、そしておそらく愛することを覚えた。容姿を含め何一つ持っていなかった自分の、何一つないということを逆に武器にして「人間通」になった。この彼が信長のような人間に出会った時、心の底からの尊敬心が湧いたとは思えない。この想像はおかしいだろうか?

 秀吉は最初今川氏配下の松下という将に仕えたという。しかし自分の才能が生かせる環境ではないと思ったようだ。松下家を離れると決意した時、彼の選択肢のなかには西の織田家の他に、東の武田家もあった。筆者もこのコラムで書いたが、信長と信玄は何かと比べられる。ハッキリ言って人間としての器の大きさでは信玄のほうが上に決まっている。信玄は古いと言う人も多いが、古かろうが新しかろうが、彼はあるもののなかで最高を作り出すことができた。これでは秀吉のような人間の入り込める余地はない。
 

●秀吉にチャンスを与えた信長の「スキ」

 わかるだろうか? 考えが新しいから人材登用に積極的、古いから門閥譜代を大事にする。一面では正しいが、事はそんなに単純ではないということだ。信長は家中で信頼されていなかったから、門閥譜代以外から人材を求めないとならなかった。秀吉にとってはチャンスである。そして希代の人間通は、おそらく信長の性格も見抜いただろう。見抜けるから人間通なのである。代弁すれば「危なっかしい人だが、面白いことを考える人だ。取り入るスキは十分ありそうだ」、そんな感じだろうか?

 ただ、やや小説レベルの推測になるが、だからといって秀吉はハラで信長を馬鹿にし、表向きこびへつらうようなタイプではなかったと筆者は思う。そういう人間ではあそこまで同時代の人間に信頼されたり、愛されたりしないからだ。地位も名誉も金も何も持っていなかった人間が、人間力だけで成り上がって、天下を取ったというのが、古来から人々を驚かせ、感動させてきた「太閤出世絵巻」の本質である。信長に仕える以上は、そのなかで主君に対しても最大限に誠意を感じ、尽くしていたと思う。ただ、信長の様々な言動に接していれば、「いずれ誰かに寝首をかかれるのでは」くらいは当然思ったはずだ。

 筆者は秀吉が本能寺の変(明智光秀の謀反)を予測していたとまで言わない。ただ、報に接して驚いただろうが、意外とまでは思わなかった気がする。よく知られたように速断即決で毛利と和解し、「中国大返し」の離れ業で光秀の野望を打ち砕いた。毛利側もわずかのタイムラグで変報を受け取ったと言われるが、謀将・小早川隆景の判断であえて見逃した。秀吉は、毛利側の軍師・安国寺恵瓊を介して、和睦交渉を進めていた。

 恵瓊は10年ほど前の段階(1570年頃)で秀吉と接しており、「信長の代は3年、5年はもつが、いずれ高転びに転んでしまう。一方藤吉郎(秀吉)は大した器量の人間(さりとてはの者)だ。……」といった書状を残したことで知られるが、おそらく秀吉と懇意になり(というより彼の人柄に惹き込まれ)、その時点で信長の人物像もおおかた把握したのだと思う。毛利家に「わかる人間」がいたからこそ、秀吉も殲滅ではなく和睦という戦略を進められたと思うのである。
 

●信長の「限界」とは何か?

 信長を天才と呼んでしまうと、一種の思考停止に陥ってしまう。同時代の人間が彼に対して感じていたであろう当たり前の感情が見えにくくなる。もっと言えば、一方で秀吉を希代の人間通と認めながら、その彼の持つ凄さの根本が影に隠れてしまう。秀吉が下の立場から、着想は面白いが精神に相当に波のある信長を懸命に操っていた(他の家臣にも少なからずその感覚があった)。操るという言葉に抵抗を感じる人もいるだろうが、悪意ある表現ではない。現代の会社などでも規模は違えど、こんなパターンはよくある。

 しかし何といっても驚きなのは、そのような経験をしながら人間力を磨き、その力だけで天下を取ってしまったということだ。これは「子供」ではできない。成長した「大人」の感性も併せ持っていたから、それができたのである。拒絶反応を起こす人が多いだろうが、本能寺の変は信長の「子供としての限界」を指し示したものと言えるのではないか。

 ……話がずいぶん秀吉に偏ってしまった気がするが、ヘンな話、こうした話だけでも信長という人間の持つ魅力が十分見えてくると筆者は思う。信長は確かに面白い。いろいろな魅力を持った人物である。ただあまりひねったり、深読みしたりするとそれがかえって見えなくなる。いま用意されている歴史的事実だけでも、子供としての信長の独善的で視野が狭く、少しオタクチックで、夢多き武将の輝きは、十分に浮かび上がってくる。やはり歴史の中で必要な役割を果たしているのである。

 なお、信長のことを現代の政治改革、構造改革などと結びつけて語る人も多いが、筆者はそれに組みしない。その理由については以前「日常感覚」のなかで触れたことがあるので、それを一読してもらえたらと思う。
 →■「織田信長」では、構造改革はできない(2001.8.17)

投稿者 長沼敬憲 : 16:43 | コメント (0)

2004年08月19日

武田信玄という「遺産」

●なぜ武田信玄がテーマになるのか?

 なぜいまさら武田信玄なのか? そう思う人も多いかもしれない。確かに戦国武将としてはずば抜けた存在。でも、古い教養に縛られていた、長生きして天下を取っても、室町幕府の二の舞いだった。なんて一般にも思われている。そうだろうか?

 そう思う人の感覚の背景には、ぼくに言わせれば、織田信長に対する過大な評価がひそんでいる。あくまで信長と比較して信玄を古いと言っているわけです。でもこの比較自体、どこまで有効なのか? 意味があるのか? ほとんど疑問も持たれないままに定着している感があるが、ちょっとこれを切り崩してみると、なかなか面白い信玄像が浮かび上がってくる。というより、それが彼に対するまっとうな評価だとぼくは思うわけです。


●「人徳」という希有な才能

 まず人というのは、環境によって人格が形成される面がとても大きい。加えて、生き方もある程度規定されてくる。これは当たり前過ぎるくらいの事実だが、本当にわかっている人は少ない。どうしても環境や風土を飛び越えて、無視して、人を見ようとしてしまう。その人の業績をその人の才能や能力の結果であると直接捉えてしまうわけです。

 ちょっとわかりやすく説明していきます。信玄の場合、甲斐の国(山梨県)の生まれですが、甲斐は貧しい国で主食の米もあまりとれません。彼の家はその貧しい国の守護を代々つとめる家柄だったわけですが、貧しいというだけでなく、家臣や血族とのつながりもバラバラ。このバラバラを武力によってまとめたのは父の信虎です。信玄はこの父を国外追放して実権を握りますが、武力によって貧しさを克服し、家臣団の連携を維持するというやり方そのものは踏襲しました。

 とはいえ、このやり方はほとんどの戦国大名がやっていることでもあります。言い換えれば、そういう課題なり、条件なりが乱世のリーダーとして最低限義務付けられていた。ここで言いたいのは、信玄がこの条件をかなり高いレベルでクリアできたということ。暴君として知られた父の生き方を反面教師として見てきたことも大きかったかもしれませんが、簡単に言えば軍事的な強さだけでは駄目、人の心を無視したら反目される。この当たり前の現実を彼は理解していて、自分なりに実践ができた。だから武田二十四将などと言われる有能な家臣団が育った。反面、信長はこれがうまくできませんでした。

 人徳などというと綺麗ごとのように聞こえるかもしれないが、これはすべての人が身につけられるわけではない。まあひとつの才能だと考えてください。信玄が一流と言われるのは、これが第一に評価されているからです。一方信長は、信玄の父・信虎と、その点はよく似ている。彼が天才だったから家臣がついてこれなかったのだなどと言うと、あの時代にはむしろ難しいことだった人心収攬の術を会得していた信玄が過小評価されてしまう。家臣に愛想をつかされて殺された人を、気の毒と思うならともかく、あまり過大に評価しすぎるのは、テレビの見過ぎというものです。


●環境が人を規定し、抜け出す答えを用意する

 人と風土との関係をもう少し話します。信玄の場合、貧乏な国だったから戦国大名としてはかなりシビアに対外戦争をし、武威を示さないとならなかった。その際にあんまり強引に推し進めると、父のように家臣の反目にあう。これが理解できていた。である以上、古くからの家臣を重用し、育てていくだけでも十分に「最強の武田軍団」が形成できた。

 一方信長は、人間関係の機微が理解できない人だったから、家中をうまくまとめられない。信虎と同じようなパターンに陥ったのを、地縁とは関係ない外部の人間を大量に雇い入れることで対応した。それがご存じの秀吉であり、明智光秀であり、滝川一益らであったわけです。信長の人材登用は能力主義だったとよく評価されますが、それは自分の性格的な欠陥に由来した、止むに止まれぬ事情が背景にあったことは理解できるかと思います。能力主義の採用を発想した点は評価できるにせよ、です。

 このように見ていくと、人を見る際に「何をしたか」で評価することが結構危ういことがわかるはずです。要は必要は発明の母ではないですが、自分の与えられた環境と自分自身の生来の性格とが、その人の生きる道をほぼ9割以上規定している。その規定のなかで、その状況から抜け出すためのいくつかの答えが用意されている(後世の人間にはそれがある程度見えるが、その時代を生きる人は答えがあるということすらなかなかわからない)。いずれにせよ、答えを見つけた人は先に進める。しかし克服できない環境的、あるいは性格的な障害が残ったままだと、それがどこかで足をひっぱる格好になる。

 信長を「何をした人か」で評価する従来の見方が間違っているわけではありません。しかしその評価の方法は時代や国などによって変わりうるものです。事実と評価を混同させてしまうと一つの固定観念ができあがります。作家の明石散人氏によると、信長が現在のように評価されるようになったのは、戦後からだそうです。映画などで萬屋錦之助らのスターが信長を演じたことで、それが一つのイメージとして人々の意識に植えつけられた点が大きいと言っています。確かにそういう面はあるでしょう。

 信玄はそうした信長を中心とした視点のなかで、古い権威の最大の象徴のように位置付けられ、信長との対比抜きには語られにくい存在になってしまった。しかし考えてください。従来の信玄は、上杉謙信と対比されることで、その人物像が浮き彫りにされてきたのです。信玄×謙信という図式は「古い」んでしょうか? 一度「信長は凄い」という前提を取り払って、この二人を見つめ直したらどうでしょう? そうすると、もっと生の人物像が見えてくると思います。そしてそのほうがオーソドックスで堅実な物の見方なのです。オーソドックスを見失うと、多くのことが同時に見失われます。


●ポテンシャルを高めるためのライバル

 謙信の話が出てきたので、彼との関係についてまず見ていきましょう。信玄が戦国時代屈指のレベルのリーダーであったことは改めて理解できたと思いますが、信玄の凄さというのは総合力の凄さというか、穴のない凄さであったようです。つまりべた褒めするわけではないですが、軍人としても、政治家としても、経済家としても同時代のなかで相当レベルが高かった。ぼくの印象では頭脳の緻密さを感じます。でも、この世界は面白いもので、こういう人のまわりに限って、その完璧主義を崩すようなライバルが現れる。それが謙信だったわけです。

 謙信はぼくの印象では、第一にエキセントリックな人です。信玄のような常識の王道を行く発想はしない。たとえば彼は、よく知られているように、あの時代の一級レベルの武将には珍しく人助けばかりしている。信濃の豪族が信玄に追われ亡命してくると、ケシカランと保護し、有名な川中島の合戦を始める。関東管領の上杉氏が北条氏に追われるとこれも保護し、しかも有名無実と化していた管領の職まで受け継いで、北条氏と戦を始める。こうした発想で戦争をし、しかも神憑かり的なリーダーシップで家中をまとめてしまうような人間は、他にそうそう見当たらないわけで、信玄にとっては最も理解しがたい存在だったはずです。生き方そのものが彼の「成功の法則」から外れていたわけですから。

 謙信の出現によって、快進撃を続けていた信玄は、事実上、信濃の地でかなりの足止めを食らいました。作家の半藤一利氏などは、信玄は謙信との名人戦にとらわれるあまり国内の大局を見失ったと否定的に評していますが、むろんこの見方がすべてではありません。単純に言って、人間としての信玄のレベルを上げるためには、謙信という異質の存在は不可欠です。領土とか政策とか目に見えるものではありませんが、謙信との戦いを通じて彼はポテンシャルを飛躍させました。川中島の合戦に後世の人が心を引かれたのも、そこに人間としてのレベルの高いギリギリの攻防が読み取れるからです。たびたびの対比で少し心苦しいけれども、信長にはこうしたポテンシャルを飛躍させるような対決なり出会いなりが非常に少なく感じるのです。

 近代の歴史学というものは、人間的な成長などというものはどこかで講談で取り上げるような話だと思っているらしく、史料重視、結果重視の歴史観がずいぶん幅を利かせています。でも、それでは結果として「勝者」しか評価はできないのです。しかもその勝者というのは定義が曖昧です。信長は家臣に殺されています。勝者かどうかはわかりません。なのに誰が決めたのか、勝者としての扱いを受けている。信玄はそのあおりを食らって?敗者のように描かれている。講談の世界は確かに学問的な面では誇張や虚飾が多いと思いますが、人間のポテンシャルを見るという点では必要な史料にもなりえるのです。


●後継者としての徳川家康

 さて、謙信との対決を人生のピークとし、信玄の戦国武将としてのポテンシャルは大きく飛躍します。特に今川が没落し、北条が代替わりで勢いを落とすと、東国一の大名として恐れられるようになります。事実上、実力日本一といった評価だったでしょう。しかしこの評価は同時代にものだけに留まりません。意外と知られていませんが、後世にも非常に大きな影響を残しました。

 このことを語る上で登場するのは徳川家康です。ご存じ260余年の繁栄を築いた江戸幕府の創始者ですが、彼は信玄が信長打倒のために挙兵した晩年の上洛戦において、信長の同盟軍の立場から激突し、大惨敗を喫します。三方原の合戦のことですが、家康は噂どりの信玄の実力を体感し、極限の恐怖を味わったといいます。あまりの衝撃を忘れないよう合戦直後の憔悴した自分を絵に描かせたりしているほど。このへんの話はよく知られているわけですが……、信玄と家康を比べると、ぼくは家康が信玄Jr、つまり信玄の事実上の後継者のように思えてなりません。家康の非凡さは極限を味わった信玄との一戦のなかで、恐怖だけでなく、彼のポテンシャルの大きさをも肌身で感じ、理解できたのではないかということです。

 信玄の遺産を受け継ぐことで、自分自身が大きくなれる。事実、彼は本能寺の変のどさくさの間際に甲斐と信濃を攻略し、武田家の遺臣を大量に雇い入れます。信玄の軍略、政略を彼らから学び、手本にしたことは明らかです。盟友関係にあった信長に対しては、むろんそのような態度はとってはいないわけです。やや想像力を豊かにすれば、病のため上洛途上で無念の死を遂げた信玄の遺志は、時を経て、形を変え、家康の天下通りという形で実現した。どうですか? 飛躍しすぎだなんて思いますか?


●江戸再評価は信玄の再評価につながる

 最近、江戸時代が再評価されています。つまり近代の歴史学のなかでは、明治時代以降の歴史が正しいという前提があったので、江戸時代は「遅れていた」「人々は抑圧されていた」などと捉えられていたわけです。ぼくが小学校の時に読んだ学校の教科書なども、そんな論調だったように思います。でも、そんな近代絶対主義みたいな感覚そのものが見直され、日本文化の一つの集大成として、江戸時代も結構いい時代だった、しかも260年余もほとんど戦争がない、世界史的にも奇蹟なくらいの時代だったと、様々な角度から評価されはじめています。実際にその通りだとぼくも思います。

 でも、江戸時代が評価されるのなら、創始者の家康もその視点から評価されてしかるべき。そして家康が評価されるのなら、彼が手本としていた事実上の師匠筋である信玄への評価も同様。信玄が長生きして信長を滅ぼしていたら、時代が逆行していた? 信長の歴史的な価値ももちろんありますが、でも武田幕府というのは質的に見れば江戸幕府であるわけです。信長の歴史的な役割もあったわけですから、ある意味で信玄の死は必然であったわけですが、だからといって彼を信長の敵役のようにだけ捉えるのは筋が合いません。ならば江戸時代の再評価も否定したらいいでしょう。

 物事はある程度引いた目で、相対的に捉えることで、バランスが取れる。言ってみれば当たり前のことだけど、意外にできていない。武田信玄という巨人を見つめ直してみることで、自分の視点が自然と矯正していけるはずです。そして現在当たり前のように疑われない「評価」というものの正体も、必ずしも絶対のものでないとわかるのではないでしょうか? 埋もれた人間はこんな理解の先に蘇ってくるのです。

投稿者 長沼敬憲 : 10:28 | コメント (0)