2005年05月17日

大河ドラマ関連企画(1)〜「義経」の向こうに「歴史」が見える

■ただ「好き」「すごい」というだけでは……。

 今年の大河ドラマ(「義経」)は、何だかんだとオーソドックスな作品のようです。安心感がある分、ちょっと知的な刺激が少ないという印象。
 歴史というものは、同じ事実からでもその人物や出来事の「意味」をより浮き彫りにする解き方が導き出せます。

 たとえば自分自身のことでも、人に言われて初めて気づくことって多いですよね? では、その人は自分のことを何でも知っている人でしたか? 知識の量、情報の量が、必ずしも真実(それも本人でさえ気づいていない「意味」)に結びつくとは限らないのです。
 本人でさえも気づいていない「意味」。存在することの、していたことの、本質的な評価と言い換えてもいいかもしれません。

 人はつねに「正当な評価」をしてもらいたいと思いながら生き続けている存在です。でも、ただ褒めるだけで、同情するだけで、相手の琴線に触れられるかというと、そうではない。
 あるいは愛すればいいと言いますが、アイドル歌手のようにむやみに「好き、好き」と追いかけても、そのアイドルはおそらく孤独なままでしょう。

 大事なものは「理解」という感覚です。「理解」は「理屈」とは違います。
 この「理解」を得るためには、自分自身の感覚器官を有効に働かせて、相手の感覚に近づく努力が必要です。この感覚器官は、読者一人一人にもあるし、そして義経にもあったもの。生物的な機能としては共通のもので、人工的にこしらえた思想などとは異なり、意識の中での感覚的な再現性も可能なものです。

 義経はすでにこの世にはいませんから、直接感想は聞くことはできません。
 でも、「これは多分本人も納得することだろうな」とか、「嫌な顔をするが受け入れざるを得ないだろう」なんていうぼくや読み手の様々な想像は、感覚に根ざしたものであるかぎり、そうそう外れたものではないのです。
 難しい言葉を使うならば、それがいわゆる人間の感覚に起因しているところの「蓋然性」というものです。

 【蓋然性(がいぜんせい)】

 ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。これを数量化したものが確率。「—の乏しい推測」
 (「大辞泉」より)


■義経はなぜ“兄思い”だったの?

 まず、以前にも触れたことがありますが、兄・頼朝との不思議な兄弟関係をクローズアップしてみましょう。
 治承・寿永の乱(源平合戦)における最大の「謎」は、頼朝と義経の兄弟関係に集約されているとっても過言でないかもしれないからです。
 兄弟と言っても異母兄弟で、義経が兄の頼朝と初対面したのは、22歳のとき(駿河の黄瀬川の対面)。兄弟と言っても生まれも育ちも違う。普通に考えたら情だって湧きにくい関係だろうし、実際問題、異母兄弟というのは、古来から家督の相続などをめぐって争い合うケースも少なくないわけです。
 にもかかわらず、ほぼ生涯を通じて、異常なまでに兄を慕い続ける義経。
 兄に遠ざけられても、梶原景時の讒言が原因であると言い張るなど、純愛ドラマ並みの“片思い”が語り継がれています。

 それだけ純粋な人だったんですよ……。まあ、それはそうなのかもしれない。
 書店に並ぶ数々の“義経本”をひもといてもだいたいこのあたりで話は止まってしまってますが、これでは答えにはなっていません。
 ぼくには彼の性格をたどるだけでも、もっといろいろなものが見えてくるんですけどね……。まあ、ここで義経の出自を思い出してください。
 義経は生まれてすぐに父・義朝が敗死し、少年時代に鞍馬山に僧侶の見習いとして預けられる。やがてそこを脱出し、奥州藤原氏のもとへ。
 つねに体制の外で生き続けてきた。
 もっと具体的にいえば、所領と呼ばれるものと無関係の世界にいた。

 当時の鎌倉武士は「一所懸命」という言葉があるように、一所(自分の所領)にこそ命を懸けていた(懸命)。
 生きるための基盤が土地にあった。その土地を増やすため、守るために、源氏の嫡流を棟梁に仰いだ。彼らの発想はすべてここからはじまっている。「一所懸命」だからこそ、兄弟どうしが時にいがみあったり、争い合うことがあるわけです。

 義経にはこの感覚がすっぽりと欠落しています。
 身寄りというものがあるようでない彼の場合、最も大事にしてきたのは(しなければならなかったのは)人間関係。人と人との和。この点が理解できると、彼の異常なまでの兄への情愛の意味も見えてくると思います。
 「一所懸命」でない彼にとっては、産みの母が同じであろうがなかろうが、血を分けた兄を大事に思うことは当たり前の感情。

 逆に言えば、「一所懸命」の鎌倉武士たちの感覚はよくわからない。彼らが何に対してかくも「懸命」になっているのか、その感覚には鈍感になってしまう。
 それでいて戦の天才。過去にない内乱になる怖れさえあった源平の戦いが、彼が彗星のごとく現れることで、わずか5年で決着してしまった。
 おそらくまわりの武士たちからは、宇宙人のようにでも思われていたのではないか? それくらい“浮いていた”存在だったのです。


■義経の「情」、頼朝の「遠慮」

 頼朝の話をしましょう。彼は、このようにわけのわからない異邦人の弟を嫌っていた、警戒していたと言われていますね?
 しかし、心の底から本当に憎んでいたのかというと……それはわかりません。
 なぜなら、義経のどこをどのように見ても、通常の異母兄弟にありがちな、兄にとって代わってやろうという野心が見られない。そういう弟を逆に気味悪く思っていた可能性はあるでしょうが、それは憎悪とは違うものです。

 頼朝が義経を遠ざけていたのは、そんな好き嫌いの感情ではなく、自分をバックアップしてくれた妻の実家(北条氏)に対する「遠慮」であったと考えたほうが納得がいきます。
 弟と嫁とどちらを選ぶのかといわれたら、嫁のほうを選ぶしかありません。
 それが彼の地盤であり、北条氏の背後には同じ価値観を共有する多数の鎌倉武士が控えていたからです。
 異邦人である義経が持っているのは、特異な軍事的才能だけです。憎めない奴だとわかっていても、その能力や功績だけで優遇してしまったら、自分が北条氏(鎌倉武士)に殺される。そのくらいの危機感はあったでしょう。

 というわけで、ここでこの兄弟だけの“心のやりとり”が見えてきます。
 果たして二人は本当に憎しみ合っていたのか……、義経の没落をめぐる話から、この点に関するいくつかエピソードを拾ってみましょう。
 平家滅亡後、都に凱旋した義経は熱狂的な歓声に迎えられる一方、彼の存在の肥大化を怖れる鎌倉の頼朝との関係は悪化の一途をたどります。

 身の潔白を訴えるため鎌倉に赴き、有名な「腰越え状」をしたためますが、これも拒絶され、失意のうちに京都へ去るや、追い討ちをかけるように頼朝の放った刺客(土佐坊昌俊)に襲われます。
 これはなんとか(余裕で?)撃退しますが、事ここに至り、もはや兄の心は変わらないことをさすがの義経も悟ったといわれます。

 普通に考えれば、いよいよ兄弟どうしの「全面対決」が始まることになるわけですが、義経の場合、なぜか西国に向かうと言い出します。
 結果を言えば、その途中で船が嵐に遭って兵も散り散りになり、やむなく奥州藤原氏のもとへ亡命することになるわけですが……。

 ここでいろいろな疑問が湧いてきませんか?
 なぜ地縁も何もない西国などへ赴こうとしたのか? 義経には官位はあっても、武士たちに所領を与えられる兄頼朝のような政治的特権はありませんでしたから、兵が集まらなかったのは仕方のない話です。

 しかし、戦術面だけ考えれば、頼朝の兵(鎌倉武士)と一戦を交えることもできたはず。彼の強さはある種神格化されてましたから、緒戦で勝ってしまえば朝廷も味方につき、鎌倉との力関係もガラッと変わってしまった可能性もあります。
 それをせずに西国に行こうとしたのは、要は、兄とは戦いたくなかったからです。叛旗は翻しましたが、本音で言えば、気が進まなかった。いくら天才的戦術家であろうと、大事なのは戦いに対するモチベーションなのです。

 この点は生涯にわたって一貫していました。義経は割り切ることができない人なのです。正直。素直。それが彼の美徳だったわけです。
 となれば、兄と一戦を交えないまでも、なぜ支持母体である奥州へダイレクトに向かわなかったのも得心できると思います。
 自分が行けば奥州が戦の火種になることが見えていたからです。
 現実論で言えば、奥州の兵力を味方につけたほうがいいに決まってます。そうすればおそらく義経は負けなかったでしょう。

 しかし、それを(兄を倒すことを)彼が望んでいたかどうか?
 あるいは戦うのが嫌なら、庇護下にある奥州の地でかくまってもらい、しばらく天下の情勢を見定めたほうがいいではないか? そう思う人もいるかもしれませんが、まあ半分は机上の空論であると思います。
 どうであれ、自分が奥州に亡命すれば、世話になった藤原氏に迷惑がかかります。
 事実、奥州に身を寄せた彼は、ある意味危惧していた通りというべきか、奥州藤原氏滅亡という「大迷惑」をかけてしまうことになる……。
 本当は奥州には行きたくなかった、もちろん兄とも戦いたくない。かなりネガティブな感情で西国行きを決断した。
 そして、ネガティブな決断というものは、往々にして失敗してしまうものなのです。


■なぜ戦わなかったのか?という問いかけ

 さて、船が難破し、行き場を失い、やむなく奥州へ身を寄せた義経。
 この義経と藤原氏との関係も、じつはものすごく謎に包まれています。
 考えてみてください。“天下の大罪人”とはいえ、類まれな武略で平家を滅ぼしてしまった義経。そして、奥州藤原氏の都をしのぐ豊富な財産と兵力。これだけの条件が整いながら、なぜああもあっさりと滅亡してしまったのか?

 ここに3代秀衡のあとを継いだ泰衡が愚人だったからという通説が出てきます。
 しかし、泰衡が愚人であったかどうかも、じつはよくわかりません。
 よく知られるように、父秀衡はその死の間際、義経を大将と戴いて鎌倉と決戦せよと遺言したと言われます。これは、京に攻め上れとか、鎌倉を滅ぼせというものではなく、専守防衛的な要素が強い藤原氏伝統の戦略だったでしょう。
 しかし、一点だけ肝心なことが抜け落ちていました。
 そう。大将に仰ぐべき義経が、鎌倉との決戦を望んでいないということです。

 庇護されている身である以上、口に出しては言わなかったかもしれません。
 しかし、素直すぎる感情の持ち主であっただろう義経の本心は、秀衡にも、泰衡にも十分伝わっていたように思われます。
 それでも「奥州のためだ」と懇願すれば、感情を押し殺して義経も戦ったかもしれませんが、果たしてそこまでして戦う意味がどこにあるのか?

 兵力もある、有能な将軍もいる、財力もある、そして敵がいる。これだけの条件がそろえば、必ずと言っていいほど戦争は始まります。
 しかし、奥州では戦争らしい戦争もないままに頼朝の手中に落ちてしまった。
 奥州藤原氏が義経と一脈通じるのは、彼らもまた鎌倉武士ほど土地への執着心がなかったであろうということです。
 彼らが得てきたこの時代では空前と言っていい(中央の貴族であった本家藤原氏の栄華をもしのいでいたのかもしれない)豊かさは、この地で産出する金や馬などを介した交易(商業)にあったと考えられるからです。

 繰り返しますが、土地が介在してくると、家督争いも深刻になります。
 家督を継げなかった者はイコール十分な土地も得られない、つまりは豊かさを失うという切実な問題があったからです。
 しかし、土地以外にものも分与できる状況にあれば、価値がもっと多様化していれば、この問題は起こりにくくなります。
 秀衡の子供たちも6人いたと言われますが、長男の国衡は母の出自が卑しいということで、都の貴族の血を引く母を持った次男の泰衡が跡取りになりました。しかし、このふたりが深刻に争い合ったという言い伝えはありません。

 これはじつは、平家に対しても言えることです。
 彼らの一門は、清盛を頂点に、重盛、宗盛、知盛、重衡……と、あれだけの兄弟がいながら、ライバルの源氏ほど激しい仲違いは見られません。
 土地だけを基盤にしていなかったからです。
 逆に言えば、鎌倉武士が天下を取り、源氏を経て、北条氏が実権を握って以降、日本はじつに殺伐とした国になりました。

 豊臣秀吉が天下を統一するまで、結局のところ、土地争いの争乱が繰り広げられるのです。秀吉はこの土地争いを終息させるために、東洋に一大交易圏を形成し、奥州藤原氏や平氏がやっていたような商業立国化を、数十倍、数百倍スケールアップした形でやろうとして挫折しました。
 これが後世に悪名の高い、唐入り(朝鮮出兵)の動機です。
 結局のところ、鎌倉幕府が基礎を築いたと言ってもいい「一所懸命」の感覚は、天下人・秀吉の出現でわずかに変化の兆しが現れましたが、それも夢と終わると、以後の日本の歴史そのものになっていきます。


■「一所懸命=土地神話」の先にあるもの

 明治以降の近代は、富国強兵というある意味での“価値の多様化”を目指しましたが、時代の趨勢もあり、土地の代わりに軍事に価値が偏重していきました。
 その意味で、日本史でもきわめて異質な時代です。
 「一所懸命」とは別の感覚、つまりは当時のグローバルスタンダード=帝国主義への適応が求められたからです。

 しかし、土地信仰そのものが失ったわけではありません。
 戦後の復興から経済成長へと至る過程で、土地というものが嫌というほど介在してきたことはよく語られていることです。武士の世が終わっても、「一所懸命」の感覚だけはまるで怨念のように日本人のDNAにこびりついてきた。

 話がだいぶそれてきましたが、その意味で言えば、もしかしたら1990年代のバブル崩壊とは、日本の数百年来の「土地神話崩壊」の一つのきっかけになるかもしれません。
 土地神話が崩壊することで甦ってくるのが、義経、平家、奥州藤原氏、そして豊臣秀吉。彼らに対する評価が、これから根本的に変わってくる可能性があります。

 事実、いまの時代を見渡せば、土地にこだわる、その延長上でマイホームにこだわる、そのためにしっかりした会社に就職するといった「成功法則」が、かなりの度合いで崩壊していることに気づかされるのではないでしょうか。
 少なくともそれらは選択肢の一つでしかありません。
 鎌倉武士の呪縛がようやく剥がれかけてきているのか……。

 根無し草のようにしか思われてなかった、鎌倉武士からはおそらくエイリアン扱いされていた義経も、現代の若者から見ればおそらく「普通」。
 むしろ、まともに思えるかもしれません。
 彼のことを政治の視点から見て愚人のように評する向きもありますが、政治家として優れていた頼朝が果たして幸福であったかどうか? 現代では、こんな考え方も成り立ってしまう時代です。

 義経だって不幸な最期だったではないか……確かにそうです(衣川で死んでいないという説もありますが、日本史における彼の存在は消失しました)。
 しかし、人生のモデルとして彼の生き方を見た場合、共有できる点がいくつも浮かんできます。その点では頼朝も敵いません。

 共有できる点とは、繰り返しになりますが、人と人との和を大事にした点。
 この和の原点に自分の血筋(血縁関係)というものを置いたという点。
 仕事の成功(戦場での功績)を追求しながら、それは誰のためと言えば人のため。現代風に言えば、家族のため、仲間のため。
 義経の場合、生涯にわたって驚くくらいこの点の軸足がぶれていません。

 彼には、自分の軍人としての成功を誇ったり、喜んだりする無邪気な一面ももちろんありました。しかしそれは無邪気というレベルを超えたものではなく、成功よりも大事なものがあることをわかっていたふしがあります。
 相手を蹴落としてでも成功したいというアクの強さがない彼の不思議さ。そんなことまでして成功して、何が楽しいかという感覚。

 義経を無邪気というのはわかりますが、それを愚かさとつなげる発想は、冷静に見れば、べつに絶対の価値観ではありません。
 そしておそらく、これから世の表舞台に出てくるのは、義経的な感覚を持った若者たちです。彼らに「政治的な才能」があれば、お金や派閥、利権といったものに対する考え方、向き合い方もがらりと変わってしまいます。
 そのとき初めて政治が変わるかもしれません。
 この場合、頼朝的なものと義経的なものがうまく融合しなければなりませんが、そうなれば日本史のステージも一段上がったことになるはずです。


■平和になれば堕落するという「錯覚」

 まあ、ここでもう一度奥州藤原氏に話を戻しましょう。
 まず繰り返しになりますが、泰衡は義経の兄とは戦いたくないという気持ちがわかっていた。
 これを前提にしてシミュレーションしてみると、やはり父(秀衡)の遺言には従えない、従いにくかった彼の心情が見えてくる。
 義経を大将にして鎌倉を迎え撃てば、地の利を得ていることもありかなり優位に立ったと思えます。

 奥州勢は百年あまりの泰平に溺れて弱兵になっていたと語る人がいますが、これもどこまで信頼できるかわかりません。
 鎌倉武士にしても、本格的に戦を始めたのは頼朝の挙兵以降のこと。また、義経自身、頼朝と対面する以前に、源平合戦に類するような具体的な実戦経験があったわけではないでしょう。つまり、奥州兵でも戦おうと思えば戦えた。勝つこともできた。にもかかわらず、そうした選択をしなかった。

 そう考えたほうが自然かもしれません。
 なぜかというと、泰衡をはじめ奥州藤原氏の一族には、鎌倉武士のような「執着」がなかったから。つまり、戦いに対する動機づけがどうしてもできなかった……という話になるわけです。

 これは、土地への執着というだけでなく、生きることそのものへの執着、と言い換えたほうがいいかもしれません。
 こんな言い方をすると彼らが無気力だったように見なされるかもしれませんが、そういうことではありません。
 たとえば現代の若者は無気力だと言われています。本当にそう言い切れるでしょうか? 一つの価値観の中で決めつけようとしすぎてはいませんか?
 豊かであればハングリーさは欠落します。それが果たして悪いことなのでしょうか? だとするなら、また貧乏にでもなるしかありません。しかし、過去は再現されません。実際に昔のようにはなれないのです。

 もちろん個人のレベルで事業などに失敗して、一文無しになり、ハングリーさを「取り戻した」人というのはいるかもしれません。
 しかし、社会全体を見ればそれなりの必然の中で底上げされてきたものが、急に無になってしまうことはない。
 つねに人は「いま」を出発点にするしかないわけです。

 奥州藤原氏も同じです。初代清衡から数えて泰衡で4代。約百年。この時間の中で築き上げてきたものは、簡単には消せません。
 豊かになったから馬鹿になる、判断力が落ちると言ってしまえば、歴史はただの繰り返しに過ぎなくなる。
 事実、歴史はそういうものだという人もいるでしょうが、それはほんの一面的な、皮相な見方にすぎないと筆者は思います。なぜなら当たり前の話ですが、実際にはどんな時代にも賢い人間はいるし、愚かな人間はいる。ハングリーだから精神が研ぎすまされるわけでもなく、豊かだから堕落するわけでもない。

 繰り返しているように見えて、その時代その時代を切り取れば、そこには個々の人の意思がある。意思の質というものは、時代の善し悪しとは比例しません。
 こんな酷い時代だから楽しく生きられなかったと訴える人もいれば、こんな酷い時代だったけど結構楽しめたという人もいます。逆に、豊かでラクな時代だから身も心も豊かだと言い切れる人ばかりではないにしても、それなりにそうしたメリットを受け入れ、楽しむこともできる人も確実にいる。
 こんな考え方をしていくと、ハングリーでないから泰衡は愚かだったという理屈は成り立たなくなってきます。評価はこんなふうに価値の置きどころによってコロコロ変わるものなのです。

 義経の生存説は様々な形で語られていますが、泰衡が彼を逃がした可能性は、確かにかなりあるように筆者には思えます。
 このへんはまた別の機会に書くかもしれませんが、ここで言いたいのは、生存説に関する細かい論証ではありません。

 日本史が舞台ならそれもありえた、ということです。
 日本人には、こうしたギリギリの場面で「戦わない」ことをも選択肢の一つにしてしまう、妙に「潔い」ところがあります。
 土地に縛られる以前の、もっと根底にある感覚だから、ぼくはそれは縄文人のDNAだろうと思っているわけですが……。
 このへんは徳川慶喜について書いたコラムでも指摘しているところです。

 泰衡と義経の間にも、なにがしかの共有できる意思があった(このへんをあんまり強調しすぎると、高橋克彦氏の「炎立つ」の影響を受けすぎていると言われそうなので、これくらいにしておきます)。
 逆に頼朝は、土地に縛られなければ成り立たない自分の立場、生き方に、もしかしたら言い様のない不自由さを感じていたかもしれません。

 ラクに生きていくことがただの堕落ではなく、そこにはそれなりの極意があり、コツがある。ラクになることに罪悪感を感じる必要はない。かえって自分の能力を引き出すことも可能になる。
 どんなもんでしょう? 義経を天才というのなら、彼の中にあった才能と呼ばれるものの実態もなんとなく見えてはきませんか?
 本当にまあ、頼朝と義経は、史上まれに見る面白い兄弟です。

投稿者 長沼敬憲 : 12:23 | コメント (0)

2004年12月15日

義経を知る3つのキーワード(1)〜“コイン”を裏返すと「頼朝」がいた

●「二人で一人」の類まれな兄弟関係

 源義経は、源氏の棟梁・義朝の末子として生まれますが、はっきりと歴史の表舞台に姿を現すのは、1180(治承4)年、兄・頼朝との黄瀬川での対面の時です。兄の挙兵をかくまわれていた奥州で知り、矢てもたまらず、わずかな手勢で参陣したと伝えられています。そして以後約9年、平家追討の華々しい活躍から、奥州・衣川での「死」に至るまで、兄の影はつきまといます。

 これは頼朝の側から見た場合も同様。二人はいわば、コインの裏表であり、解釈によってどちらかが影になり、光になるという関係。天皇と藤原氏による政治システムから独立し、以後700年続く武家の政権を打ち立てた頼朝。ありえない戦術を次々と成功させ、悲劇をまとった希代の英雄として後世に名をとどめた義経。それぞれの生涯をたどっていくと、どちらが欠けても成り立たない、まさに対照的としか言いようのない「役割分担」が見て取れるから不思議です。

 義経は、平家追討の第一戦ともいうべき一の谷の戦いに勝利を収めた1184(寿永3)年、後白河法皇より検非違使左衛門尉に任官されます。通称、判官。鎌倉には無断の任官であったことから、兄・頼朝の不興を買ったと言われています。後世の人間は、弟に冷たくあたる頼朝を「悪役」に仕立て、やがて悲劇の末路へと向かう義経に同情、これが「判官びいき」の語源となったわけですが……。

 この「判官びいき」の反動からか、近年では頼朝の政治感覚、業績を再評価する見方も出てきました。頼朝は父・義朝の敗死後、兄も相次いで亡くなったため、源氏の棟梁の立場にありました。しかし実態を言えば、伊豆に幽閉された流人です。誇示できるのは血筋という権威だけ。打倒平家の挙兵後、いくつかの幸運が重なって鎌倉武士の頭目に推戴されはしましたが、非常に不安定な立場にありました。彼に対する評価は、この不安定さと大きな関係があるのです。

●「危機」を感じていたのは、北条氏

 このあたりの機微について少し説明していきましょう。流人だった頼朝には、当然、累代の家臣も、戦を起こす兵力もありません。彼に将来を託した関東の豪族・北条氏が、実質的には彼の権威を支えていたわけです。もっと具体的に言えば、後に尼将軍などとも呼ばれる妻の政子の「愛」が、頼朝の「力」の源泉でした。彼女が愛想を尽かせば、北条氏との関係も険悪になり、破滅につながります。

 北条氏の立場から見れば、頼朝と政子の結びつきは他の御家人を圧し、新たに台頭しつつあった武家政権のイニシアチブを握るための「玉」のような関係です。ある意味、持ちつ持たれつではありますが、後の歴史の展開を見てもわかる通り(後述しますが)、頼朝の立場のほうがずっと弱かったことが想像できます。極論すれば、頼朝は北条氏の傀儡であったとすら言えるわけです。

 要は、この不安定な関係のうえに成り立っていたのが、初期の鎌倉武家政権の実態なのです。そこに、この実態を知らない義経という弟が、奥州からやって来る。その背後には、すでに実質的な独立政権として君臨していた奥州藤原氏の影が見え隠れする。しかも驚くべきことに、この弟に信じられないような軍事的才能があることが判明する。はっきり言って、義経の存在に最も危機感を抱いたのは北条氏であったことは容易に想像できることです。そして、頼朝はその立場上、彼らの危機感を最も敏感に感じ取っていたはずなのです。

 このあたりの義経、頼朝、北条氏(政子)の心理は、小説の題材としてもおいしすぎるくらいの綾が折り重なっています。義経にすれば弟が兄を慕うのは当然の感情となるし、頼朝と北条氏の微妙な関係を知ったとしても、「兄上は、私を取るのか、妻を取るのか?」と、ストレートに問いただしたかもしれません。司馬遼太郎氏のように、義経を兄の不安定な立場を理解しない(できない)政治的愚者のように捉える見方もありますが、筆者には異論があります。彼の感覚からすれば、問題はもっと単純なところにあったはずだからです。

●見落とされがちな、兄・頼朝の悲劇性

 確かに頼朝は、鎌倉に独立した武家政権を立ち上げるために、兄弟の情も捨てる必要があったという解釈も成り立ちます。権力者の堕落は身内に対する「甘さ」から始まるという見方もあるし、短期間で没落した平氏をそのような視点から批判することも可能でしょう(平家は一族のつながり、血縁というものを非常に大事にしていました)。つまり、頼朝が義経を特別扱いしなかったのも、御家人たちの信任を勝ち取るための適切な判断であったとなるわけですが……。

 しかし、考えてみてください。身内という点で言えば、妻の実家である北条氏もまた身内なのです。頼朝が北条氏に対しても特別扱いせず、是々非々で対応できる立場にあったのなら、義経に対する「冷たさ」も公平であったと評価できます。しかし現実的には、それをしたら彼の命はなかったはず。事実、頼朝は征夷大将軍に就任した7年後(1199・建久10年)、不可解な死を遂げます。落馬が原因とも伝えられますが、北条氏が影でその死に関与したという説もあります。

 それが事実でなかったとしても、ご存知のように、源氏は頼朝からわずか3代で絶え、鎌倉幕府は実質的に北条氏の政権へと転換していきます。2代・頼家、3代・実朝の横死には、北条氏が明らかに関与しています。平家の栄華も短かったが、源氏の栄華も同じように短かったのです。頼朝を単純に勝者とは言えない、あえて言えば勝者は北条氏であるわけですが、それをふまえたならば、弟(義経)ではなく、妻(北条氏)を選ばなければならなかった頼朝もまた、じつは義経にも勝るとも劣らない、悲劇の人物であることがわかるはずです。

 頼朝が無能な人間でないかぎり、自分が実質的な力を持った権力者ではなく、京都の天皇の地位にも近い、武家にとっての権威にすぎないことを心の中で感じていたはずです。しかし、それを口にしてしまってはおしまいだというプライドもあったでしょう。当然、義経にそんな「窮状」を打ち明けることもできるわけがない。二人が仲良くするという事実自体が、こと北条氏に対する政治的行動につながるのです。好き嫌いだけで言動ができない、彼の難しい立場は十分想像できます。

●「単純さ」という義経の才能

 もちろん、こうした点をふまえたとしても、やはり義経には「自分が兄に疎まれるのはおかしい」という、非常に単純な感覚があったと思います。なぜなら、それが「道理」であり、「正しい」からです。史料などでは戦目付(軍監)だった梶原景時との確執が伝えられますが、それらの逸話を見ても、義経の思考法は非常にわかりやすく、決して複雑ではありません。それどころか、複雑にもなりかねない様々な状況判断を、余計なものをそぎ落として単純化させる能力を持っていた、だからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのだと言えるのです。

 複雑な現実を単純化させ、本質をえぐり出す。これは愚者にできる発想ではありません。その発想から見れば、「兄の目は曇っている」となります。わかりますか? 事実、彼の権威は結果として北条氏に利用され、源氏の血筋は絶えてしまう。頼朝が正しい判断をしていたわけでも、義経が愚かだったわけでもないのです。そのように善悪でこの兄弟を色分けしてしまうのではなく、そして北条氏を悪役にするのでもなく、もっとありのままに歴史を見る必要があります。

 要は、兄・頼朝は、自らが生き延びるために、複雑すぎるほどの思考法が求められていました。しかし義経もまた、生き延びるためにその対極にある単純な思考法を手に入れていたのです。誰がどう努力しても、この二人は絶対に交われません。後世から見れば、ともに悲劇の運命をたどるのを約束されていたかのような生涯が与えられ、その生涯の中で希有な転換期の重要な役割を担っているわけです。善悪の感覚から抜け出すことで、歴史の「面白さ」が見えてきます。

●足りないものを補い合う関係

 この稿の最後に、もう一つこの兄弟の「コインの裏表」を物語る面白い対比をしてみましょう。頼朝は関東の武士たちに推戴された「軍事政権の長」でありながら、実戦経験はほとんどありません。源氏の棟梁という血=権威によってアイデンティティを築いていたという点で、実態は限りなく公家的です。一方の義経は、関東の武士とは無縁の存在で、都(京都)との結びつきの強い存在でありながら、アイデンティティはすべて戦闘行為によって作り上げていました。

 客観的に見ればどちらも何かが足りず、一方の足りないものを一方が十分すぎるくらいに持っていた。この二人が結びついたらまさに無敵です。だからこそ、北条氏が義経を恐れたわけだし、兄弟の仲を離間させるための策もプレッシャーも、頼朝に浴びせ続けたことが想像できるはずです。言ってみれば、義経と頼朝は、すれ違いを強いられるあやふやで不安定な関係でありながら、実態としては協力し合い、役割分担し、新しい時代の扉を押し開いたわけです。義経という人間に注目するということは、頼朝を注目することにつながります。頼朝の評価が高まっていけばいくほど、義経の評価も高まっていく関係にあるわけです。

 次のキーワードは「戦術」。常識離れと言うより、日本人離れしていた義経の戦術の秘密について、筆者なりの視点でつづってみます。

投稿者 長沼敬憲 : 16:36 | コメント (0)

義経を知る3つのキーワード(2)〜「戦術」の背後に見える異人の影

●「夷」に支持された異能の「将軍」

 義経は、当時の軍人(武士)としては画期的な才能を持っていました。前の稿でも書きましたが、征夷大将軍となった頼朝が、実戦経験のほとんどない権威としての将軍であったのに対し、義経はバリバリの、しかも負け知らずの常勝将軍。義経=源氏の強さの象徴と、当時の庶民の目には映っていたわけです。

 でも、ちょっと面白いなと思うのは、いくら事実上の「将軍」であっても、「征夷」とはまったく無縁であったと言うこと。征夷とは「夷(えびす)=朝廷に歯向かう敵」を「征討する」という意味。平安時代初期、東北で蝦夷(えみし)を破った坂上田村麻呂が初めて任命された職として知られていますが、義経の時代、蝦夷といえば、奥州藤原氏のことです。奥州は彼の支持基盤であったわけだから、これまでの時代の「将軍」の概念とも、どこか異質な存在であったわけです。

 わかりやすく言えば、将軍(征夷大将軍)とは、イコール武家の棟梁。武家とは地方に自立した職業軍人のようなもので、中央の政府(朝廷)の命令で外敵を討つ役目がある。日本は平安の御代以来、海外からの侵略の危機はほぼなくなったため、この職の任官は長く途絶えていました。しかし、関東の武士たちの間では権威の象徴として認知されていたらしく、頼朝も武家の棟梁としての地位を確固たるものにするため、征夷大将軍への任官を切望します。

 義経の戦術とどんな関係があるのかと思うかもしれませんが、じつはこのへんが一番重要なポイントなのです。要は、義経は土地という基盤がない。言い換えれば、「個人」としてしか存在していない。当時の国の基盤は農業です(以後もずっとそうであるわけですが)。鎌倉武士の気概を表す言葉に「一所懸命」というものがありますが、一所は言うまでもなく土地のこと。土地を守り、一族を養う、そのために戦う。頼朝という権威は、時代的にはまだ新興勢力にすぎなかった武家の「一所」を保証する存在として機能し、敬意を集めていたわけです。

●「土地を持っていない」という異質さ

 繰り返しますが、義経にはこの「一所=土地」がない。戦功を立てたあと伊予守(伊予国の国司)に任官されたり、平家の没官領を得たりしますが、これは彼が早くに没落したこともあり、実質を伴ってはいません。また、源氏の棟梁の「末子」という血筋は、頼朝の存在を前にしたら、相当に希薄な権威です。土地もなく権威も曖昧なとらえどころのない存在、しかし、どこからともなく現れたかと思うと、「一所懸命」の精神とはかけ離れた戦術、戦略で、強敵だった平氏を打ち破ってしまう。義経は牛若丸時代に、鞍馬の天狗に戦術を教わったなどという逸話がありますが、この逸話の背景にはこうした異質さが見え隠れします。

 先ほど筆者は何気なく「個人としてしか存在していない」と書きましたが、そもそもこうした彼のアイデンティティ自体が、異質なのです。日本の社会は、伝統的に「個人」の生まれにくい社会です。それぞれの人の背後には生んで育ててくれた家族(親族)と、生活基盤である土地(故郷)が濃厚に存在しています。前にも書いたことがありますが、原始社会のプリミティブな血縁関係が、歴史時代になって以降も「和」という形で連綿と続いていった社会なのです。

 しかし、数奇な生涯をたどった義経は、この「当たり前」を持つことのできなかった人間なのです。生まれてすぐに父を戦で失い、母(常磐御前)は敵将(平清盛)の情婦となったのち、他家に再婚する。その後寺に入れられますが、出家を拒み、出奔します。金売りの吉次という商人に伴われて奥州に向かったと言われますが、こうした幼少期の逸話をたどっただけでも根無し草の人生、いわゆる「一所懸命」の武士とは異なる生活環境にあったことが見えてきます。

 奥州藤原氏のことはまた別の機会に書きますが、先に触れたように、彼らは蝦夷の末裔です。初代の藤原清衡以来、都にも劣らない独自の仏教文化を花開かせ、中央の貴族との混血も進みますが、しかし、あくまでも彼らは「蝦夷」の生活スタイル、文化を守っていました。わかりやすく言えば、奥州藤原氏の政権は、農業を基盤としたものではなかったということ。基盤の一つではあったと思いますが、奥州は金と馬の産地であり、彼らは日本海を挟んでの対外貿易で巨利を得ていたようです。当時の日本のスタンダードとは異なる生活環境がそこにはありました。

●「天才」的発想の秘密はどこにあるか?

 義経が「天才」と呼ばれるとしたら、それは発想が自由であったからに他なりません。この発想の自由は、天賦の才能などと言う前に、彼の意識が土地というしがらみに支配されていなかった結果であると筆者は捉えます。土地は確かに、自らのアイデンティティを保証する大事な基盤ですが、当時のように貴族と武家の権威の入り交じった社会では、守り抜く意志がなければあっという間に奪い取られ、没落してしまいます。人間的に有能でも、そこで発想が縛られてしまいます。現代人ではなかなか想像ができないほど、それは強い縛りであったと思うのです。

 義経はその点、良くも悪くも守るべきものがありません。あるのは、宿敵である平家を倒すという意識だけです。余計なことを考えずに、ただその一点だけに集中して考えることができました。現在でも人には多々しがらみがあり、発想はそこに左右されます。しかし義経は「自由」でした。他の武士たちと戦術の面で「差」が出てしまったのは、ある意味当然です。加えて、一所懸命の武士にも、都の貴族にも経験できないような、漂泊の人生を経験しています。奥州藤原氏との出会いによって、土地に縛られない貿易立国的な国づくりを目の当たりにします。

 たとえば、漂泊という言い方ではわかりにくいかもしれませんが、「農業を基盤にしない生活」と言い換えると、もうひとつの「日本の顔」が見えてきます。農耕が大陸より伝わる以前の、日本列島で展開された生活です。当時の日本人のことを考古学の世界では、縄文人と呼んでいます。縄文時代にも農耕はあったという指摘もありますが、かといって彼らは農耕に依存していたわけではありません。わざわざ田畑を耕さなくても生きていける環境が、そこにはありました。

 具体的には、狩猟・採集・漁労の生活です。ここでは深入りしませんが、かつての日本人(縄文人)は、日本列島に特有な、四季の巡り来る非常に恵まれた自然環境のおかげで、土地に縛られない自由な生活をほぼ1万年にわたって続けることができた。農耕を取り入れなかったのは、「遅れていた」からではありません。あえてそんな努力をする必要に迫られなかったからです。逆に、農耕を取り入れざるをえなくなったのは、一つは日本列島が寒冷化し、狩猟や採集だけでは食べていけなくなったから。その時点で、大陸の戦乱などから逃れた移民が、日本列島に、断続的に渡ってきていたようです。彼らが弥生人です。農耕の技術を持っていたため、自然とイニシアチブを取ることになっていきます。

●義経を支えた「非農耕民」の影

 縄文人はもともと栗やドングリなどを採取し、粉にして、パンなどの主食にしていたと考えられています。要するに、平地というより、山里が生活のフィールドだったわけですが、弥生人の農耕文化が伝播するに従い、その山里も徐々に浸食され、彼らと同化したり、あるいはより奥地に追いやられたりするようになったと考えられます。奥地は山間部というだけでなく、西から東へというベクトルとも重なります。日本の歴史は、大陸民を中心にした弥生人の活動とともに、徐々に西から東へと形作られていきます。司馬遼太郎氏風に言えば、弥生文化は「農耕と武具と天皇制とともに」日本列島に広がり、同化しない地域は征討の対象となりました。縄文人が蝦夷と呼ばれるようになったのもこうした過程によってです。

 長々とエライ昔の話を書いてしまいましたが、蝦夷とは基本は非農耕民であり、縄文人の血を引く原日本人であり、弥生人の子孫によって作り上げられた大和朝廷(天皇家)の政治システムの「外部」に存在していた異物であったわけです。義経の逸話に登場する天狗、昔話に頻繁に登場する鬼などは、この外部の存在に対する異称です。逃亡中に義経が扮したという山伏(修験者)の一行も、体制に収まりきらない「外部」です。土地を持たない義経には、彼らとの関わりが非常に強く感じられるのです。

 この日本の歴史の中の「二重構造」を、民俗学者の柳田国男は、平地民と山人の対比という位置づけで語っています。日本という国は、ご存知のように関東(東日本)と関西(西日本)で文化が大きく異なります。しかしそれだけではなく、一見農耕社会を基盤にしているように見えて、その背後には山人たち(縄文人の末裔)の見えない影響力がちらつきます。義経という希代の「軍事的天才」の秘密も、農耕文化=平地民の感覚、視点からだけでは見えてきません。

 中国大陸の歴史が、農耕民(漢民族)と遊牧民(騎馬民)のせめぎ合いの中で紡ぎ出されたように、日本には日本の、特有の二重構造が存在する。じつは義経と頼朝の関係も、この二重構造の型の反映とも言えるわけです。もちろん、謎の多い奥州藤原氏の存在も、この二重構造のなかから実態が浮かび上がってきます。歴史を裏舞台から支える山人たちを「まつろわぬ民」と表現する人もいますが、義経の郎党(武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛)などは、まさにまつろわぬ民の象徴です。

●「英雄」とは、失われた感覚を思い出させる存在

 要するに平地民の感覚で義経を捉えようとすると、神出鬼没、何を考えているかわからない不気味な存在となります。頼朝や、彼を担ぐ北条氏ら鎌倉武士が、義経にどうしてもなじめなかったのは、彼らもまた平地民であったからです。頼朝が血を分けた弟にもかかわらず、義経を他人のように扱ったのも、政治的意図であるという以上に、存在としてどこか気持ち悪かったからだと筆者は思います。

 もう少し細かく言うと、縄文人そのものは大陸系の農耕民とは違った意味で、定住志向を持っていたと考えられます。なかには丸木舟で海洋に乗り出して、果てはアメリカ大陸まで渡ったエネルギッシュな縄文人の存在も指摘されていますが、彼らを取り巻く平穏で豊かな生活環境は、基本的にのんびり、ゆったりしたものだったと思います。少なくとも、戦乱の絶えない大陸のスタンダードであった「弱肉強食」の感覚はあまり必要としなかったでしょう。一面の甘さにつながる彼らの精神性は、農耕社会の定着したのちも、日本人の意識に大きな影響を及ぼします。

 「和」を大事にし、争いごと(戦争)を極端に嫌う平安貴族、「正々堂々」の戦いを理想とする鎌倉武士、彼らは平地民の文化にどっぷり漬かりながら、じつは原日本人(縄文人)のDNAを無意識に受け継いでいると筆者は思います。しかし同時に、彼らの持っていたもう一つの顔、先に書いた丸木舟で大陸まで渡ってしまうような進取の精神、機動性、好奇心と言った感覚は、どこかで見失っていたのではないか? 都の秩序に背を向けて関東の原野を開拓した武士たちも、弥生人がもたらした大陸流の「弱肉強食」の感覚は十分受け継いでいました。しかし、「一所=土地」に執着する彼らは、「自由な冒険者」とは言い難かったはずです。

 要するに、義経が「英雄」として空前の人気を集めたのは、ただ単に戦が強かったからではないのです。当時の日本人が知らない間に見失っていた感覚(縄文時代の記憶の一部)を、彼は存在として体現していた。それはどこか子供っぽさを残した、既成概念にとらわれない自由な発想と行動力です。かつて自分たちも持っていたかもしれない感覚が、この小柄な若者の活躍で呼び起こされた。そこに義経の存在価値、人気の秘密が見いだせます。非農耕民的な生き方を強いられることで(実際にそうした系統の人々と接することで)、彼の中に縄文時代1万年のDNAが甦ったわけです。

 弥生人的な生き方をせざるをえなかった頼朝は、もしかしたら縄文人としての義経に恐れだけでなく、嫉妬を覚えたのかもしれません。そして義経もまた、縄文人が弥生人に生活圏を奪われていったように、束の間の栄華ののち、再び漂泊の運命を強いられ、歴史の表舞台から姿を消します。血のなせる業というなら、それはまさに歴史を俯瞰したときに見えてくる巨大な運命の綾のように思えるのです。

投稿者 長沼敬憲 : 16:35 | コメント (0)

義経を知る3つのキーワード(3)〜「奥州藤原氏」の不思議

●無視できない「縄文人=蝦夷」の影響力

 義経の背後に「異人」の影が見え隠れすることは前回指摘しましたが、この異人とは、東北に生活拠点をもつ蝦夷(えみし)とイコールと言ってもよく、特に精神的な面で、原日本人=縄文人のDNAを引き継いでいたと考えられます。縄文人は農耕文化を持った弥生人に追いやられた敗者のように捉えられがちですが、事実はそうでありません。繰り返し触れてきたように、有形無形に、後世の日本人の精神形成に大きな影を及ぼしています。

 飛躍に思われるかもしれませんが、義経を理解するには、縄文人の影響力を理解する必要があるということ。彼の活躍した時代、その影響力を具体的な形で体現していたのが、蝦夷の末裔であった奥州藤原氏の政権。後世の我々は単純に源氏が平氏に勝利して武士の政権(鎌倉幕府)が打ち立てられたと捉えがちですが、当時の情勢はもっと複雑です。少しそのあたりについて解説していきましょう。

 まず、当時の日本には、天皇制(律令システム)を戴く藤原氏の政権がありました。彼らの政治基盤は荘園と呼ばれる私領です。律令のシステムによって五幾七道に区分された全国の国々に国司が派遣され、一定の土地を割り当てられた農民から税を徴収し、財源とします。しかし、それは理念上のことで、実際には未開墾の土地が全国にいくらでもあったわけです。未開墾地も制度の上では国家のものですが、せっかく開墾した土地を所有できなければ張り合いがありません。

 地方の有力者は農民たちを使役して開墾した土地を、中央の有力者に形式的に寄進し、保護してもらうことで実利(管理料)を得るという道を選びました。これが荘園です。藤原氏が全盛の時代は、彼らのもとに土地の寄進が相次ぎました。藤原氏自身が作ったと言ってもいい律令の土地徴税システムは、彼ら自身によって形骸化され、彼らの繁栄のために都合よく作り替えられていたわけです。

●「第四の勢力」としての奥州藤原氏

 源氏や平氏などの武家は、もともと皇族から枝分かれした存在で、血筋も決して悪くはありませんでしたが、こうした貴族たちのガードマンのような、低い身分に甘んじていました。都ではうだつがあがらないため、平安時代の400年のなかで、彼らの中から地方に土着し、開墾する勢力が現れはじめます。当然、各地には貴族の開墾した荘園がありますから、権利の衝突が起こります。

 今の時代は「一つの土地に一人の権利」が当たり前で、日本の場合、「誰のものでもない土地」など、ほとんど存在しないので、なかなか実感できないかもしれません。しかし、当時の社会をイメージすると、開墾地と未開墾地が混在し、法律も十分に整備されていないため(荘園そのものが厳密には違法だったわけです)、所有者の権利も曖昧。中央で権力を独占していた藤原氏は、庇護者の立場でこうした「弱者の心理」を巧みに利用し、空前規模の繁栄を築いていきます。

 このやり方は藤原氏が衰退したのち、都で政権を握った平氏が踏襲します。もちろん平氏と一線を画す形で、院政を敷いていた法皇=天皇家(朝廷)も、国ガ領と呼ばれる事実上の私領を有していました。そして、関東には鎌倉武士の庇護者である源氏の勢力があり、彼らの頭目である頼朝は、後白河法皇との政治的駆け引きのなかで、全国各地に守護・地頭の設置を認めさせます。貴族の荘園がなくなったわけではなく、その荘園の新たな管理者として地頭が鎌倉から派遣されたわけです。となれば、権利の衝突にさらに拍車がかかるでしょう。土地をめぐる権利争いが、当時の政治・経済の中心課題であったことがわかるはずです。

 前置きが長くなってしまいましたが、奥州藤原氏の政権は、こうした朝廷、平氏、源氏の勢力とは、一線を画す「第4の勢力」でした。中央の藤原氏に対しては、領内の荘園、物産品を含め法外とも言える寄進を行うことで懐柔し、武力的・政治的衝突を極力避ける形で、実質的な独立政権として100年の繁栄を築いていました。中央からは俘囚などと蔑まれながら、史上名高い中尊寺の金色堂、毛越寺など、こと文化面での成熟度は都のレベルを数段上回っていたと評されています。

●義経の「不気味さ」と「優しさ」

 義経は京都を出奔したのち、この奥州藤原氏のもとで青春時代を過ごします。兄・頼朝の挙兵に際しては、当主・秀衡の政治的意図で、わずかな手勢のみで駆けつけますが、バックに奥州がついているという事実は変わりません。繰り返しますが、藤原を名乗っていても、彼らは得体の知れぬ蝦夷です。それがいつの間にか巧みな政治力すらも身につけ、中央の政権にも勝る勢力を築き上げている。情報の少なかった当時のことを考えれば、不気味さは増幅されていたでしょう。義経がいくら兄を慕ったところで、頼朝は素直に彼を受け入れられなかったはずです。

 奥州藤原氏の軍勢は、当時17万騎と称されていました。朝廷には軍事力がありませんから、平安末期は事実上、源氏、平氏、奥州藤原氏が並ぶ三国鼎立の状況です(源氏は一時期、鎌倉の頼朝と木曽の義仲とに二分されていました)。要するに、奥州の庇護をうけていた義経は、軍事的才能を語る以前に、すでに存在自体が政治的であったわけです。奥州のバックアップに、異例の戦果が加わることで、義経の神秘性(悪く言えば不気味さ)が増幅されていったのです。奥州政権の存在を過小評価してしまうと、義経の人間像も見誤ってしまいます。

 ただ面白いことに、義経はこうした強い政治的背景と軍事的才能を持ちながら、頼朝に対しては奇妙なまでに決定的な敵意を抱かなかったと言われています。「彼の性格が純粋だったからだ」というのが一般的な解釈かもしれませんが、それでは説明不足です。生まれつきの純粋さなど、環境の中でいくらでも変化します。筆者はここでも、土地に対する執着心のない彼の半生が大きく影響していると考えます。平家追討に執念を燃やした生き方は執着心の現れのように思えますが、史料をたどるかぎり、現代のスポーツマンに近いような印象があるからです。

 単純に言えば、純粋であったというより、どうにも人間が「優しい」のです。そして囚われというものが、淡白なほどにない。宿敵であった平家を滅ぼしてしまえば、彼らに対する恨みも消えてしまうのが義経です。壇ノ浦の戦いで生き残った平家の棟梁・宗盛の助命を口にしたり、「平家にあらずば人にあらず」と放言した平時忠の娘を京に凱旋してそうそうに娶ったり(そうした言動の一つ一つが政治家としての頼朝をいら立たせますが)、要はそれが義経という人間の本質であり、言い換えるなら、体制に収まりきらない自由人であったということです。だから英雄として憧れの対象にもなり、政治的に排除される存在にもなるわけです。

●奥州藤原氏にも通じる、義経の「優しさ」

 この優しさは、奥州藤原氏にも相通じる不思議な性質として、筆者の目には映ります。たびたび名前を出して申し訳ないですが、司馬遼太郎氏の語るような「政治的状況の読めない痴人、愚者」という辛口の義経評は、一つの見方にすぎません。それが間違いだったと言っているわけではないですが、義経の意識の根本には、政治的判断以前に、もっと単純な「兄とは争いたくない」という感情があったわけです。単純すぎる評価と思うかもしれませんが、この単純さは奥州藤原氏=蝦夷の持っていたであろう感覚、価値観ともつながってきます。

 頼朝から見れば、確かに義経は秩序の紊乱者です。彼の存在を許し、認めてしまえば、傘下の鎌倉武士たちにしめしがつきません。しかし、それはあくまでも頼朝の都合でしかないものです。もっと言ってしまえば、これまで繰り返してきたように、頼朝を操ろうとする北条氏の都合です。彼らの都合に振り回されすぎず、義経の本音をひもといていけば、「わざわざ兄と戦う意味がどこにあるのか?」ということに尽きていたはずです。それ以上の複雑さがないのが義経なのです。

 義経が平家を倒したのは彼自身の存在証明のようなもので、避けるわけにはいかない宿命であったことが感じ取れます。しかし、同じ戦でも、兄と戦うことにそのような宿命を見いだせたかどうか? 政治的判断と称して割り切ってしまえることのほうが、「愚か」だという見方も成り立ちます。実際、頼朝に宛てた有名な腰越状がにべもなく拒絶され、京都で彼からの刺客(土佐坊昌俊)に襲われたのちも、義経は鎌倉に攻め入ろうとはしていません。動員できる兵力がなかったことも理由の一つかもしれませんが、単純に気が乗らなかったからだと思うのです。

 九州で再起を図ろうという消去法のような選択をした義経は、船の難破でそれも果たせず、頼朝の追捕を逃れながら第二の故郷・奥州にたどり着きます。不運なことに、最大の庇護者であった当主の秀衡は、義経が奥州入りした1年後(1187・文治3年)に病死しますが、その臨終の間際に、世継ぎの泰衡、国衡(泰衡の異母兄)らに「義経を大将にして鎌倉と戦え」と遺言したと言われています。一般に泰衡は当主の器でなく、鎌倉の圧力を恐れるあまり、義経を衣川に襲い、殺害したということになっていますが、果たしてそうなのでしょうか?

●なぜ戦わなければならないのか?

 泰衡が無能だったかどうかは、じつは歴史的にハッキリ証明できるものではありません。「ロクに戦いもせずに、奥州藤原氏をあっさり滅ぼしてしまった張本人」という事実だけを前提にして、彼の器量も人間性も決めつけられている感があるのではないか? 仮に遺言通りに義経を大将にして鎌倉と一戦を交えれば、勝敗はともかく奥州は戦火に巻き込まれ、多くの人々が犠牲になったでしょう。そのうえで勝ったとしても、では、その先どのような展望があるのか? 

 奥州藤原氏の祖・清衡の父・藤原経清は、無益な戦を仕掛けてきた中央の政府に反抗し、前九年の役(1051〜1062年)で、当時の奥州の覇者であった安倍氏に加担し、敗れて斬首されます。頼朝=鎌倉の圧力は、戦を回避しようと自重する安倍氏を挑発し続け、最後には滅ぼした当時の棟梁・頼義のやり方と重なります。源氏の基盤を確固たるものにするために、蝦夷を敵として利用したわけです。

 経清の遺児・清衡は、後三年の役(1083〜1087年)を経て、奥州の覇権を確立したのち、あまりに多くの犠牲者を出した戦乱の傷跡を癒すため、大陸との交易で積極的に仏教文化を吸収し、国づくりの基盤にしています。精鋭17万騎と喧伝された兵力よりも、今日の東北人の気質にもどこか通じる平和志向の政治が、そこからは浮かび上がってきます。戦をしろと遺言した秀衡にしても、基本的には防衛思想がベースであり、長生きしたとしても、義経を先陣に鎌倉に攻め入ろうというような積極的な野心があったとは思えません。

 先に筆者は、義経と奥州藤原氏は、優しさの感覚でつながっていたのではと書きました。根拠についてはこれまで触れた通りです。要は、やる気のない(やる意義のない)戦争で勝っても、あるいは負けても、奥州は戦場となり、焦土になる可能性がある。祖先の供養を第一とする当時の最先端と言っていい仏教文化の中で、4代目の当主になった泰衡も育っています。中央の政治的思惑に振り回され、辛酸をなめてきた蝦夷の歴史も、少なからず聞かされてきたはずです。

●軍事的才能を濫用しなかった義経

 従来の解釈では、奥州藤原氏を滅亡に追いやった泰衡は「愚者」と位置づけられているわけですが、その必ずしも根拠のない前提を取り払ってしまえば、結果として、自らが滅びることを代償に戦争を回避した、平和志向の蝦夷の思想、精神性が浮かび上がってきます。義経が衣川で殺されたという定説自体、多くの書籍に当たり前のように書かれていますが、史実であったかどうか確証がないのが現実です。これは別の機会に書きますが、「泰衡が義経を殺したと見せかけて北に逃がした」という解釈も、状況的には十分に成り立つのです。

 ここまで読まれた方のなかには、おそらく、作家・高橋克彦氏が描いた長編小説「炎立つ」の世界観を思い浮かべた人もいるでしょう。「炎立つ」の評価についてもまた別の稿に譲りたいと思いますが、別に受け売りを書いてきたわけではありません。筆者がこの作品に共感をおぼえたのは確かですが、それは日本史の様々な場面で、同じようなシチュエーションが韻を踏むように繰り返されていることを知っていたからでもあります。奥州藤原氏だけに特異な例ではないのです。

 最近「振り返れば「神」になる」のなかで書いた徳川慶喜などは、この韻の一つの典型です。慶喜もまた才知があり、フランス仕込みの近代軍隊を握っていながら、薩摩・長州との政争に敗北したと知るや、味方を欺いて江戸に逃げ帰り、徹底的に恭順を表明します。慶喜の行為をただの腰抜けと見るか、無用な戦を回避した有能な政治家と見るかは、そのまま泰衡に対する評価とも重なります。

 もちろん同時に、卓越した軍事的才能を持ちながら、いたずらにその才能を浪費しなかった(自分にとって意味のある戦争にだけ用いた)義経の感覚は、時代の敗者になったことで逆に浮き彫りになったというのが、筆者の見方です。もちろん、泰衡が好戦的な人間で、秀衡の遺言をそのまま実行しようとする「愚直な」人間だったとしたら、多大な恩を受けてきた義経も異は唱えられなかったと思います。「自分たちが生き延びるために、義経の才能を用いようとしなかった」泰衡の判断があったからこそ、悲惨な戦争が避けられた。そういう解釈も成り立つわけです。

 義経と奥州藤原氏の背後には、蝦夷という言葉をキーワードに、縄文時代以来の日本特有の精神風土が隠れています。この風土の本質を理解し、日本人が何者であるかを知り、そのうえで個々の時代、人物、事績をたどっていくことで、ありのままの歴史が浮かび上がってくる。それが義経という「代表的日本人」を理解する、最も確実な方法であると言えるのではないでしょうか。

投稿者 長沼敬憲 : 16:32 | コメント (0)