2005年11月17日

吉田松陰の「プラス発想」の根っこにあるもの

先日、「日常感覚」のなかで船井幸雄氏について触れた際に、久々に吉田松陰のことを思い出した。
氏の著書に、下記のような記述があったからだ。

吉田松陰はご存じのように、幕末の思想家で、彼が教えていた松下村塾から、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、明治維新を推進した人物を多く輩出したことで、「能力を引き出す天才」として非常に高く評価されている人です。

彼は、この松下村塾でわずか1年余を教えただけで、約80人の弟子全員をすばらしい人財に育て上げたのです。
なぜ彼は、こんなに短期間でこれほど多くの人材を輩出させることができたのでしょうか。

吉田松陰が行なった人財づくりのコツは次の五つといっていいようです。
(ビジネス社「にんげん」より)

船井氏は、以上をふまえた上で、松蔭の教育法が自らが経営コンサルティングの世界で確立させてきた「長所伸展法」と合致することを指摘している。

ちなみにその長所伸展法(文中でいう五つのコツ)とは、

1、弟子が自分に自信を持てるようにした。
2、一人ひとりの得意分野を聞いて、それを伸ばした。
3、「付き合う人すべての長所を見つけ、褒めなさい」と教えた。
4、「良いと思うことはすぐにやりなさい。悪いと思うことはすぐにやめなさい」と教えた。
5、どんなこともプラス発想。

であるとしている。まあ、ある意味みんな当たり前のことなのだが、多くの人はこの当たり前がなかなかできない。わからない。
どちらかというと、長所伸展(良いところを伸ばそうとする)より短所是正(悪いところを直そうとする)ほうに目が向いてしまう。

筆者自身は、当人の受け止め方次第では「短所是正法」にも意味はある(有効である)と思っているが、じつはそんなふうに思えること自体がプラス発想。
その意味では、「プラス発想=長所伸展法」は、ただの脳天気な楽天主義ではないことも見えてくる。
包み込むためには、ネガティブなものさえも自らの意識の中に取り込んでいく必要があるからだ。
肯定というのは、その取り込まれたものの重さの中で生まれる。

というわけで、吉田松蔭がなぜあれほどまでに教え子たちを魅了したのか……? そこには、自分が感じ、とらえらせる世界のすべてを取り込んでしまおうという、壮絶としか言いようがない、松蔭の「器の大きさ」が見えてくる。
(あるいは、バカとも言い換えられるか。笑)

壮絶? すべてを取り込んでしまう? それがプラス発想??

いまひとつピンと来ない人のために、今回はみなもと太郎氏のマンガ「風雲児たち」より、こうした松蔭の精神構造がうまく描かれた箇所を紹介しよう。


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吉田松陰は本当にまあ、壮絶なくらい面白い人だ。
あんまり面白い人なので、彼のことを考えるとときどき涙がにじんでくる。


投稿者 長沼敬憲 : 22:12 | コメント (0)

2004年09月15日

西郷と征韓論〜背負った「十字架」の行方

●西郷はただの「没落者」なのか?

 今回は「徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男」のいわば続編。

 前回、日本の変革期の一つとして黒船来航(1853年)から西南戦争(1877年)までの20数年を一括りできると書きましたが、そのなかの主役の一人、徳川慶喜は前半のクライマックスで「不戦」というメッセージを残し、歴史の表舞台から姿を消す。このメッセージを結果として真正面から受け取ったのが、もう一人の主役、西郷隆盛。慶喜の「敵前逃亡」が、巡り巡って「勝者」であった西郷の没落(西南戦争での敗死)につながる……。

 よく語られているように、明治維新以降の政局は幕末期の業を背負った西郷と、新しい時代を切り開く意思を体現した盟友・大久保利通の、宿命的な「新旧対決」によって幕を開きます。大久保は、日本の封建時代のシステムをいちど総否定し、列強に対抗できうる文明力をつけるためのあらゆる改革に乗り出した人物。古いものを切り捨て新しいものを取り入れるには、自分自身の「情」をまず切り捨てる覚悟が必要ですが、慶喜と同様、彼はそれができる男でした。つまり、立場と境遇が違うだけで、非常によく似たタイプ。要は「敵」の姿が入れ代わり、しかも西郷にとってはそれが無二の親友だった分、苦悩は深化していきます。

 西郷という人物は、一言で表すなら、典型的な日本人。何がどう典型的かと言うと、良きにつけ悪しきにつけ、封建社会の体現者なのです。というと、ナーンダ、要するに古い観念に縛られていた人だったのかと思うかもしれませんが、ここまでぼくの作品を読んできた人ならば気づくはずです。古い=悪というのもただの決めつけ、価値観の一つに過ぎないということを。これがわからないと、やはり西郷もわかりません。「近代」という視点から見てしまえば、彼はただの巨大な没落者になってしまいます。
 

●「封建主義」を体現していた西郷

 西郷は確かに日本史では比類ないほどの巨大な「没落者」でしたが、巨大さゆえに現代のわれわれにも処理しきれない大きなメッセージを残しています。よく明治維新までの西郷は希代の戦略家、政略家として評価できるが、維新後は生彩を欠き、かつての輝きを失ってしまったなんて言われてますね。これは本当でしょうか? 筆者の目から見れば、西郷には西郷の理想が確固としてあり、それを政策にどう反映させるかに腐心した形跡が濃厚にある。彼の理想は大きすぎたので、当然思う通りにはいかなかったわけですが、それでも「無策」だったわけではないのです。

 まず西郷の「策」を理解するため、彼の行動を規定していた「情」の論理について話を進めていきましょう。この「情」の論理とは、すなわち封建社会の基礎にある価値観、日本人が長い歴史のなかで醸成してきた「和の精神」の結晶と考えてください。濃淡はあっても、西郷の時代、志を持っている者なら少なからず持ち合わせていた観念です。封建社会=和の社会の一完成形。これ、理解できますか?  この価値観をベースにして、それが欠落している欧米列強に対して「攘夷」を叫んだのです。盲目的な面ももちろんあったと思いますが、ただそれだけの感情で外国人を排除しようとしたわけではないわけです。

 西郷は列強に対抗できる政治体制を築くため、確かに幕府を倒した。しかし、この封建的な価値観まで否定していたわけではない。というより、それを見失ったら国は滅びると誰よりも強く危機感を持っていた。問題は、そうでありながら西郷自身、幕府を滅ぼすために主家である島津家を、事実上、裏切っているということ。しかも政略や戦略は編み出したが、資金や兵力はすべて島津家の持ち出し。それに「恩返し」ができたわけでもない。
 彼は主筋にあたる藩父・久光を嫌ってはいましたが、その久光を頼らないと何もできない自分の立場に相当な負い目も感じていた。そして、自分が倫理に反している=「不忠」であるとも思っていた。……このあたりの心情は、封建社会の「情」の論理をふまえないと、なかなか明確に読み取ることはできません。
 

●改革は「自己否定」であるということ

 西郷は維新後、官職にもつかず鹿児島に帰ってしまいます。知らない人は意外に感じるかもしれませんが、「維新の三傑」などと言われながら、71(明治4)年になるまで政府の上京出仕の催促を再三断っているのです。なぜか? 簡単に言えば、これから自分は何のために頑張ればいいのか? 肝心のことがわからなくなっていたのだと思います。なにしろ彼は出世欲も金銭欲もない人間です。幕府を倒すまでは「敵」が見えていたから頑張れました。最後の最後で姿をくらましてしまう、つかみどころのない「敵」でしたが、「敵」を支えていたシステムは壊すことができました。しかしそこからどうしたらいいのか……。

 繰り返しますが、彼には島津斉彬という絶対の主君がいた。彼が急死することで余人には想像できない喪失感を味わったと言われますが、幕末の段階では「敵」が存在したのでこの精神的危機に直面はしなかった。しかし自分自身が尽力し、もたらした維新の世では、直面どころか、この主君を戴くという封建社会のシステムそのものが否定されようとしていたわけです。

 そもそも薩摩という国(藩)は、主君を頂点とした上下間の緊張関係を「和」として育み、「強さ」を維持してきた共同体です。西郷もこの共同体によってその器をつくりあげてきた。そこに絶対の自信を持っていた。しかしこの「強さ」のシステムを維持しようとすると、御一新の改革は断行できない。そのカラクリも理解できる。……大仕事を成し遂げた西郷は、それと同時にこの屈折した状況を悟り、アイデンティティの危機、ある種の思考停止に陥ったのだと思います。

 といっても、もちろん現実は待ってくれない。答えの出ないままに、ついには上京し新政府の要人となった西郷は、大久保らとともに早速、廃藩置県を断行します。方々で語られているように「本当によくやったなあ」というほどの大改革です。大久保は、決断力のある優秀な政治家でしたが、でも自分だけではとてもこれを成し遂げられないから西郷を呼んだ。個人としての覚悟はできていても、世間を納得させるには西郷のような大きな「器」が必要だったわけです。

 しかも大久保は、大事を成し遂げたあと、国内の批判を交わすように、政府の主要閣僚と欧米歴訪の長旅に出発してしまいます。結果、旧勢力の圧力は、留守政府を任された西郷が一切引き受けることになる。事実関係だけ見ると、大久保を「ずるい」と思うかもしれませんが、二人のあうんの呼吸を考えると、これは一種の暗黙の了解だったようにも筆者には思えます。ただまあ、こうした役割分担がある程度見えていたから、西郷は憂鬱になり、なかなか腰を上げなかったわけでしょうが。
 

●大事なものが引き裂かれる「痛み」

 西郷に詳しい猪飼隆明氏(熊本大学教授)が、著書(「西郷隆盛〜西南戦争への道」岩波新書)のなかで面白いことを言っています。苦悩を抱えた西郷は、斉彬に代わる存在としてまだ年若い明治天皇に意識を向けるようになったのだと。

 事実、新政府に復帰した西郷は、折に触れ明治帝に帝王教育を施します。同じく養育にあたった山岡鉄太郎もそうですが、彼らは封建社会の価値観を洋装に身をまとった初めての天皇に全身全霊で伝えた。……て、こういう話をどう思いますか? 西郷は、優秀な官僚だけではいい国はつくれないと考えたのです。彼自身がそうであったように、人は仰ぎ見る存在があるから向上しようとする。

 筆者自身は天皇を仰ぎ見て育ったわけではないですが、西郷の感覚はよくわかります。彼の意識のなかには、郷里としての薩摩があり、島津家があり、自分の血縁があり、家族・兄弟がいたわけです。切っても切り離せないそれらのつながりのなかで、「みんなと一緒に」頑張ってきた。この全部をひっくるめて彼の中の「日本国」なのです。それは普通に「大事だな」と思えるものであるはずですが、明治新政府は革命的とも言えた近代化を断行するにあたり、この「大事だな」をどんどんと切り捨てていく。

 「改革には痛みが伴う」というのは小泉首相の言葉ですが、本当の痛みというのは自分の大事なものが引き裂かれる痛みであるはず。西郷は革命勢力のリーダーに君臨していながら、繊細なくらいにこの痛みを体感し、しかも逃げずにすべてを引き受けようとしていた。彼がことあるごとに死(自殺)を口走るようなエピソードを残しているのも、たぶん本当につらかったからです。こうした情を切り捨て現実の政治に向き合った大久保も、おそらく同種のつらさを体感していた。要するにここらへんが、性格のまったく異なる二人を結びつけていた、たぶん二人だけでしか共有できない「友情」だったのではないか……と思えるのです。
 

●あの時代の「気概」としての征韓論

 さて、こうした簡単に拭えない重荷を背負い込んでしまった西郷のもとに舞い込んできたのが、世論をも巻き込んだ征韓論争です。いろいろな形で論じられていますが、要点のみ言えば、東アジアの緊迫した情勢の中で、日本と同様、朝鮮(李氏朝鮮)も開国を迫られる。しかしこの国にも外国勢力を排撃しようとする攘夷思想が吹き荒れ、日本側(明治政府)の国交樹立の要請にも頑に応じない。

 もともと朝鮮が、一種の偏見として(それを中華思想などとも言うわけですが)、日本を文化的に一段劣った国とみなしてきたのは事実でしょう。その日本で政権交代があり、こともあろうに急激な西欧化が進んでいる。「魂を売り払ってしまった」くらいに思い、さらに軽蔑の度を深めたのは想像できます。よく言われているように、日本にとって朝鮮との「交流」は国防上の問題から不可欠だったわけですが、彼らの感覚からすれば「交流なんて何を生意気な」という話になってしまうわけです。

 また、もう少しミクロな問題としては、日本が送った国書に「皇」「勅」といった言葉が使われていたことに、朝鮮側が態度を硬化させたなんていうこともあるようです。彼らの価値観ではこれらを使えるのは、宗主国である中国(清国)だけですから。冷静になってみればかなりささいな問題ですが、国際問題というのは、案外こんなささいなところから発展していく面があります。実際問題、日本国内でも「朝鮮の非礼」に憤る声があちこちで起こるようになりました。放っておけばいずれ朝鮮が列強の餌食になってしまうという危機感は、ある意味、より多くの情報に接していた日本のほうが強かったかもしれないわけです。

 西郷はこうした「征韓論」の首魁のように見られてきた感がありますが、最近では「どうもそうでもなかったらしい」と言われています。
 確かに西郷は戊辰戦争で爆発しきれなかった武士(士族)のパワーの「使い道」として、対外戦争も有力な手段と捉えていた。しかしこれは西郷の独創ではなく、ひとつの「気概」としてあの時代の志士たちが共有していたものです。できることならこの「気概」を朝鮮とも共有したい。単純な侵略論というより、征韓論の本質はもう少しグローバルなのです。もっとも国家間のやりとりを見る限り、朝鮮はそういうエネルギーのある国でないのかもしれない、そんな「落胆」が広がっていくわけですが……(李氏による朝鮮王朝はすでに400年以上続き、日本の旧幕府以上にシステムは疲弊、硬直化していました)。
 

●国を滅ぼすのはどちらなのか?

 意外と知られてませんが、あの当時の日本にとって、朝鮮という国は現代以上に「近くて遠い国」だったのです(日朝間の「活発な交流」は、古代にでも遡らないかぎり見出せません)。

 である以上、両国のいざこざも誤解に基づいている可能性がある。国交樹立を拒絶した「朝鮮の非礼」は看過できないとしても、実際に話し合えば了解しあえるものかもしれない。西郷が「自分を朝鮮国への全権大使に任命してほしい」と運動を始めたのも、一つはそんな感覚があったからだと筆者は思います。なにしろ警護の兵も引き連れず、単身で乗り込み、朝鮮国政府と直談判すると言うわけです。それで殺されるようなことがあったら戦争を始めればいいと、強硬派をなだめ?ます。

 彼のこの主張にはいろいろな意味が見出せると思います。一つは、よく言われていることですが、彼が実際に死にたがっていたということ。しかし簡単に死ねる立場ではないから(無意味に自殺などしたら、それこそ日本国の浮沈に関わります)、死ぬなら「意味ある死」を選ぶ必要がある。といっても、突き詰めればこれは個人的な欲でしかありません。ただ死所を求めるために征韓論を利用するような人間であったなら、おそらく彼は日本を代表するような「器」にはなりえなかったでしょう。

 要するに彼にとってのポイントは、「朝鮮の非礼」が本当なのかどうか? ということ。反対派はそんなことよりも国力を充実させることのほうが大事だ、第一戦争をする金などないと主張しますが、西郷に言わせれば「その感覚が国を駄目にする第一歩だ」ということになる。戦争するかどうかは二の次。筋を通さずに効率ばかり優先していけば、表面上は発展するかもしれないが、見えないツケはどんどん溜っていく。国を滅ぼすのはどっちなのだと言いたかったのだと思います。


 ●西郷が日朝関係を好転させた可能性
 
 理想論のように聞こえるかもしれませんが、西郷にはこの理想によって幕末の混沌を打開させてきた実績があります。たとえば、前回もふれた有名な「江戸城無血開城」にしても、司令官であった彼の当初の方針は「前将軍慶喜の切腹」でした。しかし慶喜が恭順し、しかも徹底的に「不戦」を宣言したことで、旧幕府側の全権・勝海舟の申し出をあっさり受け入れます。

 筋さえ通っていれば、黒を簡単に白にも変えてしまえるのが、西郷という人間の度量であり、柔軟さです。好き嫌いの感情は人一倍強いにも関わらず、それに簡単には流されない。西郷と対面した人間は、そうした西郷の「器の大きさ」に心を打たれます。戦争を必要悪と認めながら、彼の根底にあったのは「和の精神」だったことが見えてくるはずです。

 その意味では、死を覚悟した朝鮮との単独交渉も、実現したら「成功」した可能性があります。というより、それができなかったから、その後の日朝関係がもつれたのだとも言うこともできる。それくらいの岐路だったし、西郷には「これができるのは自分しかいない」という意識があったから、必死で志願した。しかし、大久保にすればそれはハッキリ「ノー」でした。欧米への視察旅行を途中で切り上げ急いで帰国すると、彼はあの手のこの手で親友・西郷の運動を阻止にかかります。

 理性的に見ると、大久保の反対論のほうが現実的(合理的)で、リスクの少ない判断のように思えるかもしれません。しかし大久保は現実的すぎる現実論を主張することで、結果として日本人の精神的なものを置き去りにする道を選んだのです。生き残るための苦渋の決断……、確かにそうも言えるわけですが、どちらにしても究極の選択であったことがわかるのではないでしょうか。
 

●慶喜と同じ課題に直面した西郷

 お互いの政治生命を賭けた征韓論争は、日本史上稀に見る「攻防」の結果、西郷の敗北となり、失意の彼は新政府を去ります。もちろん、自分が背負い込んできた問題は何一つ解決されないままに、です。言ってみれば、朝鮮に向けられていた対立構造が、そのまま国内に転写されたの形になりました。国内問題なのだから他国(朝鮮)を巻き込むのはよくないという「理性的な意見」もあるでしょうが、問題を国内に凝縮させてしまった結果起きたのが、一連の士族の反乱です。当時の為政者の立場から考えれば、国内で無用なエネルギーが浪費され、有為な人材を失ったという判断にもなりえます。

 在野の巨大勢力になった西郷にしても、起死回生の「征韓論」に敗れた以上、もはや打つ手ナシという感覚だったでしょう。鹿児島に帰った西郷は、なるべく人に合うのを避け、大好きな犬と狩猟ばかりしていたようです。記録は断片的にしか残っていませんが、それこそいろんなことを考えたと思います。しかし、「征韓論」以上のいいアイデアは浮かばなかったと思います。

 なにしろ仮に決起し、政府に勝ったとしても、大久保という有能な人間(+彼を支持する政治家、官僚たち)が殺されるだけなのです。「征韓論」に敗れたことで、彼の中に見えていた政治的展望は消えてしまっています。その先の絵がはっきり描けないわけです。……と、ここで思い出しませんか? 西郷ら新政府軍に対し「敵前逃亡」した慶喜のことを。彼にしても同じでした。個人の欲で言えば、負けるより勝つほうがいい。しかし勝っても犠牲が出るだけで、他に何の意味も見出せないから(どう考えてもそういう結論しか出ないから)、逃げに逃げたのです。ライバルだった西郷にも、このとき同じ課題が突き付けられたわけです。


●西郷の「復活」はあるのか?

 決起した西郷が、異様なまでに無策だったのも、感覚としては慶喜と同じ判断力を持っていたからだと筆者は思うのです。彼に「私利私欲」があり、政権奪取を目論んでいたなら、もっと綿密に作戦を立て、時を選んで立ち上がっていた。しかし、改めて彼の生涯を振り返ると、彼にはそういう野望はまったくと言っていいほど見られません。感情の量が多いから欲望も多いように思うかもしれませんが、不思議なくらい「清廉潔白」なわけです。しかも、「敵」である大久保も体質的には同じなのです。

 きれいすぎる話に感じますか? でも、封建社会のなかできちんと教育を受けていれば、その必然として、こんなふうな「立派な人間」も出てくる。だから征韓論をめぐる二人の争いというのは、相当レベルが高いのです。二人とも平均値よりもずっと上の道徳観をごく普通に身につけていて、その上で「朝鮮の対応は非礼だから見過ごせない」「いや、大目に見ればいいではないか。国力をつけることのほうが先だ」とやっていた。一流のサムライが政治をやったらこうなるというものを見せていたわけです。

 西南戦争における西郷の無策ぶりはその通りだとしても、後世から見るならば、薩摩人の異様なまでの勇敢さは逆に際立ったわけで、戦記をたどっていくと一種独特の「感動」に出くわします。何なんだろう、この人たちっていう。「無意味な戦い」を通じて、封建社会の美徳、サムライとしての矜持といったものが、結果としてすべてさらけだされている。西郷はこうしたサムライたちの生命も何もかもすべて背負って、彼らと一緒に時代の幕引きをした。

 民主主義も資本主義も、大きな曲り角に来ているこの時代。十字架を背負って殉死した西郷が「復活」するのは、まさにいまなのかもしれません。主義以前に、「当たり前のことを思い出す」段階に来ているわけですから。

投稿者 長沼敬憲 : 16:45 | コメント (0)

2004年09月10日

徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男

●オーソドックスな眼で歴史を見る

 前回は新撰組のことについてあれこれ書いてみたが、彼らは決して幕末の主役ではない。もちろん主役であるかどうかと、魅力があるかどうかは必ずしもイコールではないわけで、言ってみればどんなキャストにも役割がある。そんなことを前回話した。ただ、あんまりこれを強調しすぎると、今度は主役の存在がかすんでしまう(見失ってしまう)から困ったものだ。

 特に日本の歴史では、主役の存在がわかりにくい側面がある。ピンと来ない人も多いかもしれないが、それは主役の力が弱いからではなく、むしろ強すぎて、逆に見えなくなっている(理解されにくくなっている)というものであると筆者は思っている。結果として脇役にばかりスポットが当たる。脇役が主役のようにみなされて、歴史を見る目がどんどんいびつになっていく。
 

 この点については、2册目の著書である「脳を超えてハラで生きる」のなかでも触れている。簡単に言ってしまえば、多士済々の幕末の人物のなかでも、主役と呼ぶことのできるのはただ二人、徳川慶喜と西郷隆盛であるということ。坂本竜馬でも高杉晋作でも新撰組でもない。個々の人物に魅力を感じたり、何かを学んだりすることはもちろんあるし、否定はしないが、歴史を見る、時代を見るということはそういうことではない。もう少し広い視野から物事を展望するということだ。

 これがわからないと見た目が華やかな、魅力的な人間に過剰に肩入れしてしまって、その分視野が狭くなる。また、それだけでなく、本来評価するべき人間を不当評価してしまい、筆者の言うところの「物事を見るオーソドックスな眼」がいつまで経っても養えない。当たり前のことがわかったほうが、当たり前でないことの価値も見えてくるのである。当たり前のことのなかにひそむ凄まじさが感じられると、普通に生きることの面白さも見えてくる。慶喜と西郷からはそんなことが「学べる」わけである。
 

●弱小派閥のリーダーだった慶喜

 幕末と呼ばれる時代は、日本の歴史の大きな変革期の一つにあたるが、この変革期はもう少し具体的に、黒船来航(1853年)から西南戦争(1877年)までの20数年ほどを一括りにしたほうがわかりやすい。今回取り上げる慶喜と西郷という二人の主役の「対決」は、この変革期のちょうど中間点、クライマックスの部分に該当すると考えたらいい。

 まず慶喜の話から。彼が政局の表舞台に登場するのは、将軍後見職に就いた1862年から。井伊大老が桜田門外の変で暗殺されたのが60年。慶喜を次期将軍候補に画策してきた父・斉昭も同じ年に亡くなっており、結果として26歳の慶喜の登場は一種の世代交代のような形になっている。ただ後見職という微妙な名称の役柄(実態は名誉職に近かったようだ)からもわかるとおり、強い政治基盤を持っていたわけではない。

 これは面白いのでべつの機会に詳しく書きたいが、水戸藩出身の慶喜は、幕府内の外様のような存在だったのである。言い換えるなら、弱小派閥。いまでいう自民党のような巨大派閥(いまはそれほどでもないか?)を形成していたのは、紀州藩に血縁をもつグループ。紀州藩というのは水戸藩と同じ御三家の一つだが、徳川本家が7代将軍を最後に血筋が絶えてしまって以降、事実上の徳川本家として磐石の基盤を築いてきた。そう、8代将軍・吉宗を祖とする血脈である。

 幕府内に味方のほとんどいなかった慶喜は、ほとんどおのれの才覚と行動力だけを頼りに、幕末の複雑な政局に対峙してきた。そうせざるをえなかったから、その状況下で彼独自の政治能力を発達させた。そしてギリギリの土壇場で最後の将軍に就任するわけだが(1867年)、彼が何故あっさりと「大政奉還」できたのか? 彼の活動地盤を見ればある程度理解できるはずだ。幕府という組織はむしろ自分の足を引っ張ってきた存在であり、同時に日本という「国家」にとっても害悪であることが彼には見えていたからだ。まずこの点が理解できないと、慶喜の発想も行動も一気に見えにくくなる。
 

●「情」によって育てられた西郷

 一方の西郷も、よく似た経緯で同じ時期に表舞台に登場している。彼の場合は人生の師匠とも言える存在がいた。主君である薩摩藩主・島津斉彬である。斉彬は外様大名ながら、慶喜を次期将軍に推す一派に属していた。改革派、開明派と言ってもいい。しかし安政の大獄の直前(1858年)に斉彬は急死。このあと弟の久光が自分の息子を藩主にして、後見役として実権を握る。

 西郷は久光のことが嫌いだったようだ。というより、主君斉彬は久光一派によって毒殺されたと思い込んでいたから(その可能性も限りなく高い)、憎んでいたと言い換えてもいい。西郷を理解する際に重要なのはこの点だ。簡単に言ってしまえば、彼の場合、感情の量というものが人並みはずれているのである。だから自分を引き立ててくれた斉彬に対しては、終生神に接するくらいの敬慕の念を持っていたが、反面、久光に対しては主筋であっても憎しみを露にしてしまうわけである。

 ただ彼の単純でないところは、だからといって、藩そのものに不信を抱いたわけではないとうことだ。慶喜と違い、彼には薩摩藩というバックボーンが生涯ついてまわった。「ふるさと」と言い換えてもいい。慶喜には「ふるさと」があるようでなかった。彼が政局に対してどこまでもクールになれたのは、情を喚起させるような環境が用意されてこなかったところにもよる。一方西郷は、この情によって自分自身を育て上げ、人を育ててきた。薩摩藩という風土の器が、自分の器をつくる媒介にもなっていたわけである。
 

●最も反幕的だった「最後の将軍」

 味方のいない孤軍奮闘の将軍後見職・慶喜と、大嫌いな久光に仕えながら実質藩のナンバー1として政局に乗り出した西郷。西郷には、情が過剰に溢れ出してしまう自分の欠点を補完する存在として、慶喜に匹敵するほどのクールで明晰な頭脳を持った、盟友の大久保利通がいた。大久保に限らず、彼の形成した情のネットワークは、藩内の下級武士を中心に、「西郷どんのためならいま死んでもよか」という無数の支持者を生み出していた。一見すると西郷のほうが恵まれているが、そうとばかりは言えない面もある。

 まず歴史の流れをたどっておこう。幕末の政局が大きく変動したのは、薩摩藩が長州藩と軍事同盟を締結してからだ(1866年)。薩摩藩は第二次長州征討への出兵を拒否するなど、徐々に反幕色を鮮明にしていく。要は政治的判断から幕府を見限ったということだ。その幕府が長州征討に失敗し、将軍・家茂が死去し、万策尽きたような状況で、慶喜が「最後の将軍」に就任する(1867年)。再建を託されたというより、もはやほかになり手がいなかったからというのが実情だったかもしれない。

 西郷のように精神的な足かせのない慶喜は、ある意味薩摩や長州藩以上に反幕的だったと言っていい。しかしそうであると同時に、自分自身の地位をうまく利用して、政治の主導権を握ることのできる立場にもいた。幕府の政権をそっくり朝廷に譲り渡してしまうというウルトラC的な離れ業は、べつに慶喜が考案したものではない。しかしこれを受け入れたのは慶喜である。彼は刻々と変動する複雑な政局のなかでの一手として、自分自身の立場を一度身軽にして、そのうえで実権を握る策を模索していた。

 これは簡単なことのようで非常にリスクを伴うことだ。自分の権力基盤を放棄してしまうわけだから、すべてを失ってしまう可能性もある。ただ無責任に放り出したという見方は、彼が政治家であるという当たり前の事実を無視していると思う。一つの覚悟をもって、政治という名の将棋の駒を進めた。もちろんこの一手に関しては、西郷も(大久保も、彼とつながる宮中の岩倉具視も)その意図をある程度見抜いていた。つまり、あの策士がただ放り出すはずはないと。次の手を考えているはずだと。
 

●慶喜に課せられた「最高度の選択」

 そこで慶喜の策(大政奉還)を一気に覆す策として、「大政復古の大号令」が出される。大政奉還が1867年の10月。王政復古はそのわずか2か月後の12月。幕府という政権基盤だけでなく、将軍職と徳川家の領地も朝廷に返還せよ(辞官納地)、つまり形だけでなく実質的にすべて「奉還」しろという要求であるわけだが、これは要するに朝廷が薩摩派、倒幕派に牛耳られたということだ。事実上、政治家としての慶喜の敗北を意味している。しかし敗北が敗北だけで終わらない。

 「敗北」を理解した慶喜は将軍職を辞し、大阪に退去するが、彼を京都で曲がりなりに支えてきた幕府方の諸将の気持ちは収まらない。具体的にいえば、会津藩、桑名藩、新撰組などである。孤軍奮闘という言葉のよく似合う慶喜と言えど、幕府再建にすべてを投げうってきた彼らの「気持ち」まで無視してしまうと、それこそ立場はなくなる。しかしそうこうしているうちに、暴発した会津藩ら「旧幕府軍」が、鳥羽伏見の戦いで倒幕軍に敗れてしまった(1868年1月)。慶喜はこの瞬間に「朝敵」となった。

 幕末の政局は、朝廷を中心にまわっていた。その朝廷の実権を薩摩派に奪われ、戦闘にも敗れたことで、慶喜は朝廷の敵=反乱軍の総責任者とでも言うべき烙印が押された。ただ、大阪に逃げ帰った将兵たちの戦意が衰えているわけではない。将軍就任直後、慶喜はフランス公使と会談して軍事的協力を取り付けているから、近代的な軍隊を編成して倒幕軍と対峙することも可能ではあった。大阪湾には幕府自慢の近代海軍も待機している。と、ここで政治家・慶喜に最高度の選択が求められることになる。

 一番「簡単」なことは自らが陣頭指揮して倒幕軍と戦い、勝利によって政局の主導権を再び奪い返すということだ。現に倒幕派の西郷らはその可能性も想定し、天皇を擁してゲリラ戦を辞さない覚悟を決めていた。西郷の場合、半ばそれを求めていたようだ。感情パワーの並外れた彼からすれば、ギリギリの革命戦を戦い抜かない限り国は一つにならない、人間に本気は生まれないと信念を持っていた。一歩間違えば逆に列強の餌食になりかねない「危険思想」だが、倒幕派がただの政権奪取を目的にしていたわけでない以上(実際に強い国を作っていかねばならないという切実な命題があった以上)、こうした発想が生まれることも必然。ただ、西郷のような感情エネルギー、人的ネットワークを持ち合わせていない慶喜からすれば、それはありえない発想だった。
 

●「敵前逃亡」という政治的判断

 慶喜は過熱する将兵たちに出馬を堂々と宣言したのち、夜陰にまぎれて城外に退去し、軍艦に乗って江戸に逃げ帰ってしまう。しかも会津藩主、桑名藩主ら陣頭指揮を取れうる立場の人間もすべて帯同して。これで旧幕府軍は実質的な戦闘能力を失い、全面対決は消滅した。加えて慶喜は、江戸に帰ってからもひたすら恭順の意を示し、旧幕府方の旗頭になることを拒否しつづけた。その結果、鳥羽伏見の開戦の時点ではまったく先の読めなかった戦局も、驚くほどのスムーズさで終息に向かっていった。

 慶喜が「戦わない」ことを宣言したことで、江戸城も無血開城された。会津藩、桑名藩らは東北を拠点に最後まで抵抗したが、旗頭が不戦を表明した以上、展望があっての抵抗であったわけではない。自分たちの意地を後世に示す形でしか戦闘は続けられなかった。幕府海軍を率いた榎本武揚も函館に疑似政府をつくるまでは頑張れたが、それ以上の戦闘意欲を持続できなかった。延々と泥沼のように続く可能性のあった内戦(戊辰戦争)は、結局、1年あまりで終結してしまった。

 後世の人間は慶喜の「敵前逃亡」を批判するが、それは高度な政治的判断であったと筆者は思う。自分自身の生命すら奪われかねない沸騰した戦局のなかで、よくもまあ「逃げる」という選択ができたものだ。しかもただ逃げたわけではなく、自軍の戦闘力すら奪っている。もし戦っていたら……、要するにそれは西郷らの「思うつぼ」でもあったわけだが、慶喜は賊軍の汚名をいいように着せられて最後は首を刎ねられ終わったかもしれない。戦争も長引いておそらく相当な数の人命も奪われたはずである。
 

●教訓としての英雄児・河井継之助

 同時代、越後の長岡藩の執政(事実上のリーダー)に、河井継之助という人物がいた。小藩(約7万石)を率いるには惜しいと言われた逸材で、幕末の情勢を冷静に把握し、藩政改革を次々と成し遂げ、近代的な軍隊を率いて倒幕軍に対峙した。長岡藩は譜代大名の系譜であったから旧幕府軍に加担するのが自然だったが、河井はスイスのような中立国の立場から、旧幕・倒幕両軍の橋渡しのような役割を構想したようだ。しかし構想は実現せず、最終的には倒幕軍と戦って敗れ、長岡は焦土と化した。

 このあたりは司馬遼太郎の「峠」「英雄児」といった小説に詳しいが、司馬氏は河井を認めながら、「英雄児であることが無用な戦いを生むことの皮肉」を作品のなかで語っていたように思う。氏は慶喜のことを「才子、才に溺れる」の典型のように別の作品で描いているが、では慶喜が英雄児のように振る舞ったらどうなっていただろう? 強くなるために集めた武器や軍隊は、為政者にとっては戦うことへの誘惑にもつながる。河井のような俊才ですら、利あらずと思いながらも、最後は追い詰められ武器をとった。

 慶喜がこの誘惑に駆られなかったのを「勇気がなかった」と評するのは容易いが、そう言ってしまうと見えなくなるものが確実にある。たとえば西郷についてである。慶喜が一切の戦いから手を引いたことで、倒幕軍の総大将のような立場にあった西郷には、本来慶喜が担うべきであった役割を押し付けられるような格好になってしまった。中途半端な形で決着がついてしまったため、戦闘意欲そのものは明治維新以後も国内に充満し続けた。これを何とかしなければ、国はまとまらない。西郷は新たに「征韓論」を唱えることで、このエネルギーを解消させようとした。新たな方策を提示しなければならない羽目に陥った。
 

●ハイレベルの「丸投げ合戦」だった慶喜と西郷

 西郷と征韓論のかかわりについては、長くなるのでまた機会を改めて話すことにしよう。簡単に結論めいたことだけ言えば、西郷は慶喜の仕掛けた「敵前逃亡」という究極の一手によって、最後は西南戦争という巨大な「敗北」を喫したのである。そしてこの敗北によって時代の変革は事実上完了し、明治政府が国家として機能し始めていく。

 慶喜と西郷の「対決」は、両者がどれほど相手のことを意識していたかはわからないが、後世の人間の目から見ると、巨大な「丸投げ合戦」のように映る。政権をごろんと丸投げしただけでなく、自分自身のプライドをも平気で丸投げして敵前逃亡した慶喜。これに対して西郷は、その丸投げに従うように江戸城無血開城を実現させた。半ばはぐらかされた形ではあるが、自分自身の革命思想、戦闘意欲を丸投げし、最後は自分自身の生命をも丸投げし、薩摩隼人とともに西南戦争に殉じた。

 この意味では実質的な「勝者」は慶喜であったのかもしれないが、彼は明治に入って表舞台に一切現れていない。このへん見事な引き際ではないだろうか? 幕府瓦解の時点でまだ32歳と意欲も気力も充実していた年齢であったにも関わらず、すべてを丸投げしてしまった自分の立場を彼はよく理解していたのだと筆者は思う。何不自由ないお殿さまでありながら自分自身で何でも器用にこなすことのできた彼は、残りの半生をひたすら趣味の世界に生きた。カメラをやり、自転車に乗り、乗馬や弓術や狩猟をたしなみ、それぞれ玄人はだしの芸に達しながら、誰に披露するわけでもなく楽しみ続けた達人の人生だったようにも思う。

 幕末という時代は、慶喜と西郷という性格もバックボーンも180度異なる横綱が存在し、この対立軸をベースとすることで希有な変革を成し遂げることができた。キーワードは「潔さ」だと筆者は思っている。慶喜をただの才子と見てしまうと、西郷の評価すら見えにくくなる。二人の横綱の価値の見えない人が、いくら坂本竜馬を凄いと言ったところで、じつは竜馬のよさすらも本当には見えてはこない。それは時代が一つの舞台であり、それぞれに役が与えられている以上、舞台そのものを見る目が必要だからだ。

投稿者 長沼敬憲 : 16:48 | コメント (0)

2004年08月21日

新撰組は面白い

●魅力は「敗者の美学」にあらず

 三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新撰組!」の評判が結構いい。ぼくもずっと仕事が忙しくて見れなかったが、6月くらいから時間が作れるようになり、最近では毎週見ている。確かに面白い。最初から見ていればと少し後悔している。ここではドラマを離れて、歴史上の新撰組について、ぼくなりの視点からつづってみたいと思う。

 まずやはり、定説を疑ってみることから始めてみよう。新撰組というのは後世の我々から見ると、「敗者」のポジションに位置している。時代の趨勢を見抜く眼がなく、ひたすら幕府に忠義を尽くした結果、時代の徒花となってしまった存在……、要するに(ドラマでもそうだが)坂本竜馬あたりの先見性と対比させながら、彼らの思想の古さが指摘されている。まあ、それはまったく外れてはいないだろう。竜馬にそうした眼があったことも間違いでないかもしれない。

 しかし単純な話、「武田信玄」のところでも書いたが、その人の人生というのもは生まれ育った環境や本人の生来の性格に大きく規定されている。運命論ではないが、環境や性格の呪縛から人は逃れられない。逃れられると思って抵抗しても、それは生涯ついてまわる。でもそれは不自由なことでは必ずしもないというのが、ぼくの感覚。逃れられない代わりに逆に受け入れてしまうと、その途端に「らしさ」が発揮できるようになる。人生にはそうした救いのツボが用意されている。だから新撰組に魅力があるとしたら、それは簡単に「敗者の美学」などと表現してしまわず、彼らは彼らなりに自分たちの運命を受け入れ、「らしさ」を形にすることができたと捉えたほうがいい。それは一つの成功だし、そのありようが後世にも伝わってくるから、ドラマにもなりうるわけである。
 

●「サムライ」というキーワード

 では、新撰組の中心メンバーの意識を規定していたものは何だったか? それは自分たちが「多摩の百姓」であるということだったと、ぼくも思っている。彼らは長州藩士でも土佐藩士でも、幕府の旗本でもなかった。仮にぼくが「多摩の百姓」に生まれたとしても、やはり佐幕的な意識はかなり強く養われたと思う。そしてその意識をベースにして自分の人生、身の振り方を考える。たとえ幕府の行く末を見限るとしても、ではどう見限るのか、そこでの出処進退が問われてくる。どこで生まれ育ったかが自分の生き方を規定するが、自分の価値までは規定されない。価値は結局ふるまい方で決まってくる。これを誤解している人が多い。

 これも単純な話、その出処進退のなかで「卑怯なふるまい」、「ずるいふるまい」をしたら、それがその人の評価になる。殺されないで維新後に要職にありつけたとしても、そういう人間は残念だけれど魅力的には映らない。そこらへんが人生の奥深いところだし、敗者も勝者も平等に扱われる歴史の面白いところだ。である以上問題となってくるのは、新撰組はその規定された運命の中で、どんなふるまい方をしたのか? あるいは、そのふるまい方の根底にどんな理想がひそんでいたのか? つまり彼らは何を規範にして、自分たちの生き方を模索したのか? そんなことが気になってくるわけである。

 彼らの規範となっていたのは、サムライというキーワードに集約される。サムライというのは、ある意味で日本人の歴史上最大級の発明品であったわけで、それは実際の武士階級を指す言葉というより、日本人の価値観や憧れを表す観念用語のようなものと思ったほうがいい。その観念用語が幕末にもなると「多摩の百姓」の意識のなかにまで及んでいたわけである。

 これに関連して、少し面白い話をしよう。観念と書いたが馬鹿にしてはいけない。たとえば人が牢獄に閉じ込められたとしたら、行動が制約される分、まずなによりも観念が発達する(発達しない人は気がヘンになる)。この譬えではピンと来ないかもしれないが、要するに江戸時代というのは武士階級にとって、本来の活躍できる場=戦場がほとんど無くなってしまった以上、牢獄に閉じ込められたような時代に等しかった。もちろん、牢獄と言っても一応身分は保証されているし、食事もとれるし、恋もできる。人生はそれなりに楽しめるから、閉じ込められているなんて感じたのはごく限られた一部だったかもしれない。しかし実際にそう感じていた人はいた。ひとたび真面目に考えれば、「平時の武士」という身分ほど、自分の存在証明が危うくなる存在はないからだ。
 

●「大石内蔵助」の先に「近藤勇」がいる
 
 その名の通りの「サムライ」という本のなかでも書いたことだけれど、サムライが人の生き方を規定する観念にまで昇華したのは、やはり江戸時代の260年にあったとぼくは思う。戦時ではなく平時であったからこそ、サムライらしい生き方がことさらに意識され、憧憬され、学問的にも扱われ、その結果、日本の隅々にまで「サムライ=凄いもの」という価値が広まった。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、このサムライ観念を観念としてではなく、実際に形に表した人たちがいるということで驚かれ、注目を集めた。「忠臣蔵」の名のもとに一つのドラマに仕立て上げられ、後世に伝わることとなった。

 少し余談になるが、ぼくは討ち入りの首謀者・大石内蔵助が結構好きだ。彼は伝わるところによると相当にとぼけた人だったみたいで、サムライという観念を心のなかで意識していても、そんなことはおくびにも出さないどこか隠者みたいな感覚を持っていた。だからあんな松の廊下事件みたいなものがなければ、ヘンな話、彼の正体?は一生気づかれないままだったろうし、当の彼自身、それを別に不満に思うような人ではなかっただろう。

 ただどういう因果か、彼の中のサムライが試される事態に巻き込まれ、彼はそのなかで高いレベルの答えを出した。すなわち、ただ憤慨して仇討ちを果たそうなんて思ったわけではなく、その機会を通じて「自分が何を伝えられるか」を考えたのが大石の凄み。そんな感覚のスマートさ、飄々とした意識のありようがぼくは好きであるわけだ。

 まあ、彼の話はこれくらいにして、新撰組の話を続けよう。忠臣蔵は江戸時代中期の出来事だったが、新撰組の登場するのはさらに後世、100年以上ものちの幕末のこと。繰り返すが、彼らの時代ともなると大石が示したようなサムライ感覚は、武士階級を飛び越えて「多摩の百姓」にまで波及していた。要するに、男の子の憧れとして身分階級を問わず「立派なお侍さん」のイメージがかなり強く定着していた。歴とした身分のなかった近藤勇や土方歳三らにすれば、自分たちの「らしさ」を発揮するためには、この憧れがとても重要だった。それはまさに、拠り所としてなくてはならないもの、命に代えても守らなければならないもの。日本の歴史のなかで育まれた一つのリアルな観念が、広くあの時代の人々の価値観を規定していたわけである。
 

●「尊王攘夷」は馬鹿げていたのか?

 さて、こうした新撰組をはじめとするサムライたちの最大の関心事は、「尊王攘夷」という言葉に集約されていたことはご存じだろう。尊王とは皇室を尊ぶこと、攘夷とは黒船=外国の勢力を追い払うこと。でもこれは相当に単純な直訳で、テストでは点は取れても?当時の実情はわからない。尊王は日本人が黒船に接しアイデンティティに目覚めた時、自分たちの国がどんなシステムで成り立っているか初めて理解できたことを意味している。日本は一番大事なものがつねにベールに隠されている。天皇という権力そのものは有名無実でも、仕組みから見れば国主であり、将軍家は国主に任命されて国を守っているという立場になる。

 平和な時はほとんど議論にもならなかったが、黒船という実際の危機が迫った時、徳川将軍家は戦わなければアイデンティティが保てないシステム上の立場が浮き彫りになった。戦えませんと言ったら、「将軍=指揮官」なのだから自己否定になる。智者ならばこれが幕府のアキレス腱であったことに気づいただろう。当の幕府にしても、戦えないなどとは口が裂けても言えないから、結果、政策も制約されてくる。この難しい舵取りの中で、それでも開国した幕府がいかに理性的だったか、逆にわかるはずだ。たとえばお隣の朝鮮(李氏朝鮮)や中国(清国)は、それが十分認識できなかった。だから近代化の波に乗れなかった。

 よく攘夷思想を野蛮だ、非現実的だと、あの時代を覆った一種のヒステリー現象のように捉えたがる人がいるが、これも後世の人間が陥りがちな傲慢さの現れとぼくは思う。当時の実情を考えたらこれは当然沸き上がる「感情」。病気のように言ってしまったらあの時代の人たちの危機感が見えなくなる。誤解されがちだが、攘夷思想もじつは相当に理性的な側面があった。なぜなら欧米列強は実際に「野蛮な侵略者」であり、アヘン戦争のあまりに無茶苦茶な実態などは、当時の知識人を中心にかなり具体的に伝わっていた。そこまで詳しくは知らない庶民でも、平和親善のために彼らがやって来たなどとおめでたいことを考えるはずがない。

 繰り返すが、幕府はそれにも関わらず開国政策を敷いた。それでまず国を強くしようとした。一方、反幕府の長州藩などは国民感情をベースに半ば意図して攘夷を迫った。攘夷を迫ることは狂気でもあるが、その狂気の中でこそ人は目覚める。西郷隆盛などはそれをかなり自覚していたようだ。まさに時代の子。要は新撰組は、いわばアイデンティティ論争のなかでその一方に組みしていた。といっても、精神としての攘夷はサムライだから持ち合わせている。そしてそれは時代認識から見れば、別に錯誤ではない。そうなってくれば彼らのことを時代を見る眼がなかったとか、そうした観点から「敗者の美学」で描くのは非常に表層的となる。


●「公武合体」という日本的な発想

 時代が幕末から明治へと移り変わった背景には、もう少し高度な応酬が存在している。そのことは「徳川慶喜〜西郷に十字架を背負わせた男」の稿で触れるとして、ここではもう一つ、面白い指摘をしておこう。新撰組の面々は、近藤も土方もみな「多摩の百姓」であるから、徳川将軍家には当然強い忠誠心がある。しかしだからといって、天子様(天皇)に何か恨みがあるわけではない。天子様を担ごうとした長州藩は憎っくき敵だが、尊皇意識もまた当然のことながら持っている。これは当時生きていた日本人からすれば、ある意味ごく平均的で、きわめてまっとうな感覚。この世論を背景にして生まれたのが、「公武合体」という発想(ないし政策)である。
 

「公武合体」って、本当に日本人的な発想だなとつくづく思う。幕府×長州といった対立概念は確かにあるが、突き詰めるとどちらも「公=朝廷」は大切だと思っている。というより否定する理由が発想のなかにない。欧米列強や中国の感覚からすれば、そんな朝廷だなんて力を失った段階で価値は失ったと思うだろうし、現に滅ぼされていただろう。しかしどの時代を切り取っても天皇家そのものを無くしてしまおうとは誰も考えなかった(乗っ取ろうとしたケースはあるが)。

 幕末においても、長州は基本的に天下の少数勢力だから、日本人の多くは朝廷(公)と幕府と(武)が仲良くすれば問題は解決すると感じていた。坂本竜馬などはそうあるべきだと積極的に画策していたし、戦争と言えばイコール攘夷だった。その課題は実際にも、明治政府が引き継いでいる。策士であった土方の眼が特別曇っていたわけではない。竜馬にしてもギリギリのところで暗殺され、誰もが予想しなかった「王政復古のクーデター」が起こっている。このへんの情勢は複雑だ。勝ち負けや善悪の境界を超えている。勝者と敗者は単純に分けられない。いずれにしても日本は世界史的に見ると、きわめて不思議な原理のなかで動いている。新撰組もまたその不思議な歴史の中である一定の役を演じ、そのなかで自分たちの「らしさ」を残したのだと見たほうがいい。
 

●「思い通りにならない」ことは不幸?

 とはいえ、以上は俯瞰した見方であって、個々の新撰組隊士たちからすればやはり敗北感はあっただろう。たとえばぼくなりに「もし自分が新撰組の一員だったら?」と想像したら、おそらくもう、あまりに思い通りにいかないことの連続で、ドロドロしていて、不満と不安だらけで……、表面だけなぞってカッコイイなどと言われても確かに違うと思うだろう。でも、その点をふまえてさらに想像を働かせるなら、そんな「思い通りにいかないことの連続」はじつは勝者も敗者も等しく味わっている現実とも言える。単純な話、彼らを「かわいそう」と言ってしまえば、自分もまたそうした「かわいそう」な一員になる。

 しかしそれは捉え方の一つに過ぎない。現実問題として、思い通りにならないから不幸だとか不自由だとは、必ずしも言えない。ぼくが「敗者の美学」という言葉に終始一貫して引っ掛かるのはこの点で、要は当たり前のことだが、ジャイアンツの選手であろうが身売り寸前?とも言われるオリックスの選手であろうが、「らしさ」を発揮できるかどうかはその選手次第。この当たり前の目から見れば、新撰組は思想・発想に関わりなく、やはり魅力的で、それゆえに歴史に名前が残ったのだとわかってくる。その魅力についてはドラマでも書籍でも存分に書かれているので、ここでは特に取りあげはしません。

 要は、使い古されたキャッチフレーズに惑わされずに物事は見たほうが、余計な前提条件もなく、いいものはいいと素直に思える。キャッチフレーズは往々にしてレッテルに変わるし、人はどうしても善悪の二分法が好きだから、常にこのことは自覚しておいたほうがいい。土方歳三の霊?がたとえ人生を呪っていたとしても、後世に生きる「神」の立場にいるわれわれは、逆に彼に「そうでもなかったはずですよ」と言ってあげられる。このことに気づいたほうが、もっと鮮明にありのままの歴史が見えてくる。

投稿者 長沼敬憲 : 16:50 | コメント (0)