2005年10月11日
シリーズ「夢の王国」(3) 〜「和」と「太陽」の国
■アニミズム世界の“先進国”
ここで、縄文人のことをさらに理解するため、彼らの信仰について触れてみよう。
日本には八百万(やおよろず)の神々という言葉があるように、神様がたくさんいる。それは一神教に対して多神教と呼ばれているが、たくさんであるからか、必ずしも崇高な存在ではない。その多くはもっと身近で、親しみやすい存在。一神教を奉じる欧米やイスラム社会とは、神に対する観念が明らかに異なっている。
たとえば自分の祖先や亡くなった身内も神になる。これは、祖霊信仰などと呼ばれる。もちろん人だけでなく、山にも、川にも、海にも……、あらゆる自然が神となる。家にもいる。竈(かまど)や生活道具、あるいは武器などにも神は宿る。動物も植物も神。こちらは、アニミズム(精霊崇拝)などという言葉で表わされる。
ちなみにアニミズムは、アニメーションの語源でもある。
アニメーション(動画)は、一枚一枚のセル画に動きの異なる絵を描き重ねていくことで、無機物に過ぎなかった絵がまるで生きているように動き始める。しかし、語源であるアニミズムの社会では、生きているようにではなく、実際に自然は生きている。そういうものであると受け止められ、信仰対象になっている。
これは、お気づきの通り、縄文人の自然観そのものと重なり合うだろう。
アニミズムは日本だけの専売特許ではない、かつては世界中で見られた信仰形態であったという人もいるかもしれないが、これまで見てきたように、縄文人を取り巻く環境は明らかに恵まれていた。これだけ多種多様な季節感、植生、地形を感じ取れる土地は、事実として、地球上を見渡してもそうは見当たらない。その意味では、彼らの生活圏はアニミズム世界の“先進国”であったと捉えることもできる。
■日本人の行動原理としての「和」
たとえば、前項で触れた「和」の感覚について思い出してほしい。
筆者は、「和」という日本人特有の価値観は縄文時代に生まれたと書いたが、じつはこの「和」、アニミズムと非常に密接な関係にある。
縄文時代とアニミズム。縄文時代と「和」。……「和」とアニミズム? それぞれ日本を語る上で欠かせないキーワードでありながら、一般にはこれらをひとつに結びつける発想がほとんどない。特に「和」は日本人特有と言われながら、そのルーツに関して歴史の本で取り上げられる機会はなぜか少ない。
なかには弥生時代に入って稲作(農耕)が普及し、集団生活が重視されるようになったことで芽生えた感覚であると言う人もいるが、稲作はアジア全域で普及している。農耕にまで範囲を広げれば、ほぼ世界中で営まれている。
しかし、そうした集団生活をする人々が、みな日本人のように「和」を大切にしているかと言うとそうでもない。外国人の日本観などに触れても、我々の「和」は少々度が過ぎていると思われている。つまり異質に映っている。
そこでまず、「和」とはどんなものなのか、簡単に考察してみよう。読者自身思い当たる節があるだろうが、日本人は「和が乱れる」ことを何より嫌う。それは何人だってそうだと言われそうだが、そんなことはない。たとえば、独自の視点でこの「和」を分析する作家・井沢元彦氏の言葉に耳を傾けてみよう。
外国から見て、日本の原理がわかりにくいのも、「わ」のせいである。
「わ」は「話し合い」でまとまりさえすれば、どんな原理を採用してもいい。だから封建社会がたちまちのうちに近代社会になったり、天皇制国家があっという間に「民主主義国」になったりする。よほど無原則か、軽薄に見えるだろう。しかし、原則はちゃんとある。「何事も話し合いで決める(決められる)」という「わ」の原理が、それである。
(「逆説の日本史1古代黎明編〜封印された「倭」の謎」小学館)
どうだろうか? ピンと来ない人は、自分が典型的な日本人であることに気づいていない。いや、いまの国際問題の本質自体見えてはいない。なぜなら、世界の多くの国々は、このように簡単には自分たちのスタイルを変えられない。だから異質なものどうしがぶつかり合うと、紛争が起きる。いくら話し合いをしようが譲れないものがあるから、大がかりな戦争にも発展する。
■「和」の本質はアニミズムにあり
日本人がそんな紛争とは一切無縁の聖人君子であるとはもちろん言わないが、それでも国際的に見れば、過剰なくらいに争いを嫌う、避けたがる面がある。たとえば、人を傷つけたくない。傷つけたら恨みを買う。だから何とか丸く収めたい。事を荒立てたくない。できることなら話し合いで解決させたい……。
現代の日本社会に生きていて、そう発想したことのない人はほとんどいないだろう。これはプラスに見れば「平和志向」に他ならず(裏を返せば、人としての自我の弱さ、国としてのアクの弱さにもつながっている)、日本には、この感覚を武器に世界でも最長の部類に属す歴史を築いてきた過去がある。
繰り返すが、それは国際的には異質。つまりスタンダードではない。
では、そのスタンダードでない感覚は、なぜ日本において顕著に現われているのか? 簡単だ。そうした風土だったから。しかもその風土が長く保持され、そこに暮らす人々の感覚に、簡単には変わらないくらい、大きな影響を及ぼしてきたから。
と、ここまで言えばおわかりだろう。日本という国の風土が生み出され定着した縄文時代の1万年のなかで、「和」の感覚も生み出され、定着した。
アニミズム自体は、いわゆる「原始社会」に広く見られる信仰形態であるかもしれないが、そうした社会の中でも、生存環境に恵まれた縄文社会は、その度合がずば抜けて洗練されていた。それだけの強い影響力があったからこそ、21世紀になった今もなお「和」が失われず、我々の個性になっている。良し悪しは別として、そこから「話し合いの精神」が生み出され、のちの国づくりの不文律、基本方針になっていく。
ハイテクに囲まれ、欧米の文化を大胆に導入しながら、日本には依然として「和」というアニミズムが内在しているのである。
■「太陽」というもう一つのキーワード
さて、信仰の話はこれだけに終わらない。「和」が日本らしさ、つまり個性のルーツであるとするなら、もうひとつそれと並ぶ「個性」がある。
筆者はそれを「太陽」、というキーワードで理解している。
つまり日本人は、「和」だけでなく、天空に浮かぶ「太陽」に対しても特別な敬意を抱いてきた。だからこそ「ひのもと=日本」という国号が生まれたと言えるわけだが(一方の「和」は「大和」という呼称と重なり合う)、……これまた不思議なことに、歴史書をひもといてもこのような視点はあまり語られてはいない。
しかも筆者の場合、こうした「太陽信仰」のルーツもまた、縄文時代にまでさかのぼれるものと捉えている。しかし、これもまた語られることは少ない。
なぜだろうか? 理由はハッキリしている。
「太陽信仰」にまつわる遺跡が、目立ったほどに出土していないからだ。ここ近年では発掘調査も進み、この時代の全貌もかなり明らかになってきているが、エジプトや中南米にあるような太陽神殿が見つかったという話はとんと聞かない。それゆえ縄文時代関連の文献のどこを開いても、「太陽信仰」のことなど触れられていない。
しかし、考えてほしい。それはあくまで考古学上の成果のみ歴史であると捉えられた結果。「和」についても言えることだが、信仰のような心の問題は、目に見える遺跡や出土品だけではなかなか実体がわかりにくい。もっと簡単に言ってしまえば、彼らの感覚になってみないことには、見えてこないものが無数にある。
■「太陽の運行=東西のライン」が「縦」?
まあ、そんな言い方だけでは埒があかないので、筆者なりの視点で、縄文時代と「太陽」(太陽信仰)の関わりについて解きほぐしていってみよう。
まずやや唐突ではあるが、縄文からはるか後代、8世紀初頭に成立した「日本書紀」という歴史書をご存じだろうか? 歴史書というからには、この時代以前のことが対象となっているわけだが、ここで注目したいのは、第13代にあたる成務天皇の事積を記したくだり。「山河を境として国県を分け、たてよこの道にしたがって邑里を定めた」といった何気ない一文のあとに、次のような記述がある。
……こうして東西を日の縦とし、南北を日の横とした。
成務天皇と呼ばれる人物が、どの時代のどんな人物であったか、ここでは問わなくていい。ただ、この文を普通に読んで、おかしいな、と感じないだろうか? そう、方位と縦横の観念が現代の我々のそれと逆になっている。現代人の観念では、南北のラインが「縦」であり、東西は「横」。しかしこの記述を見る限り、少なくとも古代の日本では、東西が「縦」だったことになる。
ご存じのように、南北を「縦」とする基準は、どの季節に見上げても同じ位置に輝いている、北極星という天体にある。
天の不動の一点から自分の立つ大地へと続く、一本のライン。誰もがこの見えないラインを天に思い描き、北という方位の基準にしている。
しかし、無重力である宇宙空間に、本来、方位など存在はしない。
北が上という定義も、北極星という基準があって初めて成り立つもの。あまりに常識すぎて自覚すら失われているが、結局、根拠はそれだけなのである。
では、現代はともかく古代において、他に「根拠」はなかったのか?
そこに浮かび上がってくるのが、最初に触れた「太陽」。この天体を基準にすることで、東西南北の位置関係はガラリと変容してしまうのである。
この点を実感するため、ここでまず「縦」という文字に注目してほしい。
漢和辞典などを引いてみればわかるが、面白いことに、そこに載っているのは「ほしいまま」「思いのまま」といった意味。一般に連想されるタテ(上から下へ伸びる一本のライン)のイメージとは、明らかに異なっている。
少なくとも現代人は、普通タテを「ほしいまま」などと捉えたりはしない。
そんな「いい加減」なものではなく、(ほとんど無意識だろうが)もっとしっかりした基準として認識し、その意味で「縦」という文字を用いている。
■縄文人と「太陽信仰」の結びつき
考えてみればおかしな話だが、この意味と文字のギャップをどう理解すればいいか?
じつは漢字を発明した中国人は、この「しっかりした基準」に対して「縦」という文字ではなく、「経」という文字を用いている。
「経」は、機織りで使うタテ糸の意味。タテ糸は布を織る際の基本であることから、転じて物事の道理、一定不変の法則といった意味につながり、経文、経典などの語にも用いられる。それは文字通りのタテ。現在の我々の感覚とも合致している。
ではなぜ、かつての日本人はこの文字を採用しなかったのか? 彼らがもともと、方位や位置を定める際の基準をタテと呼んでいたことは想像できる。しかしそれは「経」ではなく、「縦」という文字の意味にフィットしていた(だからこそ、この文字が採用された)。つまり彼らにとっては、「ほしいまま」「思いのまま」の感覚こそが「タテ=基準」だったのではないか?
ここには、不動の星である北極星の影響はまったくと言っていいほど感じられない。それよりも、天空を日々運行する太陽の存在が浮かび上がってくる。太陽を基準にしていたからこそ、タテ=縦となったと考えられるのである。
古代日本の「太陽信仰」に関して筆者に示唆を与えていただいた一人、吉村貞治氏は次のように語る。
「北極星はその場をはなれず、はなれないことによって秩序を形成する。ところが太陽は空にあっても、時々刻々、絶えず動いてとどまらない。日出も毎日場所が変るし、日没もまた同じである。……北極星は静止であり、死であり、永遠であるのに対し、太陽は絶え間なく動であり、生命であり、現在である。……北極星の経と、太陽点による縦とは、……全く正反対の世界をつくりあげている」
(吉村貞治「原初の太陽神と固有暦」六興出版)
■「ほしいままに」に生きていた縄文人
どうだろうか? こうした視点こそ発想の転換と言えるのではないか? 先にも書いたように、世界観がガラリと一変し、そこに自然の生の姿が見えてくる。では、古代の日本人が、経=北極星ではなく、縦=太陽の運行を重視したことは想像できるとして、なぜそれが縄文時代と結びついてくるのか?
筆者に言わせれば、タテ=縦の感覚は縄文時代との結びつきなしに語れない。なぜなら、1万年続いたというこの時代、これまで述べてきたように、日本列島は気候に恵まれ、食うにあまり困らない環境が用意されていた。
そう、文字通り、「ほしいまま」に生きることが可能だった。
このような環境の中では、天空の不動の星(北極星)を信仰する発想などあまり起こらない。それよりも、日々のエネルギーの源である太陽に感謝し、その運行にたえず意識を向ける感覚が自然に芽生えてくる。その意識のラインがタテになる。
我々が思っているヨコをタテ(基準)として認識する社会。
あの山の端から太陽が昇るようになったら、そろそろ暖かくなる(=春だ)。後世のような暦はなかったろうが、当時の人々はそんなふうに季節を感じ取っていた。それは、一見不安定にも思える自然の移ろいをそのまま受け入れ、そのサイクルの中で生きていく融通無碍の感覚として捉えることができる。
筆者が「和」や「太陽」(太陽信仰)を、縄文時代に培われた感覚であると理解するのも、この時代の生活がまさに「融通無碍」であったからだ。縄文社会がいわばアニミズム社会の先進国であったという実態も、ここに浮かび上がってくるのである。
■「聖地」を結ぶ太陽ネットワーク
「太陽」に関連して、もうひとつ面白い指摘をしておこう。日本列島には聖地と呼ばれる場所が無数にある。もちろん、そう呼ばれ尊ばれてきた場所は世界各地に点在しているが、日本列島のそれを見渡していくと、日本らしさとも結びつく、いくつか興味深い事実を見い出すことができる。
たとえば、のちの大和朝廷のお膝元(奈良)にある、大神(おおみわ)神社。日本最古の部類に入る由緒ある神社として知られるが、不思議なことに、ここには神を祭る本殿はなく、神社のある山(三輪山)そのものがご神体として祭られている。
山そのものが神様。なにやら縄文時代以来のアニミズムの精神がそのまま反映された感があるが、なぜこの山がそこまで崇められてきたのか?
謎解きの仕方は様々あるだろうが、ここでは測量の視点から解きほぐしてみる。建築家・渡辺豊和氏によると、三輪山の山腹の「広大な張り出し舞台状の台地」と大和三山のひとつ、畝傍山の山頂とを結ぶラインが、「東西軸に対して東北に28度50分」、すなわち「冬至の日の「日の入り」を示す線」と重なり合うという。
しかも、このラインに沿って一定間隔で平行線を引いていくと、畿内はもとより日本全国の聖地(山頂や主要神社など)がつながってしまう。これは夏至の日の「日の入り」の線を基準にしても同様の結果が浮かび上がってくる。
つまり、太陽の運行(しかも、そのなかで最も重視されていた冬至や夏至のライン)を基準にすると、三輪山という神山はただ「尊い山」というだけでなく、日本全国の聖地をひとつに結ぶネットワークの起点ということになってくる。
むろん、山を聖地として尊んできたのは、大和朝廷の時代に始まったことではない。この勢力が畿内に進出したとされる3〜4世紀頃よりずっと以前から、当り前に根づいていた信仰であったと捉えたほうが自然。そう、さかのぼるなら、前代の弥生時代どころか、すでに縄文時代の段階から、そのような聖地のネットワークが存在していたと考えても別におかしな話ではないと筆者は思う。
なにしろ縄文人は、従来捉えられていた以上に活動的だったと言われ、交易などを通して日本列島(広くはアジア一帯)を活発に行き来していた。
この「事実」と重ね合わせるなら、当時大陸で普及していた測量の技術を駆使して要地(聖地)を結び、ひとつの文化圏を形成することなど、十分ありえたこと。少なくとも我々が思っている以上に、彼らは方位(太陽運行)に対し敏感だった。それが自然とともに生きることそのものであったからだ。
■証拠が残らないことが「日本らしさ」である
とはいえ、これは興味深くはあってもひとつの仮説。先にも触れたように、学問(考古学)のレベルから見れば「証拠が少ない」と反論されるにちがいない。しかし筆者は、そのように言う人に対して、「いや、その証拠が少ないということが、日本のらしさと大きく関係しているのです」と答えることにしている。じつはそのカラクリに気づくことのほうが、日本史を理解する上できわめて重要なのである(そのために渡辺氏の説を取り上げさせていただいた面もある)。
証拠が少ないことが、日本的。どういうことかピンと来るだろうか?
筆者は先に、縄文時代には「太陽信仰」にまつわる目立った遺跡が確認されていない、だから、この時代に「太陽信仰」が盛んだったと言われても学問的には認められない、という、考古学上の「常識」について話をした。
しかし、先に紹介した井沢氏がすでに著書(前出「逆説の日本史」)のなかで指摘しているように、「証拠がない(見つからない)から存在しない」という論法は本来成り立つものではない。むしろ証拠の残らないような平凡で、当り前のことのなかに、その時代の本質を知る手がかりが隠されているということができる。
ではその本質とは、いったいどんなものであっただろう? まず日本列島が、地理的な特性から、自然の宝庫であったことを思い出してほしい。
具体的には、国土の約8割が山で占められている。もちろんその山の多くは森に覆われ、清流の源であり、自然の恵と直結していた。この山を感謝し、仰ぎ見る感覚は、そのまま信仰心にもつながっていく。エジプトのようにわざわざピラミッドを建造しなくとも、山(自然)そのものがモニュメントになってしまう。
そう。証拠云々について取り沙汰す以前に、もっと単純に、「証拠に残るようなものを作る必要がなかった」ということが、縄文社会の実態ではなかったのか? 渡辺氏の提唱する太陽運行のネットワーク説にしても、そうした視点を取り入れることで、初めて浮かび上がってくる。というより、この視点がなければ「日本には自然しかない」という認識から抜け出せない。時が過ぎネットワークなど忘れ去られてしまえば、あとはもう「なんだ何も無かったのか」という話になってしまう。
■縄文社会が生んだ“光と影の二面性”
つまり、実態があるようで、ない。ないようである。そこに「わかりにくい」とされる日本という国の「らしさ」が重なり合ってくる。
北極星のような虚空の不変の一点にではなく、日々移ろいゆく自然の象徴であり、同時に生命の源でもある太陽に、自らの生を重ね合せる感覚。
それは、日本文化の代名詞である「もののあはれ」や「わび・さび」の感覚に結びつく一方で、それとは180度対照的な、太陽の存在そのもの、生命力に満ち溢れた、強烈なエネルギーそのものを、仰ぎ見る者の心に刻み込んでいく。光と影の二面性と言えばいいだろうか? その具体的な事例はこの先で様々に語っていくが、そのルーツが縄文時代の1万年に見い出せる。
もちろん、最初に述べた「和」の感覚も同様。「和」と「太陽」、この二つをキーワードは、縄文時代の洗練されたアニミズム文化のなかでこそ自然と芽生えた。そのように理解することで、日本文化の土台が見えてくるのである。
(参考文献)
井沢元彦「逆説の日本史1古代黎明編〜封印された「倭」の謎」小学館
宇治谷孟・訳「日本書紀(下)」講談社学術文庫
吉村貞治「原初の太陽神と固有暦」六興出版*
渡辺俊和「縄文夢通信」徳間書店*
三橋一夫「神社配置から天皇を読む〜古代史の聖三角形3」六興出版*
大和岩雄「天照大神と前方後円墳の謎」六興出版*
水谷慶一「知られざる古代〜謎の北緯32度34分をゆく」NHK出版
栗本慎一郎「縄文式頭脳革命」講談社
*=絶版(図書館などに在庫の可能性あり)
2005年09月03日
シリーズ「夢の王国」(2)〜「日本人」はこうして生まれた
■気候は温暖、でも大雪は降る?
まず、雪の話から始めていこう。
日本は温帯に属していながら、こと日本海側の一帯に関しては世界でも有数の豪雪地帯として知られている。専門家などの間でも、「深い雪の仲に2500万人もの人が住んでいる。そんな地は世界広しといえども他には見当たらない」(若浜五郎「雪と氷の世界」東海大学出版会)、などと言われているわけである。
じつはこの豪雪に、日本特有の気候風土を生み出した鍵が隠されている。そう言ってピンと来る人は、どれくらいいるだろうか?
豪雪を生み出すメカニズムには、気圧の動きが関係してくる。
たとえば天気予報などで「西高東低の冬型の気圧配置」といったコメントを耳にすることがある。大ざっぱに言えば、西(大陸側)に高気圧、東(太平洋側)に低気圧が活動している状態。ただ、高気圧といっても、ここではシベリア寒気団を指し、猛烈な寒気を伴っている。大気は気圧の高いほうから低いほうへと流れる性質があるため、冬になるとこの寒気団が日本列島に襲いかかってくるのである。
で、シベリア寒気団が東へ向かう途中には、日本海が広がっている。
そこには対馬暖流が流れているが、暖流である以上、水温は暖かい。そのため大量の水蒸気が寒気団に吸収され、冷やされた水蒸気は雪雲になる。この雪雲が日本海側の山脈にぶつかることで、世界でも特異と言われる豪雪に見舞われるのである。
要するに、寒気と暖流が結びつくことで、豪雪が生み出される。
もっとさかのぼるならば、日本列島が大陸から分断されることで、それまで巨大な湖だった日本海に暖流が流れ込み、その結果として「温帯でありながら、大雪も降る」という、この国特有と言うべき気候風土がつくられていった。
■豪雪が生み出したブナの森
話はこれだけで終わらない。
雪はやがて春になると融けはじめ、川になって大地を循環する。そうなれば、草木の生長は促進される。樹々が育つことで、山は森で覆われる。雪はやがて森へと化けるのである。
森そのものは、日本海側が豪雪に見舞われる以前から、日本列島を覆っていた。
ただ、東北の一帯は、トウヒ,モミ、ツガなどの針葉樹が中心。これが日本海に対馬暖流が流れはじめた1万3000年前頃を境に、雪に強い特性を持ったブナなどの落葉広葉樹中心の森へと変わっていく。この列島に住み着いた人々が縄目模様の土器を作りはじめたのも、じつはこの頃からととらえられているのである。
さて、豪雪がブナの森になり、ブナの森からは土器が生まれた。
それが、いわゆる縄文時代の始まりである。先の話に照らし合わせるのなら、この土器に象徴される時代は1万年ほど継続し、のちの弥生時代へ引き継がれた。
しかし、不思議に思わないだろうか? もともとこの列島に住み着いた人々は、マンモスなどの獲物を追い求め旅を続けてきた、モンゴロイドの末裔だったはずである。
正確に言えば、彼らの獲物は寒冷地に適応したマンモスではなく、ナウマンゾウやオオツノジカが中心。マンモスの化石は、日本では北海道でしか発見されていない。ただ、獲物は変わっても、そうそうライフスタイルまで変わるものではない。
それがなぜ、ハンティングに関係ない土器などを作りはじめたのか?
じつは彼らの生活していた形跡を探っていくと、ある時期を境に、発掘されるナウマンゾウの化石がパッタリ途絶えてしまうことが確認されている。
たとえば有名な長野県・野尻湖のキルサイト(ハンティングの跡地)の場合、1万6000年ほど前がその境。他の遺跡を探っても、ほぼ同時期が浮かび上がる。オオツノジカにしても、縄文時代へと至る過程でほとんど姿を消してしまう。
ハンターたちの乱獲がここにも関与していることは想像に難くないが、じつはブナの森が日本列島を覆いはじめたのは、この時期と重なり合う。
つまりは、狩りのできなくなった人々が、自然な成り行きとして森の中に移り住み、新たな暮らしを考えはじめた。そこには食糧源として、クリ、クルミ、トチ、ドングリといった木の実がなっている。これらの多くは、アクを抜かなければ食べられない。また、腐るものではないから、貯蔵しておこうという発想も生まれる。
おわかりだろう、そうした際に必要となったのが、土器だったのである。
その意味では、土器を使いはじめた彼らは、非常に恵まれていたことがわかるだろう。
彼らの住み着いた森にはあちこちに川が流れ、そこにはサケが遡上してくる。大型哺乳類が死に絶えたといっても、シカやイノシシ、タヌキやオオカミなどの野生動物は狩りの対象にもなる。海沿いでは多数の貝塚が出土しているように、豊富な魚介類を得ることができた。土器があれば、それらを煮炊きして食べることもできる。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、日本列島が大陸から切り離されたことで、結果として、今日にも至る日本人特有の食生活のベースが作られた。生活するのにあまり困らない、豊かで多様な食材が確保できるようになったのである。
■「ラク」して生きられる環境
同時代、地球上の主だった大河の流域では農耕や牧畜が開始されている。
俗にいう「四大文明」の発祥地(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)がそれにあたるが、そうした生産手段が生み出されたのは、彼らが特別に「進んでいた」からというわけでは、必ずしもない。気候の寒冷化など、従来の狩猟・採集だけでは生き延びれない状況に見舞われたから、新たな知恵が生まれたのである。
日本列島に住み着いた縄文人たちは、ここまで述べたような豊かな森が形成されることで、幸いにもそういった洗礼をさほど受けずにすんだ。
もちろん、だからと言って、無菌室の中で暮らしていたわけではない。
食うに困らないと言っても、そこには先の文明の発祥地とは異なる知恵が求められた。その知恵が彼らの豊かさをもたらしたのである。たとえば、彼らの食生活の一端である木の実の採集について記した次の一文を注目してほしい。
「粒が大きく採集しやすいクヌギの例をとると、なりのよい木の直下では、1平方メートルあたりほぼ150グラムのドングリが採集できます。これを反(一反は300坪=約993平方メートル)になおすと、一反150キロの生産量になります。ちなみに米の生産量は一反あたり178キロといわれているので、両者にあまり差がないことがわかります。ドングリは思いのほか生産量が高い作物なのです。
しかもコメづくりは、田植えから収穫まで、毎日汗水たらして働かなければなりませんが、ドングリはほったらかしにしておいても、勝手に実がなってくれるという利点があります。しかも収穫にかかる労働時間はずいぶん短くてすみます。……みんなが一週間ほど山に出て働けば、一年分の主食がたくわえられてしまうのです」
(小山修三「美と楽の縄文人」扶桑社)
コメを食べ慣れている現代人にすれば、「ドングリが主食になるのか? まずいのではないか?」という疑問が浮かんでくるかもしれないが、きちんとアク抜きし、中身をすりつぶしてダンゴにすれば、かなりのカロリーが確保できる。これに「草の実や山菜、それに肉や魚をまぜる」(同上)ことで、栄養も味も充実する。
しかし、それ以上に注目したいのは、「みんなが一週間ほど山に出て働けば、一年分の主食がたくわえられてしまう」というくだりだろう。
稲作の技術自体はすでに縄文時代に伝わっていたと言われているが、長い間(結局、1万年にもわたり)本格導入しなかったのは、わざわざそんな苦労をしなくても、十分食べていけたからにほかならない。
大陸で文明を築き上げた人々の目には「未開」「野蛮」に映っていたかもしれないが、視点を変えれば、彼らは「最小限の労力で最大限の成果が得られる」、非常に生産効率のいい環境の中にいたわけである。
■アボリジニーと縄文人の“違い”
もちろん、こうした環境を手にしていたのは、縄文人だけではない。
別の著書(「サムライ」)などでもふれているが、たとえばオーストラリアの原住民・アボリジニーの場合、「実際の食料探しのほかに、男なら狩りの道具の手入れ、女なら料理の時間をふくめても、成人男子は1日平均3時間50分、成人女子は3時間44分をさけば、家族を養うことができた」(寒川恒夫・編「図説スポーツ史」朝倉書店)。
残りの時間は、寝る以外絵を描くことに費やされていると言われるが、そのプリミティブな芸術作品は、現代社会でも高い評価を受けている。
一見怠惰に見えるかもしれないが(いや、実際にも怠惰に違いないわけだが)、その背景には、それを維持していくための知恵がある。
しかも、その知恵を使って生きているかぎり、大規模な自然破壊は起こらない。土地に対する所有意識も芽生えないため、大きな争いも生じない。というより、
多少のいさかいはあったとしても、そうしたモチベーション自体湧いてこないのではないか? 戦争とは何かの不足が生じた時に、初めて発生するものであるからだ。
とはいえ、筆者が縄文人に注目しているのは、彼らはナチュラルで、「ラクして生きられる環境」を手にしていたからでは、必ずしもない。
たとえば先のアボリジニーにしても、18世紀の後半、突如侵入してきたイギリス人によって平和な暮らしが打ち破られ、100万いた人口が短期間のうちに30万弱にまで激減してしまうほどの虐殺を受けている。彼らの自然に対するすばらしい英知も、侵略者の銃弾の前にはほとんど無力に等しかったのである。
ヨーロッパ人における同様の侵略は、大航海時代と言われた15世紀以降、アフリカ、南北アメリカ、東南アジアなど、世界の各地で繰り返されてきた。
彼らの行為はもちろん身勝手で、「善」とはほど遠い行為である。
しかし、歴史の異なる者どうしが交われば、当然、そこに少なからぬ摩擦が生じる。
シビアな言い方に聞こえるかもしれないが、ただ単に強者を「悪」と呼んだところで、現実は何も変わらないという側面がある。それぞれに歴史を成り立たせてきた必然がある以上、その構造をまず理解しないことには、ヘタをすると、善悪の基準がひっくり返っただけの話になってしまう。なかなかそこから先へは進めない。
筆者は、異なる文化が混じり合い、どちらかがどちらかを呑み込むのではなく、別の何かに生まれ変わることを、「融合」と呼んでいる。
日本の歴史は、この「融合」の繰り返しの中で育まれてきた。
アボリジニーたちとよく似た暮らしを営んできた縄文人も、後述していくが、渡来してきた弥生人たちによって滅ぼされてしまったわけではない。それどころか、稲作を始めとする大陸系の弥生文化が列島を浸食していく一方で、彼らの培ってきた自然観や世界観は、のちのちの日本社会の中でも強い影響力を及ぼしていく。
「ラクして生きられる環境」でありながら、大陸の文明さえ取り込み、いつの間にか自分たちのスタイルに作り替えてしまう。そうしたこの国特有の「お家芸」が、縄文から弥生にかけての転換期に徐々に形成されていくのである。
それはいったい、どのような過程で生み出されたのだろうか?
■何が「融合」を可能にしたのか?
島というのは、外界の刺激に対して適度な距離のとれる空間でもある。
日本列島が大陸から孤立していたようにとらえる人もいるかもしれないが、絶海の孤島でもないかぎり、たえず何かしらの情報は入ってくる。列島の各地に集落を形成していた縄文人たちも、集落に引きこもって暮らしていたわけではない。互いに交流し、必要に応じて交易などを行っていたことが確認されている。
たとえば、巨大集落の跡として知られる青森県の三内丸山遺跡からは、この土地では採れないヒスイや黒曜石などが多数出土している。
ヒスイは装飾品に、黒曜石は石器の原料などに用いられていたと考えられるが、彼らは丸木舟を乗りこなし、海路をさかんに利用することで、産地と集落、集落と集落の間を行き来していた。断片的なデータをつなぎ合わせていくと、孤立どころか、大陸や周辺の島々も含めたかなり広範囲のネットワークが浮かび上がってくる。
もちろん、島であるということは、同時に海が壁になりうるということでもある。その意味では、大陸とたえず間近で接触していたわけでもない。
つまり縄文人たちは、狩猟・採集に森での生活をミックスさせた独自の生活環境を生み出し、維持させていくと同時に、外界からの刺激も適度に吸収し続けていた。そうした絶妙な距離感の中にいられたからこそ、その刺激が高まり、新しい文化の波となって押し寄せてきても自然に(あるいは何とか)対応ができたと思われるのである。
■大陸文明から放っておかれた日本列島
ここで、当時の東アジア全体の情勢についても簡単に触れておこう。
まず歴史の流れをたどってみると、大陸の黄河流域を中心とした一帯で農耕(アワやヒエなどの栽培)が始まったのは、6000〜7000年ほど前。
やがて農耕を営む集落は初期の都市へと統合され、殷や周といった国が生まれ、その後長い争乱期(春秋・戦国時代)を経たのち、最後に勝ち残った秦の始皇帝が東アジアのほぼ全土の統一に成功したのが、2200年ほど前。
日本列島においては、縄文時代の中期〜後期と重なり合う時期である。
秦は北方の異民族(匈奴)に対する備えとして万里の長城を築かせ、あるいはまだ未開拓だった華南にも侵出し、いまのベトナムの一帯(南越と呼ばれた)まで征服したと伝えられる。このとき動員した兵は50万。匈奴との戦争にも30万を動員したと言われており、これらの数は縄文人の全人口にも匹敵する規模である。
この兵力が日本列島に差し向けられていたら、「融合」どころではなかっただろう。
しかし幸いなことに、この当時、大陸からの最短ルートである朝鮮半島の一帯は、まだ彼らの手中には入っていない。秦に代わって中原を制した漢の5代皇帝(武帝)が、半島北部に侵出。出先機関として4つの郡を設置したのは、弥生時代中期(1900年ほど前)の頃。しかしこの段階でも南方には勢力は及んでいない。日本列島は大陸の国家から放っておかれるような形で、自己の文化を培養できたのである。
もちろん、放っておかれたといっても、人の交流そのものはさかんだった。
ことに春秋・戦国時代は国が乱れ、その時々で多くの避難民が生まれたため、彼らの一部が朝鮮半島などを伝って、日本列島に集団単位で渡来してきたことが確認されている。のちの述べるが、当時の列島は遅ればせながら数千年来の寒冷化に見舞われており、従来のライフスタイルを維持することが難しくなっていた。渡来民の持っていた稲作技術が受け入れられやすい状況が整いつつあったわけである。
■四季がもたらした“感受性”
一万年の中で作り上げられた縄文の文化と、大陸から伝来した新しい稲作文化。
そのどちらが優位とも言えない力関係が、結果として「融合」を後押しをした。稲作文化によってこの列島古来のライフスタイルが断絶してしまったわけでも、もちろん導入した稲作が拒絶されたわけでもない。互いの長所を生かし、取り入れていく環境を、当時の列島の住民は半ば無意識のうちに身につけていた。
融合の過程では戦争を含めた種々の混乱のあったことは間違いないが、結局どちらも滅ぼされることなく、のちの日本の顔となっていくのである。
こうした「融合」を可能にした背景には、もうひとつ、列島内部の特殊事情もひそんでいた。この点についても、若干ふれておくことにしよう。
ご存じのように、日本列島には緯度的な位置関係の結果ではあるが、四季が正確に巡ってくる環境が用意されている。しかも南北に細長い列島ゆえ寒暖も多様であり、それらが組み合わさることで、非常に繊細な気候を味わうことができる。これに山、森、盆地、平野といった土地の特性が加われば、その複雑さは増すだろう。
これらの気候風土のほとんどは、縄文時代の段階から形成されたもの。
繊細な風土の中で暮らしていけば、当然、感受性のほうも繊細になっていくが、そこに外部から適度な刺激がやってくればどうなるか? そう、好奇心が刺激され、物事をより深く吸収したくなる。その結果、学ぶことが好きになる。
しかも生活にゆとりがあるため、学ぶための時間も十分に取ることができる。
そうなれば、物づくりに対する姿勢も養われる。
また、人の気持ちに対しても敏感になるから、それが発展していくと、この列島に特有の、争いを極力避けようとする「和」の感覚も芽生えてくるはずだ。長所は短所に通じる面もあるから手放しに評価することはできないにせよ、これらの要素が重なり合っていけば、自然と「融合」が可能になってくるだろう。
のちの「日本人」のベースはこうした過程で生み出されていったのである。
(参考文献)
若浜五郎「雪と氷の世界」東海大学出版会
小山修三「美と楽の縄文人」扶桑社
寒川恒夫・編「図説スポーツ史」朝倉書店
2005年08月17日
シリーズ「夢の王国」(1)〜ヒトってどんな存在なのか?
■スタート地点としての「アフリカ」
まず、日本人の話をする前に、人間について考えてみることにしよう。
前回、いきなり格闘家の話が出たが、これから話すことも少々それと関連している。格闘家、オリンピック選手、スポーツアスリート……。言い方はどうでもいい。肉体を高度に磨き上げ、それによりパフォーマンスする人たち。
しかし彼らも、昔の人たちと比べたら敵わない、という話がある。
それは仕方ない。たとえば、縄文人(5000年くらい前の日本人)の平均寿命は、発掘された骨などから類推すると、だいたい30歳ほど。
筆者ならもう死んでいる年齢。というより、あの時代だったら、幼児のうちに死に絶えていたかもしれない。つまり、強い者だけが生き残る。オリンピック選手であろうと相当に厳しい環境だが、当の彼らがそれをどこまで「厳しい」と感じていたか……。それだけの身体ポテンシャルの違いが、否応なく想起されてしまう。
ただ、ひとたび当時の世界を見渡すと、縄文人はそれほど「頑強」ではなかったかもしれない。筆者は、そんなことも同時に思い浮かべる。
日本列島は、気候に恵まれていた。ひとことで言って、暮らしやすい。
先に触れたシベリア、あるいは今のヨーロッパの一帯。のちに中東と呼ばれるようになる、西アジア。このあたりで暮らしていた人たちのほうが、おそらく「強かった」。
地球は、今から1万数千年前、氷河期から抜け出し、温暖な気候に変わっている。日本列島に住み着いていた人たちが、縄目模様の土器(縄文式土器)を作り、独自のライフスタイルを確立しはじめたのも、それ以降。ちなみに日本列島が大陸から切り離されたのも、ほぼ同じ時期と考えられている。
日本という国(国土、風土と言い換えたほうがいいかもしれないが)のスケッチをはじめる場合、このあたりがさしあたってのスタート地点となる。
しかし、スタート地点に立つまでには、当然そこへと至る経緯があるだろう。
幾世代、長い時間をかけてユーラシア大陸を横断し、シベリアの極寒の気候と戦ってきた、我々の先祖たち。
いや、さらにさかのぼって話すなら、彼ら(ホモ・サピエンス)のルーツは、もともとアフリカにある。人類はアフリカで生まれた。
我々はみな、黒人だったのである。黒かった肌が、世界の各地に散っていくことで、その土地の気候に合った色に変化した。ヨーロッパ人は白く、アジア人は黄色く……。
■サルからヒトへの青写真
太古のアフリカの話を、少しだけさせていただこう。
人類の祖先が生まれたと言われる太古のアフリカは、現在のようにサバンナ(草原)や砂漠の広がる土地だったわけではない。
生命を育むにはもってこいの、広大な森に覆われていたという。
森は楽園。樹々が生い茂ることで、平面だけでなく上下の立体感が生まれる。多様な生命の棲み分けを可能とする、楽園のような空間が生まれる。
その中にサルの仲間も生息していた。いわゆる、樹上生活である。
ではなぜ、楽園を満喫していたサルの中からヒトが生まれたのか? 生命史の中でも大事件に挙げられるターニングポイントが、引き起こされた原因は?
1000万年以上に及んだという地殻変動。それに伴う気候の激変。アフリカの大地には南北に巨大な山脈が生まれ、主に東側一帯の森が消失した。
樹上で快適な暮らしを続けていたサルたちは、ここで岐路に迫られた。
多くは激変する環境に耐え切れず、死滅したかもしれない。
あるいは、運良く残った森の中でこれまでの楽園生活を続けられたサルもいただろう。事実、西側の森にいたサルたちの多くは、現在のサルたちの祖先となったと言われる。
しかし、中には生命の底力に目覚め、「根性」を見せつけるサルたちもいた。樹上で生活していた時は、まったく必要としなかった能力。点在する森から森へと渡り歩くうちに、立って歩く、すなわち直立歩行という運動。この能力に目覚めることで、両手が自由に使えるようになり、その分脳も飛躍的に発達する。……
それが、おおよそ500万年ほど前のことだったと言われる。
直立歩行したばかりの人類は、一般に猿人(アウストラロピテクス)と呼ばれている。
ヒトと言っても、直立歩行以外はかなりサルに似た容姿。それが次第に進化して、いまのヒトにより近づいてきたのが、原人。原人の中には故郷であるアフリカの地を離れて、アジアや果てはアメリカ大陸へと、果てない旅を続ける者まで出てきた。
たとえば、発掘された土地の名前を取って、北京原人、ジャワ原人など。
最近の研究によると、我々の祖先(ホモ・サピエンス=新人)も、アフリカで暮らしていた原人から枝分かれし、新たに世界に散らばっていったと考えられている。
しかし、この新人に対して旧人と呼ばれる別種の人類もいた。
ネアンデルタール人などと呼ばれる人たちである。
ここもわかりやすく説明しよう。新人も旧人も、原人よりもさらに進化し、脳の容量も現代人と変わらないくらいに増大している。
要するに、人類はこのとき大きくふたつの種に枝分かれしたのである。
新と旧とそれぞれつけられているのは、一方が生き延び、一方が滅びてしまったため。現在、ヒト科に分類されているのは、我々ホモ・サピエンスだけ。だから実感しにくいかもしれないが、ほんの数万年前まで(3万年くらい前までか)は、少なくともヒトは2種類いた。その一方が、旧人と呼ばれる人たちだったのである。
■ネアンデルタールとクロマニヨン
さて、ここで再び格闘家やスポーツマンたちの話を続けたい。
彼らの身体能力がいくら凄いと言っても、我々の祖先(新人)と比べたら引けをとってしまうと、先に書いた。
しかし、現役時代のカレリンのような人間だったら、必ずしも負けないかもしれない。復元された彼らの姿や、そこから割り出せる能力などを踏まえたとしても、そんなイマジネーションも成り立つ気はする。
しかし、ネアンデルタール人(旧人)と比べたらどうか?
もともと、こんなおかしな(?)イマジネーションを働かせたのは、筆者ではなく、専門の研究者たちである。たとえば、ネアンデルタール人研究の第一人者と言われるアメリカのエリック・トリンカウスは、「現代のオリンピック選手であれ、彼らほど頑丈でたくましい肉体の者は誰一人いない」と、断言する(河合信和「ネアンデルタールと現代人」より)。
……誰一人? カレリンもマイク・タイソンも、マイケル・ジョーダンも?
これはなかなか刺激的な想像だろう。なぜ、これほどのスーパーマンが生まれたのか?
彼らの生息していたヨーロッパの一帯は、当時氷河期の真っただ中(ネアンデルタールの呼称は、彼らの化石人骨が最初に発掘されたドイツの地名から取ったもの)。
この厳しい環境に彼らなりに適応した結果、カレリンらも軽く凌駕してしまう体力(身体能力)が身についた。特に脳の容量に関しては、現代人のそれを上回ってすらいるのである(現代人が1350ccほどに対して、彼らは1500ccほど)。
しかし同時に、次の疑問も湧いてくる。それほど優れた(つまり、同時代に同じ地球に共存していたホモ・サピエンスよりもさらに優れた)身体能力を持ちながら、なぜ滅びてしまったのか? 旧人と呼ばれる存在になってしまったのか?
「(ネアンデルタール人の)脳が大きかったのは、彼らの隆々とした筋肉を動かすためで、知能とは関係ない。脳の構造に違いのあったことは、頭の骨を後方から見るとはっきりする。私たちの頭蓋は五角形をしていて脳が頭の上部で膨らんでいるのに対し、ネアンデルタール人は球状をしていて、真ん中で膨らんでいた」
(同「ネアンデルタールと現代人」より)
彼らは、脳の真ん中が膨らんでいた。すなわち想像できるのは、旧脳と呼ばれる大脳辺縁系、脳幹、あるいは小脳などの一帯が発達していたということ。
言い換えるなら、大脳、それも知能を司る新皮質の一帯は、我々と比べさほど発達していたわけではない。
新皮質の中でも、特に人の持つ創意工夫の部分と直結しているのが、前頭葉。
こう考えればいいだろう。ネアンデルタール人たちは、厳しい生存環境の中で生き延びるため、ストレートに体力そのものを発達させた。
たとえば、寒さをしのぐために、彼らはその寒さに耐えられる体力を身につけた。そういう方向で努力した。しかし、我々は寒さをしのぐために、もうひとつの方法があることを知っている。
■選ばれたのはどちらか?
そう、衣服(動物の毛皮など)を身につければいいのだ。
そういう方向に意識が働いていった原人たちの中から、現在の我々の祖先が生まれた。ネアンデルタール人との比較で言えば、彼らに遅れること数万年、ヨーロッパにやってきた新人たちは、同じドイツの地名を取ってクロマニヨン人と呼ばれている。
クロマニヨン人は、現在のヨーロッパ人の直接の祖先と考えてもいい。ネアンデルタールと比べたら、全体的にスマートで、やや華奢な感がある。
しかし、遅れてやってきた彼らは、同じ狩りをするでも、より精巧な石器を使うことができた。先に話したように、衣服を発明したのも彼ら。動物の皮を剥ぐだけでなく、それをつなぎ合わせるために同じ動物の骨から針などもこしらえたりした。
ネアンデルタール人からすれば、思いも寄らなかったことだろう。
たしかに、体力では数段も勝っている。しかし、その体力とて絶対のものではない。もちろん、クロマニヨン人たちの知恵にしても、同様。生き延びるために英知を結集するという点では、方向性が異なるだけで、どちらも最大限の努力はしている。
しかし、結果を言えば、生命を育んできた地球の大自然は、体力のネアンデルタールではなく、知恵のクロマニヨンを選んだのである。
その先に、我々の歴史が存在する。ヨーロッパに限らず、アフリカ、アジア、アメリカ、もちろん日本も……、すべてはその自然の選択の先に、こうして今日、存在が許されているのである。
■前頭葉の発達の意味
さて、もう少し続けよう。知恵を身につけた人類が生き延び、やがて今日に至る文明・文化を築くことになった。その間、長く見積もっても、2万年程度。
地球時間で見るなら、決して長い時間ではない。
しかし、前頭葉の発達というのは、ある意味悪魔的なことである。筆者の得意な身体論で言うならば、身体全体のバランスが大きく崩れてしまう。
人はなにも脳だけで生きているわけではない。
筆者が最も重視しているのは、脳よりしっぽ(尾骨)である。生物のアンテナ、直観の出どころと考えてもいい。
生物ならはじめにこのアンテナが反応する。
アンテナの位置は、同時に身体の重心にも重なり合う。直観と行為が重なる。生物は日々これを無意識に行っている。
脳(前頭葉)の働きが突出するということは、この直観……行為のラインの間にさまざまな「考慮」「思惑」が入り込むことを意味している。
たとえば、こういうことだ。ネアンデルタール人も狩りをする際に、簡易な石器を使っていたことで知られている(原人と比べたらはるかに精巧であったが)。
もちろん、マンモスと正面から立ち向かえるほどの身体能力を持っていたわけではない。
「彼らのハンティングは、けがをした動物、腹に子をもったメス、群れから離れた、つまりはか弱い動物に襲いかかるという方法である。さらに進歩すると、物陰に隠れて奇襲攻撃をかけて相手をパニックに陥れ、やおら近づいて、石槍でつつく……」
(馬場悠男「ホモ・サピエンスはどこから来たか」)
といった情景がイメージされている。
つまり、生きていくのに必要な量だけしか確保できなかったという点で、彼らの行為には節度があった。
知恵はあっても、「自然に優しい」存在だった。
それに対してクロマニヨン人は、必要以上に動物を追い求め、殺りくするという、「マンモス・ハンター」の側面を持っていたと言われる。
知恵さえ働かせていけば、体力がなくとも、巨大なマンモスを仕留めることはできる。彼らはこのことに気づき、それをさまざまに実践した。
■生き抜くための「残虐性」
たとえば、遠くから槍を投げる。矢を射る(弓を最初に発明したのも、彼らである)。
矢尻に毒を塗れば、マンモスなど大型獣も倒すことはできる。
あるいは、ワナ。集団で大声を上げるなどしてガケに追い込み、死に追いやる……。
いろいろな知恵が湧けば、それを試し、成功させることそのものに愉しみを覚えるようにもなる。ハンティングにゲームの要素が加わっていく。
マンモスが絶滅した原因は、何も人類のハンティングのせいだけではなかった、つまり氷河期の終焉に伴う気候激変に対応できなかった、それが要因であると語る学者もいる。
しかし、我々ヒトの性質を考えたら、ハンティングがまったく無関係だったとは言えないだろう。
ホモ・サピエンスが幾世代もかけて厳寒のユーラシア大陸を横断したのも、生き抜くため、獲物を求めてのことだったのである。
ユーラシア大陸を横断したホモ・サピエンスは、モンゴロイドと呼ばれている。
やがて彼らの一部は、現在の日本列島の一帯に住み着いた。また、別の一派は地続きだったアリューシャン列島を渡り歩き、やがてアメリカ大陸へと達する。
「不思議なことに、なぜか彼らの新大陸進出と同時に、当時のアメリカ大陸の大型哺乳類たちが次々と大量絶滅している。北アメリカでは、更新世末期(約10万〜1万年前)に生息した大型哺乳類43属のうち72パーセントにあたる45属が、南アメリカでは57属のうち75パーセントにあたる45属が絶滅している」
(山口敏監修「日本人起源の謎」より)
もちろん、これはアメリカ大陸だけに見られた現象ではない。
人間(ホモ・サピエンス)そのものが、脳(特に前頭葉)を余計に発達させることで、自然界のバランスそのものを崩してしまう行為をする存在となった。長い生物史から見ても、それがきわめて特異な進化であることは言うまでもないだろう。
しかし我々は同時に、その進化がマイナスばかりでないということも知っている。
■ヒトってどんな存在なのか?
ここでもネアンデルタール人を引き合いに出すことで、話を進めていこう。
彼らの話題が出ると決まって、1950年代、イラクのシャニダール遺跡で発掘された人骨のまわりから、大量の花粉粒が検出されたというエピソードが取り上げられる。
つまり、死者の埋葬の際に花がたむけられたのではないか、という推測である。
同じ遺跡からは、頭や腕を怪我した重度の障害者の骨も見つかっている。そのようなハンデを背負っても仲間から見捨てられず、天寿がまっとうできたというわけである。
たしかに感動的な話かもしれない。しかし、感動的な話で言えば、じつはクロマニヨン人のそれのほうが、スケール感でははるかに凌駕している。
知っている人も多いだろう、1万年ほど前に描かれたと言われる、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画である。
正確に言えば、ラスコーやアルタミラに限らず、フランスやスペインの南部一帯の洞窟の天井に、無数の動物の絵が描かれている。
その表現力。そして、色彩感覚。美術史の本をひも解けば、おそらくいちばん最初に紹介されているであろう、草創期の人類の最高傑作。
美術とは何かという問いへの答えが、すでにこの段階で明確になっている。日本に暮らす筆者は画集を眺めるのみだが、それだけでも彼らの信じられないほどの「豊かさ」を感じてしまうのである。
おわかりだろうか? これが人間なのである。
つまり、善だけではなく、悪だけでもない。両方を際限なく持つことができ、しかも自分自身の意志によってそのどちらをも選ぶことができる。選べるということが、長い進化の歴史の中、唯一人間だけが獲得できた能力だと思ってもいい。
その意味では、性善説も性悪説も、どちらも正しく、どちらも間違っているのである。
■サルからヒトへの進化と、アダムとイブ
人に内在する善と悪との問題は、その存在の存亡自体に関わる事柄であるため、古来からさまざまな形で認識され、解釈されてきた。その解釈の筆頭と言うべきものが宗教であったということに、異論を挟む人は少ないだろう。
宗教と科学を対立させる考え方もあるが、筆者は物事を認識する、解釈するという点では、どちらもさして変わりないと思っている。表現の手法が違うだけで、発想や行き着いた結論そのものは、かなり似通っているのである。
たとえば先に、筆者は楽園であった森を追われたサルがヒトに進化した、と書いた。
現在の考古学者たちが導き出した青写真だが、この話を聞いて何かに似ているな、と感じた人も多かったのではないだろうか?
そう、旧約聖書に描かれたアダムとイブの「楽園追放」神話である。
旧約聖書の冒頭、「創世紀」によると、この世界を創り出した神は、やがてチリからアダムという男子を、彼の肋骨からイブという女子を生み出した。この一組の男女に棲処として与えられたのが、エデンの園である。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」
(新共同訳「聖書」より)
面白い話だ。つまり、エデンの園にはたくさんの木が生い茂り、食べるに十分なだけの実が豊富になっていた。それだけではない。
「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった」
(同右)
何のことはない、エデンの園は森だったのである。
人(アダムとイブ)をサルに置き換えれば、同じ類のエピソードを、違う角度から解釈・説明しているのだと思えてくる。
しかも、その森には、「善悪の知識の木」が生えているという。
サルがヒトへと進化するための「危うさ」(あるいは「可能性」)が、すでに森に内包されていた、筆者ならそう読み解く。
神はそれを自らが作っておきながら「食べるな」と警告しているわけだが、ご存じのように、アダムとイブは「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」蛇にそそのかされ、ついにその実を口にしてしまう。
そそのかしたというが、蛇の発した言葉もじつに振るっている。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」
(同右)
神のように善悪を知る。……たしかにサルにはできない芸当である。
前にも話したように、善悪を知るということは、善悪を自らが認識し、そのどちらかを選択しなければならないからだ。
物事を認識するという感覚そのものを手に入れた、つまり、脳内における前頭葉の特異な発達を、象徴的に語っているのだと捉えてもいい。
「認識」を手に入れたアダムとイブは、裸を恥ずかしがるようになった。つまり、寒さを体力によって克服しようとしたネアンデルタールに対し、衣服を発明することでしのごうとしたクロマニヨン。
しかしこの知恵は、彼らの命を救うと同時に、裸がつねに隠されている日常を作り出した。それがやがて「恥ずかしさ」という感情のもととなっていく。「認識」とは、どちらにせよそういうものなのである。
■「原罪」の記憶と「楽園生活」の記憶
このアダムとイブにまつわる話には、他にもさまざまなメッセージが隠されている。
あまり知られてはいないが、彼らの棲んでいたエデンの園には、「善悪の知識の木」のほかに「命の木」も生えていた。
しかし神は、善悪を知る者となったアダムとイブが「手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる」ことを恐れた。知恵によって命まで管理されてしまったら、神の出る幕はないということか。
神は「命の木」を守るため、アダムとイブを楽園から追放した。聖書によると、この追放された男女の子孫こそが、我々人類となるのである。
キリスト教では、アダムとイブが「善悪の知識の木」の実を食べ、楽園から追放されたことを、「原罪」と呼んでいる。
人が犯したあらゆる罪の中でも、いちばん根本にある罪、という意味だろう。
この解釈が有史以来のヨーロッパ社会、そこから派生したアメリカをはじめキリスト教文化圏の国々、そして、同じく旧約聖書を信奉するイスラム社会においても、人々の心を規定し、縛る役割を担い続けてきた。
人のDNAに刻み込まれた遠い昔の記憶が、この物語にある種の説得力を与えている。進化論と聖書の記述を符合させると、そんな想像も浮かび上がる。
しかし、日本人にはこの世界中を席巻している感覚が、なかなか実感できない。
……なぜか? 楽園を追放され、長い長い放浪の旅を強いられたのち、今の日本列島の一帯にたどり着いた人々は、長期にわたる「楽園生活」を再体験できたからだ。
その期間、おそらくは1万年。それが、筆者のイメージする縄文時代である。
我々の感覚の中に、一神教を奉ずる人たちのような強烈な宗教感覚はない。それが「甘さ」につながっているとの指摘もあるが、不思議なことに、その強烈な宗教感覚の持ち主たちに滅ぼされることなく、それに類する危機は幾度もあったものの、そのたびに甦り、新しいスタイルを取り込んでいる。それが日本人である。
人生の勝者だけでなく、敗者に対しても同等か、それ以上の「美学」を見い出せる我々の感性も、世界的には決して当り前のことではない。
しかしそう感じられる価値観は、文化を生み出す原動力にもなる。日本史をひも解いていけば、それが敗者に対する惜別や哀悼、慈しみで貫かれていることに気づかされるだろう。
■モンゴロイドから縄文人へ
少々脱線してしまったが、筆者はアダムとイブの「楽園追放」を原罪とは捉えない。
というより、日本人は必ずしもそうは捉えてこなかったということも、この先の章でさまざまに解いていきたいと思っている。
そもそも、彼らをそそのかしたという蛇を、日本人は悪魔扱いしてはこなかった。
古来から神の化身として尊んできたのである。
たとえば、縄文人たちもヘビを生命力の象徴として信仰し、土器の文様などに取り込んでいたと言われる(日本だけでなく、多神教をベースとする国や地域では、蛇は決して悪魔ではない)。
つまり、生命力というもの、生きるということ。これをどう捉えるか?
生命観、人生観、そして宗教観の違い……。
筆者は、それに対する「答え」を、日本史の中から無数に受け取ってきた。
この「答え」を明確に認識し、育んでいくということは、21世紀、我々が新たなスタンダードを構築し、世界の人たちに「どうですか?」と提案することでもある。
話が大きすぎる? しかし、国際感覚が重要と言うのなら、語学を覚える以上に、自己を語れる感覚そのものが問われてくる。
ようやくその語るための準備ができた。
むろん、ここまでで指摘したいくつかの問題は、これから先のすべての内容に関わってくる。「モンゴロイド」が「縄文人」へと変化していった過程について、もう少し焦点を絞り込んでみることにしよう。
(参考文献)
NHK取材班「生命 40億年はるかな旅・5〜ヒトがサルと分かれた日/ヒトは何処へいくのか」(NHK出版)
河合信和「ネアンデルタールと現代人〜ヒトの500万年史」(文春新書)
馬場悠男「ホモ・サピエンスはどこから来たか」(河出書房新社)
山口敏監修「日本人の起源の謎〜「大いなる太古の日本の日本の原風景」を探究する」(日本文芸社)
*本文の引用は、第1章「人類の起源とモンゴロイドの旅」(中川悠紀子)より
新共同訳「聖書」(日本聖書協会)
2005年07月29日
シリーズ「夢の王国」 ・はじめに〜イチローとカレリンの「アジア」
日本人。……世界史的に見ても相当にユニークで、類例のない歴史を歩んできた、極東の一民族。
しかしその特異さを、当の日本人が気づいていない。特異であると語ることがまるで罪であるかのように、妙な慎み深さを身につけている。
戦争で負けた後遺症だという人もいる。
しかし、21世紀。筆者にはすでに違う景色が見えている。膠着した世界をほどくには、新しい風が必要だ。そして我々は、すでにその風の中で生きてきた。
日本史をひもとけば、それがはっきりと見えてくる。知らないというなら、知ればいい。同時にそれは、埋もれていたDNAを呼び起こす旅になる。
手はじめにまず、こんな話からしていくことにしよう。
唐突だが、筆者の脳裏には、いまロシアの広大な大地が広がっている。
20世紀を席巻したソビエトという国はついぞ好きになれなかったが、国土としてのロシアは好きである。たとえば筆者は、1999年、格闘家・前田日明の「引退試合」の相手として来日したアレキサンダー・カレリンという男を見て、驚いた。
グレコローマンレスリングでオリンピック3連覇を果たした、ロシアの国民的英雄。国民的英雄と軽々しく言ってしまったが、その尊敬のされ方は尋常ではない。
「スポーツに疎い人であれ、カレリンのことを語らせたら、30分や1時間はやまない。……他の競技のスポーツ関係者に取材しているときも、カレリンに話が及ぶと、本題をはずれて、彼がどんなに素晴しい人物かを延々と聞かされるので、困ることが度々ある」
(アサヒグラフ99年3/19号、小野田悦子「カレリンの真実」より)。
190センチを超える並外れた体格。ナチュラルとしか言いようのない、柔らかな肉質。……要するに、カレリンはロシアの風土、その中で培われた伝統や文化の結晶。それがレスリングという競技を通じて、パフォーマンスしている。ロシア人ではない筆者が目にしても、まずそんな感想が思い浮かんでくる。
日本の歴史について書こうというのに、なぜ異国の格闘家の話をはじめたのか?
じつはカレリンは、ロシア人としての愛国心を強固なまでに持つと同時に、アジア人であることを公言してはばからない存在だからだ。
……日本へ行ったのは、いつも強調しているとおり、同じアジア人だからですか。
「そう。もちろん私はアジア人です。日本から学ぶことは多いはずだと思っています」
……外見はどうしてもアジア人に見えないのですが。中身がアジア風なんでしょうか?
「中身は私にも見えません(笑い)」
……では一体どこがアジア?
「(真顔で)私が生まれ育ったシベリアはアジアなんですよ」
……地理的に?
「地理的にもそうだし、えー、とにかく来てみればわかります。たしかにアジアです」
(前出「カレリンの真実」より)
とりとめのない会話ではあるが、筆者はカレリンの感覚に共感する。
理屈ではない。彼らとどこかで「つながっている」という感覚。歴史が好きで、学んできた筆者は、日本人とは何か?と自問したとき、まずはじめにロシアの大地が浮かび上がる。筆者にとってアジアとは、意外にも(?)ロシアなのである。
じつはこの話を冒頭でしようと思ったのは、こうした筆者や、あるいはカレリンの郷愁にも似た感覚が、近年、科学的にも証明されつつあるからだ。
NHKスペシャルで去年放送された、シリーズ「日本人はるかな旅」。
仕事の合間に何気なく見ていた番組の中で、筆者は、きわめて面白い研究成果が紹介されていることを知った。縄文人の人骨をDNA分析した結果、「29体中実に17体がシベリア平原に暮らすブリヤート人と一致したのである」(NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編「日本人はるかな旅①」より)。
まだ日本列島が大陸と切り離されていない頃の話。2〜3万年前と見積もればいいか?
もちろん、北だけでなく南からやって来た祖先もいただろう。
しかし、我々が思っている以上に、北とのつながりも濃厚であったということ。これを意外に感じる人も少なくないのではないか。
考えてみてほしい。カレリンと戦った前田日明は、やはり190センチと巨漢だが、彼のような人間は日本ではまれ。
我々は基本的に小柄で華奢。カレリンをロシアの英雄とするなら、日本ではやはりイチロー……。アメリカで活躍する彼は、一野球選手という域を超え、いまや「日本人」を体現する存在となっている。
ロシアの国民的英雄と、そして、日本の国民的英雄。
長い年月を経て、見た目にも大きな違いが現われている。それが歴史。
歴史を学ぶということは、他との差異を明確にするということであり、それが同時に自己に目覚めるということにつながっていく。ロシア、シベリア、アジア……、それらの言葉でイメージされる異国の大地にある種の憧れを抱きながらも、島国という条件下、きわめて繊細な、端々まで「行き届いた」文化を築き上げてきた日本。
その本質をどこまでも問い詰め、明瞭にしていった先に、まだ日本人も自覚できてはいない、世界標準とは異質な「成功法則」が見え隠れする。
……我々は、いったいどんな「成功」を望んできたのか?
それを伝えるのが、この本の目的。筆者の物語る歴史は、自己認識を苦手とする多くの日本人にとって、なにより刺激的な行為になるに違いない。
繰り返すが、時代は21世紀。
日本人以上の日本人となって、ロシア人以上のロシア人、アメリカ人以上のアメリカ人と渡り合う。……そのための発想のベースがここには眠っている。
(参考文献)
小野田悦子「カレリンの真実」(アサヒグラフ99年3/19号所収)
NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編「日本人はるかな旅(1)〜マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」(NHK出版)