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<title>振り返れば「神」になる</title>
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<modified>2005-11-18T10:28:27Z</modified>
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<copyright>Copyright (c) 2005, 長沼敬憲</copyright>
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<title>吉田松陰の「プラス発想」の根っこにあるもの</title>
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<modified>2005-11-18T10:28:27Z</modified>
<issued>2005-11-17T13:12:32Z</issued>
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<created>2005-11-17T13:12:32Z</created>
<summary type="text/plain">今回は閑話休題で、吉田松陰の話題を。
「夢の王国」シリーズも、現在、鋭意準備中です。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>幕末史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>先日、<a href="http://">「日常感覚」</a>のなかで船井幸雄氏について触れた際に、久々に<font color=red>吉田松陰</font>のことを思い出した。<br />
氏の著書に、下記のような記述があったからだ。</p>

<p><font color=blue>吉田松陰はご存じのように、幕末の思想家で、彼が教えていた松下村塾から、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、明治維新を推進した人物を多く輩出したことで、「能力を引き出す天才」として非常に高く評価されている人です。</font></p>

<p><font color=blue>彼は、この松下村塾でわずか1年余を教えただけで、約80人の弟子全員をすばらしい人財に育て上げたのです。<br />
なぜ彼は、こんなに短期間でこれほど多くの人材を輩出させることができたのでしょうか。</font></p>

<p><font color=blue>吉田松陰が行なった人財づくりのコツは次の五つといっていいようです。<br />
（ビジネス社<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4828412255/qid=1132235577/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-9197545-3556365"target=_blank>「にんげん」</a>より）</font></p>

<p>船井氏は、以上をふまえた上で、松蔭の教育法が自らが経営コンサルティングの世界で確立させてきた<font color=red>「長所伸展法」</font>と合致することを指摘している。</p>

<p>ちなみにその長所伸展法（文中でいう五つのコツ）とは、</p>

<p><font color=blue>1、弟子が自分に自信を持てるようにした。<br />
2、一人ひとりの得意分野を聞いて、それを伸ばした。<br />
3、「付き合う人すべての長所を見つけ、褒めなさい」と教えた。<br />
4、「良いと思うことはすぐにやりなさい。悪いと思うことはすぐにやめなさい」と教えた。<br />
5、どんなこともプラス発想。</font></p>

<p>であるとしている。まあ、ある意味みんな当たり前のことなのだが、多くの人はこの当たり前がなかなかできない。わからない。<br />
どちらかというと、長所伸展（良いところを伸ばそうとする）より短所是正（悪いところを直そうとする）ほうに目が向いてしまう。</p>

<p>筆者自身は、当人の受け止め方次第では「短所是正法」にも意味はある（有効である）と思っているが、じつはそんなふうに思えること自体がプラス発想。<br />
その意味では、「プラス発想＝長所伸展法」は、ただの脳天気な楽天主義ではないことも見えてくる。<br />
包み込むためには、ネガティブなものさえも自らの意識の中に取り込んでいく必要があるからだ。<br />
肯定というのは、その取り込まれたものの重さの中で生まれる。</p>

<p>というわけで、吉田松蔭がなぜあれほどまでに教え子たちを魅了したのか……？　そこには、自分が感じ、とらえらせる世界のすべてを取り込んでしまおうという、壮絶としか言いようがない、松蔭の「器の大きさ」が見えてくる。<br />
（あるいは、バカとも言い換えられるか。笑）</p>

<p>壮絶？　すべてを取り込んでしまう？　それがプラス発想？？</p>

<p>いまひとつピンと来ない人のために、今回はみなもと太郎氏のマンガ<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4267902968/qid=1132235893/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-9197545-3556365"target=_blank>「風雲児たち」</a>より、こうした松蔭の精神構造がうまく描かれた箇所を紹介しよう。</p>

<p><br />
<img alt="fuunjitachi11.jpg" src="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/fuunjitachi11.jpg" width="360" height="266" /></p>

<p><img alt="fuunjitachi2.jpg" src="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/fuunjitachi2.jpg" width="377" height="541" /></p>

<p><img alt="fuunjitachi3.jpg" src="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/fuunjitachi3.jpg" width="390" height="539" /></p>

<p><br />
吉田松陰は本当にまあ、壮絶なくらい面白い人だ。<br />
あんまり面白い人なので、彼のことを考えるとときどき涙がにじんでくる。</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ「夢の王国」(3)　〜「和」と「太陽」の国</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2005/10/3_1.html" />
<modified>2005-11-03T00:28:57Z</modified>
<issued>2005-10-11T05:25:07Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/kamininaru/9.219</id>
<created>2005-10-11T05:25:07Z</created>
<summary type="text/plain">ご存じのように、南北を「縦」とする基準は、どの季節に見上げても同じ位置に輝いている、北極星という天体にある。天の不動の一点から自分の立つ大地へと続く、一本のライン。誰もがこの見えないラインを天に思い描き、北という方位の基準にしている。しかし、無重力である宇宙空間に、本来、方位など存在はしない。北が上という定義も、北極星という基準があって初めて成り立つもの。あまりに常識すぎて自覚すら失われているが、結局、根拠はそれだけなのである。では、現代はともかく古代において、他に「根拠」はなかったのか？　そこに浮かび上がってくるのが、最初に触れた「太陽」。この天体を基準にすることで、東西南北の位置関係はガラリと変容してしまうのである。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>夢の王国</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>■アニミズム世界の“先進国”</font></p>

<p>　ここで、縄文人のことをさらに理解するため、彼らの信仰について触れてみよう。<br />
　日本には八百万（やおよろず）の神々という言葉があるように、神様がたくさんいる。それは一神教に対して多神教と呼ばれているが、たくさんであるからか、必ずしも崇高な存在ではない。その多くはもっと身近で、親しみやすい存在。一神教を奉じる欧米やイスラム社会とは、神に対する観念が明らかに異なっている。</p>

<p>　たとえば自分の祖先や亡くなった身内も神になる。これは、祖霊信仰などと呼ばれる。もちろん人だけでなく、山にも、川にも、海にも……、あらゆる自然が神となる。家にもいる。竈（かまど）や生活道具、あるいは武器などにも神は宿る。動物も植物も神。こちらは、アニミズム（精霊崇拝）などという言葉で表わされる。</p>

<p>　ちなみにアニミズムは、アニメーションの語源でもある。<br />
　アニメーション（動画）は、一枚一枚のセル画に動きの異なる絵を描き重ねていくことで、無機物に過ぎなかった絵がまるで生きているように動き始める。しかし、語源であるアニミズムの社会では、生きているようにではなく、実際に自然は生きている。そういうものであると受け止められ、信仰対象になっている。</p>

<p>　これは、お気づきの通り、縄文人の自然観そのものと重なり合うだろう。<br />
　アニミズムは日本だけの専売特許ではない、かつては世界中で見られた信仰形態であったという人もいるかもしれないが、これまで見てきたように、縄文人を取り巻く環境は明らかに恵まれていた。これだけ多種多様な季節感、植生、地形を感じ取れる土地は、事実として、地球上を見渡してもそうは見当たらない。その意味では、彼らの生活圏はアニミズム世界の“先進国”であったと捉えることもできる。</p>

<p><br />
<font color=teal>■日本人の行動原理としての「和」</font></p>

<p>　たとえば、前項で触れた「和」の感覚について思い出してほしい。<br />
　筆者は、「和」という日本人特有の価値観は縄文時代に生まれたと書いたが、じつはこの「和」、アニミズムと非常に密接な関係にある。<br />
　縄文時代とアニミズム。縄文時代と「和」。……「和」とアニミズム？ それぞれ日本を語る上で欠かせないキーワードでありながら、一般にはこれらをひとつに結びつける発想がほとんどない。特に「和」は日本人特有と言われながら、そのルーツに関して歴史の本で取り上げられる機会はなぜか少ない。</p>

<p>　なかには弥生時代に入って稲作（農耕）が普及し、集団生活が重視されるようになったことで芽生えた感覚であると言う人もいるが、稲作はアジア全域で普及している。農耕にまで範囲を広げれば、ほぼ世界中で営まれている。<br />
　しかし、そうした集団生活をする人々が、みな日本人のように「和」を大切にしているかと言うとそうでもない。外国人の日本観などに触れても、我々の「和」は少々度が過ぎていると思われている。つまり異質に映っている。</p>

<p>　そこでまず、「和」とはどんなものなのか、簡単に考察してみよう。読者自身思い当たる節があるだろうが、日本人は「和が乱れる」ことを何より嫌う。それは何人だってそうだと言われそうだが、そんなことはない。たとえば、独自の視点でこの「和」を分析する作家・井沢元彦氏の言葉に耳を傾けてみよう。</p>

<p><br />
　<font color=black>外国から見て、日本の原理がわかりにくいのも、「わ」のせいである。　<br />
　「わ」は「話し合い」でまとまりさえすれば、どんな原理を採用してもいい。だから封建社会がたちまちのうちに近代社会になったり、天皇制国家があっという間に「民主主義国」になったりする。よほど無原則か、軽薄に見えるだろう。しかし、原則はちゃんとある。「何事も話し合いで決める（決められる）」という「わ」の原理が、それである。<br />
（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094020012/qid%3D1128993820/249-7344877-6151537"target=_blank>「逆説の日本史1古代黎明編〜封印された「倭」の謎」</a>小学館）</font></p>

<p><br />
　どうだろうか？　ピンと来ない人は、自分が典型的な日本人であることに気づいていない。いや、いまの国際問題の本質自体見えてはいない。なぜなら、世界の多くの国々は、このように簡単には自分たちのスタイルを変えられない。だから異質なものどうしがぶつかり合うと、紛争が起きる。いくら話し合いをしようが譲れないものがあるから、大がかりな戦争にも発展する。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「和」の本質はアニミズムにあり</font></p>

<p>　日本人がそんな紛争とは一切無縁の聖人君子であるとはもちろん言わないが、それでも国際的に見れば、過剰なくらいに争いを嫌う、避けたがる面がある。たとえば、人を傷つけたくない。傷つけたら恨みを買う。だから何とか丸く収めたい。事を荒立てたくない。できることなら話し合いで解決させたい……。<br />
　現代の日本社会に生きていて、そう発想したことのない人はほとんどいないだろう。これはプラスに見れば「平和志向」に他ならず（裏を返せば、人としての自我の弱さ、国としてのアクの弱さにもつながっている）、日本には、この感覚を武器に世界でも最長の部類に属す歴史を築いてきた過去がある。</p>

<p>　繰り返すが、それは国際的には異質。つまりスタンダードではない。<br />
　では、そのスタンダードでない感覚は、なぜ日本において顕著に現われているのか？　簡単だ。そうした風土だったから。しかもその風土が長く保持され、そこに暮らす人々の感覚に、簡単には変わらないくらい、大きな影響を及ぼしてきたから。</p>

<p>　と、ここまで言えばおわかりだろう。日本という国の風土が生み出され定着した縄文時代の1万年のなかで、「和」の感覚も生み出され、定着した。<br />
　アニミズム自体は、いわゆる「原始社会」に広く見られる信仰形態であるかもしれないが、そうした社会の中でも、生存環境に恵まれた縄文社会は、その度合がずば抜けて洗練されていた。それだけの強い影響力があったからこそ、21世紀になった今もなお「和」が失われず、我々の個性になっている。良し悪しは別として、そこから「話し合いの精神」が生み出され、のちの国づくりの不文律、基本方針になっていく。<br />
　ハイテクに囲まれ、欧米の文化を大胆に導入しながら、日本には依然として「和」というアニミズムが内在しているのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「太陽」というもう一つのキーワード</font></p>

<p>　さて、信仰の話はこれだけに終わらない。「和」が日本らしさ、つまり個性のルーツであるとするなら、もうひとつそれと並ぶ「個性」がある。<br />
　筆者はそれを「太陽」、というキーワードで理解している。</p>

<p>　つまり日本人は、「和」だけでなく、天空に浮かぶ「太陽」に対しても特別な敬意を抱いてきた。だからこそ「ひのもと＝日本」という国号が生まれたと言えるわけだが（一方の「和」は「大和」という呼称と重なり合う）、……これまた不思議なことに、歴史書をひもといてもこのような視点はあまり語られてはいない。<br />
　しかも筆者の場合、こうした「太陽信仰」のルーツもまた、縄文時代にまでさかのぼれるものと捉えている。しかし、これもまた語られることは少ない。</p>

<p>　なぜだろうか？　理由はハッキリしている。<br />
　「太陽信仰」にまつわる遺跡が、目立ったほどに出土していないからだ。ここ近年では発掘調査も進み、この時代の全貌もかなり明らかになってきているが、エジプトや中南米にあるような太陽神殿が見つかったという話はとんと聞かない。それゆえ縄文時代関連の文献のどこを開いても、「太陽信仰」のことなど触れられていない。</p>

<p>　しかし、考えてほしい。それはあくまで考古学上の成果のみ歴史であると捉えられた結果。「和」についても言えることだが、信仰のような心の問題は、目に見える遺跡や出土品だけではなかなか実体がわかりにくい。もっと簡単に言ってしまえば、彼らの感覚になってみないことには、見えてこないものが無数にある。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「太陽の運行＝東西のライン」が「縦」？</font></p>

<p>　まあ、そんな言い方だけでは埒があかないので、筆者なりの視点で、縄文時代と「太陽」（太陽信仰）の関わりについて解きほぐしていってみよう。<br />
　まずやや唐突ではあるが、縄文からはるか後代、8世紀初頭に成立した<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061588338/qid=1128995140/sr=8-9/ref=sr_8_xs_ap_i9_xgl14/249-7344877-6151537"target=_blank>「日本書紀」</a>という歴史書をご存じだろうか？　歴史書というからには、この時代以前のことが対象となっているわけだが、ここで注目したいのは、第13代にあたる成務天皇の事積を記したくだり。「山河を境として国県を分け、たてよこの道にしたがって邑里を定めた」といった何気ない一文のあとに、次のような記述がある。<br />
　<br />
　<font color=black>……こうして東西を日の縦とし、南北を日の横とした。</font><br />
　<br />
　成務天皇と呼ばれる人物が、どの時代のどんな人物であったか、ここでは問わなくていい。ただ、この文を普通に読んで、おかしいな、と感じないだろうか？ そう、方位と縦横の観念が現代の我々のそれと逆になっている。現代人の観念では、南北のラインが「縦」であり、東西は「横」。しかしこの記述を見る限り、少なくとも古代の日本では、東西が「縦」だったことになる。</p>

<p>　ご存じのように、南北を「縦」とする基準は、どの季節に見上げても同じ位置に輝いている、北極星という天体にある。<br />
　天の不動の一点から自分の立つ大地へと続く、一本のライン。誰もがこの見えないラインを天に思い描き、北という方位の基準にしている。<br />
　しかし、無重力である宇宙空間に、本来、方位など存在はしない。<br />
　北が上という定義も、北極星という基準があって初めて成り立つもの。あまりに常識すぎて自覚すら失われているが、結局、根拠はそれだけなのである。</p>

<p>　では、現代はともかく古代において、他に「根拠」はなかったのか？<br />
　そこに浮かび上がってくるのが、最初に触れた「太陽」。この天体を基準にすることで、東西南北の位置関係はガラリと変容してしまうのである。</p>

<p>　この点を実感するため、ここでまず「縦」という文字に注目してほしい。<br />
　漢和辞典などを引いてみればわかるが、面白いことに、そこに載っているのは「ほしいまま」「思いのまま」といった意味。一般に連想されるタテ（上から下へ伸びる一本のライン）のイメージとは、明らかに異なっている。<br />
　少なくとも現代人は、普通タテを「ほしいまま」などと捉えたりはしない。<br />
　そんな「いい加減」なものではなく、（ほとんど無意識だろうが）もっとしっかりした基準として認識し、その意味で「縦」という文字を用いている。</p>

<p><br />
<font color=teal>■縄文人と「太陽信仰」の結びつき</font></p>

<p>　考えてみればおかしな話だが、この意味と文字のギャップをどう理解すればいいか？<br />
　じつは漢字を発明した中国人は、この「しっかりした基準」に対して「縦」という文字ではなく、「経」という文字を用いている。<br />
　「経」は、機織りで使うタテ糸の意味。タテ糸は布を織る際の基本であることから、転じて物事の道理、一定不変の法則といった意味につながり、経文、経典などの語にも用いられる。それは文字通りのタテ。現在の我々の感覚とも合致している。</p>

<p>　ではなぜ、かつての日本人はこの文字を採用しなかったのか？　彼らがもともと、方位や位置を定める際の基準をタテと呼んでいたことは想像できる。しかしそれは「経」ではなく、「縦」という文字の意味にフィットしていた（だからこそ、この文字が採用された）。つまり彼らにとっては、「ほしいまま」「思いのまま」の感覚こそが「タテ＝基準」だったのではないか？</p>

<p>　ここには、不動の星である北極星の影響はまったくと言っていいほど感じられない。それよりも、天空を日々運行する太陽の存在が浮かび上がってくる。太陽を基準にしていたからこそ、タテ＝縦となったと考えられるのである。<br />
　古代日本の「太陽信仰」に関して筆者に示唆を与えていただいた一人、吉村貞治氏は次のように語る。</p>

<p><br />
　<font color=black>「北極星はその場をはなれず、はなれないことによって秩序を形成する。ところが太陽は空にあっても、時々刻々、絶えず動いてとどまらない。日出も毎日場所が変るし、日没もまた同じである。……北極星は静止であり、死であり、永遠であるのに対し、太陽は絶え間なく動であり、生命であり、現在である。……北極星の経と、太陽点による縦とは、……全く正反対の世界をつくりあげている」<br />
（吉村貞治「原初の太陽神と固有暦」六興出版）</font></p>

<p><br />
<font color=teal>■「ほしいままに」に生きていた縄文人</font></p>

<p>　どうだろうか？　こうした視点こそ発想の転換と言えるのではないか？　先にも書いたように、世界観がガラリと一変し、そこに自然の生の姿が見えてくる。では、古代の日本人が、経＝北極星ではなく、縦＝太陽の運行を重視したことは想像できるとして、なぜそれが縄文時代と結びついてくるのか？</p>

<p>　筆者に言わせれば、タテ＝縦の感覚は縄文時代との結びつきなしに語れない。なぜなら、1万年続いたというこの時代、これまで述べてきたように、日本列島は気候に恵まれ、食うにあまり困らない環境が用意されていた。<br />
　そう、文字通り、「ほしいまま」に生きることが可能だった。<br />
　このような環境の中では、天空の不動の星（北極星）を信仰する発想などあまり起こらない。それよりも、日々のエネルギーの源である太陽に感謝し、その運行にたえず意識を向ける感覚が自然に芽生えてくる。その意識のラインがタテになる。</p>

<p>　我々が思っているヨコをタテ（基準）として認識する社会。<br />
　あの山の端から太陽が昇るようになったら、そろそろ暖かくなる（＝春だ）。後世のような暦はなかったろうが、当時の人々はそんなふうに季節を感じ取っていた。それは、一見不安定にも思える自然の移ろいをそのまま受け入れ、そのサイクルの中で生きていく融通無碍の感覚として捉えることができる。</p>

<p>　筆者が「和」や「太陽」（太陽信仰）を、縄文時代に培われた感覚であると理解するのも、この時代の生活がまさに「融通無碍」であったからだ。縄文社会がいわばアニミズム社会の先進国であったという実態も、ここに浮かび上がってくるのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「聖地」を結ぶ太陽ネットワーク</font></p>

<p>　「太陽」に関連して、もうひとつ面白い指摘をしておこう。日本列島には聖地と呼ばれる場所が無数にある。もちろん、そう呼ばれ尊ばれてきた場所は世界各地に点在しているが、日本列島のそれを見渡していくと、日本らしさとも結びつく、いくつか興味深い事実を見い出すことができる。</p>

<p>　たとえば、のちの大和朝廷のお膝元（奈良）にある、大神（おおみわ）神社。日本最古の部類に入る由緒ある神社として知られるが、不思議なことに、ここには神を祭る本殿はなく、神社のある山（三輪山）そのものがご神体として祭られている。<br />
　山そのものが神様。なにやら縄文時代以来のアニミズムの精神がそのまま反映された感があるが、なぜこの山がそこまで崇められてきたのか？</p>

<p>　謎解きの仕方は様々あるだろうが、ここでは測量の視点から解きほぐしてみる。建築家・渡辺豊和氏によると、三輪山の山腹の「広大な張り出し舞台状の台地」と大和三山のひとつ、畝傍山の山頂とを結ぶラインが、「東西軸に対して東北に28度50分」、すなわち「冬至の日の「日の入り」を示す線」と重なり合うという。</p>

<p>　しかも、このラインに沿って一定間隔で平行線を引いていくと、畿内はもとより日本全国の聖地（山頂や主要神社など）がつながってしまう。これは夏至の日の「日の入り」の線を基準にしても同様の結果が浮かび上がってくる。<br />
　つまり、太陽の運行（しかも、そのなかで最も重視されていた冬至や夏至のライン）を基準にすると、三輪山という神山はただ「尊い山」というだけでなく、日本全国の聖地をひとつに結ぶネットワークの起点ということになってくる。</p>

<p>　むろん、山を聖地として尊んできたのは、大和朝廷の時代に始まったことではない。この勢力が畿内に進出したとされる3〜4世紀頃よりずっと以前から、当り前に根づいていた信仰であったと捉えたほうが自然。そう、さかのぼるなら、前代の弥生時代どころか、すでに縄文時代の段階から、そのような聖地のネットワークが存在していたと考えても別におかしな話ではないと筆者は思う。</p>

<p>　なにしろ縄文人は、従来捉えられていた以上に活動的だったと言われ、交易などを通して日本列島（広くはアジア一帯）を活発に行き来していた。<br />
　この「事実」と重ね合わせるなら、当時大陸で普及していた測量の技術を駆使して要地（聖地）を結び、ひとつの文化圏を形成することなど、十分ありえたこと。少なくとも我々が思っている以上に、彼らは方位（太陽運行）に対し敏感だった。それが自然とともに生きることそのものであったからだ。</p>

<p><br />
<font color=teal>■証拠が残らないことが「日本らしさ」である</font></p>

<p>　とはいえ、これは興味深くはあってもひとつの仮説。先にも触れたように、学問（考古学）のレベルから見れば「証拠が少ない」と反論されるにちがいない。しかし筆者は、そのように言う人に対して、「いや、その証拠が少ないということが、日本のらしさと大きく関係しているのです」と答えることにしている。じつはそのカラクリに気づくことのほうが、日本史を理解する上できわめて重要なのである（そのために渡辺氏の説を取り上げさせていただいた面もある）。</p>

<p>　証拠が少ないことが、日本的。どういうことかピンと来るだろうか？<br />
　筆者は先に、縄文時代には「太陽信仰」にまつわる目立った遺跡が確認されていない、だから、この時代に「太陽信仰」が盛んだったと言われても学問的には認められない、という、考古学上の「常識」について話をした。</p>

<p>　しかし、先に紹介した井沢氏がすでに著書（前出「逆説の日本史」）のなかで指摘しているように、「証拠がない（見つからない）から存在しない」という論法は本来成り立つものではない。むしろ証拠の残らないような平凡で、当り前のことのなかに、その時代の本質を知る手がかりが隠されているということができる。</p>

<p>　ではその本質とは、いったいどんなものであっただろう？　まず日本列島が、地理的な特性から、自然の宝庫であったことを思い出してほしい。<br />
　具体的には、国土の約8割が山で占められている。もちろんその山の多くは森に覆われ、清流の源であり、自然の恵と直結していた。この山を感謝し、仰ぎ見る感覚は、そのまま信仰心にもつながっていく。エジプトのようにわざわざピラミッドを建造しなくとも、山（自然）そのものがモニュメントになってしまう。</p>

<p>　そう。証拠云々について取り沙汰す以前に、もっと単純に、「証拠に残るようなものを作る必要がなかった」ということが、縄文社会の実態ではなかったのか？　渡辺氏の提唱する太陽運行のネットワーク説にしても、そうした視点を取り入れることで、初めて浮かび上がってくる。というより、この視点がなければ「日本には自然しかない」という認識から抜け出せない。時が過ぎネットワークなど忘れ去られてしまえば、あとはもう「なんだ何も無かったのか」という話になってしまう。</p>

<p><br />
<font color=teal>■縄文社会が生んだ“光と影の二面性”</font></p>

<p>　つまり、実態があるようで、ない。ないようである。そこに「わかりにくい」とされる日本という国の「らしさ」が重なり合ってくる。<br />
　北極星のような虚空の不変の一点にではなく、日々移ろいゆく自然の象徴であり、同時に生命の源でもある太陽に、自らの生を重ね合せる感覚。</p>

<p>　それは、日本文化の代名詞である「もののあはれ」や「わび・さび」の感覚に結びつく一方で、それとは180度対照的な、太陽の存在そのもの、生命力に満ち溢れた、強烈なエネルギーそのものを、仰ぎ見る者の心に刻み込んでいく。光と影の二面性と言えばいいだろうか？　その具体的な事例はこの先で様々に語っていくが、そのルーツが縄文時代の1万年に見い出せる。</p>

<p>　もちろん、最初に述べた「和」の感覚も同様。「和」と「太陽」、この二つをキーワードは、縄文時代の洗練されたアニミズム文化のなかでこそ自然と芽生えた。そのように理解することで、日本文化の土台が見えてくるのである。</p>

<p><br />
<font color=black>（参考文献）<br />
井沢元彦「逆説の日本史１古代黎明編〜封印された「倭」の謎」小学館<br />
宇治谷孟・訳「日本書紀（下）」講談社学術文庫<br />
吉村貞治「原初の太陽神と固有暦」六興出版＊<br />
渡辺俊和「縄文夢通信」徳間書店＊<br />
三橋一夫「神社配置から天皇を読む〜古代史の聖三角形3」六興出版＊<br />
大和岩雄「天照大神と前方後円墳の謎」六興出版＊<br />
水谷慶一<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140180692/qid%3D1128995621/249-7344877-6151537"target=_blank>「知られざる古代〜謎の北緯32度34分をゆく」</a>NHK出版<br />
栗本慎一郎<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061852884/qid=1128995745/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-7344877-6151537"target=_blank>「縄文式頭脳革命」</a>講談社</p>

<p>＊＝絶版（図書館などに在庫の可能性あり）<br />
</font><br />
</p>]]>
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<title>シリーズ「夢の王国」(2)〜「日本人」はこうして生まれた</title>
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<modified>2005-09-03T09:27:57Z</modified>
<issued>2005-09-03T09:05:24Z</issued>
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<summary type="text/plain">　一万年の中で作り上げられた縄文の文化と、大陸から伝来した新しい稲作文化。そのどちらが優位とも言えない力関係が、結果として「融合」を後押しをした。稲作文化によってこの列島古来のライフスタイルが断絶してしまったわけでも、もちろん導入した稲作が拒絶されたわけでもない。互いの長所を生かし、取り入れていく環境を、当時の列島の住民は半ば無意識のうちに身につけていた。融合の過程では戦争を含めた種々の混乱のあったことは間違いないが、結局どちらも滅ぼされることなく、のちの日本の顔となっていくのである。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
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<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>夢の王国</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>■気候は温暖、でも大雪は降る？</font></p>

<p>　まず、雪の話から始めていこう。<br />
　日本は温帯に属していながら、こと日本海側の一帯に関しては世界でも有数の豪雪地帯として知られている。専門家などの間でも、「深い雪の仲に2500万人もの人が住んでいる。そんな地は世界広しといえども他には見当たらない」（若浜五郎<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4486013328/qid=1125738901/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-4710624-6170608"target=_blank>「雪と氷の世界」</a>東海大学出版会）、などと言われているわけである。</p>

<p>　じつはこの豪雪に、日本特有の気候風土を生み出した鍵が隠されている。そう言ってピンと来る人は、どれくらいいるだろうか？<br />
　豪雪を生み出すメカニズムには、気圧の動きが関係してくる。<br />
　たとえば天気予報などで「西高東低の冬型の気圧配置」といったコメントを耳にすることがある。大ざっぱに言えば、西（大陸側）に高気圧、東（太平洋側）に低気圧が活動している状態。ただ、高気圧といっても、ここではシベリア寒気団を指し、猛烈な寒気を伴っている。大気は気圧の高いほうから低いほうへと流れる性質があるため、冬になるとこの寒気団が日本列島に襲いかかってくるのである。</p>

<p>　で、シベリア寒気団が東へ向かう途中には、日本海が広がっている。<br />
　そこには対馬暖流が流れているが、暖流である以上、水温は暖かい。そのため大量の水蒸気が寒気団に吸収され、冷やされた水蒸気は雪雲になる。この雪雲が日本海側の山脈にぶつかることで、世界でも特異と言われる豪雪に見舞われるのである。</p>

<p>　要するに、寒気と暖流が結びつくことで、豪雪が生み出される。<br />
　もっとさかのぼるならば、日本列島が大陸から分断されることで、それまで巨大な湖だった日本海に暖流が流れ込み、その結果として「温帯でありながら、大雪も降る」という、この国特有と言うべき気候風土がつくられていった。</p>

<p><br />
<font color=teal>■豪雪が生み出したブナの森</font></p>

<p>　話はこれだけで終わらない。<br />
　雪はやがて春になると融けはじめ、川になって大地を循環する。そうなれば、草木の生長は促進される。樹々が育つことで、山は森で覆われる。雪はやがて森へと化けるのである。</p>

<p>　森そのものは、日本海側が豪雪に見舞われる以前から、日本列島を覆っていた。<br />
　ただ、東北の一帯は、トウヒ，モミ、ツガなどの針葉樹が中心。これが日本海に対馬暖流が流れはじめた1万3000年前頃を境に、雪に強い特性を持ったブナなどの落葉広葉樹中心の森へと変わっていく。この列島に住み着いた人々が縄目模様の土器を作りはじめたのも、じつはこの頃からととらえられているのである。</p>

<p>　さて、豪雪がブナの森になり、ブナの森からは土器が生まれた。<br />
　それが、いわゆる縄文時代の始まりである。先の話に照らし合わせるのなら、この土器に象徴される時代は1万年ほど継続し、のちの弥生時代へ引き継がれた。<br />
　しかし、不思議に思わないだろうか？　もともとこの列島に住み着いた人々は、マンモスなどの獲物を追い求め旅を続けてきた、モンゴロイドの末裔だったはずである。<br />
　正確に言えば、彼らの獲物は寒冷地に適応したマンモスではなく、ナウマンゾウやオオツノジカが中心。マンモスの化石は、日本では北海道でしか発見されていない。ただ、獲物は変わっても、そうそうライフスタイルまで変わるものではない。<br />
　それがなぜ、ハンティングに関係ない土器などを作りはじめたのか？</p>

<p>　じつは彼らの生活していた形跡を探っていくと、ある時期を境に、発掘されるナウマンゾウの化石がパッタリ途絶えてしまうことが確認されている。<br />
　たとえば有名な長野県・野尻湖のキルサイト（ハンティングの跡地）の場合、1万6000年ほど前がその境。他の遺跡を探っても、ほぼ同時期が浮かび上がる。オオツノジカにしても、縄文時代へと至る過程でほとんど姿を消してしまう。</p>

<p>　ハンターたちの乱獲がここにも関与していることは想像に難くないが、じつはブナの森が日本列島を覆いはじめたのは、この時期と重なり合う。<br />
　つまりは、狩りのできなくなった人々が、自然な成り行きとして森の中に移り住み、新たな暮らしを考えはじめた。そこには食糧源として、クリ、クルミ、トチ、ドングリといった木の実がなっている。これらの多くは、アクを抜かなければ食べられない。また、腐るものではないから、貯蔵しておこうという発想も生まれる。<br />
　おわかりだろう、そうした際に必要となったのが、土器だったのである。<br />
　<br />
　その意味では、土器を使いはじめた彼らは、非常に恵まれていたことがわかるだろう。<br />
　彼らの住み着いた森にはあちこちに川が流れ、そこにはサケが遡上してくる。大型哺乳類が死に絶えたといっても、シカやイノシシ、タヌキやオオカミなどの野生動物は狩りの対象にもなる。海沿いでは多数の貝塚が出土しているように、豊富な魚介類を得ることができた。土器があれば、それらを煮炊きして食べることもできる。</p>

<p>　「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、日本列島が大陸から切り離されたことで、結果として、今日にも至る日本人特有の食生活のベースが作られた。生活するのにあまり困らない、豊かで多様な食材が確保できるようになったのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「ラク」して生きられる環境</font></p>

<p>　同時代、地球上の主だった大河の流域では農耕や牧畜が開始されている。<br />
　俗にいう「四大文明」の発祥地（エジプト、メソポタミア、インダス、黄河）がそれにあたるが、そうした生産手段が生み出されたのは、彼らが特別に「進んでいた」からというわけでは、必ずしもない。気候の寒冷化など、従来の狩猟・採集だけでは生き延びれない状況に見舞われたから、新たな知恵が生まれたのである。<br />
　<br />
　日本列島に住み着いた縄文人たちは、ここまで述べたような豊かな森が形成されることで、幸いにもそういった洗礼をさほど受けずにすんだ。<br />
　もちろん、だからと言って、無菌室の中で暮らしていたわけではない。<br />
　食うに困らないと言っても、そこには先の文明の発祥地とは異なる知恵が求められた。その知恵が彼らの豊かさをもたらしたのである。たとえば、彼らの食生活の一端である木の実の採集について記した次の一文を注目してほしい。</p>

<p><font color=black>「粒が大きく採集しやすいクヌギの例をとると、なりのよい木の直下では、1平方メートルあたりほぼ150グラムのドングリが採集できます。これを反（一反は300坪＝約993平方メートル）になおすと、一反150キロの生産量になります。ちなみに米の生産量は一反あたり178キロといわれているので、両者にあまり差がないことがわかります。ドングリは思いのほか生産量が高い作物なのです。<br />
　しかもコメづくりは、田植えから収穫まで、毎日汗水たらして働かなければなりませんが、ドングリはほったらかしにしておいても、勝手に実がなってくれるという利点があります。しかも収穫にかかる労働時間はずいぶん短くてすみます。……みんなが一週間ほど山に出て働けば、一年分の主食がたくわえられてしまうのです」<br />
（小山修三<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4594028020/qid%3D1125738994/250-4710624-6170608"target=_blank>「美と楽の縄文人」</a>扶桑社）</font></p>

<p>　コメを食べ慣れている現代人にすれば、「ドングリが主食になるのか？　まずいのではないか？」という疑問が浮かんでくるかもしれないが、きちんとアク抜きし、中身をすりつぶしてダンゴにすれば、かなりのカロリーが確保できる。これに「草の実や山菜、それに肉や魚をまぜる」（同上）ことで、栄養も味も充実する。<br />
　しかし、それ以上に注目したいのは、「みんなが一週間ほど山に出て働けば、一年分の主食がたくわえられてしまう」というくだりだろう。</p>

<p>　稲作の技術自体はすでに縄文時代に伝わっていたと言われているが、長い間（結局、１万年にもわたり）本格導入しなかったのは、わざわざそんな苦労をしなくても、十分食べていけたからにほかならない。<br />
　大陸で文明を築き上げた人々の目には「未開」「野蛮」に映っていたかもしれないが、視点を変えれば、彼らは「最小限の労力で最大限の成果が得られる」、非常に生産効率のいい環境の中にいたわけである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■アボリジニーと縄文人の“違い”</font></p>

<p>　もちろん、こうした環境を手にしていたのは、縄文人だけではない。<br />
　別の著書（<a href="http://www.thunder-r.net/samurai/top.html"target=_blank>「サムライ」</a>）などでもふれているが、たとえばオーストラリアの原住民・アボリジニーの場合、「実際の食料探しのほかに、男なら狩りの道具の手入れ、女なら料理の時間をふくめても、成人男子は1日平均3時間50分、成人女子は3時間44分をさけば、家族を養うことができた」（寒川恒夫・編<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4254690231/qid=1125739116/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/250-4710624-6170608"target=_blank>「図説スポーツ史」</a>朝倉書店）。<br />
　残りの時間は、寝る以外絵を描くことに費やされていると言われるが、そのプリミティブな芸術作品は、現代社会でも高い評価を受けている。</p>

<p>　一見怠惰に見えるかもしれないが（いや、実際にも怠惰に違いないわけだが）、その背景には、それを維持していくための知恵がある。<br />
　しかも、その知恵を使って生きているかぎり、大規模な自然破壊は起こらない。土地に対する所有意識も芽生えないため、大きな争いも生じない。というより、<br />
多少のいさかいはあったとしても、そうしたモチベーション自体湧いてこないのではないか？　戦争とは何かの不足が生じた時に、初めて発生するものであるからだ。</p>

<p>　とはいえ、筆者が縄文人に注目しているのは、彼らはナチュラルで、「ラクして生きられる環境」を手にしていたからでは、必ずしもない。<br />
　たとえば先のアボリジニーにしても、18世紀の後半、突如侵入してきたイギリス人によって平和な暮らしが打ち破られ、100万いた人口が短期間のうちに30万弱にまで激減してしまうほどの虐殺を受けている。彼らの自然に対するすばらしい英知も、侵略者の銃弾の前にはほとんど無力に等しかったのである。</p>

<p>　ヨーロッパ人における同様の侵略は、大航海時代と言われた15世紀以降、アフリカ、南北アメリカ、東南アジアなど、世界の各地で繰り返されてきた。<br />
　彼らの行為はもちろん身勝手で、「善」とはほど遠い行為である。<br />
　しかし、歴史の異なる者どうしが交われば、当然、そこに少なからぬ摩擦が生じる。<br />
　シビアな言い方に聞こえるかもしれないが、ただ単に強者を「悪」と呼んだところで、現実は何も変わらないという側面がある。それぞれに歴史を成り立たせてきた必然がある以上、その構造をまず理解しないことには、ヘタをすると、善悪の基準がひっくり返っただけの話になってしまう。なかなかそこから先へは進めない。</p>

<p>　筆者は、異なる文化が混じり合い、どちらかがどちらかを呑み込むのではなく、別の何かに生まれ変わることを、「融合」と呼んでいる。<br />
　日本の歴史は、この「融合」の繰り返しの中で育まれてきた。<br />
　アボリジニーたちとよく似た暮らしを営んできた縄文人も、後述していくが、渡来してきた弥生人たちによって滅ぼされてしまったわけではない。それどころか、稲作を始めとする大陸系の弥生文化が列島を浸食していく一方で、彼らの培ってきた自然観や世界観は、のちのちの日本社会の中でも強い影響力を及ぼしていく。</p>

<p>　「ラクして生きられる環境」でありながら、大陸の文明さえ取り込み、いつの間にか自分たちのスタイルに作り替えてしまう。そうしたこの国特有の「お家芸」が、縄文から弥生にかけての転換期に徐々に形成されていくのである。<br />
　それはいったい、どのような過程で生み出されたのだろうか？</p>

<p><br />
<font color=teal>■何が「融合」を可能にしたのか？</font></p>

<p>　島というのは、外界の刺激に対して適度な距離のとれる空間でもある。<br />
　日本列島が大陸から孤立していたようにとらえる人もいるかもしれないが、絶海の孤島でもないかぎり、たえず何かしらの情報は入ってくる。列島の各地に集落を形成していた縄文人たちも、集落に引きこもって暮らしていたわけではない。互いに交流し、必要に応じて交易などを行っていたことが確認されている。</p>

<p>　たとえば、巨大集落の跡として知られる青森県の三内丸山遺跡からは、この土地では採れないヒスイや黒曜石などが多数出土している。<br />
　ヒスイは装飾品に、黒曜石は石器の原料などに用いられていたと考えられるが、彼らは丸木舟を乗りこなし、海路をさかんに利用することで、産地と集落、集落と集落の間を行き来していた。断片的なデータをつなぎ合わせていくと、孤立どころか、大陸や周辺の島々も含めたかなり広範囲のネットワークが浮かび上がってくる。</p>

<p>　もちろん、島であるということは、同時に海が壁になりうるということでもある。その意味では、大陸とたえず間近で接触していたわけでもない。<br />
　つまり縄文人たちは、狩猟・採集に森での生活をミックスさせた独自の生活環境を生み出し、維持させていくと同時に、外界からの刺激も適度に吸収し続けていた。そうした絶妙な距離感の中にいられたからこそ、その刺激が高まり、新しい文化の波となって押し寄せてきても自然に（あるいは何とか）対応ができたと思われるのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■大陸文明から放っておかれた日本列島</font></p>

<p>　ここで、当時の東アジア全体の情勢についても簡単に触れておこう。<br />
　まず歴史の流れをたどってみると、大陸の黄河流域を中心とした一帯で農耕（アワやヒエなどの栽培）が始まったのは、6000〜7000年ほど前。<br />
　やがて農耕を営む集落は初期の都市へと統合され、殷や周といった国が生まれ、その後長い争乱期（春秋・戦国時代）を経たのち、最後に勝ち残った秦の始皇帝が東アジアのほぼ全土の統一に成功したのが、2200年ほど前。<br />
　日本列島においては、縄文時代の中期〜後期と重なり合う時期である。</p>

<p>　秦は北方の異民族（匈奴）に対する備えとして万里の長城を築かせ、あるいはまだ未開拓だった華南にも侵出し、いまのベトナムの一帯（南越と呼ばれた）まで征服したと伝えられる。このとき動員した兵は50万。匈奴との戦争にも30万を動員したと言われており、これらの数は縄文人の全人口にも匹敵する規模である。</p>

<p>　この兵力が日本列島に差し向けられていたら、「融合」どころではなかっただろう。<br />
　しかし幸いなことに、この当時、大陸からの最短ルートである朝鮮半島の一帯は、まだ彼らの手中には入っていない。秦に代わって中原を制した漢の5代皇帝（武帝）が、半島北部に侵出。出先機関として4つの郡を設置したのは、弥生時代中期（1900年ほど前）の頃。しかしこの段階でも南方には勢力は及んでいない。日本列島は大陸の国家から放っておかれるような形で、自己の文化を培養できたのである。</p>

<p>　もちろん、放っておかれたといっても、人の交流そのものはさかんだった。<br />
　ことに春秋・戦国時代は国が乱れ、その時々で多くの避難民が生まれたため、彼らの一部が朝鮮半島などを伝って、日本列島に集団単位で渡来してきたことが確認されている。のちの述べるが、当時の列島は遅ればせながら数千年来の寒冷化に見舞われており、従来のライフスタイルを維持することが難しくなっていた。渡来民の持っていた稲作技術が受け入れられやすい状況が整いつつあったわけである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■四季がもたらした“感受性”</font></p>

<p>　一万年の中で作り上げられた縄文の文化と、大陸から伝来した新しい稲作文化。<br />
　そのどちらが優位とも言えない力関係が、結果として「融合」を後押しをした。稲作文化によってこの列島古来のライフスタイルが断絶してしまったわけでも、もちろん導入した稲作が拒絶されたわけでもない。互いの長所を生かし、取り入れていく環境を、当時の列島の住民は半ば無意識のうちに身につけていた。<br />
　融合の過程では戦争を含めた種々の混乱のあったことは間違いないが、結局どちらも滅ぼされることなく、のちの日本の顔となっていくのである。</p>

<p>　こうした「融合」を可能にした背景には、もうひとつ、列島内部の特殊事情もひそんでいた。この点についても、若干ふれておくことにしよう。<br />
　ご存じのように、日本列島には緯度的な位置関係の結果ではあるが、四季が正確に巡ってくる環境が用意されている。しかも南北に細長い列島ゆえ寒暖も多様であり、それらが組み合わさることで、非常に繊細な気候を味わうことができる。これに山、森、盆地、平野といった土地の特性が加われば、その複雑さは増すだろう。</p>

<p>　これらの気候風土のほとんどは、縄文時代の段階から形成されたもの。<br />
　繊細な風土の中で暮らしていけば、当然、感受性のほうも繊細になっていくが、そこに外部から適度な刺激がやってくればどうなるか？　そう、好奇心が刺激され、物事をより深く吸収したくなる。その結果、学ぶことが好きになる。</p>

<p>　しかも生活にゆとりがあるため、学ぶための時間も十分に取ることができる。<br />
　そうなれば、物づくりに対する姿勢も養われる。<br />
　また、人の気持ちに対しても敏感になるから、それが発展していくと、この列島に特有の、争いを極力避けようとする「和」の感覚も芽生えてくるはずだ。長所は短所に通じる面もあるから手放しに評価することはできないにせよ、これらの要素が重なり合っていけば、自然と「融合」が可能になってくるだろう。<br />
　のちの「日本人」のベースはこうした過程で生み出されていったのである。</p>

<p><br />
<font color=black>（参考文献）<br />
若浜五郎「雪と氷の世界」東海大学出版会<br />
小山修三「美と楽の縄文人」扶桑社<br />
寒川恒夫・編「図説スポーツ史」朝倉書店<br />
</font><br />
　</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ「夢の王国」(1)〜ヒトってどんな存在なのか？</title>
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<modified>2005-09-02T09:28:56Z</modified>
<issued>2005-08-17T00:24:53Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/kamininaru/9.189</id>
<created>2005-08-17T00:24:53Z</created>
<summary type="text/plain">　キリスト教では、アダムとイブが「善悪の知識の木」の実を食べ、楽園から追放されたことを、「原罪」と呼んでいる。……しかし、日本人にはこの世界中を席巻している感覚が、なかなか実感できない。……なぜか？　「楽園」を追放され、長い長い放浪の旅を強いられたのち、今の日本列島の一帯にたどり着いた人々は、長期にわたる「楽園生活」を再体験できたからだ。その期間、おそらくは1万年。それが、筆者のイメージする縄文時代である。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>夢の王国</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>■スタート地点としての「アフリカ」</font></p>

<p>　まず、日本人の話をする前に、人間について考えてみることにしよう。<br />
　前回、いきなり格闘家の話が出たが、これから話すことも少々それと関連している。格闘家、オリンピック選手、スポーツアスリート……。言い方はどうでもいい。肉体を高度に磨き上げ、それによりパフォーマンスする人たち。<br />
　しかし彼らも、昔の人たちと比べたら敵わない、という話がある。<br />
　それは仕方ない。たとえば、縄文人（5000年くらい前の日本人）の平均寿命は、発掘された骨などから類推すると、だいたい30歳ほど。<br />
　筆者ならもう死んでいる年齢。というより、あの時代だったら、幼児のうちに死に絶えていたかもしれない。つまり、強い者だけが生き残る。オリンピック選手であろうと相当に厳しい環境だが、当の彼らがそれをどこまで「厳しい」と感じていたか……。それだけの身体ポテンシャルの違いが、否応なく想起されてしまう。</p>

<p>　ただ、ひとたび当時の世界を見渡すと、縄文人はそれほど「頑強」ではなかったかもしれない。筆者は、そんなことも同時に思い浮かべる。<br />
　日本列島は、気候に恵まれていた。ひとことで言って、暮らしやすい。<br />
　先に触れたシベリア、あるいは今のヨーロッパの一帯。のちに中東と呼ばれるようになる、西アジア。このあたりで暮らしていた人たちのほうが、おそらく「強かった」。<br />
　地球は、今から1万数千年前、氷河期から抜け出し、温暖な気候に変わっている。日本列島に住み着いていた人たちが、縄目模様の土器（縄文式土器）を作り、独自のライフスタイルを確立しはじめたのも、それ以降。ちなみに日本列島が大陸から切り離されたのも、ほぼ同じ時期と考えられている。<br />
　日本という国（国土、風土と言い換えたほうがいいかもしれないが）のスケッチをはじめる場合、このあたりがさしあたってのスタート地点となる。</p>

<p>　しかし、スタート地点に立つまでには、当然そこへと至る経緯があるだろう。<br />
　幾世代、長い時間をかけてユーラシア大陸を横断し、シベリアの極寒の気候と戦ってきた、我々の先祖たち。<br />
　いや、さらにさかのぼって話すなら、彼ら（ホモ・サピエンス）のルーツは、もともとアフリカにある。人類はアフリカで生まれた。<br />
　我々はみな、黒人だったのである。黒かった肌が、世界の各地に散っていくことで、その土地の気候に合った色に変化した。ヨーロッパ人は白く、アジア人は黄色く……。</p>

<p><br />
<font color=teal>■サルからヒトへの青写真</font></p>

<p>　太古のアフリカの話を、少しだけさせていただこう。<br />
　人類の祖先が生まれたと言われる太古のアフリカは、現在のようにサバンナ（草原）や砂漠の広がる土地だったわけではない。<br />
　生命を育むにはもってこいの、広大な森に覆われていたという。<br />
　森は楽園。樹々が生い茂ることで、平面だけでなく上下の立体感が生まれる。多様な生命の棲み分けを可能とする、楽園のような空間が生まれる。<br />
　その中にサルの仲間も生息していた。いわゆる、樹上生活である。<br />
　ではなぜ、楽園を満喫していたサルの中からヒトが生まれたのか？　生命史の中でも大事件に挙げられるターニングポイントが、引き起こされた原因は？</p>

<p>　1000万年以上に及んだという地殻変動。それに伴う気候の激変。アフリカの大地には南北に巨大な山脈が生まれ、主に東側一帯の森が消失した。<br />
　樹上で快適な暮らしを続けていたサルたちは、ここで岐路に迫られた。<br />
　多くは激変する環境に耐え切れず、死滅したかもしれない。<br />
　あるいは、運良く残った森の中でこれまでの楽園生活を続けられたサルもいただろう。事実、西側の森にいたサルたちの多くは、現在のサルたちの祖先となったと言われる。<br />
　しかし、中には生命の底力に目覚め、「根性」を見せつけるサルたちもいた。樹上で生活していた時は、まったく必要としなかった能力。点在する森から森へと渡り歩くうちに、立って歩く、すなわち直立歩行という運動。この能力に目覚めることで、両手が自由に使えるようになり、その分脳も飛躍的に発達する。……</p>

<p>　それが、おおよそ500万年ほど前のことだったと言われる。<br />
　直立歩行したばかりの人類は、一般に猿人（アウストラロピテクス）と呼ばれている。<br />
　ヒトと言っても、直立歩行以外はかなりサルに似た容姿。それが次第に進化して、いまのヒトにより近づいてきたのが、原人。原人の中には故郷であるアフリカの地を離れて、アジアや果てはアメリカ大陸へと、果てない旅を続ける者まで出てきた。<br />
　たとえば、発掘された土地の名前を取って、北京原人、ジャワ原人など。</p>

<p>　最近の研究によると、我々の祖先（ホモ・サピエンス＝新人）も、アフリカで暮らしていた原人から枝分かれし、新たに世界に散らばっていったと考えられている。<br />
　しかし、この新人に対して旧人と呼ばれる別種の人類もいた。<br />
　ネアンデルタール人などと呼ばれる人たちである。<br />
　ここもわかりやすく説明しよう。新人も旧人も、原人よりもさらに進化し、脳の容量も現代人と変わらないくらいに増大している。<br />
　要するに、人類はこのとき大きくふたつの種に枝分かれしたのである。<br />
　新と旧とそれぞれつけられているのは、一方が生き延び、一方が滅びてしまったため。現在、ヒト科に分類されているのは、我々ホモ・サピエンスだけ。だから実感しにくいかもしれないが、ほんの数万年前まで（3万年くらい前までか）は、少なくともヒトは2種類いた。その一方が、旧人と呼ばれる人たちだったのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■ネアンデルタールとクロマニヨン</font></p>

<p>　さて、ここで再び格闘家やスポーツマンたちの話を続けたい。<br />
　彼らの身体能力がいくら凄いと言っても、我々の祖先（新人）と比べたら引けをとってしまうと、先に書いた。<br />
　しかし、現役時代のカレリンのような人間だったら、必ずしも負けないかもしれない。復元された彼らの姿や、そこから割り出せる能力などを踏まえたとしても、そんなイマジネーションも成り立つ気はする。<br />
　しかし、ネアンデルタール人（旧人）と比べたらどうか？<br />
　もともと、こんなおかしな(?)イマジネーションを働かせたのは、筆者ではなく、専門の研究者たちである。たとえば、ネアンデルタール人研究の第一人者と言われるアメリカのエリック・トリンカウスは、「現代のオリンピック選手であれ、彼らほど頑丈でたくましい肉体の者は誰一人いない」と、断言する（河合信和<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166600559/qid=1122706230/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-4802845-0774608"target=_blank>「ネアンデルタールと現代人」</a>より）。</p>

<p>　……誰一人？　カレリンもマイク・タイソンも、マイケル・ジョーダンも？<br />
　これはなかなか刺激的な想像だろう。なぜ、これほどのスーパーマンが生まれたのか？<br />
彼らの生息していたヨーロッパの一帯は、当時氷河期の真っただ中（ネアンデルタールの呼称は、彼らの化石人骨が最初に発掘されたドイツの地名から取ったもの）。<br />
　この厳しい環境に彼らなりに適応した結果、カレリンらも軽く凌駕してしまう体力（身体能力）が身についた。特に脳の容量に関しては、現代人のそれを上回ってすらいるのである（現代人が1350ccほどに対して、彼らは1500ccほど）。</p>

<p>　しかし同時に、次の疑問も湧いてくる。それほど優れた（つまり、同時代に同じ地球に共存していたホモ・サピエンスよりもさらに優れた）身体能力を持ちながら、なぜ滅びてしまったのか？　旧人と呼ばれる存在になってしまったのか？</p>

<p><font color=black>「（ネアンデルタール人の）脳が大きかったのは、彼らの隆々とした筋肉を動かすためで、知能とは関係ない。脳の構造に違いのあったことは、頭の骨を後方から見るとはっきりする。私たちの頭蓋は五角形をしていて脳が頭の上部で膨らんでいるのに対し、ネアンデルタール人は球状をしていて、真ん中で膨らんでいた」<br />
（同「ネアンデルタールと現代人」より）</font></p>

<p>　彼らは、脳の真ん中が膨らんでいた。すなわち想像できるのは、旧脳と呼ばれる大脳辺縁系、脳幹、あるいは小脳などの一帯が発達していたということ。<br />
　言い換えるなら、大脳、それも知能を司る新皮質の一帯は、我々と比べさほど発達していたわけではない。<br />
　新皮質の中でも、特に人の持つ創意工夫の部分と直結しているのが、前頭葉。<br />
　こう考えればいいだろう。ネアンデルタール人たちは、厳しい生存環境の中で生き延びるため、ストレートに体力そのものを発達させた。<br />
　たとえば、寒さをしのぐために、彼らはその寒さに耐えられる体力を身につけた。そういう方向で努力した。しかし、我々は寒さをしのぐために、もうひとつの方法があることを知っている。</p>

<p><br />
<font color=teal>■選ばれたのはどちらか？</font></p>

<p>　そう、衣服（動物の毛皮など）を身につければいいのだ。<br />
　そういう方向に意識が働いていった原人たちの中から、現在の我々の祖先が生まれた。ネアンデルタール人との比較で言えば、彼らに遅れること数万年、ヨーロッパにやってきた新人たちは、同じドイツの地名を取ってクロマニヨン人と呼ばれている。<br />
　クロマニヨン人は、現在のヨーロッパ人の直接の祖先と考えてもいい。ネアンデルタールと比べたら、全体的にスマートで、やや華奢な感がある。<br />
　しかし、遅れてやってきた彼らは、同じ狩りをするでも、より精巧な石器を使うことができた。先に話したように、衣服を発明したのも彼ら。動物の皮を剥ぐだけでなく、それをつなぎ合わせるために同じ動物の骨から針などもこしらえたりした。</p>

<p>　ネアンデルタール人からすれば、思いも寄らなかったことだろう。<br />
　たしかに、体力では数段も勝っている。しかし、その体力とて絶対のものではない。もちろん、クロマニヨン人たちの知恵にしても、同様。生き延びるために英知を結集するという点では、方向性が異なるだけで、どちらも最大限の努力はしている。<br />
　しかし、結果を言えば、生命を育んできた地球の大自然は、体力のネアンデルタールではなく、知恵のクロマニヨンを選んだのである。<br />
　その先に、我々の歴史が存在する。ヨーロッパに限らず、アフリカ、アジア、アメリカ、もちろん日本も……、すべてはその自然の選択の先に、こうして今日、存在が許されているのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■前頭葉の発達の意味</font></p>

<p>　さて、もう少し続けよう。知恵を身につけた人類が生き延び、やがて今日に至る文明・文化を築くことになった。その間、長く見積もっても、2万年程度。<br />
　地球時間で見るなら、決して長い時間ではない。<br />
　しかし、前頭葉の発達というのは、ある意味悪魔的なことである。筆者の得意な身体論で言うならば、身体全体のバランスが大きく崩れてしまう。</p>

<p>　人はなにも脳だけで生きているわけではない。<br />
　筆者が最も重視しているのは、脳よりしっぽ（尾骨）である。生物のアンテナ、直観の出どころと考えてもいい。<br />
　生物ならはじめにこのアンテナが反応する。<br />
　アンテナの位置は、同時に身体の重心にも重なり合う。直観と行為が重なる。生物は日々これを無意識に行っている。<br />
　脳（前頭葉）の働きが突出するということは、この直観……行為のラインの間にさまざまな「考慮」「思惑」が入り込むことを意味している。<br />
　たとえば、こういうことだ。ネアンデルタール人も狩りをする際に、簡易な石器を使っていたことで知られている（原人と比べたらはるかに精巧であったが）。<br />
　もちろん、マンモスと正面から立ち向かえるほどの身体能力を持っていたわけではない。</p>

<p><font color=black>「彼らのハンティングは、けがをした動物、腹に子をもったメス、群れから離れた、つまりはか弱い動物に襲いかかるという方法である。さらに進歩すると、物陰に隠れて奇襲攻撃をかけて相手をパニックに陥れ、やおら近づいて、石槍でつつく……」<br />
（馬場悠男<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309502016/qid%3D1122706127/250-4802845-0774608"target=_blank>「ホモ・サピエンスはどこから来たか」</a>）</font></p>

<p>　といった情景がイメージされている。<br />
　つまり、生きていくのに必要な量だけしか確保できなかったという点で、彼らの行為には節度があった。<br />
　知恵はあっても、「自然に優しい」存在だった。<br />
　それに対してクロマニヨン人は、必要以上に動物を追い求め、殺りくするという、「マンモス・ハンター」の側面を持っていたと言われる。<br />
　知恵さえ働かせていけば、体力がなくとも、巨大なマンモスを仕留めることはできる。彼らはこのことに気づき、それをさまざまに実践した。</p>

<p><br />
<font color=teal>■生き抜くための「残虐性」</font></p>

<p>　たとえば、遠くから槍を投げる。矢を射る（弓を最初に発明したのも、彼らである）。<br />
　矢尻に毒を塗れば、マンモスなど大型獣も倒すことはできる。<br />
　あるいは、ワナ。集団で大声を上げるなどしてガケに追い込み、死に追いやる……。<br />
　いろいろな知恵が湧けば、それを試し、成功させることそのものに愉しみを覚えるようにもなる。ハンティングにゲームの要素が加わっていく。<br />
　マンモスが絶滅した原因は、何も人類のハンティングのせいだけではなかった、つまり氷河期の終焉に伴う気候激変に対応できなかった、それが要因であると語る学者もいる。<br />
　しかし、我々ヒトの性質を考えたら、ハンティングがまったく無関係だったとは言えないだろう。<br />
　ホモ・サピエンスが幾世代もかけて厳寒のユーラシア大陸を横断したのも、生き抜くため、獲物を求めてのことだったのである。</p>

<p>　ユーラシア大陸を横断したホモ・サピエンスは、モンゴロイドと呼ばれている。<br />
　やがて彼らの一部は、現在の日本列島の一帯に住み着いた。また、別の一派は地続きだったアリューシャン列島を渡り歩き、やがてアメリカ大陸へと達する。</p>

<p><font color=black>「不思議なことに、なぜか彼らの新大陸進出と同時に、当時のアメリカ大陸の大型哺乳類たちが次々と大量絶滅している。北アメリカでは、更新世末期（約10万〜1万年前）に生息した大型哺乳類43属のうち72パーセントにあたる45属が、南アメリカでは57属のうち75パーセントにあたる45属が絶滅している」<br />
（山口敏監修<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/453707812X/qid=1122706004/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-4802845-0774608"target=_blank>「日本人起源の謎」</a>より）</font></p>

<p>　もちろん、これはアメリカ大陸だけに見られた現象ではない。<br />
　人間（ホモ・サピエンス）そのものが、脳（特に前頭葉）を余計に発達させることで、自然界のバランスそのものを崩してしまう行為をする存在となった。長い生物史から見ても、それがきわめて特異な進化であることは言うまでもないだろう。<br />
　しかし我々は同時に、その進化がマイナスばかりでないということも知っている。</p>

<p><br />
<font color=teal>■ヒトってどんな存在なのか？</font></p>

<p>　ここでもネアンデルタール人を引き合いに出すことで、話を進めていこう。<br />
　彼らの話題が出ると決まって、1950年代、イラクのシャニダール遺跡で発掘された人骨のまわりから、大量の花粉粒が検出されたというエピソードが取り上げられる。<br />
　つまり、死者の埋葬の際に花がたむけられたのではないか、という推測である。<br />
　同じ遺跡からは、頭や腕を怪我した重度の障害者の骨も見つかっている。そのようなハンデを背負っても仲間から見捨てられず、天寿がまっとうできたというわけである。</p>

<p>　たしかに感動的な話かもしれない。しかし、感動的な話で言えば、じつはクロマニヨン人のそれのほうが、スケール感でははるかに凌駕している。<br />
　知っている人も多いだろう、1万年ほど前に描かれたと言われる、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画である。<br />
　正確に言えば、ラスコーやアルタミラに限らず、フランスやスペインの南部一帯の洞窟の天井に、無数の動物の絵が描かれている。<br />
　その表現力。そして、色彩感覚。美術史の本をひも解けば、おそらくいちばん最初に紹介されているであろう、草創期の人類の最高傑作。<br />
　美術とは何かという問いへの答えが、すでにこの段階で明確になっている。日本に暮らす筆者は画集を眺めるのみだが、それだけでも彼らの信じられないほどの「豊かさ」を感じてしまうのである。</p>

<p>　おわかりだろうか？　これが人間なのである。<br />
　つまり、善だけではなく、悪だけでもない。両方を際限なく持つことができ、しかも自分自身の意志によってそのどちらをも選ぶことができる。選べるということが、長い進化の歴史の中、唯一人間だけが獲得できた能力だと思ってもいい。<br />
　その意味では、性善説も性悪説も、どちらも正しく、どちらも間違っているのである。<br />
　<br />
　<br />
<font color=teal>■サルからヒトへの進化と、アダムとイブ</font></p>

<p>　人に内在する善と悪との問題は、その存在の存亡自体に関わる事柄であるため、古来からさまざまな形で認識され、解釈されてきた。その解釈の筆頭と言うべきものが宗教であったということに、異論を挟む人は少ないだろう。<br />
　宗教と科学を対立させる考え方もあるが、筆者は物事を認識する、解釈するという点では、どちらもさして変わりないと思っている。表現の手法が違うだけで、発想や行き着いた結論そのものは、かなり似通っているのである。</p>

<p>　たとえば先に、筆者は楽園であった森を追われたサルがヒトに進化した、と書いた。<br />
　現在の考古学者たちが導き出した青写真だが、この話を聞いて何かに似ているな、と感じた人も多かったのではないだろうか？<br />
　そう、旧約聖書に描かれたアダムとイブの「楽園追放」神話である。<br />
　旧約聖書の冒頭、「創世紀」によると、この世界を創り出した神は、やがてチリからアダムという男子を、彼の肋骨からイブという女子を生み出した。この一組の男女に棲処として与えられたのが、エデンの園である。</p>

<p><font color=black>「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」<br />
（新共同訳<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4820212044/250-4802845-0774608"target=_blank>「聖書」</a>より）</font></p>

<p>　面白い話だ。つまり、エデンの園にはたくさんの木が生い茂り、食べるに十分なだけの実が豊富になっていた。それだけではない。</p>

<p><font color=black>「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった」<br />
（同右）</font></p>

<p>　何のことはない、エデンの園は森だったのである。<br />
　人（アダムとイブ）をサルに置き換えれば、同じ類のエピソードを、違う角度から解釈・説明しているのだと思えてくる。<br />
　しかも、その森には、「善悪の知識の木」が生えているという。<br />
　サルがヒトへと進化するための「危うさ」（あるいは「可能性」）が、すでに森に内包されていた、筆者ならそう読み解く。<br />
　神はそれを自らが作っておきながら「食べるな」と警告しているわけだが、ご存じのように、アダムとイブは「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」蛇にそそのかされ、ついにその実を口にしてしまう。<br />
　そそのかしたというが、蛇の発した言葉もじつに振るっている。</p>

<p><font color=black>「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」<br />
（同右）</font></p>

<p>　神のように善悪を知る。……たしかにサルにはできない芸当である。<br />
　前にも話したように、善悪を知るということは、善悪を自らが認識し、そのどちらかを選択しなければならないからだ。<br />
　物事を認識するという感覚そのものを手に入れた、つまり、脳内における前頭葉の特異な発達を、象徴的に語っているのだと捉えてもいい。<br />
　「認識」を手に入れたアダムとイブは、裸を恥ずかしがるようになった。つまり、寒さを体力によって克服しようとしたネアンデルタールに対し、衣服を発明することでしのごうとしたクロマニヨン。<br />
　しかしこの知恵は、彼らの命を救うと同時に、裸がつねに隠されている日常を作り出した。それがやがて「恥ずかしさ」という感情のもととなっていく。「認識」とは、どちらにせよそういうものなのである。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「原罪」の記憶と「楽園生活」の記憶</font></p>

<p>　このアダムとイブにまつわる話には、他にもさまざまなメッセージが隠されている。<br />
　あまり知られてはいないが、彼らの棲んでいたエデンの園には、「善悪の知識の木」のほかに「命の木」も生えていた。<br />
　しかし神は、善悪を知る者となったアダムとイブが「手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる」ことを恐れた。知恵によって命まで管理されてしまったら、神の出る幕はないということか。<br />
　神は「命の木」を守るため、アダムとイブを楽園から追放した。聖書によると、この追放された男女の子孫こそが、我々人類となるのである。</p>

<p>　キリスト教では、アダムとイブが「善悪の知識の木」の実を食べ、楽園から追放されたことを、「原罪」と呼んでいる。<br />
　人が犯したあらゆる罪の中でも、いちばん根本にある罪、という意味だろう。<br />
　この解釈が有史以来のヨーロッパ社会、そこから派生したアメリカをはじめキリスト教文化圏の国々、そして、同じく旧約聖書を信奉するイスラム社会においても、人々の心を規定し、縛る役割を担い続けてきた。<br />
　人のDNAに刻み込まれた遠い昔の記憶が、この物語にある種の説得力を与えている。進化論と聖書の記述を符合させると、そんな想像も浮かび上がる。</p>

<p>　しかし、日本人にはこの世界中を席巻している感覚が、なかなか実感できない。<br />
　……なぜか？　楽園を追放され、長い長い放浪の旅を強いられたのち、今の日本列島の一帯にたどり着いた人々は、長期にわたる「楽園生活」を再体験できたからだ。<br />
　その期間、おそらくは1万年。それが、筆者のイメージする縄文時代である。<br />
　我々の感覚の中に、一神教を奉ずる人たちのような強烈な宗教感覚はない。それが「甘さ」につながっているとの指摘もあるが、不思議なことに、その強烈な宗教感覚の持ち主たちに滅ぼされることなく、それに類する危機は幾度もあったものの、そのたびに甦り、新しいスタイルを取り込んでいる。それが日本人である。<br />
　人生の勝者だけでなく、敗者に対しても同等か、それ以上の「美学」を見い出せる我々の感性も、世界的には決して当り前のことではない。<br />
　しかしそう感じられる価値観は、文化を生み出す原動力にもなる。日本史をひも解いていけば、それが敗者に対する惜別や哀悼、慈しみで貫かれていることに気づかされるだろう。</p>

<p><br />
<font color=teal>■モンゴロイドから縄文人へ</font></p>

<p>　少々脱線してしまったが、筆者はアダムとイブの「楽園追放」を原罪とは捉えない。<br />
　というより、日本人は必ずしもそうは捉えてこなかったということも、この先の章でさまざまに解いていきたいと思っている。<br />
　そもそも、彼らをそそのかしたという蛇を、日本人は悪魔扱いしてはこなかった。<br />
　古来から神の化身として尊んできたのである。<br />
　たとえば、縄文人たちもヘビを生命力の象徴として信仰し、土器の文様などに取り込んでいたと言われる（日本だけでなく、多神教をベースとする国や地域では、蛇は決して悪魔ではない）。</p>

<p>　つまり、生命力というもの、生きるということ。これをどう捉えるか？<br />
　生命観、人生観、そして宗教観の違い……。<br />
　筆者は、それに対する「答え」を、日本史の中から無数に受け取ってきた。<br />
　この「答え」を明確に認識し、育んでいくということは、21世紀、我々が新たなスタンダードを構築し、世界の人たちに「どうですか？」と提案することでもある。<br />
　話が大きすぎる？　しかし、国際感覚が重要と言うのなら、語学を覚える以上に、自己を語れる感覚そのものが問われてくる。</p>

<p>　ようやくその語るための準備ができた。<br />
　むろん、ここまでで指摘したいくつかの問題は、これから先のすべての内容に関わってくる。「モンゴロイド」が「縄文人」へと変化していった過程について、もう少し焦点を絞り込んでみることにしよう。</p>

<p><br />
<font color=black>（参考文献）<br />
NHK取材班「生命 40億年はるかな旅・5〜ヒトがサルと分かれた日/ヒトは何処へいくのか」（NHK出版）<br />
河合信和「ネアンデルタールと現代人〜ヒトの500万年史」（文春新書）<br />
馬場悠男「ホモ・サピエンスはどこから来たか」（河出書房新社）<br />
山口敏監修「日本人の起源の謎〜「大いなる太古の日本の日本の原風景」を探究する」（日本文芸社）<br />
＊本文の引用は、第1章「人類の起源とモンゴロイドの旅」（中川悠紀子）より<br />
新共同訳「聖書」（日本聖書協会）</font><br />
　</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ「夢の王国」 ・はじめに〜イチローとカレリンの「アジア」</title>
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<modified>2005-08-17T00:42:28Z</modified>
<issued>2005-07-29T00:51:47Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/kamininaru/9.187</id>
<created>2005-07-29T00:51:47Z</created>
<summary type="text/plain">　ぼくなりの感覚を駆使し、日本史全体を見渡せる「歴史本」が書きたいと、数年前に手をつけた作品です。執筆の時間がなくしばらく寝かしておきましたが、このほど準備も整い、このサイト内でいよいよ連載をスタートします。

　ただ歴史を追いかけるだけでなく、まず歴史を動かす原理を解きほぐし、そのなかで「日本人」を位置づけてみたら面白いんじゃないか……というのが、ぼくの発想。
　ただ、ここでいう日本というのは、原則的には風土のこと。それはアジアや世界というより大きな枠を通して、より鮮明に見えてきたりするものです。

　日本史と世界史の「融合」。
　最近になって、そんな視点も注目されるようになってきました。分野をひたすら細分化して、無数の専門家を輩出させてきた時代から、それらの人々の研究成果をも統合させ、「全体」を見渡せる視点が、いまは求められています。

　ぼくの書く「夢の王国」も、スケールという点ではその潮流に重なるものがあるかもしれません。
　ここまではまえがきの、まえがき。以下、本文に続きます。
　それなりに息の長いシリーズになると思いますので、乞うご期待。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>夢の王国</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/kamininaru/">

<![CDATA[<p>　日本人。……世界史的に見ても相当にユニークで、類例のない歴史を歩んできた、極東の一民族。<br />
　しかしその特異さを、当の日本人が気づいていない。特異であると語ることがまるで罪であるかのように、妙な慎み深さを身につけている。<br />
　戦争で負けた後遺症だという人もいる。<br />
　しかし、21世紀。筆者にはすでに違う景色が見えている。膠着した世界をほどくには、新しい風が必要だ。そして我々は、すでにその風の中で生きてきた。<br />
　日本史をひもとけば、それがはっきりと見えてくる。知らないというなら、知ればいい。同時にそれは、埋もれていたDNAを呼び起こす旅になる。</p>

<p>　手はじめにまず、こんな話からしていくことにしよう。<br />
　唐突だが、筆者の脳裏には、いまロシアの広大な大地が広がっている。<br />
　20世紀を席巻したソビエトという国はついぞ好きになれなかったが、国土としてのロシアは好きである。たとえば筆者は、1999年、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005U2BE/250-4802845-0774608"target=_blank>格闘家・前田日明の「引退試合」</a>の相手として来日した<font color=black>アレキサンダー・カレリン</font>という男を見て、驚いた。</p>

<p>　グレコローマンレスリングでオリンピック3連覇を果たした、ロシアの国民的英雄。国民的英雄と軽々しく言ってしまったが、その尊敬のされ方は尋常ではない。</p>

<p>　<font color=black>「スポーツに疎い人であれ、カレリンのことを語らせたら、30分や1時間はやまない。……他の競技のスポーツ関係者に取材しているときも、カレリンに話が及ぶと、本題をはずれて、彼がどんなに素晴しい人物かを延々と聞かされるので、困ることが度々ある」<br />
（アサヒグラフ99年3/19号、小野田悦子「カレリンの真実」より）。</font></p>

<p>　190センチを超える並外れた体格。ナチュラルとしか言いようのない、柔らかな肉質。……要するに、カレリンはロシアの風土、その中で培われた伝統や文化の結晶。それがレスリングという競技を通じて、パフォーマンスしている。ロシア人ではない筆者が目にしても、まずそんな感想が思い浮かんでくる。</p>

<p>　日本の歴史について書こうというのに、なぜ異国の格闘家の話をはじめたのか？<br />
　じつはカレリンは、ロシア人としての愛国心を強固なまでに持つと同時に、アジア人であることを公言してはばからない存在だからだ。</p>

<p>　<font color=black>……日本へ行ったのは、いつも強調しているとおり、同じアジア人だからですか。<br />
「そう。もちろん私はアジア人です。日本から学ぶことは多いはずだと思っています」<br />
　……外見はどうしてもアジア人に見えないのですが。中身がアジア風なんでしょうか？<br />
「中身は私にも見えません（笑い）」<br />
　……では一体どこがアジア？<br />
「（真顔で）私が生まれ育ったシベリアはアジアなんですよ」<br />
　……地理的に？<br />
「地理的にもそうだし、えー、とにかく来てみればわかります。たしかにアジアです」<br />
（前出「カレリンの真実」より）</font></p>

<p>　とりとめのない会話ではあるが、筆者はカレリンの感覚に共感する。<br />
　理屈ではない。彼らとどこかで「つながっている」という感覚。歴史が好きで、学んできた筆者は、日本人とは何か？と自問したとき、まずはじめにロシアの大地が浮かび上がる。筆者にとってアジアとは、意外にも(?)ロシアなのである。</p>

<p>　じつはこの話を冒頭でしようと思ったのは、こうした筆者や、あるいはカレリンの郷愁にも似た感覚が、近年、科学的にも証明されつつあるからだ。<br />
　NHKスペシャルで去年放送された、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140806230/250-4802845-0774608"target=_blank>シリーズ「日本人はるかな旅」</a>。<br />
　仕事の合間に何気なく見ていた番組の中で、筆者は、きわめて面白い研究成果が紹介されていることを知った。縄文人の人骨をDNA分析した結果、<font color=black>「29体中実に17体がシベリア平原に暮らすブリヤート人と一致したのである」（NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編「日本人はるかな旅①」より）。</font></p>

<p>　まだ日本列島が大陸と切り離されていない頃の話。2〜3万年前と見積もればいいか？<br />
　もちろん、北だけでなく南からやって来た祖先もいただろう。<br />
　しかし、我々が思っている以上に、北とのつながりも濃厚であったということ。これを意外に感じる人も少なくないのではないか。<br />
　考えてみてほしい。カレリンと戦った前田日明は、やはり190センチと巨漢だが、彼のような人間は日本ではまれ。<br />
　我々は基本的に小柄で華奢。カレリンをロシアの英雄とするなら、日本ではやはりイチロー……。アメリカで活躍する彼は、一野球選手という域を超え、いまや「日本人」を体現する存在となっている。</p>

<p>　ロシアの国民的英雄と、そして、日本の国民的英雄。　<br />
　長い年月を経て、見た目にも大きな違いが現われている。それが歴史。<br />
　歴史を学ぶということは、他との差異を明確にするということであり、それが同時に自己に目覚めるということにつながっていく。ロシア、シベリア、アジア……、それらの言葉でイメージされる異国の大地にある種の憧れを抱きながらも、島国という条件下、きわめて繊細な、端々まで「行き届いた」文化を築き上げてきた日本。<br />
　その本質をどこまでも問い詰め、明瞭にしていった先に、まだ日本人も自覚できてはいない、世界標準とは異質な「成功法則」が見え隠れする。</p>

<p>　……我々は、いったいどんな「成功」を望んできたのか？<br />
　それを伝えるのが、この本の目的。筆者の物語る歴史は、自己認識を苦手とする多くの日本人にとって、なにより刺激的な行為になるに違いない。<br />
　繰り返すが、時代は21世紀。<br />
　日本人以上の日本人となって、ロシア人以上のロシア人、アメリカ人以上のアメリカ人と渡り合う。……そのための発想のベースがここには眠っている。</p>

<p><font color=black>（参考文献）<br />
小野田悦子「カレリンの真実」（アサヒグラフ99年3/19号所収）<br />
NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編「日本人はるかな旅(1)〜マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」（NHK出版）</font><br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>大河ドラマ関連企画（1）〜「義経」の向こうに「歴史」が見える</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2005/05/1_1.html" />
<modified>2005-06-05T06:44:14Z</modified>
<issued>2005-05-17T03:23:48Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/kamininaru/9.91</id>
<created>2005-05-17T03:23:48Z</created>
<summary type="text/plain">　人はつねに「正当な評価」をしてもらいたいと思いながら生き続けている存在です。でも、ただ褒めるだけで、同情するだけで、相手の琴線に触れられるかというと、そうではない。
　大事なものは「理解」という感覚です。「理解」は「理屈」とは違います。
　この「理解」を得るためには、自分自身の感覚器官を有効に働かせて、相手の感覚に近づく努力が必要です。この感覚器官は、読者一人一人にもあるし、そして義経にもあったもの。生物的な機能としては共通のもので、人工的にこしらえた思想などとは異なり、意識の中での感覚的な再現性も可能なものです。
　義経はすでにこの世にはいませんから、直接感想は聞くことはできません。
　でも、「これは多分本人も納得することだろうな」とか、「嫌な顔をするが受け入れざるを得ないだろう」なんていうぼくや読み手の様々な想像は、感覚に根ざしたものであるかぎり、そうそう外れたものではないのです。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>義経論</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/kamininaru/">

<![CDATA[<p><font color=teal>■ただ「好き」「すごい」というだけでは……。</font></p>

<p>　今年の大河ドラマ（<a href="http://www3.nhk.or.jp/taiga/">「義経」</a>）は、何だかんだとオーソドックスな作品のようです。安心感がある分、ちょっと知的な刺激が少ないという印象。<br />
　歴史というものは、同じ事実からでもその人物や出来事の「意味」をより浮き彫りにする解き方が導き出せます。</p>

<p>　たとえば自分自身のことでも、人に言われて初めて気づくことって多いですよね？　では、その人は自分のことを何でも知っている人でしたか？　<font color=black>知識の量、情報の量が、必ずしも真実（それも本人でさえ気づいていない「意味」）に結びつくとは限らないのです。</font><br />
　本人でさえも気づいていない「意味」。存在することの、していたことの、本質的な評価と言い換えてもいいかもしれません。</p>

<p>　人はつねに「正当な評価」をしてもらいたいと思いながら生き続けている存在です。でも、ただ褒めるだけで、同情するだけで、相手の琴線に触れられるかというと、そうではない。<br />
　あるいは愛すればいいと言いますが、アイドル歌手のようにむやみに「好き、好き」と追いかけても、そのアイドルはおそらく孤独なままでしょう。</p>

<p>　大事なものは「理解」という感覚です。「理解」は「理屈」とは違います。<br />
　この「理解」を得るためには、自分自身の感覚器官を有効に働かせて、相手の感覚に近づく努力が必要です。<font color=black>この感覚器官は、読者一人一人にもあるし、そして義経にもあったもの。生物的な機能としては共通のもので、人工的にこしらえた思想などとは異なり、意識の中での感覚的な再現性も可能なものです。</font></p>

<p>　義経はすでにこの世にはいませんから、直接感想は聞くことはできません。<br />
　でも、「これは多分本人も納得することだろうな」とか、「嫌な顔をするが受け入れざるを得ないだろう」なんていうぼくや読み手の様々な想像は、感覚に根ざしたものであるかぎり、そうそう外れたものではないのです。<br />
　難しい言葉を使うならば、それがいわゆる人間の感覚に起因しているところの「蓋然性」というものです。</p>

<p>　<font color=teal>【蓋然性（がいぜんせい）】</font></p>

<p>　ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。これを数量化したものが確率。「—の乏しい推測」<br />
　（「大辞泉」より）</p>

<p><br />
<font color=teal>■義経はなぜ“兄思い”だったの？</font></p>

<p>　まず、以前にも触れたことがありますが、兄・頼朝との不思議な兄弟関係をクローズアップしてみましょう。<br />
　治承・寿永の乱（源平合戦）における最大の「謎」は、頼朝と義経の兄弟関係に集約されているとっても過言でないかもしれないからです。<br />
　兄弟と言っても異母兄弟で、義経が兄の頼朝と初対面したのは、22歳のとき（駿河の黄瀬川の対面）。兄弟と言っても生まれも育ちも違う。普通に考えたら情だって湧きにくい関係だろうし、実際問題、異母兄弟というのは、古来から家督の相続などをめぐって争い合うケースも少なくないわけです。<br />
　にもかかわらず、ほぼ生涯を通じて、異常なまでに兄を慕い続ける義経。<br />
　兄に遠ざけられても、梶原景時の讒言が原因であると言い張るなど、純愛ドラマ並みの“片思い”が語り継がれています。</p>

<p>　それだけ純粋な人だったんですよ……。まあ、それはそうなのかもしれない。<br />
　書店に並ぶ数々の“義経本”をひもといてもだいたいこのあたりで話は止まってしまってますが、これでは答えにはなっていません。<br />
　ぼくには彼の性格をたどるだけでも、もっといろいろなものが見えてくるんですけどね……。まあ、ここで義経の出自を思い出してください。<br />
　義経は生まれてすぐに父・義朝が敗死し、少年時代に鞍馬山に僧侶の見習いとして預けられる。やがてそこを脱出し、奥州藤原氏のもとへ。<br />
　つねに体制の外で生き続けてきた。<br />
　<font color=black>もっと具体的にいえば、所領と呼ばれるものと無関係の世界にいた。</font></p>

<p>　当時の鎌倉武士は「一所懸命」という言葉があるように、一所（自分の所領）にこそ命を懸けていた（懸命）。<br />
　生きるための基盤が土地にあった。その土地を増やすため、守るために、源氏の嫡流を棟梁に仰いだ。彼らの発想はすべてここからはじまっている。「一所懸命」だからこそ、兄弟どうしが時にいがみあったり、争い合うことがあるわけです。</p>

<p>　義経にはこの感覚がすっぽりと欠落しています。<br />
　身寄りというものがあるようでない彼の場合、最も大事にしてきたのは（しなければならなかったのは）人間関係。人と人との和。この点が理解できると、彼の異常なまでの兄への情愛の意味も見えてくると思います。<br />
　<font color=black>「一所懸命」でない彼にとっては、産みの母が同じであろうがなかろうが、血を分けた兄を大事に思うことは当たり前の感情。</font></p>

<p>　逆に言えば、「一所懸命」の鎌倉武士たちの感覚はよくわからない。彼らが何に対してかくも「懸命」になっているのか、その感覚には鈍感になってしまう。<br />
　それでいて戦の天才。過去にない内乱になる怖れさえあった源平の戦いが、彼が彗星のごとく現れることで、わずか５年で決着してしまった。<br />
　おそらくまわりの武士たちからは、宇宙人のようにでも思われていたのではないか？　それくらい“浮いていた”存在だったのです。</p>

<p><br />
<font color=teal>■義経の「情」、頼朝の「遠慮」</font></p>

<p>　頼朝の話をしましょう。彼は、このようにわけのわからない異邦人の弟を嫌っていた、警戒していたと言われていますね？<br />
　しかし、心の底から本当に憎んでいたのかというと……それはわかりません。<br />
　なぜなら、義経のどこをどのように見ても、通常の異母兄弟にありがちな、兄にとって代わってやろうという野心が見られない。そういう弟を逆に気味悪く思っていた可能性はあるでしょうが、それは憎悪とは違うものです。</p>

<p>　頼朝が義経を遠ざけていたのは、そんな好き嫌いの感情ではなく、自分をバックアップしてくれた妻の実家（北条氏）に対する「遠慮」であったと考えたほうが納得がいきます。<br />
　弟と嫁とどちらを選ぶのかといわれたら、嫁のほうを選ぶしかありません。<br />
　それが彼の地盤であり、北条氏の背後には同じ価値観を共有する多数の鎌倉武士が控えていたからです。<br />
　異邦人である義経が持っているのは、特異な軍事的才能だけです。憎めない奴だとわかっていても、その能力や功績だけで優遇してしまったら、自分が北条氏（鎌倉武士）に殺される。そのくらいの危機感はあったでしょう。</p>

<p>　というわけで、ここでこの兄弟だけの“心のやりとり”が見えてきます。<br />
　果たして二人は本当に憎しみ合っていたのか……、義経の没落をめぐる話から、この点に関するいくつかエピソードを拾ってみましょう。<br />
　平家滅亡後、都に凱旋した義経は熱狂的な歓声に迎えられる一方、彼の存在の肥大化を怖れる鎌倉の頼朝との関係は悪化の一途をたどります。</p>

<p>　身の潔白を訴えるため鎌倉に赴き、有名な「腰越え状」をしたためますが、これも拒絶され、失意のうちに京都へ去るや、追い討ちをかけるように頼朝の放った刺客（土佐坊昌俊）に襲われます。<br />
　これはなんとか（余裕で？）撃退しますが、事ここに至り、もはや兄の心は変わらないことをさすがの義経も悟ったといわれます。</p>

<p>　普通に考えれば、いよいよ兄弟どうしの「全面対決」が始まることになるわけですが、義経の場合、なぜか西国に向かうと言い出します。<br />
　結果を言えば、その途中で船が嵐に遭って兵も散り散りになり、やむなく奥州藤原氏のもとへ亡命することになるわけですが……。</p>

<p>　ここでいろいろな疑問が湧いてきませんか？<br />
　なぜ地縁も何もない西国などへ赴こうとしたのか？　義経には官位はあっても、武士たちに所領を与えられる兄頼朝のような政治的特権はありませんでしたから、兵が集まらなかったのは仕方のない話です。</p>

<p>　しかし、戦術面だけ考えれば、頼朝の兵（鎌倉武士）と一戦を交えることもできたはず。彼の強さはある種神格化されてましたから、緒戦で勝ってしまえば朝廷も味方につき、鎌倉との力関係もガラッと変わってしまった可能性もあります。<br />
　それをせずに西国に行こうとしたのは、要は、兄とは戦いたくなかったからです。叛旗は翻しましたが、本音で言えば、気が進まなかった。<font color=black>いくら天才的戦術家であろうと、大事なのは戦いに対するモチベーションなのです。</font></p>

<p>　この点は生涯にわたって一貫していました。義経は割り切ることができない人なのです。正直。素直。それが彼の美徳だったわけです。<br />
　となれば、兄と一戦を交えないまでも、なぜ支持母体である奥州へダイレクトに向かわなかったのも得心できると思います。<br />
　自分が行けば奥州が戦の火種になることが見えていたからです。<br />
　現実論で言えば、奥州の兵力を味方につけたほうがいいに決まってます。そうすればおそらく義経は負けなかったでしょう。</p>

<p>　しかし、それを（兄を倒すことを）彼が望んでいたかどうか？<br />
　あるいは戦うのが嫌なら、庇護下にある奥州の地でかくまってもらい、しばらく天下の情勢を見定めたほうがいいではないか？　そう思う人もいるかもしれませんが、まあ半分は机上の空論であると思います。<br />
　どうであれ、自分が奥州に亡命すれば、世話になった藤原氏に迷惑がかかります。<br />
　事実、奥州に身を寄せた彼は、ある意味危惧していた通りというべきか、奥州藤原氏滅亡という「大迷惑」をかけてしまうことになる……。<br />
　本当は奥州には行きたくなかった、もちろん兄とも戦いたくない。かなりネガティブな感情で西国行きを決断した。<br />
　そして、ネガティブな決断というものは、往々にして失敗してしまうものなのです。</p>

<p><br />
<font color=teal>■なぜ戦わなかったのか？という問いかけ</font></p>

<p>　さて、船が難破し、行き場を失い、やむなく奥州へ身を寄せた義経。<br />
　この義経と藤原氏との関係も、じつはものすごく謎に包まれています。<br />
　考えてみてください。“天下の大罪人”とはいえ、類まれな武略で平家を滅ぼしてしまった義経。そして、奥州藤原氏の都をしのぐ豊富な財産と兵力。これだけの条件が整いながら、なぜああもあっさりと滅亡してしまったのか？</p>

<p>　ここに３代秀衡のあとを継いだ泰衡が愚人だったからという通説が出てきます。<br />
　しかし、泰衡が愚人であったかどうかも、じつはよくわかりません。<br />
　よく知られるように、父秀衡はその死の間際、義経を大将と戴いて鎌倉と決戦せよと遺言したと言われます。これは、京に攻め上れとか、鎌倉を滅ぼせというものではなく、専守防衛的な要素が強い藤原氏伝統の戦略だったでしょう。<br />
　しかし、一点だけ肝心なことが抜け落ちていました。<br />
　そう。大将に仰ぐべき義経が、鎌倉との決戦を望んでいないということです。</p>

<p>　庇護されている身である以上、口に出しては言わなかったかもしれません。<br />
　しかし、素直すぎる感情の持ち主であっただろう義経の本心は、秀衡にも、泰衡にも十分伝わっていたように思われます。<br />
　それでも「奥州のためだ」と懇願すれば、感情を押し殺して義経も戦ったかもしれませんが、<font color=black>果たしてそこまでして戦う意味がどこにあるのか？</font></p>

<p>　兵力もある、有能な将軍もいる、財力もある、そして敵がいる。これだけの条件がそろえば、必ずと言っていいほど戦争は始まります。<br />
　しかし、奥州では戦争らしい戦争もないままに頼朝の手中に落ちてしまった。<br />
　<font color=black>奥州藤原氏が義経と一脈通じるのは、彼らもまた鎌倉武士ほど土地への執着心がなかったであろうということです。</font><br />
　彼らが得てきたこの時代では空前と言っていい（中央の貴族であった本家藤原氏の栄華をもしのいでいたのかもしれない）豊かさは、この地で産出する金や馬などを介した交易（商業）にあったと考えられるからです。</p>

<p>　繰り返しますが、土地が介在してくると、家督争いも深刻になります。<br />
　家督を継げなかった者はイコール十分な土地も得られない、つまりは豊かさを失うという切実な問題があったからです。<br />
　しかし、土地以外にものも分与できる状況にあれば、価値がもっと多様化していれば、この問題は起こりにくくなります。<br />
　秀衡の子供たちも６人いたと言われますが、長男の国衡は母の出自が卑しいということで、都の貴族の血を引く母を持った次男の泰衡が跡取りになりました。しかし、このふたりが深刻に争い合ったという言い伝えはありません。</p>

<p>　これはじつは、平家に対しても言えることです。<br />
　彼らの一門は、清盛を頂点に、重盛、宗盛、知盛、重衡……と、あれだけの兄弟がいながら、ライバルの源氏ほど激しい仲違いは見られません。<br />
　<font color=black>土地だけを基盤にしていなかったからです。</font><br />
　逆に言えば、鎌倉武士が天下を取り、源氏を経て、北条氏が実権を握って以降、日本はじつに殺伐とした国になりました。</p>

<p>　<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/cat15/index.html"target=_blank>豊臣秀吉</a>が天下を統一するまで、結局のところ、土地争いの争乱が繰り広げられるのです。<font color=black>秀吉はこの土地争いを終息させるために、東洋に一大交易圏を形成し、奥州藤原氏や平氏がやっていたような商業立国化を、数十倍、数百倍スケールアップした形でやろうとして挫折しました。</font><br />
　これが後世に悪名の高い、唐入り（朝鮮出兵）の動機です。<br />
　結局のところ、鎌倉幕府が基礎を築いたと言ってもいい「一所懸命」の感覚は、天下人・秀吉の出現でわずかに変化の兆しが現れましたが、それも夢と終わると、以後の日本の歴史そのものになっていきます。</p>

<p><br />
<font color=teal>■「一所懸命＝土地神話」の先にあるもの</font></p>

<p>　明治以降の近代は、富国強兵というある意味での“価値の多様化”を目指しましたが、時代の趨勢もあり、土地の代わりに軍事に価値が偏重していきました。<br />
　その意味で、日本史でもきわめて異質な時代です。<br />
　「一所懸命」とは別の感覚、つまりは当時のグローバルスタンダード＝帝国主義への適応が求められたからです。</p>

<p>　しかし、土地信仰そのものが失ったわけではありません。<br />
　戦後の復興から経済成長へと至る過程で、土地というものが嫌というほど介在してきたことはよく語られていることです。武士の世が終わっても、「一所懸命」の感覚だけはまるで怨念のように日本人のDNAにこびりついてきた。</p>

<p>　話がだいぶそれてきましたが、その意味で言えば、もしかしたら1990年代のバブル崩壊とは、日本の数百年来の「土地神話崩壊」の一つのきっかけになるかもしれません。<br />
　<font color=black>土地神話が崩壊することで甦ってくるのが、義経、平家、奥州藤原氏、そして豊臣秀吉。彼らに対する評価が、これから根本的に変わってくる可能性があります。</font></p>

<p>　事実、いまの時代を見渡せば、土地にこだわる、その延長上でマイホームにこだわる、そのためにしっかりした会社に就職するといった「成功法則」が、かなりの度合いで崩壊していることに気づかされるのではないでしょうか。<br />
　少なくともそれらは選択肢の一つでしかありません。<br />
　鎌倉武士の呪縛がようやく剥がれかけてきているのか……。</p>

<p>　根無し草のようにしか思われてなかった、鎌倉武士からはおそらくエイリアン扱いされていた義経も、現代の若者から見ればおそらく「普通」。<br />
　むしろ、まともに思えるかもしれません。<br />
　彼のことを政治の視点から見て愚人のように評する向きもありますが、政治家として優れていた頼朝が果たして幸福であったかどうか？　現代では、こんな考え方も成り立ってしまう時代です。</p>

<p>　義経だって不幸な最期だったではないか……確かにそうです（衣川で死んでいないという説もありますが、日本史における彼の存在は消失しました）。<br />
　しかし、人生のモデルとして彼の生き方を見た場合、共有できる点がいくつも浮かんできます。その点では頼朝も敵いません。</p>

<p>　<font color=black>共有できる点とは、繰り返しになりますが、人と人との和を大事にした点。</font><br />
　この和の原点に自分の血筋（血縁関係）というものを置いたという点。<br />
　仕事の成功（戦場での功績）を追求しながら、それは誰のためと言えば人のため。現代風に言えば、家族のため、仲間のため。<br />
　義経の場合、生涯にわたって驚くくらいこの点の軸足がぶれていません。</p>

<p>　彼には、自分の軍人としての成功を誇ったり、喜んだりする無邪気な一面ももちろんありました。しかしそれは無邪気というレベルを超えたものではなく、成功よりも大事なものがあることをわかっていたふしがあります。<br />
　相手を蹴落としてでも成功したいというアクの強さがない彼の不思議さ。そんなことまでして成功して、何が楽しいかという感覚。</p>

<p>　義経を無邪気というのはわかりますが、それを愚かさとつなげる発想は、冷静に見れば、べつに絶対の価値観ではありません。<br />
　そしておそらく、これから世の表舞台に出てくるのは、義経的な感覚を持った若者たちです。彼らに「政治的な才能」があれば、お金や派閥、利権といったものに対する考え方、向き合い方もがらりと変わってしまいます。<br />
　そのとき初めて政治が変わるかもしれません。<br />
　この場合、頼朝的なものと義経的なものがうまく融合しなければなりませんが、そうなれば日本史のステージも一段上がったことになるはずです。</p>

<p><br />
<font color=teal>■平和になれば堕落するという「錯覚」</font></p>

<p>　まあ、ここでもう一度奥州藤原氏に話を戻しましょう。<br />
　まず繰り返しになりますが、泰衡は義経の兄とは戦いたくないという気持ちがわかっていた。<br />
　これを前提にしてシミュレーションしてみると、やはり父（秀衡）の遺言には従えない、従いにくかった彼の心情が見えてくる。<br />
　義経を大将にして鎌倉を迎え撃てば、地の利を得ていることもありかなり優位に立ったと思えます。</p>

<p>　奥州勢は百年あまりの泰平に溺れて弱兵になっていたと語る人がいますが、これもどこまで信頼できるかわかりません。<br />
　鎌倉武士にしても、本格的に戦を始めたのは頼朝の挙兵以降のこと。また、義経自身、頼朝と対面する以前に、源平合戦に類するような具体的な実戦経験があったわけではないでしょう。つまり、奥州兵でも戦おうと思えば戦えた。勝つこともできた。にもかかわらず、そうした選択をしなかった。</p>

<p>　そう考えたほうが自然かもしれません。<br />
　なぜかというと、泰衡をはじめ奥州藤原氏の一族には、鎌倉武士のような「執着」がなかったから。つまり、戦いに対する動機づけがどうしてもできなかった……という話になるわけです。</p>

<p>　これは、土地への執着というだけでなく、生きることそのものへの執着、と言い換えたほうがいいかもしれません。<br />
　こんな言い方をすると彼らが無気力だったように見なされるかもしれませんが、そういうことではありません。<br />
　たとえば現代の若者は無気力だと言われています。本当にそう言い切れるでしょうか？　一つの価値観の中で決めつけようとしすぎてはいませんか？<br />
　豊かであればハングリーさは欠落します。それが果たして悪いことなのでしょうか？　だとするなら、また貧乏にでもなるしかありません。しかし、過去は再現されません。実際に昔のようにはなれないのです。</p>

<p>　もちろん個人のレベルで事業などに失敗して、一文無しになり、ハングリーさを「取り戻した」人というのはいるかもしれません。<br />
　しかし、社会全体を見ればそれなりの必然の中で底上げされてきたものが、急に無になってしまうことはない。<br />
　つねに人は「いま」を出発点にするしかないわけです。</p>

<p>　奥州藤原氏も同じです。初代清衡から数えて泰衡で４代。約百年。この時間の中で築き上げてきたものは、簡単には消せません。<br />
　豊かになったから馬鹿になる、判断力が落ちると言ってしまえば、歴史はただの繰り返しに過ぎなくなる。<br />
　事実、歴史はそういうものだという人もいるでしょうが、それはほんの一面的な、皮相な見方にすぎないと筆者は思います。なぜなら当たり前の話ですが、実際にはどんな時代にも賢い人間はいるし、愚かな人間はいる。ハングリーだから精神が研ぎすまされるわけでもなく、豊かだから堕落するわけでもない。</p>

<p>　繰り返しているように見えて、その時代その時代を切り取れば、そこには個々の人の意思がある。意思の質というものは、時代の善し悪しとは比例しません。<br />
　こんな酷い時代だから楽しく生きられなかったと訴える人もいれば、こんな酷い時代だったけど結構楽しめたという人もいます。逆に、豊かでラクな時代だから身も心も豊かだと言い切れる人ばかりではないにしても、それなりにそうしたメリットを受け入れ、楽しむこともできる人も確実にいる。<br />
　こんな考え方をしていくと、ハングリーでないから泰衡は愚かだったという理屈は成り立たなくなってきます。評価はこんなふうに価値の置きどころによってコロコロ変わるものなのです。</p>

<p>　義経の生存説は様々な形で語られていますが、泰衡が彼を逃がした可能性は、確かにかなりあるように筆者には思えます。<br />
　このへんはまた別の機会に書くかもしれませんが、ここで言いたいのは、生存説に関する細かい論証ではありません。</p>

<p>　<font color=black>日本史が舞台ならそれもありえた、ということです。</font><br />
　日本人には、こうしたギリギリの場面で「戦わない」ことをも選択肢の一つにしてしまう、妙に「潔い」ところがあります。<br />
　土地に縛られる以前の、もっと根底にある感覚だから、ぼくはそれは縄文人のDNAだろうと思っているわけですが……。<br />
　このへんは徳川慶喜について書いた<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/09/post_8.html" target=_blank>コラム</a>でも指摘しているところです。</p>

<p>　泰衡と義経の間にも、なにがしかの共有できる意思があった（このへんをあんまり強調しすぎると、高橋克彦氏の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061857630/qid=1116301384/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-8850684-1952319"target=_blank>「炎立つ」</a>の影響を受けすぎていると言われそうなので、これくらいにしておきます）。<br />
　逆に頼朝は、土地に縛られなければ成り立たない自分の立場、生き方に、もしかしたら言い様のない不自由さを感じていたかもしれません。</p>

<p>　<font color=black>ラクに生きていくことがただの堕落ではなく、そこにはそれなりの極意があり、コツがある。ラクになることに罪悪感を感じる必要はない。かえって自分の能力を引き出すことも可能になる。</font><br />
　どんなもんでしょう？　義経を天才というのなら、彼の中にあった才能と呼ばれるものの実態もなんとなく見えてはきませんか？<br />
　本当にまあ、頼朝と義経は、史上まれに見る面白い兄弟です。<br />
</p>]]>
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<title>シリーズ・秀吉と日本人（５）〜秀吉・家康の「対立構造」から見えてくるもの</title>
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<issued>2005-03-20T19:56:03Z</issued>
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<summary type="text/plain">　……信玄のやってきたことは、今あるものの中から最高のものを作り出すということだ。これができてしまえば、ことさら革新性は必要なくなる。政治用語でいえば、保守本流ということ。これは、甲斐の守護大名という権威と地盤を持っていた信玄だったからできたことだ。家康にも、三河という自分自身のか弱い権威と地盤があった。これを使える組織のレベルに育てていくのにモデルとなったのは、革新派の信長ではあるまい。家康は三方原の惨敗を経て、間接的ながら信玄から保守本流の極意のようなものを学ぼうとしたのだと思う。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>秀吉論</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>●家康を表舞台に押し上げた力</font></p>

<p>　日本史のピークを演出した豊臣秀吉。彼と対比させられるのが、江戸幕府の創始者である徳川家康。<font color=black>とりあえず秀吉が太陽としたら、家康は月のような存在。</font>この二人にはそれぞれ織田信長も関係しているが、歴史的に見た場合、二人の組み合わせ自体に非常に重要な意味があると筆者は理解している。</p>

<p>　<font color=black>家康は、“<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/08/post_10.html"target=_blank>武田信玄</a>の後継者”として位置づけることで、その実像がわかりやすく浮かび上がってくる。</font>戦国武将・家康の前に現れた最初の巨大な敵が信玄。よく信玄が天下を取っていたら室町幕府の二の舞だったとか、中世の時代が続いただけだといったような解釈があるが、だとしたら家康の開いた江戸幕府はどうなるのか？　家康もまた、それほど革新的な人物だったわけではない。古いとか新しいとか、そんな言葉に惑わされたら、時代の実像が見えなくなる。</p>

<p>　時代には一つの大きな流れがある。その流れを操っているのは特定の歴史人物などではない。<font color=black>なぜなら、社会という器が初めにあってそこに人がいるわけではなく、人が集まってそれが社会になった。</font>自分が生まれる前から社会があるからなかなか後者のような実感は持てないかもしれないが、存在として実体のあるのは、むろん人のほう。人の意識の変化が根底にあって、それに促されるように英雄が生まれたり、新しいシステムが作り出されたりする。発明発見ももたらされる。時代が進むのも停滞するのも逆行するのも、前提にあるのは人の意識と捉えたらいい。英雄もまた時代に動かされている面がある。</p>

<p>　その視点で見ると、信玄は志半ばで倒れたし、武田家は次の代で滅びた。<font color=black>しかし、信玄を押し上げた時代の力そのものは失われたわけではなく、似通った志向性をもつ家康に受け継がれた。</font>家康自身、生涯意識し続けたのは、若い頃苦杯を喫した信玄の存在としての巨大さだったと言われている。もちろん、秀吉には秀吉を押し上げた力があった。単純な話、彼が武田家に仕えてもその実力を十分には発揮できなかっただろう。彼の場合、信長がいたから成長ができた。そこには偶然の産物としては処理できない、有機的なつながりが見えてくる。</p>

<p><font color=teal>●家康が学んだ信玄の「保守本流」感覚</font></p>

<p>　<font color=black>新しいとか古いとか、そういう観点にとらわれるということは、歴史を一種の進歩史観で見ているということだ。</font>筆者はこれまで「自我の成長」といった表現を用いてきたが、それはそうした直線的な発想とは違った捉え方であると思ってほしい。人は必ずしも成長し続けるわけではないし、成長が善であるとも限らないからだ。進歩史観にとらわれてきた人たちは、信長を革新的と見ると同時に、江戸時代は一種の停滞期のようにとらえてきた。しかし、近年になって進歩が善とは限らないという意識が広がるにつれ、江戸時代も再評価されはじめている。</p>

<p>　革新的だからいい政治家、武将であるわけではなく、その革新性にしても、時代の要請（人の意識）が背景にある。だから、歴史も人の意識の集合として見たほうが、当然のことながら生の息づかいが感知できるようになる。変革されることはいいことだ、停滞することは悪だといった前提をアタマのなかに持ってしまうと、この息づかいが見失われる。人が社会を構成して、その社会が歴史を作り出すという当たり前の基本がどこかに飛んでいってしまう。信玄も生の人間として見た場合、巨人というにふさわしい側面を持っている。それは信長も及ばない。家康はその巨大さを引き継ごうとした。そう捉えると彼の生涯も見えやすくなる。</p>

<p>　<font color=black>信玄のやってきたことは、今あるものの中から最高のものを作り出すということだ。これができてしまえば、ことさら革新性は必要なくなる。政治用語でいえば、保守本流ということ。</font>これは、甲斐の守護大名という権威と地盤を持っていた信玄だったからできたことだ。家康にも、三河という自分自身のか弱い権威と地盤があった。これを使える組織のレベルに育てていくのにモデルとなったのは、革新派の信長ではあるまい。家康は三方原の惨敗を経て、間接的ながら信玄から保守本流の極意のようなものを学ぼうとしたのだと思う。</p>

<p>　家康に仕えた三河武士には、戦場でも背中を向けて戦死するような弱い武士はいなかったなどという“最強伝説”がある。そうした伝説が許されるくらいの家臣団の成長があったから、家康の天下取りも可能になったとも言える。事実、江戸幕府の職制である老中、若年寄といった呼称は、徳川家（松平家）が三河時代から用いていたものだったという。つまり、まず徳川という「家」を機能させる。その家も戦国時代を勝ち抜くことで徐々に整備され、巨大になっていく。結果、小さな「家」の組織がそのまま天下の職制に成長する。あるもののなかから最高のものを作り出した信玄の手法と、非常に重なりあったものが感じられるはずだ。</p>

<p><font color=teal>●“混成部隊”の質を一気に変えた秀吉のマジック</font></p>

<p>　言ってみれば、何も持っていないところからスタートした秀吉とは、根本的に違った土壌で成長の仕方をしてきたのが家康。<font color=black>その異質のものどうしが衝突し、渡り合ったのが、1584年の小牧長久手の戦いだった。</font>これは一般に、戦術面では家康が勝利したが、戦略で秀吉が優っていたため、最終的には秀吉の軍門に家康が下ることになってしまったと評されている。確かにそれが妥当な見方だろう。秀吉は長久手の局地戦で大敗を喫したことから、家康を戦上手とみなし、生涯彼に対しコンプレックスを持ったとも言われる。この点は本当だろうか？</p>

<p>　じつはこの一戦は、秀吉の立場から見た場合、家康へのコンプレックスがどうとかいう以前に、非常に重要な側面を持っていることがわかる。まず、戦の展開を大ざっぱにたどってみよう。よく語られているように、家康は信長の次男・信雄を助け、秀吉の天下取りに非を鳴らすという立場で挙兵。しかし、数で劣る自軍の不利を知って、小牧山の陣から軽々に動こうとしない。一方、大軍を擁する秀吉軍も動かない。大軍ではあるが、内実は勢いのある秀吉についた武将たちの混成部隊。天下人になりきっていない秀吉の立場も、非常に微妙なものがあったからだ。</p>

<p>　この膠着を破ったのが、秀吉軍に参陣していた池田恒興の提案だった。一軍を編成して家康の本拠岡崎を奇襲したらどうかというもの。恒興には、娘婿の森長可が前哨戦で家康方に敗れた汚名を晴らそうという意図があったと言われる。元同僚である恒興の提案を、秀吉は断りきれなかった。結局、甥の秀次を総大将に抜擢することで、この奇襲作戦の決行を許可したが、家康軍に察知され恒興、長可も戦死するという大敗を喫することとなった。自分で意図した作戦だったならばともかく、この一戦はまた別の力関係の中で生まれたもの。戦に敗れたこと自体の悔しさ、危機感よりも、混成部隊を率いていくことの難しさをまず実感したはずだ。</p>

<p>　これまで繰り返してきたように、秀吉には家康の三河武士にあたるような強力なバックボーンはない。急速に勢力を拡大した小牧長久手の戦いの段階では、配下の将の多くは恒興のような同僚・先輩であり、利害によっては集合離散する外様の武将たちだった。<font color=black>なんらかの化学変化を起こさねば、この微妙な力関係の上で成り立っている新組織が、この先そうそう様変わりするわけはない。自分が戦いやすい状況を作り出さなければ、勝てる戦も勝てなくなる。この危機感が、秀吉の前代未聞の関白任官につながった。</font>他の武将たちを凌駕する圧倒的な権威を身につけることで、この微妙な力関係をリセットしてしまおうと発想したわけである。</p>

<p><font color=teal>●“絶対に負けない状況”を作り出すには？</font></p>

<p>　この意味では、混成軍の弱点が露呈した家康との一戦は、秀吉が政権運営を確立させていく上でも重要な意味を持っていたことが見えてくる。<font color=black>繰り返すが、家康に局地戦で負けたから重要なのではない。それは家康にとっては重要な実績となったはずだが、破れたほうの秀吉の意識はさらにその先へと向けられていた。</font>勝たなければ先の見えなかった家康よりも、この点では「余裕」があったということもできる。大局的に見るならば、小牧長久手の戦いは、家康にとっても秀吉にとっても“プラス”の方向に作用した。ともに実力がアップしたため、この時から両者の対立構造が歴史上に表面化することになった。</p>

<p>　小牧長久手の戦いそのものは、秀吉が信雄を得意の“人たらし”で取り込んでしまい、和議が結ばれることで決着した。一方の戦の当事者でありながら置き去りにされてしまった感のある家康だが、秀吉軍を破ったという実績をタテに居直って、容易に軍門に下らないスタンスをとり続けた。こうすることで自分自身の存在価値を高めようという意図もあったようだ。この間の両者の虚々実々のかけひきは、史実でもよく伝えられている。大ざっぱにたどってみると、次のような展開である。</p>

<p>　<font color=black>1584（天正12）年<br />
　３月　秀吉、出陣。家康、信雄と同盟し、小牧山に布陣。<br />
　　＊小牧長久手の戦い始まる。<br />
　４月　家康、長久手で秀吉軍を破る。<br />
　11月　秀吉、信雄と和睦。<br />
　12月　秀吉、家康と和睦。家康、次男の秀康を秀吉の養子とする。</font></p>

<p>　<font color=black>1585（天正13）年<br />
　７月　秀吉、関白に任官。四国を平定。</font></p>

<p>　<font color=black>1586（天正14）年<br />
　５月　家康、秀吉の妹（朝日姫）を正室に迎える。<br />
　10月　秀吉、生母大政所を家康のもとに人質として送る。家康、大阪城で秀吉に臣従。<br />
　12月　秀吉、太政大臣に任官し、豊臣姓を賜る。</font></p>

<p>　……家康との和議を結んだあと、秀吉は彼を臣従させるために、じつの妹や生母までも手駒に使って、なりふり構わない外交を展開している。それだけ家康の力を畏れていたからだという捉え方もあるが、果たしてそうだろうか？　上記の年表を見てもわかる通り、<font color=black>この時期、秀吉は家康外交と並行して、関白任官、豊臣姓の創始と急カーブの任官工作も続けている。</font>家康との戦いで得られた教訓から、圧倒的な権威の力によって自分の足元を着々と固めていたことがわかる。</p>

<p>　ただ武力で凌駕するだけでは、天下は取れない。軍勢で圧倒している以上、作戦次第で相手を倒すこともできるかもしれないが、逆に破れる可能性もある。そんな家康と戦った時のような“一進一退の攻防”を繰り広げていたら、いつ天下統一が叶うかわからない。<font color=black>“絶対に負けない状況”を作り出すにはどうしたらよいか？　そのように発想した上で、彼がベストと思った戦略が関白任官、豊臣姓の創始という朝廷権威に対する“平定事業”だったわけである。</font>これによって政権基盤が確立するまでは、家康にいかようにも譲歩する。妹でも母でも差し出す。しかし、戦略を持っている以上、ただの譲歩ではない。<font color=black>「これだけのことをするのだから、わかっているだろうな？」というある種暗黙の脅し</font>も、そこには含まれていた。</p>

<p><font color=teal>●家康をも完全籠絡させた秀吉の“人たらし”</font></p>

<p>　秀吉が希代の“人たらし”と呼ばれる由縁は、このように目的のためには一般にありえないことすらも平然と行ってしまえる度量の大きさにあった。家康にしてみれば、和議で自分の息子を養子に差し出すことまでは理解できただろう。実質的には体のいい人質であるわけだが、不利な立場にあるのは自分。局地戦に勝ったとはいえさすがに状況は理解していたから、「養子」という自己の体面も守れる秀吉の提案に乗ったわけである。しかし、次の手があったかというと、緊張関係を優位に維持しながら、状況の変化を待つというくらいしかなかったのではないか。</p>

<p>　秀吉の妹を娶った時点で、上洛する名分はできていた。しかし、のこのこ出かけていったのはいいが、策略にはまって殺されてしまうことだってあるかもしれない。家康のこうした疑念を察した秀吉は、生母を事実上の人質として家康のもとに送りつけてきた。母を預けるから安心して上洛してくるがいいというメッセージである。<br />
<font color=black>裏を返せば最後通告。ここで拒んだらいよいよ決戦しかなくなる。</font>しかし、秀吉はすでに関白に就任している。前回の失敗から自軍の弱点は修正して乗り込んでくる。関白に対して同僚感覚で作戦を提案する武将はもういないだろう。</p>

<p>　かくして家康は、戦火を交えないままに、上洛して臣下の礼をとらざるをえないところまで追い込まれてしまった。秀吉は公式の対面の前に家康のもとを訪ね、自分は成り上がりで政権は盤石でない、家康の助けが必要だなどと、内情を包み隠さず打ち明けてしまったと言われる。本当にそんな舞台裏があったかわからないが、ここまでの経緯を考えればありえる話だろう。そして一転、居並ぶ諸将の前で家康は臣従を誓わされる。結局のところ、秀吉の“人たらし”に彼も籠絡されてしまった。歯向かおうにも、戦意はもう完全に失せてしまっただろう。</p>

<p>　このようにして見ると、<font color=black>秀吉と家康の対立構造は、圧倒的な差で秀吉に分があったことがわかるはずだ。</font>後年家康が天下を取ったからさも対等のように思われるかもしれないが、そうした結果のわからない段階で（秀吉在世中の政権下で）両者の関係を見たら、多分比べるという発想すらなかったかもしれない。筆者の想像も多分に含まれるが、茶飲み話のような場で、秀吉が小牧長久手の頃の思い出話をして、「家康どのには戦では敵いませんでした」などと持ち上げるような発言をしたことはあっただろう。しかし、その話を聞いた家康が得意げになれたかどうか。もしかしたら、冷や汗すら流してへりくだったかもしれない。</p>

<p><font color=teal>●「現実路線」の継承で対立した、家康と三成</font></p>

<p>　秀吉の生前にはこのような圧倒的な力関係が生まれてしまった家康だが、ご存知のように、彼の死後に天下を取り、しかもその政権（江戸幕府）は15代、260年にわたって継続した。<font color=black>歴史的なボリュームという点で見れば、“師匠”である信玄も凌駕し、秀吉にも比肩する影響力を後世に残したことになる。</font>では、その影響力とはどんな内容のものなのか？　なぜ秀吉との対立構造などが指摘できるのか？　この点は、秀吉の実像をイメージすることで容易に解けてくる。</p>

<p>　秀吉の実像、すなわち彼の人間としての器量は、従来の日本という枠組みの中では収まりきらないエネルギーを持っていた。だからこそ、愚行、失政などと後世に非難される「唐入り」が挙行されたのであり、それが失敗してしまったところに、日本人の課題があるとも書いた。秀吉を生み出した時代のエネルギーは、突拍子もなく、偶発的に湧いてきたものではない。彼を表舞台に押し上げたエネルギーは、それまでの日本人の歩みの結果そのものでもある。単純に彼の海外志向を愚行と言いきってしてしまったら、秀吉以前の日本史が否定される。</p>

<p>　とはいえ、“地に足の着いた政策”とは言い切れなかったことも事実。<font color=black>日本人に潜在していた、“太陽”にも形容されるエネルギーの片鱗は見えた。しかし、そのエネルギーを使いこなして、広く世界に展開させていくだけの準備まではできていなかったということだ。</font>本当の日本人は太陽のように明るい。日本史を有史以前から俯瞰していけば、それは確かに指摘できるが、現実に通用するかどうかはまた別の話。「唐入り」という秀吉の提示した壮大な夢を受け取りきれなかった日本人は、まさに夢を封印して、身の丈にあった現実路線へと軌道修正した。信玄から“保守本流”の手法を学んできた家康の力量が必要とされたのは、まさにその時だ。</p>

<p>　“夢破れた”とはいえ、秀吉が統一した「天下」を維持・継承していくという現実の作業は誰かがやらなければならない。手を挙げたのは家康と、秀吉の懐刀でもあった石田三成の２人だった。ともに秀吉の“夢”を実現させようとしたわけではない。彼の遺した一方の現実路線に対して、後継者に名乗り出たわけである。関ヶ原の戦いを経て、家康が勝利したことを我々は知っている。しかしその勝利は、一般に語らされているほどの圧勝劇だったわけではない。三成が勝っていれば、また異なる現実路線が展開されていたことになる。</p>

<p><font color=teal>●三成の「中央集権化構想」に欠けていたもの</font></p>

<p>　話がやや脱線する気もするが、家康の「天下」を浮き彫りにするためにも、この二つの現実路線の違いを大ざっぱに見てみよう。仮に三成が関ヶ原に勝利し、最終的に天下の実権を握った場合、日本の政治・文化の中心は当然畿内（京都、大阪）となる。江戸文化は生まれない。また、公武の融合がさらに進んでいくため、おそらく従来の公家＝藤原氏は完全に没落して、武家貴族である豊臣氏の政治体制が確立する。尊王攘夷や公武合体の言葉が飛び交った、江戸末期（幕末）のイデオロギー闘争も起こらなくなる。<font color=black>秀吉の目指していたものを国内政治の部分のみ継承していくと、なにやらずいぶんすっきりした政治体制になってしまう。</font></p>

<p>　この“すっきりした政治体制”は、中央集権という言葉で理解してもいいだろう。関ヶ原の戦いを“中央集権派”の三成と“地方分権派”の家康の対立として捉える見方もあるが、本人たちがどこまで自覚していたかは別に、そうした対立構造はあっただろう。しかし、この対立を見ていくと、<font color=black>ここにもある種のねじれ現象が存在していることが見えてくる。</font>秀吉政権の意思を継ぐということを強く意識していたのは、“中央集権派”の三成。しかし、秀吉の構想した“中央集権＝システムの一本化”の背後には、壮大な「唐入り」という海外戦略があった。</p>

<p>　「唐入り」は朝鮮半島の人々からすれば間違いなく侵略戦争。しかし、戦国武将であった秀吉の感覚からすれば、日本の影響力を東アジア全体に拡大させ、従来の“中華秩序”に代わる日本発の交易圏を確立させようと意図したものだ。それによって、アジアに食指を伸ばそうとしていた南蛮勢力（スペイン、ポルトガル）の思惑をくじき、彼らをも朝貢の対象にしてしまおうという野心もあっただろう。賢しらげにこれを妄想と言ってしまう人は、たとえば戦後の日本の経済成長に対しては安易に“奇跡的な”などという言葉を使う。朝鮮人の心情を思いやるなどと口では言いながら、じつはつねに勝者の味方でしかない冷淡さがそこに見え隠れする。</p>

<p>　<font color=black>東アジア全体に展開される日本人の活気、躍動感が前提にあってこそ、中央集権化という政治体制の“引き締め”にも意味が出てくる。</font>前者の要素が欠けてしまえば、“引き締め”は当然のことながら“抑圧”に変わっていく。三成は官僚の立場で政治運営の効率化を推し進めたかもしれないが、何らかの“遊び”の部分が設定できなければ、一種の恐怖政治が出現したはずだ。天下統一後の秀吉政権に恐怖政治の側面が見いだせるのは、ひとえに「唐入り」戦略の失敗の結果に他ならない。しかし、秀吉自身にすれば苦肉の策以外の何物でもなかったはずだ。</p>

<p><font color=teal>●日本史の対立構造を維持した家康の「バランス感覚」</font></p>

<p>　さて、ねじれ現象の核心に迫ってみたい。海外戦略なき三成の中央集権化構想では、社会の“遊び”の側面が欠落してしまうと書いた。遊びといっても、娯楽のことを言っているのではない。力を逃がすための“すき間”、“ゆとり”といった意味での“遊び”である。秀吉はそれを、「唐入り」という大風呂敷にも似た大構想によって生み出そうとした。一般人の感覚からすれば妄想に違いないが、<font color=black>日本人の潜在能力を十二分に生かしきるには、それくらいの風呂敷は必要とも評価できる。</font>しかし、フタを空けてみればうまくはいかなかった。秀吉には代案がない。</p>

<p>　権力者としての秀吉はしばらく延命したが、彼の夢は辞世の句にあるように「夢のまた夢」で終わった。そして、家康と三成の対立が起き、勝利した家康が新たな天下人として、江戸に幕府を開いた。ここで何かに気づかないだろうか？　<font color=black>“遊び”という点を考えた場合、“地方分権派”の家康のほうが秀吉の構想したモデルに近いということだ。</font>秀吉によって統一された公武の政権は、再び京都（公家）と江戸（武家）とに二分され、結果として、日本史特有の（それこそ縄文人と弥生人以来の）対立構造は形を変えて継続された。秀吉のなした構造改革は否定された。</p>

<p>　しかし、もう少し俯瞰してみるならば、秀吉は国内の分裂を一本化させながら、自我の成長を促す対立構造そのものは生かそうとした。日本人の体験してきた「成長の法則」を東アジア全体に広げようとしたわけである。スケールはあまりに違うが、<font color=black>江戸に武家の政権を確立させた家康は、対立構造を生かしたという点で秀吉の「天下」の基本部分を引き継いだとも言える。</font>逆に、三成の路線では、対立構造は消えてしまう。本人の意思とは別に、秀吉の「夢」も消えてしまうことになる。日本人の自我の成長も妨げられてしまったことだろう。</p>

<p>　家康は家康で、現実の政治家としてのバランス感覚を持ち続けていたということだ。彼が江戸に政権の拠点を置いたのは多分に成り行き的な面があるが、<font color=black>その身の丈にあった保守的な政治手腕によって日本史のバランスそのものが維持された。そこに、近年うたわれている“江戸再評価”の根本的な意味があると筆者は思う。</font>こうした点をふまえるなら、関ヶ原の戦いで最後の最後まで“裏切り”を迷ったという小早川秀秋の決断には、天の意思が働いたとしか思えない。そんな感覚すらも湧いてくる不思議さがある。<font color=black>家康が勝たなければ、日本が日本でなくなった（日本史が停滞した）可能性すらあったからだ。</font></p>

<p>　“太陽”は日本人の意識下に潜在してしまったが、秀吉と家康の歴史的な対立構造は、後世の日本人に様々なことを教えてくれる。</p>]]>
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<title>シリーズ・秀吉と日本人（4）〜“和と太陽の国”が生んだ「英雄」</title>
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<summary type="text/plain">　……なぜ、縄文人の文化が、国家の秩序が形成されて以降も、社会のベースの部分に息づいてきたのか？　答えは簡単だ。それが人工的に生み出されたものではなく、風土に根ざしたものであったからだ。国家のシステムが農業に財政基盤を求めようと、風土の中で培われた感受性は、その枠の中だけに閉じ込められるものではない。武士にしても、秩序からはみ出した存在が自我を持ち、団結したからこそ、逆に新たな秩序の担い手ともなった。「天下人」となった秀吉の場合、その武士でもなかった。我々のイメージする意味での農民（農業従事者）だったわけでもなく、言うなれば、士農工商、すべての要素を持った非常に多面的な存在だった。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>秀吉論</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>●「唐入り」が成功していたら……？</font></p>

<p>　<font color=black>井沢元彦氏</font>の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093796815/qid=1118228439/sr=1-12/ref=sr_1_2_12/250-7866726-7306604"target=_blank>「逆説の日本史」の“秀吉編”</a>を以前読んだら、「秀吉が（唐入りに）成功していたら、次のようなことになったかもしれない」という前提で、百科事典風の次のような記述があった。要点になる部分だけ、かいつまんで引用させていただこう。</p>

<p>　<font color=black>大[だい]<br />
　中国の王朝の一、日本族のヒデヨシが高麗を滅ぼし、明を併合し、都を寧波に移し、十七世紀初頭国号を「大」と号し、秀吉は初代皇帝「太宗」となった。……</font></p>

<p>　<font color=black>なぜ「大」かといえば、秀吉の一番好きな字だったからだが、こういうことを書くと「右翼だ」とか「大東亜共栄圏の亡霊を追い求めている」などと評する人々がいる。／とんでもない。……（＊私は）こうならなかった現状のほうがよかったと思っている。／というのは、「大」が成立すればかなり高い確率で次のようなことになった可能性があるからだ。</font></p>

<p>　<font color=black>日本[にほん]<br />
　現在の中華人民共和国日本省（省都大阪）に存在した独立国家のこと。十七世紀初頭まで中原からは「東夷」と呼ばれた蛮族の地だったが、英雄ヒデヨシ（大の太宗）が出るに及んで中原を制し、以後中国の一部になった。ちなみに「源氏物語」はもともとこの国の古典で、昔は日本古語で書かれており……。</font></p>

<p>　<font color=black>事実の記述がこのように中国語で記されることは、決して有り得ない想像ではない。／かつて満州文字でしか正確に記せなかった「ヌルハチ」（＊清朝の初代皇帝）の子孫が、今は「愛新覚羅」と漢字（中国文字）でしか、自分の姓を記せなくなっているのだから。<br />
（「逆説の日本史11戦国乱世編〜朝鮮出兵と秀吉の謎」より　＊のカッコは筆者）</font></p>

<p>　なかなかこのような見方をする人はいないので、面白いと思った。確かに日本の勢力圏が東アジア全体にまで広がってしまえば、その時、日本は今あるような日本でなくなる。中国大陸の習俗や文化がかなりの度合いで融合するはずだし、住んでいる土地が変われば、代を重ねるごとに気質も民族性も変わっていく。</p>

<p>　……と、ここまでイメージを広げたところで、ふと思った。<font color=black>いわゆる中国人は「中国」に住んでいるから中国人と呼ばれている。この「中国」とは、国の話なのだろうか？　それとも風土の話なのだろうか？</font>　筆者の脳裏には、すぐに後者だと答えが浮かんだ。風土としての「中国」（言ってみれば、中国大陸か）に住み続けることで、満州族であろうと日本族であろうと、「中国人」になってしまう。少々表現がややこしいが、<font color=black>要は構成民族にかかわりなく、一つの風土の中でその風土性に根ざした文化圏が形成されるということ。</font>この点を錯覚してしまっている人が多いのではないだろうか？</p>

<p>　もう少しわかりやすく説明しよう。よく「中華4000年」といったフレーズを口にする人がいる。しかし、前出の井沢氏も言っているが、ここでいう中華をいまの中国の主流民族である「漢民族」の歴史として捉えるなら、4000年（あるいは3000年？）という年月は「虚偽」となる。元や清は明らかに異民族王朝だし、古代の隋や唐の王族もじつは異民族（北方の鮮卑族）の血を引いてたと言われている。中国史全体で見れば、漢民族以外の異民族が王朝を開いた時代もかなりの比重を占めるからだ。たとえば、（ありえないだろうが）いまのモンゴルがかつての元のように中国に攻め入って新たに王朝を開いたら、いまの中国人は「国が滅びた」と思うだろう。過去にあったそういう現実もひっくるめて、「中華4000年」という言い方がされているわけである。</p>

<p><font color=teal>●国家すらも呑み込んでしまう「風土」</font></p>

<p>　ただ、ここで妙なことに気づくのではないだろうか？　そう。日本が中国大陸を制圧して新しい王朝を開いたら、日本はもとの日本ではなくなる。異民族による新王朝が東アジアに誕生し、日本列島は確かにその省の一つになるかもしれない。<font color=black>しかし、そうであるとするならば、それもまた「中華4000」年ということではないのか？</font>　つまり、異民族であろうが漢民族であろうが、いわゆる中原（中国大陸の中心部）を制した者が“中華”なのである（＊）。もちろん、漢民族の立場からすれば、それは亡国を意味する。しかし、彼らの文化もまた異民族の文化と混じりあいながら、「中華4000年」という枠組みの中で後世に継承されていく。</p>

<p><font size=x-small>＊古代中国においては、万里の長城以北の遊牧民のことを「異民族」とみなし、農耕主体の中原の文明と区別していたようだ。純血の「漢民族」という種族がいたわけではない。</font></p>

<p>　このように見ていくと、<font color=black>国家と呼ばれるものの土台に、それすらもすっぽり包み込んでしまう「風土」が存在していることがわかる。</font>国家とは、“三権分立”ではないが、行政と立法と司法という集団生活を保障するシステムを管理・統括している機関のようなものだ。それは時代によって、その機関の支配層の考え方によって、いかようにも変わっていく。しかし、風土は基本的には変わらない。逆に外部からの侵入者さえ、その風土によって性質を変えられてしまう。</p>

<p>　だから、モンゴル民族がチンギスハンの血統によって、中原の明王朝を滅ぼして元を打ち立て、さらにはユーラシア大陸全土に勢力圏を広げた。そして各地の風土と融合しながら、新しい国家を生み出した。しかし、そのモンゴル民族を生み出した風土、つまりはモンゴル高原が大陸から消え去ってしまったわけではない。だから、元王朝が衰退し、ついには国を追われた末裔は再び「故郷」へと撤退していったと伝えられる。あるいは、その「故郷」に残って暮らし続けた人々が、その風土から生み出される文化を継承し続けた。それが今日まで続いている。</p>

<p>　一つの社会で多数の人々が生活を続ける上で、国家は必要なシステムとして機能している。しかし、風土はそれ以上に意識し、大切にしなければならないベースであるということだ。その意味で筆者は、日本の歴史というものを語る時、国家としての歴史と同時に、風土が作り出した歴史も見る。先の話で言えば、<font color=black>日本列島が中国大陸に都を持つ「日本族」の王朝の省の一つになろうと、それによって日本列島の風土までは変わらない。</font>日本列島の構成人員が「日本族」のままであり続けるかはわからないが、風土の中で生み出される人間性や価値観は、風土のほうが変わらないかぎり、基本的に代々受け継がれていく。</p>

<p><font color=teal>●風土が結びつける「秀吉」と「縄文日本」</font></p>

<p>　筆者は、秀吉のことを“代表的日本人”として捉えてきた。言ってみれば、<font color=black>日本列島の特有の風土が生み出した最も典型的な日本人。</font>「英雄」と呼ばれる存在は、国家としての歴史に大きく関与する存在ではあるが、その存在を生み出し、育て上げるのは風土である。これまで律令制度の成立から始まって、秀吉の天下統一まで、国家としての歴史に焦点を当てて「日本」を見てきた。<font color=black>その「日本」の歴史の最大のピークを演出した男は、風土の作り出した“代表作”でもあったわけである。</font>ある意味で当然と言えば当然の話。しかし、国家の歴史ばかりを見ていると、その当然が見落とされてしまう。</p>

<p>　では、風土の重要性はわかったとして、日本の風土とは具体的にどんなものだろうか？　それを知るためには、国家の歴史が形成される前の段階までさかのぼってみるといいかもしれない。<font color=black>その風土の原点は、歴史で言えば縄文時代の中にある。</font>国家のシステムによってではなく、風土の中の“決まり”だけで人の暮らしが十二分に成り立ち、深刻なあつれきや混乱が生じなかった時代。考古学の研究によると、日本列島が大陸から切り離され、風土的な独自性が生まれて以来、そんな時代が１万年は続いたと言われている。この１万年の記憶が日本人の感覚のベースになっているわけである。</p>

<p>　ここで、日本の風土の特徴をいくつか挙げていってみよう。まず思い浮かぶのが、四季のうつろいの繊細さ、という点。<font color=black>４つの季節が１年を通じて万遍なく経験できる環境というのは、日本人的に当たり前のようでいて、世界を見渡せば非常に恵まれた環境であることがわかる。</font>また、季節だけでなく、地理的な環境そのものも恵まれている。海もあり、山もあり、川があり、森がある。狭い島国であるがゆえスケール感には欠けるが、山川草木のすべてが整っている。箱庭の中にそのすべてが詰まっているというイメージ。こうした風土で暮らすと、手前味噌に近い言い方になるが、自然と感受性が強くなることがわかるだろう。</p>

<p>　また、恵まれた自然環境の中で生活できれば、性格もあまり攻撃的なものにはなりにくい。良くも悪くも、<font color=black>ハングリー精神の欠けた人間の生まれやすい環境</font>と言うべきか。事実、縄文時代の１万年間、大陸では初期の国家が生まれ（中華4000年の歴史が始まり）、幾度となく戦争状態に陥っている。しかし、日本列島は自然との共存生活が延々と続いていたようだ。国家が生まれていない、イコール遅れているというのは、最近では一面的すぎると思う人が増えきている。確かに縄文時代をただ遅れた時代と捉えてしまうと、ここでも多くのものを見落としてしまう。</p>

<p>　<font color=black>たとえば、四季のうつろいを感じ取れる繊細な感受性、これが人間関係に向けられると、生まれてくるのが“和”の精神だ。</font>“人たらし”と呼ばれた秀吉の卓越した人間力は、要はこの“和”のバリエーションであることにお気づきだろうか？　恵まれた自然環境の中で生きる民族は、基本的に多神教になるケースが多い。これは要するに、山川草木すべてに神は宿っているという感覚。一神教のような、天（神）と自己とのタテ軸的な“一対一”の関係ではなく、人間関係も含めた万物とのヨコ軸的な“つながり”に力点が置かれる。<font color=black>秀吉はこの“和”の特性を最大限に生かすことで立身し、後世に名を残すことになったわけである。</font></p>

<p><font color=teal>●縄文の自然が育んだ“和”と“太陽信仰”</font></p>

<p>　日本の風土によってもたらされる感性は、こうした“和”ばかりではない。<font color=black>古来の「太陽信仰」に由来する、底抜けの明るさ、生命エネルギーの高揚感</font>というものも、その一つに挙げられると筆者は思う。つまり、争いがなかったからと言って、こじんまりと自然の脅威にびくびく怯えながら生きていたわけでは必ずしもない。縄文時代の火焔式土器に代表されるようなエネルギッシュな生命感、躍動感が、日々の生活の中に息づいていた。「原始女性は太陽だった」という言葉があるが、太陽だったのは女性ばかりではない。生きる上での厳しさをも含め、彼らは感覚器官をフルに生かしてたくましく生きていた。<font color=black>どうだろう、これって歴史に伝えられる秀吉のイメージそのものではないだろうか？</font></p>

<p>　縄文時代に太陽信仰があったなどということは、考古学的には何も証明されてはいない。ただ、日本列島のような恵まれた自然環境、つまりは山川草木に神の存在を意識する多神教の世界では、太陽という天体のインパクトが強烈であったことは想像できる。インパクトだけでない。現代のように暦もなく、自然の移ろいそのものを感じることで生活を続ける当時の社会では、太陽の動き、月の満ち欠けといった“変化”に対して、人々は相当敏感に反応したはずだ。問題は、その敏感な感受性によって捉えた太陽とはどんな存在だったのか、ということ。</p>

<p>　この点を当時の縄文人の感覚になって、少しイメージしていってみよう。太陽は東から昇って西に沈む。視覚的に言えば、山間部の多い日本では山の一方の端から登って、天空で軌道を描いて、反対側の山の端に沈む。当たり前と言われそうだが、ひとつ見落としがちな点がある。<font color=black>この太陽の運行を基準にすると、西や東の概念は、一日ごとに位置が変わってしまう。</font>地球が自転しながら太陽のまわりを公転しているからだ。わかるだろうか？　<font color=black>方位が毎日変わるのである。</font>この融通無碍な動きは現代人には無秩序に映るかもしれない。しかし、実際には法則性に基づいた自然の姿そのものであり、多神教のもつ雑多で非統一な世界のありようとも重なりあう。</p>

<p>　ご存知のように、我々にとっての「常識」である東西南北の方位というのは、北極星を基準にしている。天空に浮かぶ１年を通して動かない“不動の星”を、方位の基準と定めたわけである。こんな基準をなぜ定める必要があったのだろう？　一番イメージしやすいのは見渡すかぎりの平原、砂漠。あるいは海。そんな光景の広がる世界を旅する時、迷わないで目的地に進むには天空の星が非常に重要な目印であったということ。<font color=black>中でも“不動”の北極星は、旅人たちに重視され、信仰の対象になりえた。これは遊牧民、騎馬民の文化であり、一神教を奉ずる人々の精神性、感覚とも合致する。</font>太陽信仰は、この北極星信仰の対極になるものと考えたらいい。</p>

<p><font color=teal>●“物的証拠”の残らない「感覚」としての世界</font></p>

<p>　日本のような風土には、北極星信仰は基本的には根づかない。北極星に意識が向けられたとしても、それもまた山川草木、森羅万象の一つであって、それだけを信仰して崇める感覚にはなりはしないからだ。事実、北極星信仰をベースにした暦も、東西南北の方位も、縄文時代よりずっと後代、国家の原型が形作られた古代の日本社会にもたらされた大陸起源の概念。時代とともに農作業をはじめ日々の生活に欠かせない“常識”に変わっていくが、それが世界を感知する基準のすべてだと思ってしまうと縄文の頃の記憶は消えていく。そうなれば、いくら考古学的検証を積み重ねても、暦のなかった（自然な“暦感覚”しかなかった）時代の意識は見えてこない。その意識の中心、つまり後世の北極星にあたる基準が「太陽」だったと言えるわけである。</p>

<p>　<font color=black>これは考古学的にどうというものではなく、感覚的な問題。</font>学問の世界では感覚をベースに時代を論証することは忌避される傾向になるかもしれないが、筆者に言わせれば、人間の感覚は時代にかかわらず共通の「素材」と呼べるもの。<font color=black>人が時間を超えて過去の出来事に共感したり、時に実感すらできるのは、身体の中にそうした“感じる機能”があるからだ。</font>考古学的な証拠が完全に揃っているから確かなのではなく、それをも「素材」にして、最終的には人が“ありえる”と感じるから一つの時代像が構築される。<font color=black>イデオロギー（思想）でつくられたものは時代を経て廃れたりもするが、感覚的に認められたものは、思想を超えて生き残っていく。</font></p>

<p>　以上のような意味で、筆者は縄文時代の「太陽信仰」を“ありえる”と実感しているわけだが、どうだろうか？　もちろん、考古学の立場から見れば、やはりそれを裏づける物的証拠、つまりは遺跡の存在が認められなければなかなか肯定できない（しにくい）というのが現実だろう。なかにはストーンサークルのようなものをその遺跡の一つに挙げる人もいるかもしれないが、この点に関しても、筆者の発想はまったくちがう。考えてみてほしい。縄文時代に残る遺跡は、基本的には日常生活の痕跡だ。信仰に関係したものも見いだせるだろうが、<font color=black>太陽信仰の遺跡だからといって、ピラミッドに類するものが出てこないとならないのだろうか？</font></p>

<p>　日本列島にはわざわざピラミッドのような人工物を建造しなくても、山川草木がそのまま信仰対象になる生活環境がある。仰ぎ見るものとしては、具体的には山があれば十分。エジプトや中南米のようなピラミッドは要らない。要するに、考古学的アプローチだけでは、そんな信仰の痕跡までは見いだせない。筆者のいう太陽信仰にしても、遺跡がどうとかいう以前に、その根底にあるのは、日々の生活の中にほとんど自覚できないままに溶け込んだ“感覚”の一つだったということ。<font color=black>巨大な遺跡を建造して信仰の対象にするといった発想自体、基本的には、大陸の一神教信仰の人々に由来する“感覚”であり、縄文人にそんな“欲”があったとは想定する必要はない。</font>証拠など残らないものが多いのである。だからといって、それをなかったと言ってしまえば、精神的なものは何も見えなくなってしまう。　</p>

<p><font color=teal>●縄文人の感性を呼び覚ました秀吉の「英雄性」</font></p>

<p>　まだまだ書き足りない部分はあるので、このあたりに関してはいずれ稿を改めて触れることにしよう。ただ、こうした点をふまえるだけでも、縄文時代の人々の意識の中心に“和”と“太陽”が根づいていたことは、それなりにイメージできるのではないだろうか？　この二つの感覚が１万年の歳月の中で醸成され、その後の日本人の“らしさ＝個性”のベースになっていった。秀吉は、この二つの感覚を体現した存在であったからこそ、日本史上の最大の「英雄」となりえたのである。<font color=black>“和”の精神の権化であると同時に、無類の明るさを備えた“太陽の子”。それが社会の最下層の中から躍り出て、混乱から平和へと向かう社会の総仕上げ、秩序の再構築を行った。</font></p>

<p>　秀吉以前の歴史を振り返ってみれば、これまで繰り返してきたように、８世紀に藤原不比等が整えた律令制度が「秩序」のベースとして機能し続けてきた。これはもう少し俯瞰した見方をすると、縄文社会という国家の形成される以前の風土的なベースに、弥生時代以降の大陸からもたらされた国家運営のシステムが割り込み、溶け込むことで成立したものだと言うことができる。この国で人が集団生活していく上で必要なものであったことは確かであるとしても、国家のシステムが社会に浸透して行けば行くほど、当然のことながら、縄文時代の風土的な感覚は潜在化していく。その意味では「個性」が抑圧されるという側面も持っていた。</p>

<p>　あるいは歴史的事実を見ても、縄文人の文化は“遅れたもの”“野蛮なもの”とみなされ、農耕（稲作）の普及とともにその勢力圏は東へ、東へと後退していった。大和朝廷が畿内で政権基盤を確保した段階では、東国（関東以北）の縄文人の血を引く人々は異端視され、蝦夷（えみし）という名で蔑まれ、排除の対象、討伐の対象として苦難の歴史を歩むようにもなった。また、平地が国の管理する農地に変わってしまったため、山の民として、定住地を持たない漂泊の民として、これまた社会の影の部分に追いやられた人々もいる。彼らは歴史の中で商人や芸能人、あるいは何らかの技術を持った職人として、日本文化を側面から支えた。</p>

<p>　こうした点をふまえれば、日本人は稲作民族、日本は農業国家であるという捉え方も、非常に表面的なことが見えてくる。それも一面の真実ではあるだろうが、日本の社会を活性化させる原動力となったのは、むしろ「秩序＝農耕社会」からはみ出た、抜け出た存在であったこともわかるだろう。江戸時代の「士農工商」の概念で言えば、“工”と“商”のなかにその原動力が見いだせる。<font color=black>農本主義的な封建社会が基盤でありながら、経済大国、工業立国化した近代の日本の姿も、そこにダブってくるだろう。</font>それらが可能になったのは、風土に由来する縄文人の感覚、感性が巧妙な形で社会の中に温存され続けてきたからだと筆者は思う。</p>

<p><font color=teal>●“士農工商”のすべてを兼ね備えた多面的存在</font></p>

<p>　なぜ、縄文人の文化が、国家の秩序が形成されて以降も、社会のベースの部分に息づいてきたのか？　答えは簡単だ。それが人工的に生み出されたものではなく、風土に根ざしたものであったからだ。国家のシステムが農業に財政基盤を求めようと、風土の中で培われた感受性は、その枠の中だけに閉じ込められるものではない。武士にしても、秩序からはみ出した存在が自我を持ち、団結したからこそ、逆に新たな秩序の担い手ともなった。<font color=black>「天下人」となった秀吉の場合、その武士でもなかった。我々のイメージする意味での農民（農業従事者）だったわけでもなく、言うなれば、士農工商、すべての要素を持った非常に多面的な存在だった。</font></p>

<p>　「百姓」という言葉はイコール「農民」ではなく、本来そうした多様な職能の総称としての意味が込められていたと言われている。その意味において、秀吉は「百姓」であったということもできる。<font color=black>その百姓、つまりは言い換えれば「庶民」が天下を取ったというところに、彼の時代に至る日本史の充実ぶり、自我の成長というものが確認できるのではないか？</font>　秀吉になぜ人気があるのかということも、ただ単に立身出世が痛快だったからではない。同じ日本列島で暮らす人間として、共感できる成功の仕方だったから愛されてきた。晩年の「失政」に対するもどかしさや同情も含め、自分たちの“らしさ”と重ね合わせられてきたのである。</p>

<p>　そして、あるいはお気づきの人もいるかもしれないが、「百姓」が「天下人」になることを可能にしたエネルギー、しかも失敗に終わったとはいえ「唐入り」までも実行してしまう当時の日本社会のダイナミックな充実ぶりは、「秩序」のなかに押し込められていた原始の感覚、「太陽信仰」に象徴される生命エネルギーの躍動感があの時代に甦ったことを意味している。繰り返すならば、“和”と“太陽”が、日本列島の生み出し、育んできた「個性」なのである。そして、その象徴が秀吉という「天下人」。しかし同時に、“和”はともかく、“太陽”の感覚はその後の歴史で急速に萎んでいってしまったことにも気づかされるだろう。</p>

<p>　秀吉の政権を引き継いだ江戸時代が、自然に優しい、リサイクル性の高い社会システムを実現した時代として、近年、再評価されはじめている。身分制度に縛られた、農民を抑圧する窮屈な社会といったような、筆者が子供の頃の教科書で読んだような社会像は、過去の“偏った観念”になりつつある。しかしそれらの像を肯定した上でもはっきりと言えることは、<font color=black>秀吉が体現したような“太陽エネルギー”は、彼の死をもって再び社会の闇へ封印されてしまったということ。</font>縄文人のDNAは日本人の深層意識に潜在化していき、以後、良くも悪くも、世界とのむすびつきがどこか希薄な、こじんまりとした箱庭文化が展開されていく。</p>

<p>　言い換えるならば、日本史のピークであった秀吉の時代を、その後の日本人はいまだに超えられないでいるということ。本当の日本人は太陽のように明るい。そのように言ってもピンと来ない人が多いとしたら、ここまで話してきたような、知識だけでは捉えきれない歴史の歩みを忘れてしまったからだ。ただ情報として理解すればいいという話ではない。<font color=black>想像力の幅を広げ、身体的な実感として受け止められるようになった時、近年の“江戸再評価”の先にあるものが見えてくる。</font>秀吉と縄文が一つのラインで結ばれ、秀吉と現代をつなぐ一本のラインの存在にも気づかされるはずだ。日本史は俯瞰してみると、秀吉以前と以後とに分けることができるからだ。</p>

<p>　次は、太陽＝秀吉に対する月としての役割を持つ徳川家康にスポットを当てながら、両者の対立構造、江戸幕府が秀吉から継承したものと、しなかったものについて、より鮮明に浮き上がらせていきたいと思う。</p>]]>
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<title>シリーズ・秀吉と日本人（3）〜「唐入り」という世界戦略はなぜ失敗したか？</title>
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<modified>2005-06-13T09:21:24Z</modified>
<issued>2005-03-16T18:06:09Z</issued>
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<summary type="text/plain">　そう。この戦法は基本的に、秀吉という存在の人間力、カリスマ性が前提となっている。初期の調略にしても、ベースになっているのはその並外れた“人たらし”の才能にあったことはよく語られている。いくら精兵であろうと、ただ海を渡って暴れれば（個々の武将の戦術に一任すれば）敵地が征服できるわけでない。少なくとも秀吉は、そんなやり方で天下取りを実現してきたわけではない。自分が陣頭指揮を執らないかぎり、成功の見込みはない。彼自身、それを理解していたからこそ、開戦初期、家臣の制止を振り切って、半島への渡海＝「唐入り」の陣頭指揮を試みるわけである。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
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<dc:subject>秀吉論</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>●「本能寺の変」というスタートライン</font></p>

<p>　秀吉の「唐入り＝朝鮮出兵」について語る前に、<font color=black>まず、本能寺の変をめぐる話から始めたいと思う。</font>天下人・秀吉の政権運営、ビジョンと言ったものを見ていく上で、ここが一つのスタートラインになってくるからだ。</p>

<p>　<font color=black>筆者はこれまで何度か書いてきたように、織田信長を世間が思っているような英雄とはあまりイメージしていない。</font>というより、彼を“不世出の天才”と見なして、あたかも日本史のキーパーソンに据えてしまう風潮に違和感をおぼえてしまう。その理由については、大ざっぱながらすでに書いてきたので、ここでは繰り返さない（→<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/09/post_6.html"target=_blank>こちら</a>を参照）。ただ、「信長＝天才」という前提をひとつ取り払ってしまうと、この時代の歴史もまた違ったように見えてくる。</p>

<p>　<font color=black>一番評価が変わってしまうのは、おそらく明智光秀だろう。</font>彼は主君・信長の“天才性”と対比させられて、何か天才を理解できなかった凡人の代表、保守的・古典的発想のカタマリのように描かれたりしている。だから、本能寺の変を起こした動機も、大まかに言ってしまえば「怨恨」。<br />
　もちろん、あんな殺伐とした（しかし生命力のギラギラした）時代に生きていたのだ。怨恨の一つや二つはあっただろう。しかし、従来の怨恨説はもっと単純な「事実」を見落としてしまっている。一つは、光秀にとって恨みがどうとか言う以前に、この変が「チャンス」であったということだ。なにしろ信長はほとんど手勢だけの状態で、京都に宿泊していた。しかも、ライバルとなる織田家の家臣（秀吉や柴田勝家など）はみな地方に散らばってしまっている。</p>

<p>　このへんの状況はよく語られるところだが、問題なのは、どうしてこうした状況が生まれたのか、ということだ。光秀の領国、つまり活動拠点は近江や丹波の一帯。また、彼の傘下（与力）に組み込まれていた細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和と、歴史家が「近畿管領」などと呼ぶように、その影響力は畿内に集中していた。<font color=black>畿内は、言うまでもなく織田政権の中心である。そこに活動基盤があったということは、要するに、信長に信頼されていたのである。なぜか？　有能だったからだ。</font>だから信長が、裸同然の状態で本能寺に宿泊するような“油断”も生まれたわけである。</p>

<p><font color=teal>●「信長＝天才」説を保留にする</font></p>

<p>　こうして見れば、光秀が古典的な教養にとらわれた、カビ臭い人物であるわけがないことも見えてくるはずだ。<font color=black>合理主義者で能力第一主義などと言われる信長の目から見ても、非常に有能であり、そこらの家臣よりもずっと使える男だった。</font>この点は、ライバルと言ってもいい秀吉や滝川一益なども同様。当たり前の話だが、彼らは能力があったから織田家で頭角を現した。光秀に至っては、本能寺の変という“千載一遇のチャンス”を生かすだけの野心や実行力も持っていた。</p>

<p>　さて、後世の我々は「謀反」を起こした光秀が、秀吉の“想定外”の行動力によって、「三日天下」に終わってしまったことを知っている。正確にはわずか11日あまりの「天下」であったわけだが、おかげで彼がどのような政権運営を構想していたのかは、永遠の謎になってしまっている。<font color=black>ただ、保守的発想の光秀の天下が続いていれば、日本は「中世」の時代に逆戻りしてしまったはずだ、などという解釈は、ここまでの話をふまえればさして根拠がないことはわかるだろう。</font></p>

<p>　ともあれ、天下の主権は光秀から秀吉に推移した。<font color=black>「信長＝天才」説を採る人は、新たに天下を制した秀吉を、天才の模倣者というくらいにしか見ていない面がある。</font>言い換えるなら、信長の後継政権、彼の敷いた「天下布武」の路線をただ継承しただけだという評価。秀吉の類まれなる人間性、“人たらし”としての頭抜けた個性を認めつつも、信長ほどの独創性はなかったと言いたいようだ。これから触れることになる「唐入り＝朝鮮侵攻」にしても、信長の海外戦略の構想がベースにあった。彼自身の発案ではなかったと強調されることが多い。</p>

<p>　<font color=black>要するに、秀吉政権には確固とした（信長レベルの？）ビジョンなどなかったいう話になるわけだが、本当にそうか？</font>　確かに光秀は天下人としての自らのビジョンを公開する前に破れてしまった。だから、天下人としての器量は永遠の謎。しかし彼を破った秀吉は、実際に政権を握っている。<font color=black>信長に対する過大な（と筆者は思っている）評価をいったん保留にし、現在残されている歴史的事実をありのままに追っていくだけでも、彼のビジョンは浮かび上がってくる。</font>“人たらし”の才能と政治家としての力量は、彼の中で表裏一体に機能していたことがわかる。<br />
　<br />
<font color=teal>●公武を統一させた前代未聞の「関白任官」</font></p>

<p>　前の稿でも強調したことだが、秀吉はまったくの裸一貫から身を起こし、ついには天下の表舞台にまで駆け上がった人物である。<font color=black>裸一貫、つまり何も持っていない存在。それが個人の実力で最終的には「天下人」にまでなった。</font>北条早雲や斎藤道三を持ち出すまでもなく、戦国武将ともなれば少なからず似た条件のなかにいたわけだが、こと歴代の「天下人」と比べた場合、<font color=black>彼がいかに「不利」な立場にいたか、その点は理解できるのではないだろうか？</font></p>

<p>　天下を取ったといっても、自分の磨き上げた人間力（器）だけでもっているような、砂上の楼閣に近い政権である。最低限、信長を超えるような政権ビジョンを打ち出さなければ、第二の光秀にもなりかねない立場にある。<font color=black>この危機感を解消させるために、まず秀吉が採ったのが、関白という朝廷の最高位への任官である。</font>征夷大将軍になれなかった代償に関白を狙ったなどという説が流布しているが、少し考えればそんな発想は成り立たない。なぜなら、関白も征夷大将軍もともに朝廷の官位。そのどちらが上かと言えば、もちろん関白のほうではないか。</p>

<p>　裸一貫の浮浪者にすぎなかった“サル”が、武家の「最高官位」を飛び越えて、人臣の最高位に就いてしまう。<font color=black>インパクトという点を考えたら、関白任官のほうがはるかに衝撃的だったことはわかるだろう。</font>武力で実権を握った以上、将軍位に就くということなら、当時でもある程度想像の許される範囲の話であったはずだ（これ自体も彼の出自を思えば異例であるが）。しかし、関白任官となると前代未聞。武家がなるという以前に、不浪人あがりが天皇の補佐役に就いてしまったわけだから、後世の我々はこの衝撃の大きさをもっと理解する必要がある。</p>

<p>　いや、衝撃というだけでない。筆者の目には、この関白任官自体も、彼の天下統一事業に組み込まれた構想の一つだったと映っている。つまり、出世して権力を握りたい、政権を安定させたいという、彼の政治家としての「欲」以上の意味が、そこにはあったと思うのである。なぜなら、秀吉は素性定かならぬとはいえ、武家である。<font color=black>その武家が公家の占有していた最高位に就く。これで「公武合体」は実現し、畿内（京都）と関東（鎌倉）に分裂していた日本の政治機関は一本化される。</font>それもまた、文字通りの「天下統一」であったことが見えてくるはずだ。</p>

<p>＊こうした秀吉の構想の先駆をなしたのが平清盛である（→<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/12/1.html"target=_blank>こちら</a>を参照）。</p>

<p><font color=teal>●統一政権に必要だった「唐入り」という「夢」</font></p>

<p>　公武合体という「統一」を実現した秀吉は、この時点で、公的な「天下人」の称号を勝ち得たと言っていい。<font color=black>武力で政権を奪った将軍よりもはるかに上位の、史上最強の「天下人」である。</font>秀吉は早速、天皇の補佐役の立場から、服属していなかった九州、関東、東北の諸将に「惣無事令」を公布している。中央では公家と武家が統合され、これまでにないまったく新しい政府ができた。今後は天皇の代行者である関白・秀吉が世の政治（まつりごと）を執行していく。だから、もう無用な争いはやめ、帰属せよという、“私戦停止命令”である。</p>

<p>　<font color=black>公武の政権一本化→天下惣無事令（私戦停止命令）→従わない諸将に対する武力行使</font></p>

<p>　こうした大義を掲げるのと同時進行して、秀吉は有名な「太閤検地」も実施している。これは、大宝律令の制定（720年）以来の、本格的な土地制度改革である。現代人にはあまりピンと来ないかもしれないが、秀吉が全国レベルで検地を実施するまでは、一つの土地に武家や公家などの複数の権利が重なっていたり、その土地で取れる作物の収量も明確に把握されていなかった。また、収量をはかる秤のサイズなどもまちまちだった。これらが統一され、<font color=black>「１つの土地に１つの権利」という現代社会の“常識”が当たり前になったのは、秀吉時代以降のことなのである。</font></p>

<p>　正確に言えば、検地自体は秀吉が初めて行ったものではない。武田氏、北条氏など政治力を持った戦国武将は、少なからず領国内の検地を実施していた。<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2005/03/post_3.html"target=_blank>前の稿</a>で日本人の「自我の成長」の歴史についてつづってきたが、ここで大事なことは、<font color=black>この歴史の中で代々リレーされてきたものが、社会の最下層から成り上がった彼によって集大成されたということだ。</font>検地によって秀吉は、日本人の農業総生産を数値として把握できるようになった。全国の土地が実態に近い石高で割り出され、この石高を基準に配下の武将たちに一定の軍役を課せられるようにもなった。</p>

<p>　農民たちから武具を取り上げた「刀狩り令」の布告も、この過程のことだ。土地制度という「秩序」が確立した以上、もう土地を守るための武具は必要ない、安心して農作業に励め（国の生産力を高めてくれ）というのが秀吉の理屈。兵制も同時に確立しているから、軍事は武士階級に任せるようにという「兵農分離」の政策でもある。これらが江戸時代の身分制度の基礎になっていることは理解できるだろう。しかし、決定的に違う点もある。<font color=black>秀吉はこのようにして出来上がった国の新たなシステムの維持に一番大切なのは、「夢」であると考えた。</font>この夢の実現のために、「唐入り」という壮大な「ビジョン＝政権構想」が提示されることになるのである。</p>

<p><font color=teal>●自我エネルギーの沸点に出現した秀吉政権</font></p>

<p>　<font color=black>国内のあらゆる「統一」、つまり武力的な統一も、公武の官位の統一も、経済・社会のシステムの統一も実現されたことで、日本は事実上、豊臣秀吉という天下人のもと“ひとつ”になった。</font>すべてを統一したからこそ、独自の姓もまた創案された。このことについても前回書いたが、<font color=black>要するに秀吉は、日本史上において秦の始皇帝のような立場にあったことが理解できるだろう。</font>しかも、彼の一声で右にも左にも進退する、戦国時代の乱世を勝ち抜いてきた数十万にも及ぶ軍勢がいる。兵の質から言えば、当時「世界最強」とも評される精兵である。</p>

<p>　筆者は秀吉が天下人になったのは、日本人の「自我の成長」の一つの結果、つまりは到達点であったと繰り返してきた。<font color=black>それは、社会の最下層の人間が天下人になってしまうくらいのエネルギッシュな社会が到来したということ。</font>この当時の日本人は、日本列島という一つの枠の中からはみ出るくらいの精神の沸騰期にあった。天下人となった秀吉は、自らを太陽の子、日輪から生まれた存在であると宣言しているが、そんな表現が許されるくらいの（現在では想像できない）活力がみなぎっていた。鉱山開発などが飛躍的に進み、空前の金産出国となったのもこの時期のことである。</p>

<p>　秀吉の「唐入り」は、こうした社会的な活力を背景に構想され、実施されたのである。政権のビジョンという側面から言えば、海外雄飛、大陸進出という壮大な「夢」を庶民の前に提示した。それを誇大妄想などと言ってしまったら、この時代のエネルギーは見えてこないし、庶民が秀吉政権に抱いた夢も否定されてしまう。後世の太閤人気も理解できない。<font color=black>信長も同様の大陸進出を構想していたかもしれないが、庶民の夢のレベルにまで直結したものだったかどうか。</font>“自我の成長”の歴史の頂点、沸騰点に位置するだけの器であったとまで言えるだろうか？　やはり秀吉のような“成り上がり”が表舞台に躍り出ることで、天下の混乱は終息し「統一」されたのである。</p>

<p>　もうひとつの側面をつけ加えるならば、ゼロからスタートした秀吉には、信頼できる譜代の家臣もほとんどいなかった。側近となった石田三成ら近江出身の文官たちは、事実上、太閤検地などの経済政策を通して育て上げた。加藤清正ら武官は、まさにこれから話す「唐入り」という実戦で武将としてのキャリアを積んだ。<font color=black>ハイレベルに沸騰した日本人の自我エネルギーをうまく発散させながら、組織そのものをゼロから作り上げていかなければならない立場。</font>「唐入り」などしなければ政権はもっと延命できたはずだというのは、彼のこうした状況が見えていない。結果を知っている後世の人間の、一つの観念にすぎないことがわかるのではないだろうか。</p>

<p><font color=teal>●「人間力」を前提にした秀吉の戦法</font></p>

<p>　<font color=black>では、そのようにしていわば理性的に実行された「唐入り」が、なぜ失敗に終わってしまったのか？</font>　政策として考えた場合、決して無謀だったわけではない。よく語られることだが、当時の朝鮮の王朝（李氏朝鮮）は、日本で言えば平安時代末期レベルで腐敗が進んでいて、政府としての機能をほとんど果たしていなかった。そのため宗主国の明に援軍を求めることになるわけだが、この明とて、秀吉の大陸出兵ののちに衰退し、1644年に滅亡。北方からの侵略者（満州族）が、新たな清王朝を打ち立てるに至っている。「世界最強」の軍隊で構成されていた秀吉軍にも、この清と同様の「チャンス」があったと指摘することは、状況的にも別におかしな話ではない。</p>

<p>　朝鮮民衆の予想以上の反抗、海将・李舜臣の活躍、“和平派”小西行長と“交戦派”加藤清正の対立など、「失敗の原因」は様々に挙げられるが、これらが決定的に関与していたとまで筆者には思えない。<font color=black>では、その決定的要因は何だったのか？　最も重視しないとならないのは、戦国武将としての秀吉の戦い方。</font>彼が得意だったのは、よく知られているように調略である。すなわち、“戦わずして勝つ”という戦法。彼は、戦闘行為そのものが特別に得意だったわけではない。その点に敗因を探っていく、一つのカギが隠されていると思うのである。</p>

<p>　結論を出してしまう前に、秀吉の戦法についてもう少し検討しておこう。天下取りの段階になると、この“戦わずして勝つ”という彼の戦法は、さらに徹底されていく。小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、小田原攻めと、どの軍役も敵を圧倒する大軍を編成し、それを誇示することで戦意を喪失させてしまっている。華々しい合戦絵巻が繰り広げられたわけではない。歴史学者の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121011058/250-6034146-0270602"target=_blank>山室恭子氏</a>の言葉を借りるならば、戦とは彼にとって純粋な戦闘行為であったというより、天下人としての自分の存在を日本中に宣伝するための「手段」であったということになる。さて、それの何が問題か？</p>

<p>　そう。<font color=black>この戦法は基本的に、秀吉という存在の人間力、カリスマ性が前提となっている。</font>初期の調略にしても、ベースになっているのはその並外れた“人たらし”の才能にあったことはよく語られている。いくら精兵であろうと、ただ海を渡って暴れれば（個々の武将の戦術に一任すれば）敵地が征服できるわけでない。少なくとも秀吉は、そんなやり方で天下取りを実現してきたわけではない。<font color=black>自分が陣頭指揮を執らないかぎり、成功の見込みはない。彼自身、それを理解していたからこそ、開戦初期、家臣の制止を振り切って、半島への渡海＝「唐入り」の陣頭指揮を試みるわけである。</font></p>

<p><font color=teal>●リーダー不在で臨んだ、初めての「異国体験」</font></p>

<p>　結果を言えば、この渡海は実現しなかった。最愛の母・大政所の危篤という“緊急事態”が渡海寸前のタイミングで発生したからだ。すでに秀吉は、彼の政権の片腕と言ってもいい弟の秀長を病気で亡くしている。後継者に期待した愛児・鶴松もわずか３歳で夭逝。そして、ここに来て母の命すら危ないという。秀吉はこの時、“天が自分の仕事を邪魔している”と感じたかもしれない。<font color=black>いくら歴戦の精兵でも、現場に統率するリーダーがいなければまとまるはずがない。といってリーダーになれるのは、このビッグ・プロジェクトの推進者である秀吉自身しかいなかった。</font>それがわかっていながら、どうにもならない理由で“待った”がかかったわけである。小説的な推理が許されるなら、渡海のチャンスを母の死で逸した秀吉は、事実上、この瞬間に「失敗」を悟ったのかもしれない。<br />
　<br />
　もちろん、秀吉が渡海したところで「唐入り」が成功したという確かな保証があるわけではない。少なくとも国内での統一事業よりも、はるかに苦戦を強いられただろう。<font color=black>ここで理解すべきなのは、これが当時の日本人にとって実質的に初めての「異国体験」であったということだ。</font>鎌倉、室町と時代が進む過程で日本人の自我は成長し、国内に収まりきらないほどに膨れ上がってはいた。しかし、多くの人にとって活動範囲は日本国内に限られていた。キリスト教などを経由して異国の情報がもたらされたといっても、日常的に活発な「国際交流」が行われていたわけではない。<br />
　<br />
　<font color=black>海の向こうには、自分たちとは異なる文化が存在している。そこでは自分たちにとっての常識も、権威も必ずしも通じない。言葉にしてしまえば簡単になってしまうが、現代の日本人でもこのことを心底理解できている人は、どれだけいるだろうか？</font>　誠意を持って話し合えば問題は解決する。そんなふうに思っているのは日本人だけで、実際には宗教の壁、文化の壁が大きく立ちはだかっているのが現実でもある。希代の“人たらし”で天下人まで登りつめた太陽の子、“代表的日本人”である秀吉も、「唐入り」を企てることで、この壁を少なからず感じたのではないかと筆者は思う。</p>

<p>　歴史をさかのぼってみれば、律令制度が敷かれ、国の基礎が作られる８〜９世紀より以前、日本列島と朝鮮半島の間は、今では信じられないくらい往来がさかんだったと考えられている。大和朝廷を構成する有力氏族の大半が渡来系、つまりは朝鮮半島などからの帰化人で占められていた。当時の皇室にも朝鮮系の王族の血はかなりの割合で入り込んでいるし、戦争も含め半島に進出する日本人、日本の氏族も数多くいたはずだ。日本も朝鮮もまだ国家としては混沌としていて、これまた<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2005/03/post_1.html"target=_blank>前の稿</a>にも書いたが、今でいう関東と関西くらいの感覚の違いしかなかったように筆者は感じている。</p>

<p><font color=teal>●国際社会で「和」を生かすには？</font></p>

<p>　要するに、半島と列島の文化の違いはあっても、日本と朝鮮は、もとは親戚同士くらいの間柄なのである。それが日本は平安朝、朝鮮は新羅王朝、それぞれの形に国が統一されていく過程で、次第に活発な往来は失われていき、こうした血縁的な感覚が薄れてしまった。そこに秀吉の大陸出兵が失敗した根本的な原因がひそんでいると、筆者は思う。為政者としての秀吉の能力や政策の問題以前の話。<font color=black>“代表的日本人”である彼の失敗を探っていくと、もう少し根深い「歴史的背景」が見えてくる。それがいまも、日本人が超えなければならない壁として目の前にある。</font></p>

<p>　今日の我々の価値観で、朝鮮侵攻そのものを「悪」と捉えてしまうことはたやすい。<font color=black>しかし、まず秀吉すらも忘れていた古代東アジアの「世界」を思い出してみる。この時の「国際感覚」が身体の中にあれば、あるいは秀吉の世界戦略ももっと違う結果が生まれたかもしれない。</font>その名人芸と言ってもいい“戦わずして勝つ”戦法も、異国の地で十分に発揮できたかもしれない。それはすなわち、“和”の感覚をベースにした政略、戦略。この感覚の権化であったはずの秀吉が、海外では一転して身勝手な侵略者となってしまった現実を、我々は強く意識する必要がある。このギャップは、現代の日本と国際社会の間にひそむギャップと同質のもの。秀吉時代以降も、幾度となく同じ形での「失敗」を繰り返している。おかしな話だが、<font color=black>国際社会で日本流の“和”を実現させていくためには、まず、日本と世界の違いを肌で理解することが求められる。でなければ、秀吉の「夢」も見えてはこない。</font></p>

<p>　<font color=black>秀吉は様々な意味で、日本の良さも悪さもすべてを体現している存在である。その“すべて”という言葉がすっぽり当てはまってしまう器の大きさを感じてみることで、日本史の本質ももっとよく見えてくる。</font>秀吉の抱いた「夢」とは何だったのか？　何がいったい“夢のまた夢”だったのか？　次の稿では、“太陽の子”としての彼の一面に迫りながら、その実態を探っていくことにしよう。</p>]]>
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<title>シリーズ・秀吉と日本人（2）〜“英雄・秀吉”を再評価する必然性</title>
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<modified>2005-06-13T13:19:54Z</modified>
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<summary type="text/plain">　……日本の“代表的英雄”が秀吉である以上、今の日本人は、良くも悪くも「秀吉」という枠の中から抜け出せていない。400年前に生み出された型のなかで、何度も歴史を循環させながら、その枠の近くまで肉薄したり、逆に小さくまとまって枠自体を見失ったり、そんな意識の変遷を繰り返しているのである。そもそも、簡単に抜け出せるような小さな枠ではない。まず彼の器の大きさを体感し、その底抜けの、恐ろしいまでの人間力を、日本人の作り出した作品として感じてみる。そして、彼がなぜ「大陸出兵」に挫折したのか？　その点も問うてみる。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
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<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>秀吉論</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>●「英雄」は「器」の大きさで決まる</font></p>

<p>　<font color=black>日本史で「英雄」を選ぶとしたら、豊臣秀吉と源義経。</font>個人の好き嫌いは別として、客観的に歴史を見渡した場合、この２人の名前を挙げないわけにいかない。<br />
　ここでいう「英雄」とは、日本という文化圏全体を呑み込んでしまうような大きな「器」を持った存在という意味。数値に表せるものではないし、政策（彼らの場合戦歴も含む）をいくら分析しても、それは浮かび上がってこない。<font color=black>なぜなら「感じる」ものであるからだ。人が感じるものは曖昧で、捉えどころがないと思われがちだが、歴史を俯瞰した場合、それが一番確実に残るものだったりする。</font></p>

<p>　器と呼ばれるものは、当然のことながら現代の学校教育では身につけることはできない。学校の成績が優秀な人間は、俗に秀才と呼ばれる。彼らが官僚になって、政治を動かすことで、国がおかしくなったと語る人がいる。一面正しい指摘だが、国が混乱するのは官僚のせいでは必ずしもない。<font color=black>器を持った中心的存在がいないから、組織が束ねられなくなっているだけの話。</font>そしてそれは現代だけでなく（現代社会だけが特別悪いわけでも、おかしいわけでもなく）、過去の時代を振り返れば無数にあった。周期があると言い換えてもいい。</p>

<p>　問題があるとするなら、こうした現実が見えていないままに、どうしたら混乱を収束できるかとあれこれ考える人が多いということ。そういう人に限って、政治に一番重要なのは政策だ。派閥の論理で首相を決めるのではなく、政策について議論し、国民の審判を仰ぐべきだと言う。しかし、そんなことが正論？として通っているうちは、器の重要性には意識が向かない。器のある人間がいたとしても社会の中に埋もれてしまう。つまり人々の意識が社会のありようを規定し、混乱させたり、その混乱をまとめたりする。<font color=black>一部の政治家が国を動かしているわけではなく、そうした政治家も、英雄すらも、じつは大衆がつくり出している面があるわけだ。</font></p>

<p>　秀吉の話でありながら、なぜ長々と器などというものについて語るのかというと、<font color=black>器というものが重要視されていない社会では、英雄は矮小化され、過小評価されてしまう。ある意味でその一番の“被害”を被っているのが、彼であると言えるからだ。</font>特に日本は、60年前に「世界戦争」を体験したことで、ヘンな話、「英雄」に対するある種のアレルギー、拒絶反応が生まれてしまった。特に朝鮮半島に出兵した秀吉は、日本史最大の「英雄」でありながら、同時にあまり声高に評価できないような後ろめたい存在にもなってしまっている。</p>

<p><font color=teal>●いま、新しい「歴史」が生まれる時</font></p>

<p>　この点にある種のねじれ現象があることが理解できるだろうか？　<font color=black>日本の代表的な「英雄」を素直に「英雄」として認められず、後ろめたいどころか、どこかでダサイとすら感じてしまう風潮。これは大衆的なリーダーというものを拒絶する感覚と、心理的につながっている。</font>なぜか？　リーダー＝英雄は戦争を引き起こす存在でもありうるからだ。戦争など引き起こしてしまえば、他国に迷惑がかかる。独裁は駄目だ、ファシズムは駄目だ、これからは民主主義で行こう。……そんなふうにして大衆に選ばれた人に、なおかつリーダーシップを求めようとする。</p>

<p>　言ってしまえば、<font color=black>リーダーシップを否定される風土で、リーダーはリーダーらしく振る舞えと、無茶な要求をしてきているわけである。</font>リーダーであるべきはずの政治家の多くもこのねじれ現象が自覚できないまま、先に触れたように、“政策についてもっと議論しよう”、“選挙の争点は政策であるべきだ”という。政策はブレーンが考えればいいものだ。政権を握った場合は、官僚たちが考える。政治家に必要なのは、こうした頭脳集団を束ねる人望、つまりは器であるはず。しかし器が大事という視点が欠けているため、なかなかこの単純な結論が導けない。</p>

<p>　よく知られた話ではあるが、「三国志」の諸葛孔明は並外れた知略の持ち主として描かれているが、自分自身がリーダーになろうとは思わなかった。劉備玄徳のほうが自分より大きな器を持っていることを、彼は理解していたからだ。だから劉備の死んで、彼の治めた国（蜀）の事実上のリーダーとなったあとの彼は、<font color=black>器以上のものが要求される局面に立たされたため、つねに悲劇がつきまとった。</font>しかし彼の場合、器がなければ国は収まらないという前提を理解したうえで、できるかぎりのことをした。だからギリギリのところで国をまとめる中心となりえたわけだ。</p>

<p>　さて、話がそれたが、先の戦争が終結してことしで60年。人間で言えば還暦にあたる。60年は、干支（＊）を組み合わせた東洋流の時間の単位。この60年を一区切りに歴史は循環し、推移していくものと捉えられてきた。<font color=black>東洋人でありながら西洋の直線的な歴史観に慣れてしまっている現代の我々にとって、この時間が60年を一単位で循環する発想は意外に忘れ去られている。</font>しかし、一般的な感覚と照らし合わせても、だいたいこれくらいの歳月で「過去」が「歴史」となるということは実感できる。言い換えるなら、戦後を区切りとした場合、新たな歴史が作られようとしている段階に、いまさしかかっている。</p>

<p>＊12年単位の十二支（子、丑、寅……）と10年単位の十干（甲、乙、丙、丁……）の組み合わせ。12と10の最大公約数が60となる。壬申の乱（672年）、戊辰戦争（1868年）などといった呼び方は、この干支をもとに名づけられた。</p>

<p><br />
<font color=teal>●過去のものになりつつある「民主主義」</font></p>

<p>　新しい歴史の生まれる段階では、新しい発想が生まれ、それが世の主流となったりする。<font color=black>過去の60年で言えば、民主主義という発想が新しかった。しかし、温故知新という言葉ではないが、東洋人の感覚で言えば、新しいと思えるものでも必ず前例はある。</font>歴史は循環するものであるから、一つの型が形を変えて何度も繰り返されている面があるということだ。何も難しいことを言っているわけではない。会社などでもワンマン社長が亡くなったり、失脚したあとは、得てして集団合議制などが採用される。ワンマンの負の部分が問題視され、話し合いが大事という意識になるからだ。あるいは、束ねる人がいないという現実問題も発生する。</p>

<p>　民主主義も一つの大事な発想だが、一歩間違えば衆愚政治になることは、古代ギリシャ・ローマの頃から教訓にされてきた話。いまの政治家や評論家が語るような永遠の目標でも理念でもなんでもない。<font color=black>逆にいま社会がうまくいかなくなってきたのは、民主主義の負の部分が表面化してきたからだ。いい部分はいい部分として残し（というより、いいものであるならそれは自然に残ってゆくし、廃れはしない）、欠落したものを補う必要がある。それが器という感覚。</font>といっても、何かの政策を実施して変えられる類のものではない。人々の意識が変わっていくことで、自然と変わるべくして変わってゆく。その空気を読み取ることが必要なのである。</p>

<p>　大局的に見れば、この日本社会にも、これからしばらく戦国時代的にいろいろな「英雄」が現れてくるように、筆者は思う。「豊臣秀吉」の段階までに到達できるかわからないし、できるとしてもすぐというわけではないだろう。また、「秀吉」が出現したからといって、別にガチガチの独裁者が恐怖政治を行うといったようなマンガチックな危機感を必要以上に抱かなくてもいい。どんな人がどう現れるかなど筆者は知らないし、そこに何の保証もないが、「戦争反対」を訴える人たちが訴えるまでもなく、<font color=black>日本の大衆は軍事的成功も、経済的成功も一度味わい、いま、その先の“何か”を求めはじめている。歴史を循環しながら、成長もしている。いまさら昭和にも、戦国時代にも、戻りたいとは誰も思ってはいない。</font></p>

<p>　大衆の意識などある意味漠然としたものではあるが、しかし繰り返すなら、どの時代においても、大衆が意識し、望んだリーダー（英雄）が現れるのである。混乱から調和を生み出したいというなら、まとめる力が必要であることをまず意識する必要がある。まとめる力とは、繰り返すが諸葛孔明的な知略でもないし、いまの政治家がさかんに語る政策でもない。<font color=black>そんなものを一切持っていない「愚人」でも、「器」さえ持っていれば「英雄」になれる。</font>そんなことは日本史以前に、古代の中国史からも当たり前のように「学べる」話ではないか。</p>

<p><font color=teal>●スポーツの中だけに閉じ込められた「英雄」</font></p>

<p>　先ほど筆者は、いまの社会の混乱に原因があるなら、それは日本人の意識の「ねじれ現象」にあると書いた。言い換えるならば、<font color=black>すごい人は素直にすごいと思う。その感情を抑圧せず、ありのままに認めてしまえば、違った景色が見えてくるということ。</font>“還暦”の60年がすぎ、先の戦争を「過去」ではなく「歴史」として感じられる世代の眼から見れば、「昭和天皇が溥儀（満州国皇帝）のような人でなくて良かった」と素直に思えてしまう。器が違いすぎるからだ。</p>

<p>　これを右寄りだとか、天皇制礼賛だとか仰々しく言われてしまうと困ってしまう世代が、もう確実に存在していることを、いわゆる“旧世代”の人には理解してほしいと思ったりもする。<font color=black>民主主義全盛の時代では、「英雄」はすべてスポーツの世界の中だけに閉じ込められてきた。同じ器の大きさを持った存在でも、スポーツが得意な（運動神経の優れた）者のほうが本領を発揮しやすいような、そんな“閉ざされた土壌”が一方で存在していた。</font>この閉ざされた土壌の背景には、閉ざされた日本人の感覚がある。しかし、サッカーの日本代表の活躍に熱狂する若い世代の心理は、もはやこの壁を打ち破れるすぐ手前まできている。</p>

<p>　一つの予言として言えることは、<font color=black>これからの新しい“60年”の時間の中で、おそらく存在価値（人気）が急浮上してくる歴史人物の筆頭が、豊臣秀吉であるということ。</font><a href="http://www.thunder-r.net/nouwokoete/top.html"target=_blank>「脳を超えてハラで生きる」</a>の中でも書いたが、織田信長や幕末の坂本龍馬などの人気は、振り返ると「あれ？」というくらいに失速するかもしれない。といって、彼らに魅力がないということを言っているわけではない。幕末では西郷隆盛のような当たり前の中心人物が、当たり前にクローズアップされるようになる。そのように、少しずつ時間をかけて大衆の心理が変化していくということだ。</p>

<p>　秀吉に対する再評価が浮かび上がっていく過程で、別に“秀吉ブーム”が起こるとかそういう現象は、あるかもしれないし、ないかもしれない（というより、そこに興味があるわけではない）。<font color=black>ただ、秀吉的なものが浮かび上がってくることで、日本と朝鮮との「過去の問題」も初めて正面から問い直せるようになるのではないだろうか。</font>これは英雄・秀吉が日本人に残した「宿題」のようなものであり、その点でも彼の存在は象徴的だ。良いものも悪いものもすべてスッポリ呑み込んでしまっているからこそ「英雄」は「英雄」だからだ。象徴的存在には、当然、負の問題もある。善人や聖人と英雄を同一視してしまわないことだ。</p>

<p><font color=teal>●日朝問題のキーパーソンとしての「秀吉」</font></p>

<p>　<font color=black>日本の“代表的英雄”が秀吉である以上、今の日本人は、良くも悪くも「秀吉」という枠の中から抜け出せていない。</font>400年前に生み出された型のなかで、何度も歴史を循環させながら、その枠の近くまで肉薄したり、逆に小さくまとまって枠自体を見失ったり、そんな意識の変遷を繰り返しているのである。そもそも、簡単に抜け出せるような小さな枠ではない。まず彼の器の大きさを体感し、その底抜けの、恐ろしいまでの人間力を、日本人の作り出した作品として感じてみる。そして、彼がなぜ「大陸出兵」に挫折したのか？　その点も問うてみる。</p>

<p>　ここではすべての答えまで出してはしまわない。ただ言えることは、いま日本人に何が問われているのか？　この点が大きく関係してくるということ。もしかしたら、「大陸」をキーワードに、国際交流、グローバルスタンダード……そんなお手軽なフレーズが浮かんでくるかもしれない。<font color=black>しかし、そのじつ蓋を空けてみると、自分たちの作ったルールと、世界で広く通用しているルールの違いすらも、我々の多くはまだ実感できていない。</font>ドイツ人がフランス人を認識するような感覚で、我々は韓国人や中国人を認識できない。簡単に言えば、じつは親戚同士なのだということだが、おそらく日本人一般の感覚では、まだまだ「近くて遠い」のレベルだろう。これでは400年前の秀吉を批判もできないし、笑えもしない。</p>

<p>　いずれにせよ、「秀吉」の向こうに、彼も一時は渡ろうとした朝鮮半島の影が見えてきた。<font color=black>一般には「近くて遠い」と言われて久しいかもしれないが、じつは筆者の感覚では、関東と関西の違いくらいの差異しか感じていない。</font>韓国に旅行したこともないし、日本に住んで在日の人と語ったような経験もほとんどない。しかし、自分の意識の中の壁さえ取り払っていけば、必ずしもそんな必要はない。なぜなら歴史の旅は、誰もが意識の中で行っている。現実の旅とそれは質において変わらない。現実という有限の世界をすべてと思って「現場主義」を唱える人が、いくら「取材」を繰り返そうが、意識の世界の広さに目を向けられなければ、実質的には何も変わらない。まさに意識次第で、距離はいくらでも縮められるのである。</p>

<p>　次の稿では、いまなぜ「秀吉」なのかという問いの一つの核心、日本と朝鮮の歴史について、循環する歴史を切り取りながら解きほぐしていこう。様々な経緯からもつれ、こじれた問題だが、糸口はある。<font color=black>一番身近なところから突破することで、秀吉の夢みた「大陸＝世界」の姿も見えてくるかもしれない。</font></p>]]>
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<title>シリーズ・秀吉と日本人（1）〜日本史のピークを演出した男</title>
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<modified>2005-06-13T17:18:26Z</modified>
<issued>2005-03-11T18:09:31Z</issued>
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<summary type="text/plain">　東洋人の感覚で言うと、こうした運命を持つ人間は「天に選ばれた」と表現する。確率論で言えば、一番不利な立場にいた人間が、自己の知恵や才覚のみで人の心を動かし、権力を握っているわけだから、その知恵や才覚も偶然の産物ではない、天与のものだと捉えるわけである。これは一つの見方だから絶対視する必要はない。しかし、秀吉の「出身出世絵巻」の背景には、少なくとも藤原氏の登場以来の、日本という国の営々とした「自我の発達の歴史」がある。目覚めていった自我の先に、現れるべくして現れたのが秀吉だったわけである。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
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<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>秀吉論</dc:subject>
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<![CDATA[<p><font color=teal>●秀吉を知ると日本が見えてくる</font></p>

<p>　誰もが知っている名前でありながら、なかなかその実像が捉えきれない。豊臣秀吉は、その点でじつに不思議な人物である。<font color=black>どれくらい不思議かということを話していくと、日本史そのものを掘り起こしていかなければならない。</font>彼があの時代に生まれ、卑賤の身から立身を遂げ、天下まで取ってしまった事実が、それまでの歴史の「必然」としてはっきり浮かび上がってくるからだ。</p>

<p>　フランスがナポレオンを生んだように、モンゴルがチンギスハンを生んだように……、日本という風土が生んだ“代表的日本人”が秀吉。<font color=black>だから秀吉のことを知れば知るだけ、日本が見えてくる。日本という国の個性も、特異性も見えてくるし、同時に課題もわかってくる。</font>以前にも話したが、その点においては彼の主君・織田信長など足元に及ばない、はるかに大きな「器」を持っている。</p>

<p>　まず日本史の大きな流れの中から、秀吉のポジションというものを割り出してみよう。最初に結論を言ってしまえば、筆者は日本の歴史は「秀吉以前」「秀吉以後」に分かれると思っている。<font color=black>彼が天下をとり、壮大で絢爛な桃山文化を築き上げたのが日本史の最大のピーク。そして現在は、秀吉の遺した課題をDNAにしまいこみながら、再びまったく新しい山に登ろうとしている。</font>そうしたシチュエーションにあるからこそ、秀吉の「再評価」が必要となってくるわけである。</p>

<p><font color=teal>●「自我を持った人間」の溢れていた時代</font></p>

<p>　さて、秀吉の不思議といえば、まず素性がはっきりわからない点が指摘される。小瀬甫庵の「太閤記」に書かれた「鉄砲足軽の子」という記載はさすがに否定されているようだが、それでも「尾張の貧しい農家の子」とイメージしている人は多いのではないか？　しかし、中世史の<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%D6%CC%EE%C1%B1%C9%A7"target=_blank>網野善彦氏</a>などが再三語っているように、<font color=black>当時の百姓はイコール農家とは限らない。「水呑百姓の子」を「貧しい農家の子」と結びつけてしまうと、あの下克上時代の人々の実像が見えてこなくなる。</font></p>

<p>　ただ、「農家」でなかったにしてもある程度ハッキリしているのは、氏素性の定かでない、その意味で社会の最下層の出自であったという点。しかも武芸に秀でていたわけでも、人に惚れられるような容姿を持っていたわけでもない。小柄で猿に似た容貌。裸一貫というならば、<font color=black>世の天下人のなかで、秀吉くらいの裸一貫（何も持っていない存在）はなかなか見当たらない。</font>言い換えるなら、天下人になったのは彼だけだが、そんな境遇の人間が、当時は掃いて捨てるほどいたということだ。</p>

<p>　<font color=black>掃いて捨てるほどということは、当時の日本の社会全体が「自我を持った人間」で溢れていたということ。</font>自我というのは意思と言い換えてもいい。現在の日本社会のように「平等」だとピンと来ないかもしれないが、過去においては、「こうしたい」という意思を持つことすら、身分や立場によってできない時代があった。これは社会制度の問題では必ずしもない。肝心の人々に、意思を持とうという発想すら生まれなかった。だから、一部の自我を持った人間＝権力者にいいように利用されてきた。</p>

<p>　<font color=black>権力者という言葉を使っただけで拒否反応を示す人もいるが、権力者とは「自我を獲得した人」と位置づけることもできる。</font>だから、大衆のリーダー＝英雄にもなりえたわけだし、共通のルール（法律）を決め、システム（制度）を施行するだけの資格を手にできた。もちろんそうした権力者が、イコール聖人君子であったら理想だが、そんなケースは現実的にほとんどない。だから、支配される側の大衆の中には潜在的な不満が鬱積する。不満が新しい自我が生む。その自我が新しい権力者を生み出し、新しい歴史をつくりだしていく。</p>

<p><font color=teal>●天皇系の血統から派生した「権力者の家系」</font></p>

<p>　そのようにして日本の歴史を見ていくと、そもそも、日本列島に「国としての自我」が形成されたのはいつなのかという話にもなる。やはり、７〜８世紀、律令制度が根を下ろした飛鳥・奈良時代あたりからになるだろう。<font color=black>その国家の自我の形成に大きく関与したのが、藤原氏。</font>大化の改新に功績のあった鎌足が祖にあたるが、「権力者としての自我」という点では、息子の不比等のほうがはるかに強烈。のちに公家政権の頂点に立つ藤原氏の、事実上の元祖であると言ってもいい。</p>

<p>　不比等については平清盛について書いた時に触れているので、ここではあまり繰り返さない（→こちらを<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/12/1.html"target=_blank>参照</a>）。ただ言えることは、彼の時代の権力者は、天皇家の血筋に近い者たちで占められていたということだ。平安時代になると、この権力者の枠はさらに絞られ、不比等の子孫のみが独占した。彼の４人の息子のうちの次男の家系（北家）が勝ち残り、その血筋のなかで権力の座をめぐる「骨肉の争い」が繰り広げられた。国としての自我と言ったところで、非常に限定的で、微弱だったことも見えるはずだ。</p>

<p>　<font color=black>藤原氏の権力闘争という非常に閉鎖的な自我の攻防が繰り返される中、この平安時代の400年に新たに勃興したのが、武士という自我だ。</font>しかし武士といっても、やはりここでも血筋が重んじられた。中央の貴族（藤原氏）の血筋よりは劣るものの、関東に土着した源氏も、畿内・西国に基盤を築いた平氏も、もとはと言えば天皇家の子孫にあたる。</p>

<p>　平安末期、平家が滅びて、源氏が鎌倉に幕府を開くと、源氏の血を引く者が武家政権の後継者といった不文律が新たに生まれた。正確に言うと、<font color=black>藤原氏独占の時代が終わり、基本的に「源平藤橘」という天皇家の血筋を引く４つの姓（家系）が、権力者の資格を得ることとなった。</font>最後の橘氏は平安初期の段階で衰退したので、実質的には、源氏・平氏・藤原氏の３家が「権力者の家系」となったわけである。</p>

<p><font color=teal>●分散化する権力→「実力主義」の時代へ</font></p>

<p>　といっても、ただ単に１家が３家になっただけでなく、時代とともにそれぞれの子孫は繁栄し、家系は枝分かれし、無数の傍流が生まれていく。<font color=black>その結果、権力者の「資格」を持つ者の数は相対的に増加する。そうした中で迎えたのが、室町時代である。</font>この時代の権力の中心となったのは、京都に開かれた武家政権・室町幕府。その政権のトップの座（征夷大将軍）についたのが、源氏の血を引く足利尊氏。しかし、この時代になると、源氏の末裔といっても相当に血が薄まってしまっている。その薄まった分は、当然、個人としての実力で補う必要が出てくる。</p>

<p>　初代の尊氏には、この実力、つまり国中を完全に束ねきるだけの強烈なカリスマ性まではなかったようだ。幕府の発足の時点で、公権力を保証する皇室が南朝と北朝に分かれて、その権力を争うような図式が出来上がっていた。尊氏は北朝側の天皇を支持し、南朝と争ったが、この分裂を統一させることはできなかった。<font color=black>ただ、ここで言いたいのは、尊氏の資質についてではない。彼一人の力量をもってしてもどうにもならないくらい、この時点での日本が多様化していたという点だ。</font></p>

<p>　多様化……、つまりは権力の分散化と言い換えてもよい。平安時代に生まれた武士勢力は、確かに血筋を拠り所のひとつにしていたが、最終的には個人としての自我そのものが力であることを肌身で理解していた。<font color=black>武力を持った勢力が政権を握ったからすごいというわけではない。自我を持った人間が地方の至るところでも現れはじめ、中央の巨大な自我を持ってしても制御できなくなった。</font>鎌倉時代の100数十年を経ると、実力主義に目覚めた権力者（足利将軍家）ですら権力を操れなくなっていった。それがのちに戦乱を生む室町時代の実相と化してゆく。</p>

<p>　実力主義に目覚めた権力者すら、権力を操れない。……言い換えるならこれは、出自（つまりは家系）のハッキリしない者が、自己意思で活動しはじめ、世に影響を与える段階になってきたことを意味する。南朝に属して足利氏に対抗した楠木正成などは、その象徴であり、彼のような勢力は悪党と呼ばれた。既成の権力者から見れば、それは「悪」としか言いようのない存在だったわけである。</p>

<p><font color=teal>●「天」が選んだのは、何も持ってなかった秀吉</font></p>

<p>　この「悪」は、室町時代の展開されていく中で、社会の末端へ、末端へと浸透していく。よく知られているように、庶民のレベルでも、理不尽なことに対しては異を唱えるまでの自我が生まれ、彼らは様々な形態の一揆を起こし、権力者の抑圧に対抗した。そして、15世紀の応仁の乱で武家政権の中枢を担う権力者たちが完全に分裂し、国を束ねるリーダーの権威が失墜してしまうと、庶民レベルで目覚めた自我を押さえつける存在は、この日本にはいなくなってしまった。<font color=black>氏素性の良し悪しにかかわらず、基本的にはあらゆる境遇の人間に、権力を得ることの資格が生まれた。下克上の世、すなわち戦国時代が始まるわけである。</font></p>

<p>　こうした下克上の世の中で、最終的に天下を勝ち取ったのが秀吉であったわけだが、ここでもう一度、冒頭の話を振り返ってみてほしい。彼は文字通り、何も持っていなかった人間である。自分自身の自我だけで這い上がり、その自我の力を純粋な権力に変えていった。それが、最終的な天下人になる条件であったわけではない。自我の力さえあれば、<font color=teal>血筋やそれに伴う経済力、武力などの面でもっと有利な立場にいた人間が天下人になることもありえたはずだ。にもかかわらず、「天」が最終的な勝者に選んだのは、何も持っていなかった秀吉だった。</font></p>

<p>　東洋人の感覚で言うと、こうした運命を持つ人間は「天に選ばれた」と表現する。<font color=black>確率論で言えば、一番不利な立場にいた人間が、自己の知恵や才覚のみで人の心を動かし、権力を握っているわけだから、その知恵や才覚も偶然の産物ではない、天与のものだと捉えるわけである。</font>これは一つの見方だから絶対視する必要はない。しかし、秀吉の「出身出世絵巻」の背景には、少なくとも藤原氏の登場以来の、日本という国の営々とした「自我の発達の歴史」がある。目覚めていった自我の先に、現れるべくして現れたのが秀吉だったわけである。</p>

<p>　その意味では、同じ才覚、同じ感性を持った人間がいたとしても、彼の時代より前に生まれていたら、天下人になるレベルにまでその能力は引き出せなかったはずだ。もちろん、この後の時代に生まれたとしても同様。言うなれば、<font color=black>日本という国はまさにこの16世紀末の段階で、「何も持っていない人間でも、自らの努力次第で自己の意思を遂げられる状態」にまで成長したということになる。</font>秀吉という人間の生涯をたどるだけで、そうした歴史的な日本人の“努力の跡”が確認できる。それゆえに、彼を“代表的日本人”と呼べうるわけである。</p>

<p><font color=teal>●「名前」を獲得しながら成長した存在</font></p>

<p>　“代表的日本人”秀吉は、代表的であるがゆえに、政治の面でも経済の面でも、非常にシンボリックな事績を遺している。というより、そうした視点を持つことで、改めて見えてくることが無数にある。それについてはこの稿の中で少しずつ追いかけてゆくつもりだが、ここでは一つだけ、それらの中でも最も「劇的」と言っていい点について触れておくことにしよう。</p>

<p>　これまで繰り返してきたように、秀吉は“何も持っていなかった存在”。だから、自分自身ですべてを生み出していかなければ、一歩も先には進んでいけなかった。彼の場合、幼名すらはっきりとわかっていない。きちんとした姓などはなく、名前は当然あっただろうが、ただ単純に「猿、猿」と呼ばれていただけだったとも言われる。それがある段階から、木下姓を名乗るようになる。秀吉の妻・おねの実家の姓を用いたという説もあるが、このへんの経緯は諸説あるのでよくわからない。いずれにせよ血縁なのか地名なのか、何らかの「由緒」にちなんで彼は「木下藤吉郎」となった。<font color=black>そうした名前が必要になったということは、要は、それだけの力をつけたということだ。</font></p>

<p>　その後、織田信長のもとで頭角を現した彼は、やがて木下から羽柴に姓を変えた。重臣の丹羽氏と柴田氏から一字ずつ拝借したなどと言われるが、これも真偽はわからない。ただ同じ改姓でも、木下時代に比べると彼は大きく飛躍している。何らかの理由にかこつけて、結局彼は自分自身で姓（正確には苗字）を創案したからだ。<font color=black>ありものの「木下」では、彼の自我が収まりきらなくなっていた。</font>そこまで個人としての力をつけてきたから、それにふさわしい名前が欲しくなった。そういう衝動に駆られた。そのように解釈することで、秀吉の中の強烈な意思、個性が見えてくる。</p>

<p>　本能寺の変で主君・信長が横死すると、秀吉の蓄積された自我エネルギーは一気に解き放たれていく。織田家の対抗馬を滅ぼし、朝廷を押さえ、中央の権力者としての地位を獲得した彼は、ご存知のようにここで関白という朝廷の最高官位を手に入れる。彼の氏素性のハッキリしないことは、当時、庶民でも知っている事実であったようだ。そのため彼は、ぬけぬけと関白家（藤原氏）の養子に入ることで、その資格を得た。権力者の象徴であった四姓（源平藤橘）も、乱世を勝ち抜いた彼にとっては、官位を得る手段でしかなかったわけである。</p>

<p>　関白となった秀吉は、次に何をしたか？　そう、「豊臣」という自ら姓を創出したのである。ただの名乗りではない、公的な、正真正銘の「姓」の創出である。言ってみれば、<font color=black>“源氏、平氏、藤原氏の血筋だけが権力者ではないんですよ、過去の血筋が力を失ったいま、これから権力者の血筋をつくっていくのは「豊臣」ですよ”、と天下に宣言したことになる。</font>彼がただ天下を取ったからすごいという話ではない。文字通り、何も持っていなかった社会の最下層の“サル”が、藤原氏以来の権力システムの頂点に立って、豊臣姓による「新しい時代」を宣言した。この新しさを彼自身が十二分に自覚していたから、新姓創案という前代未聞のアイデアが実現した。</p>

<p><font color=teal>●新しいシステムを創出しようとした権力者</font></p>

<p>　この先の稿でも様々に触れていくが、権力者としての秀吉の事績が、すべてパーフェクトだったわけではない。「豊臣」という新姓にしても、自家の血を汚さないための藤原氏（ひいては天皇家）の、一種の策略だったという見方もある。当然のことながら権力者の周辺には、様々な思惑、意図が渦巻いている。それにまったく気づかなかった秀吉ではないだろうし、心理的な駆け引きは当然あったはずだ。<font color=black>しかしそれらをふまえた上でも、筆者はここに秀吉の「夢」を感じる。</font></p>

<p>　おそらく秀吉は関白に就いて、豊臣姓を創案して、天下人になって、それだけで新しい権力システムが作動するとは考えていなかった。言い換えれば、豊臣家の権力が安泰になるなどと、おめでたいことは思い浮かべもできなかったと筆者は思う。なにしろ、何もないところから短期間で成り上がり、事実上のこの国の支配者までに登りつめた。しかし、<font color=black>そんな彼の目の前には、藤原不比等以来の、この時点でも900年近く続いてきた形骸化した権力システムがある。</font></p>

<p>　不比等の作り上げたシステムは、もはや十分には作動していない。制度疲労を起こしていた。天下人である以上、彼は作り替えなければならない立場にいた。ここに彼の実施した「太閤検地」や「唐入り」（朝鮮出兵）などが複雑に絡み合ってくるわけだが、彼の意図通りの成果が出せたとは思えない。ただ、後世の目からは批判の対象でしかない朝鮮出兵にしても、最近では、あながち「権力者の誇大妄想」とは言い切れない、様々な政策的要素のあることがわかってきている。</p>

<p>　現在の日韓関係、日朝関係への影響（悪影響）も考慮に入れる必要はある。しかし、<font color=black>権力者は「悪」だというような単純な発想から離れ、日本史の流れの中で秀吉を捉えていくと、「新しいシステムを創出しようとした権力者」としての姿が見えてくる。</font>日本史では藤原不比等の次は秀吉、次に来るのが<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/09/post_8.html"target=_blank>西郷隆盛と徳川慶喜</a>、そして次が昭和天皇……。<font color=black>その中で日本人の自我のピークは、秀吉の時代にあったと筆者は理解している。</font>皮肉を言うわけではないが、秀吉から得られる理解は、信長を天才と捉えたがる巷間の視点よりも、はるかに多様で、可能性に満ちたものになるはずだ。これからそれを明らかにしていこう。</p>]]>
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<title>先駆者としての平清盛（3）〜「公武合体」を目指した改革者</title>
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<modified>2005-05-01T00:18:33Z</modified>
<issued>2004-12-24T07:27:10Z</issued>
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<summary type="text/plain">　……　また、清盛の目指した「政治改革」には、もうひとつ、じつは鎌倉幕府を開いた頼朝の「改革」以上に重要と言っていい要素が隠されています。それは藤原氏の政治スタイルの欠陥の克服でもあったわけですが、簡単に言えば、「政治と軍事をどう融合させるか」という課題です。大局的に見て、国を揺るがすような戦乱のほとんどなかった平安時代は、軍事はあくまで政治の添え物、臨時的な役職でしかありませんでした。様々な経緯から発生した武家にしても、正規の職というより、これまで繰り返してきたように、天皇や貴族が私的に雇ったガードマン、傭兵といった立場。事実上、武家は私兵をもって国家の兵乱に参加してきたわけです。
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<name>長沼敬憲</name>
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<dc:subject>中世史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>●分裂してしまった権威</p>

<p>　さて、いよいよ清盛の登場です。彼は父祖の築き上げた政治的基盤をベースに、往年の藤原氏を凌駕する実権を手に入れます。それを可能にしたのは、院（上皇）と天皇家に、権威の中心が分裂したことが関係あります。じつは結果論になってしまいますが、この権威の分裂は、清盛の「政治改革」が最終的に挫折したことで、本質的に解消しきれないままその後の歴史で推移していきます。「権威の中心」を確立することが、清盛以降の「最大の政治課題」にもなってくるのです。</p>

<p>　この分裂の引き金となったのは、天皇家が天皇と上皇とに分裂してしまった以上、ひとつは院政という政治システムに原因が求められます。もちろん、院政自体は必ずしも悪いシステムではありません。「権威」だけになりかけていた天皇家が、長らく政治を支配してきた藤原氏から「権力」を奪い取ろうと画策した結果、生まれたものだからです。空想にすぎませんが、やりようによっては天皇家を中心に、より強固な権威の構築も可能だったかもしれません。しかし現実には、肝心の天皇家内部で新たな対立が生まれてしまいます。</p>

<p>　前回の稿をおさらいすると、院政を始めたのは白河上皇。それを引き継いだのは、孫にあたる鳥羽上皇。大ざっぱに書くと、次のような流れです。</p>

<p>　白河上皇の院政（堀河ー鳥羽ー崇徳天皇の時代・約44年）<br />
　　　　↓<br />
　鳥羽上皇の院政（崇徳ー近衛ー後白河天皇の時代・約28年）</p>

<p>　これだけだとわからないと思いますが、分裂のカギを握るのは崇徳天皇（上皇）です。系図の上では鳥羽上皇の第一子なのですが、じつは祖父の白河上皇の落胤であったと言われ、これが鳥羽と白河（ひいては崇徳）の不仲を生み出します。白河は何と自分の愛人（待賢門院）を鳥羽の后に据えますが、その時点で彼女が白河の子種を宿していたようなのです。事実かどうかはわかりませんが、少なくとも鳥羽はそう信じており、崇徳を「叔父子」と呼んだ記録も残っています。</p>

<p>　鳥羽上皇としては、崇徳の子供は当然、皇位につけたくありません。白河上皇が亡くなると崇徳を退位させ、寵愛する美福門院の子（近衛天皇）を皇位につけます。ところがこの近衛天皇が病弱で二十歳にならないうちに亡くなってしまう。この時点で皇位継承の最有力は、「長男」である崇徳の子（重仁親王）です。しかしあくまで崇徳の血統を嫌う鳥羽は、ここで皇位継承の圏外に置かれていた「次男」を皇位につけます。のちに鳥羽の院政を引き継ぎ、「大天狗」などとも称された権謀術数で清盛、頼朝とやりあう後白河法皇です。</p>

<p>●「官軍」に組みした平氏の嫡流</p>

<p>　ここに「鳥羽上皇ー後白河天皇」、「崇徳上皇」という対立軸が生まれました。崇徳は上皇の地位にありますが、院の政務は父の鳥羽が握っているため政治的実権はありません。しかし、後白河が皇位についた翌年（1156年）、鳥羽が亡くなってしまいます。院としての政治実績のない崇徳上皇と、皇位についたばかりの後白河天皇、権威としてはどちらも「中途半端」。特に後白河は、自分が天皇になれるとは思っていなかったらしく、相当な遊び人だったと言われています。朝廷での儀礼にも通じていない。権威の面で軽んじられるところがあったようです。</p>

<p>　中心が分裂し、しかもそのどちらにも決定的な力がないと、得てして兵乱が生じます。それが歴史で言うところの、保元の乱です。といっても、皇位についている後白河天皇は「官軍」。つまり、「権威薄弱」とはいえ、国家権力として、公式な形で武家勢力の動員ができる立場にありました。対立軸があるといっても、崇徳とは「対等」でなかったのです。父の代から鳥羽院に仕えていた清盛も、頽勢を挽回しつつあった源氏の義朝も、「官軍」である後白河天皇の動員令に応じたのです。</p>

<p>　ただ、乱という以上、この「官軍」の招集に応じなかった勢力も、当然存在しました。源氏の場合、義朝の父・為義、弟の為朝は、崇徳上皇の側に加担。平氏でも、主流から外れていますが、清盛の叔父・忠正の一族は上皇側についています。彼らの仕える左大臣・藤原頼長が、上皇側に加担していたからです。藤原家は頼長の兄・忠通が関白の地位にありましたが、父の忠実（前関白）が頼長を後継者に据えたため、荘園などの私的財産は頼長のほうに譲り渡していたのです。官位は低くても頼長がいわば藤原氏の主力であり、その財力、勢力基盤がイコール、「反主流派」であった崇徳上皇の兵力を支える形となったわけです。</p>

<p>　結果は波乱なく「官軍」であった白河天皇側が勝利を収め、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦傷死。関白・忠通は官軍についていましたが、主力の敗れた藤原氏の権威、権力基盤は、ここで大きく失墜します。一方、後白河側として戦功のあった清盛は、播磨守、太宰府大弐に任じられました。播磨（兵庫県）は国としてのランクの最上位にあり、すでに四位の位階を受け継いでいた彼は、この時点（36歳）で父・忠盛のキャリアを凌駕します。また、太宰府大弐は、大陸への窓口である北九州地区の事実上の最高責任者です。父の代から展開してきた日宋貿易が、公的にも認証されたことになったわけです。</p>

<p>●「一人勝ち」した平治の乱</p>

<p>　政治・経済面で大きな実利を得た清盛に対して、戦功では清盛を上回り、しかも父と弟を処罰するなど大きな痛手を負った義朝は、武官である左馬頭（さまのかみ）にとどまります。この冷遇ぶりに義朝が不満を抱き、それが次の平治の乱（1159年）につながった……と一般的には言われていますが、父祖の代から中央政界に基盤を築いてきた平氏一族と、保元の乱も含め一族から「トラブルメーカー」ばかり出してきた源氏とでは、昇進に差が出るのも仕方ない話です。義朝は、保元の乱で源氏復活のきっかけがようやくつかめたという段階だったわけです。</p>

<p>　保元のあとに起こった平治の乱も、もちろん一つの権力争いですが、その特徴は没落しつつあった藤原氏の、新興勢力どうしの争いであったという点です。対立軸となった藤原信西（通憲）も信頼も、公卿ではあっても摂政関白クラスではなく、藤原氏の主流ではありません。彼らは院の近臣として台頭し、それを背景にそれぞれの政治的基盤を築いてきました。特に信西は学者の出身で身分は低かったのですが、妻が後白河天皇の乳母であったことから重用されます。そして、後白河が退位し院政を始めた段階（1158年）で、院の近臣のトップ（別当）となった信頼と対立関係が発生したわけです。</p>

<p>　院の近臣のトップでありながら、信頼は実務に長けた信西の台頭を抑えられません。そのため、新たに即位した二条天皇の親政を望む藤原氏の別勢力と手を結び、反信西の兵を挙げたのが平治の乱。この信頼軍の主力が、源氏の棟梁・義朝であったわけです。もともと院よりも藤原氏との結びつきが強い源氏でしたが、こと地盤である関東の中心・武蔵国は信頼の知行国でした。武家はこの時点ではまだまだ権力者の傭兵的な存在です。よく語られる清盛への対抗意識というより、信頼との結びつきから、義朝は挙兵に踏み切ったと考えたほうが自然です。</p>

<p>　この事実上のクーデター軍は、信西の殺害に成功。「官軍」の主力と言っていい平家の清盛は京を留守にしていましたが（それを狙っての挙兵でもあったわけです）、彼を討つかどうかでクーデター軍は意見が割れてしまいます。反信西であっても、反清盛ではなかったわけです（政治手腕のあった清盛には、明確な政敵は存在しませんでした）。結局、清盛の兵力を恐れた二条天皇派の公卿が天皇を密かに内裏から逃し、後白河法皇も行方をくらましてしまうと、信頼と義朝は孤立します。清盛は官軍の立場で彼らを撃破し、結果を見れば「一人勝ち」を収めてしまうわけです。</p>

<p>●必然的に転がり込んだ政治の実権</p>

<p>　すでに藤原氏の主流は没落し、摂政関白クラスに政治を仕切れる実力者はいません。院の近臣として台頭しつつあった傍流（信西、信頼）も、いわば共倒れ。同じく台頭の兆しのあった源氏も、縁の深かった藤原氏とともに完全に没落します。よく語られるように、棟梁の義朝は逃亡中の尾張で家臣に殺され、嫡子の義平も惨首。伊豆に流罪になった13歳の頼朝、寺に預けられた幼い子供たち（今若、乙若、牛若）など、血脈はわずかに残されますが、再起を断たれたのも同様の状態となりました（言うまでもないですが、牛若がのちの義経であるわけです）。</p>

<p>　頼朝や義経が殺されずに済んだのは、清盛の義母である池禅尼の助命嘆願にあったと言われていますが、清盛の感覚からすれば、源氏と戦はしたが、ことさら遺恨はないわけです。また、平治の乱自体、彼にとってはタナボタ的な要素が強く（彼自身が野心を抱いて引き起こしたという性質のものではなく）、この時点で「天下を取る」という意志がどこまであったかも疑問です。清盛の判断を「甘い」と言ってしまうのは、結果を知っている後世の人間のある種「傲慢な発言」にすぎないと筆者は感じます。まあ、「歴史を歪める」典型的な見方でしょう。</p>

<p>　ともあれ、平治の乱以降、現実問題として中央で政務を担える人材が枯渇してしまった。清盛は、国の軍事の一翼を担う伊勢平氏の棟梁というだけでなく、政治的手腕も備えていた人物です。保元・平治の乱で勝者の側にまわったのも、軍事的な実力という以前に、状況に対する的確な判断力が感じられます。もちろん野心そのものはあったでしょうが、彼が政界の中心に登場したのは、必然的な、自然な流れがあったと言えます。武家が政務を担うようになった点がとかく強調されますが、「藤原氏以外の氏族である」という点を、本来重視すべきなのです。</p>

<p>　もちろん清盛だけでなく、もとは皇位継承の数にも数えられなかった「遊び人」の後白河法皇も、乱後、急速に力を得ます。信頼に加担し、のちに裏切る形となった二条天皇派（親政派）の公卿を失脚させることができたからです。後白河と清盛は、保元の乱で結びつきましたが、以降も仲が良かったわけではなく、つかず離れずの関係が続きます。後白河は、一人勝ちした清盛の一門を牽制しながら、白河、鳥羽と続いた新しい政治形態（院政）の強化を図ります。事実上両者に絞られた政務の実権をめぐって、虚々実々の駆け引きが展開されていくわけです。</p>

<p>●自らも「院政」を始めた清盛</p>

<p>　清盛は平治の乱後、正三位に立身し、一族の念願だった公卿のランクを手に入れます。この時点で参議、翌年に権中納言。そして、6年後の1165年には大納言、翌66年には内大臣、67年には太政大臣と、往年の藤原氏を上回るような速度で立身していきます。もちろんこの間に、平家一族の多くも公卿に列せられ、徐々に政治の中枢に入り込んできます。一方の後白河法皇も、二条天皇、六条天皇と院政を続け、68年の高倉天皇の即位に際しては、清盛の協力も取り付けています。</p>

<p>　先に触れたように、二条天皇には衰えたとはいえ反院政派と言うべき公卿がついており、息子の六条天皇は後白河の孫であっても、二条側の息のかかった天皇でした（即位した時、わずか2歳でしたが）。後白河としては反院政派と無縁の、二条の弟（のちの高倉天皇）を皇位につけたい。そして、じつはこの弟親王の妻（平滋子）が、清盛の妻（時子）の妹だったわけです。両者の政治基盤がともに強化できるという点で、利害関係が合致していたわけです。</p>

<p>　と、ここで清盛が起こした面白い動きに触れておきましょう。太政大臣に任官した清盛は、３ヶ月後には辞任し、念願の高倉天皇の即位の直前には、大病を患ったこともあり、出家し隠居してしまいます。といっても政界を引退してしまったわけではなく、当然影響力を持ち続けます。要は、院政と同じ方式で、後白河の権力に牽制を与えようとしたと考えるのが妥当です。しかもこのとき、清盛は都を離れ、日宋貿易の拠点である播磨の福原に移住してしまいます。晩年には400年来絶えてなかった遷都すら挙行してしまうわけですが、このあたりに藤原氏の政治スタイルを超えようとする、政治家・清盛の斬新な感覚、発想が見えてきます。</p>

<p>　この清盛の「隠居→商都・福原への移住」は、前に一度示唆しましたが、後年の豊臣秀吉の政治手法を重ね合わせることで、その意図がより鮮明になってきます。正面切って話を進めるとかなりのボリュームになってしまうので、まあ、ここではアウトラインだけ記しておきましょう。簡単に言えば、清盛の「政治改革」をより明確に実践したのが、500年後に「天下人」となった秀吉なのです。政治家・清盛のある意味での進化系が秀吉だったと言えるわけです。</p>

<p>●「政治と軍事をどう融合させるか」という課題</p>

<p>　清盛が「隠居」で意図したのは、ひとつは官位を辞することで、院の上皇のように自由な政治立場を手に入れるということ（秀吉も関白を辞することで太閤となり、絶対的自由な権力者の地位を獲得します）。言い換えるなら、官位に頼らずとも、その実力・存在感だけで一つの権威を形成できるという自信を、この時点で清盛は得ていたと考えられます。といっても、（後年の秀吉がそうだったように）皇位そのものを算奪しようとしたわけではありません。ある意味でそれ以上に重要なのは、彼が「個人としての自信を得た」ということです。一見藤原氏の政治スタイルの模倣のように見えて、この点が明らかに異なります。</p>

<p>　一見抽象的な話に思えるかもしれませんが、この「個人としての自信」は、清盛が武家であったということと大きく関係しているものです。武家らしさを引き継いだのは関東に地盤を築いた源氏で、平家は都で出世して公家化したというのが通説ですが、そうではなかったということです。実力主義を強いられてきた武家の末裔らしく、彼は彼のやり方で「実利に根ざした権威の形成」を目指したのです。もちろん、ここまで書けばおわかりのように、その実利には貿易（商業）による経済基盤の確立も含まれています。土地からの収入だけでは、既成の権威からの自由は得られないことを、彼が感覚的に理解していたからです。</p>

<p>　また、清盛の目指した「政治改革」には、もうひとつ、じつは鎌倉幕府を開いた頼朝の「改革」以上に重要と言っていい要素が隠されています。それは藤原氏の政治スタイルの欠陥の克服でもあったわけですが、簡単に言えば、「政治と軍事をどう融合させるか」という課題です。大局的に見て、国を揺るがすような戦乱のほとんどなかった平安時代は、軍事はあくまで政治の添え物、臨時的な役職でしかありませんでした。様々な経緯から発生した武家にしても、正規の職というより、これまで繰り返してきたように、天皇や貴族が私的に雇ったガードマン、傭兵といった立場。事実上、武家は私兵をもって国家の兵乱に参加してきたわけです。</p>

<p>　しかし、国が乱れ、実際に軍事的力を持った平家が政治的実権を握ると、政治と軍事が遊離していた藤原氏の政治（貴族政治）の欠落、不自然さが、嫌が応にも浮き彫りになってしまいました。頼朝は武家の政権を朝廷から切り離すことで、結果的には政治と軍事の融合した独自の政権を作り出し、事実上の「日本政府」にすることに成功しました。しかし、よく指摘されるように、形式的とは言え、権威（官職）そのものの発給元は京都の朝廷が握り続けます。そのため幕府の力が衰えると、天皇家を担いで叛旗を起こす勢力も出てくるわけです。</p>

<p>●何が「先駆者」なのか？</p>

<p>　清盛のやろうとしたことは、そのように手続きの面倒な「二重政権」ではなく、既成の天皇を中心にしたシステムを受け継ぎながら、公家政権に武家的な実利、実力を注入し、一体化させようとしたことにあったのだと、筆者は思います。それが後代の秀吉政治の根幹でもあったわけですが、ここではそれよりさらにはるかのち、江戸時代末期（幕末）に生まれた「公武合体」という政治用語を思い浮かべてください。公（朝廷・公家）と武（幕府・武家）との合体（融合）が、そんな先の時代の、ひとつの政治課題となり、時の政局を左右しているのです。</p>

<p>　そうした歴史の展開をふまえるならば、清盛が先駆者であったという意味もより理解しやすいはずです。先駆者としての清盛は、公家と武家がぶつがりあったその初期の段階で、すでに彼なりのやり方で「公武合体」を目指していたわけです。鎌倉の幕府政治がその後の歴史のスタンダードとなるため、清盛の意図した「改革」は闇のなかに葬り去られてしまいますが（それは秀吉をただの「立身出世絵巻」の延長としてしか描けない、従来の歴史の通説ともつながるわけですが）、「融合」に目をつけた清盛の政治手法は、ある意味で「融合」そのものをはなから視野に入れなかった頼朝以上に困難を伴ったものであったはずです。</p>

<p>　……ここまで、清盛の活動を前置きなしに「政治改革」と記してきました。その改革の実態については、また稿を改めて書くことにしたいと思います。</p>]]>
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<title>先駆者としての平清盛（2）〜変革期に登場した伊勢平氏の系譜</title>
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<modified>2005-05-01T01:08:08Z</modified>
<issued>2004-12-23T15:00:00Z</issued>
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<created>2004-12-23T15:00:00Z</created>
<summary type="text/plain">　イメージしやすく言えば、当時（12世紀初頭）は、江戸時代末期、黒船のやって来た幕末の状況と似ています。黒船のような外圧が具体的にあったわけではありませんが、遣唐使の廃止（894年）以来、事実上の「鎖国」を続けてきた平安朝の日本は、徐々に「世界」に目が向きはじめていました。貴族が牛耳ってきた日本の社会も徐々に成熟し（マンネリ化し）、武家をはじめ低い地位に甘んじてきた人々の自我が目覚めつつあったと言い換えてもいいかもしれません。この目覚めは鎌倉〜室町時代への流れの中で、末端の庶民にまで及んでいきます。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>中世史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>●対立していたわけではない源氏と平氏</p>

<p>　平清盛の「新しさ」に焦点を当てる前に、まず、源氏と平氏という二大武家勢力の話から。源氏も平氏も、勃興した平安時代の歴史の中で、それぞれ勢いがあった時と、なかった時（衰えた時）がある。均等な力関係になった時というのはほとんどなく、どちらかが浮上するとどちらかが沈むというような関係。といって、ライバル関係とも言い難く、クライマックスの源平争乱（治承・寿永の乱）は別として、始終張り合っていたわけでもない。その点をざっとたどっておきます。</p>

<p>　まず平氏から。平氏と言うと、10世紀中葉の「平将門の乱」がまず思い浮かびます。これは東国に土着した皇族の末裔（桓武平氏）の、一種の内輪もめのような一面がありますが、朝廷に叛旗をひるがえし「新皇」を名乗った将門を討ったのは、同じ一族の貞盛。血筋としては貞盛が桓武平氏の嫡流で、乱を平定したのち、彼の一族はローカルな関東ではなく、都に近い伊勢に土着。中央政界への進出を試みます。</p>

<p>　しかし、11世紀に入り、またべつの身内の平忠常が関東で反乱を起こし、一族の不始末という理由から、伊勢平氏が鎮圧に向かうも失敗。代わりにこの反乱で戦功を立てたのが、源頼信です。頼信はのちに鎮守府将軍に任じられ、晩年はこれも都に近い河内（大阪）に土着します。頼信の嫡子が頼義。彼は中央への基盤をさらに築くため、父と同様、東国で武名を挙げようと画策します。そして目をつけたのが、東北（奥州）に土着していた蝦夷（えみし）の末裔、安倍氏の勢力です。</p>

<p>　安倍氏の話は、義経のところでも少し書きました。縄文人の血を引く蝦夷の勢力は、坂上田村麻呂の時代から征伐の対象にされ、中央の政治の道具にされてきた歴史があります。頼義も戦う意志のあったとは思えない安倍氏を挑発し続け、ついには半ば無理矢理に乱を起こさせ（前九年の役）、何とかそれを討伐することで、狙い通り動員した関東武士を束ねるポジションを築きます。はじめ平氏の土着していた関東は、頼義の時代でほぼ完全に源氏の地盤となっていくわけです。</p>

<p>●“次善の策”としての関東</p>

<p>　ここまで話してわかるように、源氏・平氏を問わず、当時の武士たちの目はあくまでも都（中央）に向いていました。中央で官位を得、公家の地位に仲間入りすることが第一の目的であり、名誉であり、荘園経営などの面でも実利を伴っていたことでした。ただ、中央の主流（天皇家および藤原氏）から見ると、血筋もあやしく、政治的な力もないため、次善の策として関東（平氏の場合、西国）があったわけです。</p>

<p>　もう少し続けましょう。頼義のあとを継いで源氏の嫡流となったのが、のちに“八幡太郎”の名で伝説化される義家です。彼には父祖をしのぐ将才、人望があったと言われ、安倍氏のあと奥州を実質支配していた清原氏の内紛（後三年の役）に介入し、うまく乱を収めることで武名を挙げます。朝廷は、乱は私闘であったと恩賞を与えませんでしたが、義家が私財をなげうって武士たちに報いたため、関東における彼＝源氏の地位はさらに高まったと言われます。ただ、義家にしても目は中央に向いていたわけで、後年の頼朝のように関東への土着を考えていたわけではありません。</p>

<p>　ちなみに、源氏三代というと征夷大将軍になった「頼朝・頼家・実朝」をイメージするかもしれませんが、関東での基盤を築いたという意味では、「頼信・頼義・義家」の三代のほうが功績は大きいでしょう。が、源氏の活躍は、義家の代でいったん途絶えます。素行に問題のあったと言われる彼の嫡子・義親が、山陰で乱を起こしてしまうからです。この乱を鎮圧したのが、伊勢平氏の正盛（清盛の祖父）でした。</p>

<p>　こう書くと源氏と平氏の対立関係のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、そういうわけではありません。要は、どちらも朝廷に仕える傭兵のような立場であったということ。戦乱を治めることで出世ができ、恩賞が与えられるので、源平ともに半ば言われるままに従って、一族であろうが、他族であろうが刃を交えていたわけです。その実績の積み重ねの上に、中央の政争に参入し、打ち勝った清盛の存在があるわけです。</p>

<p>●新時代の追い風を受けた伊勢平氏</p>

<p>　源氏が「頼信・頼義・義家」の三代で勢いを失ったのと入れ替わるように、平氏の三代「正盛・忠盛・清盛」が勃興します。彼らは先に触れた「平忠常の乱」に失敗した伊勢平氏の嫡流とは、別の系統です。嫡流が衰えたため、彼らの血統が事実上の嫡流になるわけですが、かといって、それほどトントン拍子に地盤が築けたわけではありません。ただ追い風となるような要素がいくつかありました。その点を理解するため、まず、当時（12世紀前半）の中央政界の勢力分布をのぞいてみましょう。<br />
　<br />
　12世紀後半というのは、政治の主体が藤原氏から上皇（院）へと移行しつつあった時期です。開祖の鎌足・不比等以来、500年以上にわたって政界の中心に居続けてきた藤原氏も、外戚関係のない天皇（後三条天皇）が即位することで、影響力を一歩後退させます。後三条のあと、皇位を次いだのが白河天皇。彼は藤原氏の影響力をさらに払拭するため、彼らと血のつながりのない自分の子（堀河天皇）を皇位につけ、自らは法皇の立場で政治の実権を握るようになります。これがいわゆる院政です。</p>

<p>　といっても、藤原氏も全国に膨大な荘園を抱えています。多少落ち目にあっても、巻き返しを図ろうという意志も当然ある。では、法皇と藤原氏、この中央政界の二大勢力に対して、源氏や平氏の武家はどのようなポジションにあったのか？　清盛の祖父・正盛は、白河院の近衛兵のような立場（「北面の武士」などと言います）を得、先の源義親の乱を討つことで、院の軍事力の中心を担うようになります。院はいわば政治的新興勢力なので、権威よりも忠誠心や能力が重視されたのでしょう。</p>

<p>　息子の忠盛も同様。白河上皇の後を継いで院政を敷いた鳥羽上皇のもと、北面の武士として活躍し、ついには昇殿を許されます。ちなみに、昇殿というのは、天皇の住まう内裏（正確には、清涼殿の殿上間）に出入りの許されることを言い、公家のガードマンにすぎなかった武家にすれば、なかなか超えられない壁でした。まあ、公家、武家といっても、後代（鎌倉時代以降）のようにはっきりと色分けがされているわけではありません。要は、昇殿が許されるかどうかが、その人物（一族）の立場を決める重要な基準だったわけです。ともあれ、これが平家の中央政界への本格進出となりました。</p>

<p>●優れた政治、経済感覚が武器だった平氏</p>

<p>　ただ、昇殿は言ってみれば、相撲で幕内力士（十両以上）に昇進できたようなものです。喜びは当然あったでしょうが、「上」を見上げれば、ようやくスタートラインに立ったというくらいの感覚だったかもしれません。実際、本格進出のためには、昇殿の先にもう一つ大きな壁がありました。それは「公卿になる」ということです。相撲の譬えで続けるのなら、三役力士（関脇・小結以上）に出世するというくらいのイメージ。十両に昇進したばかりの「力士」から見れば、早々楽に手にできる地位ではない、はるか上位の世界の話であることは理解できるはずです。</p>

<p>　具体的に言えば、位階でいう三位以上、官職でいう大納言、参議以上の地位が公卿と呼ばれ、要するに当時の日本の政治の担い手です。我々が貴族としてイメージしているのは、イコール公卿であることがわかるでしょう。しかも世襲が基本と書いたように、平安時代においては、公卿といえばほとんどが藤原氏。昇殿が許されようと、公卿になるなど本来は夢のまた夢であったわけですが、ここまで書いたように、忠盛の活躍時期は院が台頭し、藤原氏の影響力が落ちつつあった時代。院という新しい権威のバックアップを得た忠盛は、その最晩年に公卿まであと一歩という四位まで出世を果たし、息子の清盛にバトンタッチするわけです。</p>

<p>　こうして見ると、関東や東北の兵乱で勢力をのばした源氏よりも、中央政界にダイレクトにアプローチし、着実に地位を築いた平氏のほうが政治感覚が高かったことがわかります。政治感覚が優れていれば、わざわざ生命の危険性のある戦争をしてまで地位を確保しようとは発想しません。また平氏は、この時代の新興勢力として、もうひとつの優れた感性、すなわち独自の経済感覚を身につけていました。忠盛の時代、鳥羽院の保護のもと西国に基盤を築いた平氏は、瀬戸内の海運の価値に目覚め、日宋貿易に着手します。土地への縛りを受けない形で財政基盤を築く道を見いだしたわけです。</p>

<p>　イメージしやすく言えば、当時（12世紀初頭）は、江戸時代末期、黒船のやって来た幕末の状況と似ています。黒船のような外圧が具体的にあったわけではありませんが、遣唐使の廃止（894年）以来、事実上の「鎖国」を続けてきた平安朝の日本は、徐々に「世界」に目が向きはじめていました。貴族が牛耳ってきた日本の社会も徐々に成熟し（マンネリ化し）、武家をはじめ低い地位に甘んじてきた人々の自我が目覚めつつあったと言い換えてもいいかもしれません。この目覚めは鎌倉〜室町時代への流れの中で、末端の庶民にまで及んでいきます。</p>

<p>　父・忠盛の意志を継いで海運貿易を本格化させた清盛は、タイトルにもあるように、その意味で時代の先駆者と言っていい存在。外へ外へと自らの意識を押し広げていく、この時代の最先端とも言えるセンスを発揮しつつ、のちに登場する鎌倉の頼朝とまた違った形で、旧泰然とした政治体制への変革を志します。よく語られているように、平氏は藤原氏の貴族政治をそのまま踏襲し、ただ栄華に酔っていたわけではないのです。新興勢力であった分、若々しい志というものがそこに見いだせます。</p>

<p>　次の稿では、日本史全体を俯瞰し、時代の流れを見据えつつ、清盛の推し進めた「政治改革」について見ていくことにしましょう。</p>]]>
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<title>義経を知る3つのキーワード（1）〜“コイン”を裏返すと「頼朝」がいた</title>
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<issued>2004-12-15T07:36:58Z</issued>
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<summary type="text/plain">　複雑な現実を単純化させ、本質をえぐり出す。これは愚者にできる発想ではありません。その発想から見れば、「兄の目は曇っている」となります。わかりますか？　事実、彼の権威は結果として北条氏に利用され、源氏の血筋は絶えてしまう。頼朝が正しい判断をしていたわけでも、義経が愚かだったわけでもないのです。そのように善悪でこの兄弟を色分けしてしまうのではなく、そして北条氏を悪役にするのでもなく、もっとありのままに歴史を見る必要があります。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
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<dc:subject>義経論</dc:subject>
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<![CDATA[<p>●「二人で一人」の類まれな兄弟関係</p>

<p>　源義経は、源氏の棟梁・義朝の末子として生まれますが、はっきりと歴史の表舞台に姿を現すのは、1180（治承4）年、兄・頼朝との黄瀬川での対面の時です。兄の挙兵をかくまわれていた奥州で知り、矢てもたまらず、わずかな手勢で参陣したと伝えられています。そして以後約9年、平家追討の華々しい活躍から、奥州・衣川での「死」に至るまで、兄の影はつきまといます。</p>

<p>　これは頼朝の側から見た場合も同様。二人はいわば、コインの裏表であり、解釈によってどちらかが影になり、光になるという関係。天皇と藤原氏による政治システムから独立し、以後700年続く武家の政権を打ち立てた頼朝。ありえない戦術を次々と成功させ、悲劇をまとった希代の英雄として後世に名をとどめた義経。それぞれの生涯をたどっていくと、どちらが欠けても成り立たない、まさに対照的としか言いようのない「役割分担」が見て取れるから不思議です。</p>

<p>　義経は、平家追討の第一戦ともいうべき一の谷の戦いに勝利を収めた1184（寿永3）年、後白河法皇より検非違使左衛門尉に任官されます。通称、判官。鎌倉には無断の任官であったことから、兄・頼朝の不興を買ったと言われています。後世の人間は、弟に冷たくあたる頼朝を「悪役」に仕立て、やがて悲劇の末路へと向かう義経に同情、これが「判官びいき」の語源となったわけですが……。</p>

<p>　この「判官びいき」の反動からか、近年では頼朝の政治感覚、業績を再評価する見方も出てきました。頼朝は父・義朝の敗死後、兄も相次いで亡くなったため、源氏の棟梁の立場にありました。しかし実態を言えば、伊豆に幽閉された流人です。誇示できるのは血筋という権威だけ。打倒平家の挙兵後、いくつかの幸運が重なって鎌倉武士の頭目に推戴されはしましたが、非常に不安定な立場にありました。彼に対する評価は、この不安定さと大きな関係があるのです。</p>

<p>●「危機」を感じていたのは、北条氏</p>

<p>　このあたりの機微について少し説明していきましょう。流人だった頼朝には、当然、累代の家臣も、戦を起こす兵力もありません。彼に将来を託した関東の豪族・北条氏が、実質的には彼の権威を支えていたわけです。もっと具体的に言えば、後に尼将軍などとも呼ばれる妻の政子の「愛」が、頼朝の「力」の源泉でした。彼女が愛想を尽かせば、北条氏との関係も険悪になり、破滅につながります。</p>

<p>　北条氏の立場から見れば、頼朝と政子の結びつきは他の御家人を圧し、新たに台頭しつつあった武家政権のイニシアチブを握るための「玉」のような関係です。ある意味、持ちつ持たれつではありますが、後の歴史の展開を見てもわかる通り（後述しますが）、頼朝の立場のほうがずっと弱かったことが想像できます。極論すれば、頼朝は北条氏の傀儡であったとすら言えるわけです。</p>

<p>　要は、この不安定な関係のうえに成り立っていたのが、初期の鎌倉武家政権の実態なのです。そこに、この実態を知らない義経という弟が、奥州からやって来る。その背後には、すでに実質的な独立政権として君臨していた奥州藤原氏の影が見え隠れする。しかも驚くべきことに、この弟に信じられないような軍事的才能があることが判明する。はっきり言って、義経の存在に最も危機感を抱いたのは北条氏であったことは容易に想像できることです。そして、頼朝はその立場上、彼らの危機感を最も敏感に感じ取っていたはずなのです。</p>

<p>　このあたりの義経、頼朝、北条氏（政子）の心理は、小説の題材としてもおいしすぎるくらいの綾が折り重なっています。義経にすれば弟が兄を慕うのは当然の感情となるし、頼朝と北条氏の微妙な関係を知ったとしても、「兄上は、私を取るのか、妻を取るのか？」と、ストレートに問いただしたかもしれません。司馬遼太郎氏のように、義経を兄の不安定な立場を理解しない（できない）政治的愚者のように捉える見方もありますが、筆者には異論があります。彼の感覚からすれば、問題はもっと単純なところにあったはずだからです。</p>

<p>●見落とされがちな、兄・頼朝の悲劇性</p>

<p>　確かに頼朝は、鎌倉に独立した武家政権を立ち上げるために、兄弟の情も捨てる必要があったという解釈も成り立ちます。権力者の堕落は身内に対する「甘さ」から始まるという見方もあるし、短期間で没落した平氏をそのような視点から批判することも可能でしょう（平家は一族のつながり、血縁というものを非常に大事にしていました）。つまり、頼朝が義経を特別扱いしなかったのも、御家人たちの信任を勝ち取るための適切な判断であったとなるわけですが……。</p>

<p>　しかし、考えてみてください。身内という点で言えば、妻の実家である北条氏もまた身内なのです。頼朝が北条氏に対しても特別扱いせず、是々非々で対応できる立場にあったのなら、義経に対する「冷たさ」も公平であったと評価できます。しかし現実的には、それをしたら彼の命はなかったはず。事実、頼朝は征夷大将軍に就任した7年後（1199・建久10年）、不可解な死を遂げます。落馬が原因とも伝えられますが、北条氏が影でその死に関与したという説もあります。</p>

<p>　それが事実でなかったとしても、ご存知のように、源氏は頼朝からわずか3代で絶え、鎌倉幕府は実質的に北条氏の政権へと転換していきます。2代・頼家、3代・実朝の横死には、北条氏が明らかに関与しています。平家の栄華も短かったが、源氏の栄華も同じように短かったのです。頼朝を単純に勝者とは言えない、あえて言えば勝者は北条氏であるわけですが、それをふまえたならば、弟（義経）ではなく、妻（北条氏）を選ばなければならなかった頼朝もまた、じつは義経にも勝るとも劣らない、悲劇の人物であることがわかるはずです。</p>

<p>　頼朝が無能な人間でないかぎり、自分が実質的な力を持った権力者ではなく、京都の天皇の地位にも近い、武家にとっての権威にすぎないことを心の中で感じていたはずです。しかし、それを口にしてしまってはおしまいだというプライドもあったでしょう。当然、義経にそんな「窮状」を打ち明けることもできるわけがない。二人が仲良くするという事実自体が、こと北条氏に対する政治的行動につながるのです。好き嫌いだけで言動ができない、彼の難しい立場は十分想像できます。</p>

<p>●「単純さ」という義経の才能</p>

<p>　もちろん、こうした点をふまえたとしても、やはり義経には「自分が兄に疎まれるのはおかしい」という、非常に単純な感覚があったと思います。なぜなら、それが「道理」であり、「正しい」からです。史料などでは戦目付（軍監）だった梶原景時との確執が伝えられますが、それらの逸話を見ても、義経の思考法は非常にわかりやすく、決して複雑ではありません。それどころか、複雑にもなりかねない様々な状況判断を、余計なものをそぎ落として単純化させる能力を持っていた、だからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのだと言えるのです。</p>

<p>　複雑な現実を単純化させ、本質をえぐり出す。これは愚者にできる発想ではありません。その発想から見れば、「兄の目は曇っている」となります。わかりますか？　事実、彼の権威は結果として北条氏に利用され、源氏の血筋は絶えてしまう。頼朝が正しい判断をしていたわけでも、義経が愚かだったわけでもないのです。そのように善悪でこの兄弟を色分けしてしまうのではなく、そして北条氏を悪役にするのでもなく、もっとありのままに歴史を見る必要があります。</p>

<p>　要は、兄・頼朝は、自らが生き延びるために、複雑すぎるほどの思考法が求められていました。しかし義経もまた、生き延びるためにその対極にある単純な思考法を手に入れていたのです。誰がどう努力しても、この二人は絶対に交われません。後世から見れば、ともに悲劇の運命をたどるのを約束されていたかのような生涯が与えられ、その生涯の中で希有な転換期の重要な役割を担っているわけです。善悪の感覚から抜け出すことで、歴史の「面白さ」が見えてきます。</p>

<p>●足りないものを補い合う関係</p>

<p>　この稿の最後に、もう一つこの兄弟の「コインの裏表」を物語る面白い対比をしてみましょう。頼朝は関東の武士たちに推戴された「軍事政権の長」でありながら、実戦経験はほとんどありません。源氏の棟梁という血＝権威によってアイデンティティを築いていたという点で、実態は限りなく公家的です。一方の義経は、関東の武士とは無縁の存在で、都（京都）との結びつきの強い存在でありながら、アイデンティティはすべて戦闘行為によって作り上げていました。</p>

<p>　客観的に見ればどちらも何かが足りず、一方の足りないものを一方が十分すぎるくらいに持っていた。この二人が結びついたらまさに無敵です。だからこそ、北条氏が義経を恐れたわけだし、兄弟の仲を離間させるための策もプレッシャーも、頼朝に浴びせ続けたことが想像できるはずです。言ってみれば、義経と頼朝は、すれ違いを強いられるあやふやで不安定な関係でありながら、実態としては協力し合い、役割分担し、新しい時代の扉を押し開いたわけです。義経という人間に注目するということは、頼朝を注目することにつながります。頼朝の評価が高まっていけばいくほど、義経の評価も高まっていく関係にあるわけです。</p>

<p>　次のキーワードは「戦術」。常識離れと言うより、日本人離れしていた義経の戦術の秘密について、筆者なりの視点でつづってみます。</p>]]>
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<title>義経を知る3つのキーワード（2）〜「戦術」の背後に見える異人の影</title>
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<issued>2004-12-15T07:35:19Z</issued>
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<created>2004-12-15T07:35:19Z</created>
<summary type="text/plain">　要するに、義経が「英雄」として空前の人気を集めたのは、ただ単に戦が強かったからではないのです。当時の日本人が知らない間に見失っていた感覚（縄文時代の記憶の一部）を、彼は存在として体現していた。それはどこか子供っぽさを残した、既成概念にとらわれない自由な発想と行動力です。かつて自分たちも持っていたかもしれない感覚が、この小柄な若者の活躍で呼び起こされた。そこに義経の存在価値、人気の秘密が見いだせます。非農耕民的な生き方を強いられることで（実際にそうした系統の人々と接することで）、彼の中に縄文時代1万年のDNAが甦ったわけです。
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<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
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<dc:subject>義経論</dc:subject>
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<![CDATA[<p>●「夷」に支持された異能の「将軍」</p>

<p>　義経は、当時の軍人（武士）としては画期的な才能を持っていました。前の稿でも書きましたが、征夷大将軍となった頼朝が、実戦経験のほとんどない権威としての将軍であったのに対し、義経はバリバリの、しかも負け知らずの常勝将軍。義経＝源氏の強さの象徴と、当時の庶民の目には映っていたわけです。</p>

<p>　でも、ちょっと面白いなと思うのは、いくら事実上の「将軍」であっても、「征夷」とはまったく無縁であったと言うこと。征夷とは「夷（えびす）＝朝廷に歯向かう敵」を「征討する」という意味。平安時代初期、東北で蝦夷（えみし）を破った坂上田村麻呂が初めて任命された職として知られていますが、義経の時代、蝦夷といえば、奥州藤原氏のことです。奥州は彼の支持基盤であったわけだから、これまでの時代の「将軍」の概念とも、どこか異質な存在であったわけです。</p>

<p>　わかりやすく言えば、将軍（征夷大将軍）とは、イコール武家の棟梁。武家とは地方に自立した職業軍人のようなもので、中央の政府（朝廷）の命令で外敵を討つ役目がある。日本は平安の御代以来、海外からの侵略の危機はほぼなくなったため、この職の任官は長く途絶えていました。しかし、関東の武士たちの間では権威の象徴として認知されていたらしく、頼朝も武家の棟梁としての地位を確固たるものにするため、征夷大将軍への任官を切望します。</p>

<p>　義経の戦術とどんな関係があるのかと思うかもしれませんが、じつはこのへんが一番重要なポイントなのです。要は、義経は土地という基盤がない。言い換えれば、「個人」としてしか存在していない。当時の国の基盤は農業です（以後もずっとそうであるわけですが）。鎌倉武士の気概を表す言葉に「一所懸命」というものがありますが、一所は言うまでもなく土地のこと。土地を守り、一族を養う、そのために戦う。頼朝という権威は、時代的にはまだ新興勢力にすぎなかった武家の「一所」を保証する存在として機能し、敬意を集めていたわけです。</p>

<p>●「土地を持っていない」という異質さ</p>

<p>　繰り返しますが、義経にはこの「一所＝土地」がない。戦功を立てたあと伊予守（伊予国の国司）に任官されたり、平家の没官領を得たりしますが、これは彼が早くに没落したこともあり、実質を伴ってはいません。また、源氏の棟梁の「末子」という血筋は、頼朝の存在を前にしたら、相当に希薄な権威です。土地もなく権威も曖昧なとらえどころのない存在、しかし、どこからともなく現れたかと思うと、「一所懸命」の精神とはかけ離れた戦術、戦略で、強敵だった平氏を打ち破ってしまう。義経は牛若丸時代に、鞍馬の天狗に戦術を教わったなどという逸話がありますが、この逸話の背景にはこうした異質さが見え隠れします。</p>

<p>　先ほど筆者は何気なく「個人としてしか存在していない」と書きましたが、そもそもこうした彼のアイデンティティ自体が、異質なのです。日本の社会は、伝統的に「個人」の生まれにくい社会です。それぞれの人の背後には生んで育ててくれた家族（親族）と、生活基盤である土地（故郷）が濃厚に存在しています。前にも書いたことがありますが、原始社会のプリミティブな血縁関係が、歴史時代になって以降も「和」という形で連綿と続いていった社会なのです。</p>

<p>　しかし、数奇な生涯をたどった義経は、この「当たり前」を持つことのできなかった人間なのです。生まれてすぐに父を戦で失い、母（常磐御前）は敵将（平清盛）の情婦となったのち、他家に再婚する。その後寺に入れられますが、出家を拒み、出奔します。金売りの吉次という商人に伴われて奥州に向かったと言われますが、こうした幼少期の逸話をたどっただけでも根無し草の人生、いわゆる「一所懸命」の武士とは異なる生活環境にあったことが見えてきます。</p>

<p>　奥州藤原氏のことはまた別の機会に書きますが、先に触れたように、彼らは蝦夷の末裔です。初代の藤原清衡以来、都にも劣らない独自の仏教文化を花開かせ、中央の貴族との混血も進みますが、しかし、あくまでも彼らは「蝦夷」の生活スタイル、文化を守っていました。わかりやすく言えば、奥州藤原氏の政権は、農業を基盤としたものではなかったということ。基盤の一つではあったと思いますが、奥州は金と馬の産地であり、彼らは日本海を挟んでの対外貿易で巨利を得ていたようです。当時の日本のスタンダードとは異なる生活環境がそこにはありました。</p>

<p>●「天才」的発想の秘密はどこにあるか？</p>

<p>　義経が「天才」と呼ばれるとしたら、それは発想が自由であったからに他なりません。この発想の自由は、天賦の才能などと言う前に、彼の意識が土地というしがらみに支配されていなかった結果であると筆者は捉えます。土地は確かに、自らのアイデンティティを保証する大事な基盤ですが、当時のように貴族と武家の権威の入り交じった社会では、守り抜く意志がなければあっという間に奪い取られ、没落してしまいます。人間的に有能でも、そこで発想が縛られてしまいます。現代人ではなかなか想像ができないほど、それは強い縛りであったと思うのです。</p>

<p>　義経はその点、良くも悪くも守るべきものがありません。あるのは、宿敵である平家を倒すという意識だけです。余計なことを考えずに、ただその一点だけに集中して考えることができました。現在でも人には多々しがらみがあり、発想はそこに左右されます。しかし義経は「自由」でした。他の武士たちと戦術の面で「差」が出てしまったのは、ある意味当然です。加えて、一所懸命の武士にも、都の貴族にも経験できないような、漂泊の人生を経験しています。奥州藤原氏との出会いによって、土地に縛られない貿易立国的な国づくりを目の当たりにします。</p>

<p>　たとえば、漂泊という言い方ではわかりにくいかもしれませんが、「農業を基盤にしない生活」と言い換えると、もうひとつの「日本の顔」が見えてきます。農耕が大陸より伝わる以前の、日本列島で展開された生活です。当時の日本人のことを考古学の世界では、縄文人と呼んでいます。縄文時代にも農耕はあったという指摘もありますが、かといって彼らは農耕に依存していたわけではありません。わざわざ田畑を耕さなくても生きていける環境が、そこにはありました。</p>

<p>　具体的には、狩猟・採集・漁労の生活です。ここでは深入りしませんが、かつての日本人（縄文人）は、日本列島に特有な、四季の巡り来る非常に恵まれた自然環境のおかげで、土地に縛られない自由な生活をほぼ1万年にわたって続けることができた。農耕を取り入れなかったのは、「遅れていた」からではありません。あえてそんな努力をする必要に迫られなかったからです。逆に、農耕を取り入れざるをえなくなったのは、一つは日本列島が寒冷化し、狩猟や採集だけでは食べていけなくなったから。その時点で、大陸の戦乱などから逃れた移民が、日本列島に、断続的に渡ってきていたようです。彼らが弥生人です。農耕の技術を持っていたため、自然とイニシアチブを取ることになっていきます。</p>

<p>●義経を支えた「非農耕民」の影</p>

<p>　縄文人はもともと栗やドングリなどを採取し、粉にして、パンなどの主食にしていたと考えられています。要するに、平地というより、山里が生活のフィールドだったわけですが、弥生人の農耕文化が伝播するに従い、その山里も徐々に浸食され、彼らと同化したり、あるいはより奥地に追いやられたりするようになったと考えられます。奥地は山間部というだけでなく、西から東へというベクトルとも重なります。日本の歴史は、大陸民を中心にした弥生人の活動とともに、徐々に西から東へと形作られていきます。司馬遼太郎氏風に言えば、弥生文化は「農耕と武具と天皇制とともに」日本列島に広がり、同化しない地域は征討の対象となりました。縄文人が蝦夷と呼ばれるようになったのもこうした過程によってです。</p>

<p>　長々とエライ昔の話を書いてしまいましたが、蝦夷とは基本は非農耕民であり、縄文人の血を引く原日本人であり、弥生人の子孫によって作り上げられた大和朝廷（天皇家）の政治システムの「外部」に存在していた異物であったわけです。義経の逸話に登場する天狗、昔話に頻繁に登場する鬼などは、この外部の存在に対する異称です。逃亡中に義経が扮したという山伏（修験者）の一行も、体制に収まりきらない「外部」です。土地を持たない義経には、彼らとの関わりが非常に強く感じられるのです。</p>

<p>　この日本の歴史の中の「二重構造」を、民俗学者の柳田国男は、平地民と山人の対比という位置づけで語っています。日本という国は、ご存知のように関東（東日本）と関西（西日本）で文化が大きく異なります。しかしそれだけではなく、一見農耕社会を基盤にしているように見えて、その背後には山人たち（縄文人の末裔）の見えない影響力がちらつきます。義経という希代の「軍事的天才」の秘密も、農耕文化＝平地民の感覚、視点からだけでは見えてきません。</p>

<p>　中国大陸の歴史が、農耕民（漢民族）と遊牧民（騎馬民）のせめぎ合いの中で紡ぎ出されたように、日本には日本の、特有の二重構造が存在する。じつは義経と頼朝の関係も、この二重構造の型の反映とも言えるわけです。もちろん、謎の多い奥州藤原氏の存在も、この二重構造のなかから実態が浮かび上がってきます。歴史を裏舞台から支える山人たちを「まつろわぬ民」と表現する人もいますが、義経の郎党（武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛）などは、まさにまつろわぬ民の象徴です。</p>

<p>●「英雄」とは、失われた感覚を思い出させる存在</p>

<p>　要するに平地民の感覚で義経を捉えようとすると、神出鬼没、何を考えているかわからない不気味な存在となります。頼朝や、彼を担ぐ北条氏ら鎌倉武士が、義経にどうしてもなじめなかったのは、彼らもまた平地民であったからです。頼朝が血を分けた弟にもかかわらず、義経を他人のように扱ったのも、政治的意図であるという以上に、存在としてどこか気持ち悪かったからだと筆者は思います。</p>

<p>　もう少し細かく言うと、縄文人そのものは大陸系の農耕民とは違った意味で、定住志向を持っていたと考えられます。なかには丸木舟で海洋に乗り出して、果てはアメリカ大陸まで渡ったエネルギッシュな縄文人の存在も指摘されていますが、彼らを取り巻く平穏で豊かな生活環境は、基本的にのんびり、ゆったりしたものだったと思います。少なくとも、戦乱の絶えない大陸のスタンダードであった「弱肉強食」の感覚はあまり必要としなかったでしょう。一面の甘さにつながる彼らの精神性は、農耕社会の定着したのちも、日本人の意識に大きな影響を及ぼします。</p>

<p>　「和」を大事にし、争いごと（戦争）を極端に嫌う平安貴族、「正々堂々」の戦いを理想とする鎌倉武士、彼らは平地民の文化にどっぷり漬かりながら、じつは原日本人（縄文人）のDNAを無意識に受け継いでいると筆者は思います。しかし同時に、彼らの持っていたもう一つの顔、先に書いた丸木舟で大陸まで渡ってしまうような進取の精神、機動性、好奇心と言った感覚は、どこかで見失っていたのではないか？　都の秩序に背を向けて関東の原野を開拓した武士たちも、弥生人がもたらした大陸流の「弱肉強食」の感覚は十分受け継いでいました。しかし、「一所＝土地」に執着する彼らは、「自由な冒険者」とは言い難かったはずです。</p>

<p>　要するに、義経が「英雄」として空前の人気を集めたのは、ただ単に戦が強かったからではないのです。当時の日本人が知らない間に見失っていた感覚（縄文時代の記憶の一部）を、彼は存在として体現していた。それはどこか子供っぽさを残した、既成概念にとらわれない自由な発想と行動力です。かつて自分たちも持っていたかもしれない感覚が、この小柄な若者の活躍で呼び起こされた。そこに義経の存在価値、人気の秘密が見いだせます。非農耕民的な生き方を強いられることで（実際にそうした系統の人々と接することで）、彼の中に縄文時代1万年のDNAが甦ったわけです。</p>

<p>　弥生人的な生き方をせざるをえなかった頼朝は、もしかしたら縄文人としての義経に恐れだけでなく、嫉妬を覚えたのかもしれません。そして義経もまた、縄文人が弥生人に生活圏を奪われていったように、束の間の栄華ののち、再び漂泊の運命を強いられ、歴史の表舞台から姿を消します。血のなせる業というなら、それはまさに歴史を俯瞰したときに見えてくる巨大な運命の綾のように思えるのです。</p>]]>
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