連載を始める前に


多くの人はたぶん誤解しているんだろうと思いますが、
歴史は単なる過去の記録ではありません。
というより、
過去というのは「現在」のなかに含まれたものなんです。
まあ、未来もそうなのですが。


どういうことかというと、時間というのは結局その人の意識のなかにあるわけです。
天体の運行とか物理的な法則がベースになっているから惑わされるわけですが、
実際の時間は人の意識によって長さが変わってきます。
そしてその実感の方に多くは真実が含まれている。


時間というと、歴史年表にイメージされるような直線的な流れが思い浮かぶでしょうが、
これもあくまでイメージなのです。
みんなで一緒に思い描いているから、さも真実のように感じられているだけの話で。


よく言われているように、それはキリスト教に代表される欧米人の作り上げた観念です。
明治時代になるまでは日本には西暦はありませんでした。
今でいう平成や昭和のような元号だけがあって、それも天皇一代につき一つという決まりではなかったから、いろいろな都合で、数十年間隔、数年間隔で結構コロコロ変わるわけです。


こうした時代に生きていれば、当然そのなかで時間の観念が養われます。
基本的に東洋には60年を一サイクルにしてそれがぐるぐるまわるという、
仏教でいう「輪廻」の発想があったから、時間もまたそのようなものとして扱われてきたわけです。


捉え方は環境や風土の産物ですから、どちらかが正しいわけではなく、
それぞれにそれが成り立った
必然性があるのだと理解することです。
そうするとその分だけ視野が広がります。歴史の捉え方も格段に変わってきます。



これだけではまだピンと来ないと思うので、いくつか例を挙げながら話を進めていくと……。


よく「歴史なんてただの教訓話で、社会に出ても何の役にも立たない。
暇つぶしだ」という人がいますよね?
逆に作家とか学者のなかには、歴史の教訓を現代にどう生かすかなんていう話をする人もいます。立場は正反対ですが、まあ、物の見方自体は似たようなもんです。

どちらも直線的な歴史観に影響を受けていることがわかると思います。


で、ぼくの場合、「役に立つかどうか」と言われたら、「役に立つだろう」とは思いますが、
役に立てるために歴史を学ぼうなんて別に思ってはいないので、
視点が全然違うぞという話になります。ぼくの視点というのは、先の話をふまえるならば、
現在も過去(歴史)もなんら自分の目からは変わらない同じもの、時間という観念でふたつを別物に分ける必要はない、ということです。


たとえば歴史というのは過去の話だから、さかのぼるほどに真実はわからなくなると言う人がいます。まあ、それはそうかもしれませんが、それは過去に限らずすべてがそうです。


人というのは本当にミステリーで、一生涯一緒につきあうような人がいたとしても、
だから「わかりあえる」ものではありません。
どんなに深くつきあっても、わからないことはまったくわからず、逆にわかっていることはなぜか初めからわかっている、そういうものです。
時間の長さも、あるいは距離も、自分が感じるということから言えば、全然重要なものではないのです。理解の決め手にはなりません。


だからぼくがいつも人にすすめているのは、「時間という観念をいちど頭のなかからとっぱらって、ありのままにこの世界を見るようにしたらどうですか?」、ということ。


何事にもまずはじめに自分の見ている目があって、感性があって、
その先に様々な喜怒哀楽の感情が生まれ、その結果としてリアクション(行動)があります。
すべての人が例外なく、これを繰り返しています。


「事実は真実とは違う」というのはまさにその通りで、事実に誤りがあってはよくないですが、
事実という無数の点をつなぎあわせても、それだけでは真実は見えてきません。
真実というのは、クールに見ればひとつのフィクション(虚構)みたいなもんですが、
虚構だからと「虚しい」というものではないのです。


その虚構のありようがその人その人の人生観となり、ライフスタイルをつくりだしている。
自分の感じることは虚しいとか、大したことないと思うのは、その人個人の感覚にすぎません。
実際に自分自身がリアルに感じることができれば、
それは文字通りの真実として、その人の生きる力になります。


だからぼくが思うのは、役に立つとか立たないとかそういう感覚で物を見たりせず、
歴史も現実の一断面として、たとえば見知らぬ外国のことに思いを馳せるくらいの感覚で、見つめたらどうですか? ということ。
そうすれば「歴史上の人物」とも、たとえば毎日顔を合わせる「友人・知人」「職場の同僚」くらいの目線でつきあえる(?)ようになります。


さっきも話しましたが、どちらの「人物」に対しても、ぼくたちはすべてを知っているわけではないですよね? 自分なりにあれこれ解釈していますよね?


結局同じなのです。
目に見えるもののほうが価値がある、真実味があるなんて、頭の堅いことは言わないことです。それよりも境界をとっぱらって、頭の中をボーダレスにしてしまえば、「現実」に閉じこめられていたあなたの発想は、それこそ時空を超えて自由に飛び回れるようになれます。


「歴史を学ぶ」ことに意味があるとするならば、まさにそういうことです。
「現実」というあなたのつくった枠組みのなかでは、限られた、退屈な、単純でツマラナイ日常ばかりが続くように思えてしまうかもしれませんが、
それが絶対の真実ではないし、そこに居たままでも(革命なんかを起こさなくても?)世界は変えていけるということです。
そう思った、その瞬間に。


もっと俗っぽく言うならば、単純な話、感性が豊かになります。
居ながらにして世界が見えるようになり、必ずしも体験することがすべてでないことがわかってきます。だから人生がラクになります。


どんなに素晴らしい(といわれる)イデオロギーでも、現実の自分が縛られていて、わけもなく窮屈であるならば、あんまり懸命になって信じ込まないことです。
それよりもどこかで一度立ち止まって、自分の感じ方そのものを検討し直してみたほうが、はるかに自由になれます。


だって、どーんなに人に賞賛されたって、理論的に正しくたって、
自分が不自由で心の中が虚しさばかりだったら、結局それが真実の自分なのだから。
でもその自分をそれこそ動かぬ真実のように見放したりせずに、抜け出す術を探ることも可能なことです。


ぼくが語る「歴史」からは、その抜け出すためのたぶんいろんなヒントが見つかると思います。
どっかの教訓本とおんなじような言い回しですが、そんな教訓本でもその人の感じ方次第で自分に必要なものは引き出るのです。


そしてなによりも、つねに「自分はどう感じているか」という、
受け取り方によっては傲慢に思われかねない
「自己中心的な感覚」を身につけることで、
「歴史とは何か?」なんていうことの本質も自然とわかってきます。


歴史観なんて大袈裟に書きましたが、そんな大それたものを後生大事に持つ必要はありません。あっさり言ってしまえば、あなた自身の発想の転換にあなたを自由にするすべてがかかっていると、結局そういう問題なのです。


以上のような視点で歴史というものを書いてみようと思いますが、いかがなものでしょう?



「振り返れば神になる」トップに戻る









Copyright (C) 2004 thunder-r-labo. All Rights Reserved.