2007年03月21日
ジャーナリズム。
「八百長問題」のプレッシャーからか、 横綱が連敗するなど、初日、二日目と大荒れに...「八百長問題」のプレッシャーからか、
横綱が連敗するなど、初日、二日目と大荒れになった大相撲。
……って、肝心の記事は読んでないわけですが、
大マジメな話、「ジャーナリズムって何だろう?」って思ったりする。
実際、八百長があったとしたなら、少なくとも朝青龍にとって、その全人格が問われかねない大問題。
……にもかかわらず、告発したメディア(週刊現代)の「全人格」が見えてこない。顔が見えない。
編集長って誰? 横綱と同じように実名報道されて、顔も露出している?
発行元の講談社って、誰が代表?
衆人環視の中、彼らは連敗するくらいのプレッシャーって受けてる?
なんかアンフェアというか、「ズルイ」気がするんだよなあ。
2006年01月06日
■「女性天皇問題」から見る「変化の兆し」(2)
こういう人は、豊かな暮らしさえできれば自分が「日本人」でも、「アメリカ人」でも構わないと考える。しかし、これは血のつながりで見るなら、自分の親に対して「べつにあなたが親でなくたって構わないんだよ」と言っているのと変わらない。横軸へと広げて見るならば、風土の中の人と人とのつながり、つまりは人間関係がわからない。そんな人がどんどんと増えている以上、筆者がいちいち言うまでもなく、日本は終わる。女性天皇を容認するかどうかという問題は、そうした氷山の一角にすぎないということにもなる。
2006年01月04日
■約束を守ること、人をだますこと〜出口王仁三郎のエピソードから
もちろん王仁三郎がずっと黙っていたのは、周囲の人間が(自分の妻が)信頼できなかったからでなく、もし万が一、外部に乳飲み子のことが漏れたらどうなるのか? ということ。もし万が一漏れたら、なにより自分が大事にしてきたものが壊れてしまう。それがあるから自分でいられるというものが、失われてしまう。目に見えないものということで、王仁三郎は「霊」の存在を説いた。しかし、霊が存在するかどうかよりも、もっと目には見えない、自分の一番かたわらにいる人さえもだまさなければ守れないものがあることも、彼は知っていた。
2005年12月12日
■ロビン・ベイカー「精子戦争〜性行動の謎を解く」を読んでみた
自らに起こったことには、感情面も含めて、それなりに意味(必然性)があるということだ。その意味を受け取れる人は、同時に現実を受け入れることもできる。しかし、その意味が見えないままに「たまたま」という視点でとらえようとすると、この世界を動かしている法則性は蚊帳の外になる。……確実性のない世界ほど、不自由なものはない。それより、ミスも含め成功も含め、その背後に意味を見る。自分の都合を超えたところで、よりよく、より強く生きようという生物としての意思を感じてみる。
2005年11月22日
■佐伯啓思「自由とは何か〜“自己責任”から“理由なき殺人”まで」を読んでみた
自由とは、快適であるということ。……快適などと言うと、俗にいう快楽主義の一種のようにイメージするかもしれない。そしてその快楽主義は、往々にして「自分さえ気持ち良ければ」というエゴイズムとどこかで結びついている。しかし、実際に快適さを追求していくと、そんな単純なものではないことが見えてくる。……たとえば、自分だけが快適であれば(気持ち良ければ)自由なのか? ……というと、当然のことながら、そういうことはない。
2005年11月15日
■“経営コンサルタントの神様”船井幸雄氏はアナーキストである!?
詳しい中身の検証は、興味を持った読者各人で行なってほしいが、筆者がここで強く感じることは、「このような“ぶっとんだ”“あやしい”内容を堂々と本にしている人間が、きわめて現実的な判断の要求される経営コンサルタントの世界で、多くの人に信頼され、社会的に大成功を収めた」という事実だ。10年ほど前から氏の名前を聞き知っていた筆者の印象でも、上記のような「白眼視」を受けていたように思う。しかし氏には、ある程度のバッシングがあろうと揺るがない、自分の社会的成功に対する自信があったはずだ。
2005年11月02日
■「蝉しぐれ」に描かれる藤沢周平のハラ感覚
市川(染五郎)のいう「丹田」「肚」については、筆者の身体論の中でさかんに出てくる言葉である。だからというわけではないが、「蝉しぐれ」に描かれる世界像は、じつはこのハラの世界に集約できる。いや、もっとリンクさせるならば、藤沢作品そのものが日本人のハラについて描いてきたわけであり、彼が時代小説というジャンルを選択し、主に江戸時代を作品舞台にしてきたのは、江戸時代の日本に最も色濃くハラ感覚が宿っていたことを感じとっていたからだと言うこともできるだろう。
2005年10月29日
■佐高信「司馬遼太郎と藤沢周平」を読んでみた
事実、佐高氏が推奨する藤沢周平の作品を実際に読んでいくと、「ああ、この世界は司馬さんには欠けていた世界だ」と感じさせるものが確かにある。代表作の一つである「蝉しぐれ」にしても、「用心棒日月抄」にしても、登場する多くは架空の人物。「こんな人がいたかもしれない」という無名の人の生き様を創作し、結果として歴史(たとえば江戸時代)の実像をうまく浮き上がらせている。その意味では、司馬作品の欠落箇所を藤沢作品が補完している。筆者などは、そこにある種の新鮮さをおぼえたわけである。
2005年10月09日
■中島義道「怒る技術」を読んでみた。
ここで注意しておきたいのは、「怒る」ことと「キレる」ことは、まったく違うということだ。本のタイトルに「怒る技術」とあるように、「怒る」ことは半ば意図的に発散される感情表現。一方、「キレる」というのは、むしろこの「怒る技術」の身につけていない人が、自己の感情をコントロールできなくなって爆発してしまうもの。キレないためにも「怒る技術」を身につけなさい……というのが、中島氏の主張でもあるわけだ。では、中島氏は実際にどんなふうに「怒っている」のだろうか?
2005年09月22日
■栗本慎一郎の新刊「パンツを脱いだサル」を読んだ
結果として見るならば、ヒトは不利な生存状況に追い込まれ、身体的にも退化を強いられることで、脳を特異に発達させることができた。それは「自意識」が芽生えたことを意味する。言い換えるなら、自らを客観視し、世界を知的に把握することのできる機能を手に入れた。それは「悪い」ことでもあるが、同時に「いい」ことでもある。つまりはただの自己肯定では、栗本氏の指摘する「負の側面」が見えてこない。しかし、「負」が本質であるとまで言ってしまうと、それはそれでバランスを失ってしまう……。
