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2001年06月18日
■あらためて「武道」の可能性、について
ここ1年ほど、「スポーツは「武道」である!」(*「サムライ」のこと)という本を書くことで、知っているようで知られていない武道の世界の構造が、ずいぶん把握できるようになった。
いま世の中にはスポーツ情報が溢れ返っているが、そうではない視点に立つことで、まったく違った可能性が見えてくる。……もともと筆者の中にはそんな予感があったわけだが、書き上げてみて「やはり」という思いを強くしたのである。
本当に、みんなスポーツの視点に知らないうちに慣らされすぎている。
自分たちの可能性や潜在能力を、自分たちで閉ざしてしまい、たとえば本の中でも書いているように、「柔道の選手が柔道を習うのをやめて、レスリングの世界で勝とうとしているような状況」に陥っている。まったく他人の土俵に上がりながら、レスリングの強豪たちに対して「凄い、凄い、日本人では全然歯が立たない」「やはり本場の実力者たちは違う」、などと言っているわけである。
ほとんどの人がこうしたおかしなワナにはまってしまっていると言えるわけだが、ではこれを取り外してしまったら、どんな世界が見えてくるのか?
たとえば、筆者の本の中でも幾度か登場したことのある運動科学者・高岡英夫氏の近著の中から、興味深い記述を引用させていただこう。
[高岡] ……今日ここまで来た極真(空手)の歴史、それを僕は非常に尊いと思っているわけ。さらに(世界大会の決勝で戦った)数見(肇)とか(フランシスコ・)フィリオという選手を素晴しいと思っているのね。……だけれども、事実として世界のメジャースポーツはもうずうっと先に行っている。極真でもマイケル・ジョーダン級の空手家が今後絶対に出て来て欲しいと思うよ。その水準の選手と比べたら、今の数見選手やフィリオ選手レベルでは簡単にKOされてしまう。
[質問者] 空手家でまだ存在していなくても、バスケットボール選手では現に存在しているわけですよね。
[高岡] そう、さらにスキーヤーでもいるわけ。
[質問者] 武道の歴史を見ても、当然そのレベルの人はいたんですよね。
[高岡] いたよね。鹿島神流の国井善弥先生にしてもアルベルト・トンバを超えていたよね。ということは今の極真の選手より上ということですよ。いわんやお亡くなりになった大東流の佐川幸義先生はマイケル・ジョーダン以上ですからね。ルールが違うから試合はできないだろうけど、現にそれだけの人が存在し得たわけですよ。そうやって考えれば、まだまだこんなものではいけない。
〜「高岡英夫の超人のメカニズム」(ぴいぷる社)より抜粋。※カッコは筆者。
どうだろうか? 極真空手のトップ選手である数見やフィリオを「素晴しい」と認めながら、まったく畑違いのスポーツ選手であるトンバ(スキー)やジョーダン(バスケット)のほうが「レベルが上」と評している。どのような根拠のもとにそう言っているのかは氏の著作を当たってほしいが、ふしぎと説得力のある着想ではないだろうか?
特にそう感じたのが、世界中のあらゆるプロスポーツの中でも最高級のレベルを有するというNBAのマイケル・ジョーダンをもってしても(氏は他著のなかで“神人”という最大級の評価を与えているわけだが)、さらにその能力を凌駕する武道家(武術家)が、つい数年前まで日本に存在していたということである。
それが、大東流合気武術の継承者として知られた、故・佐川幸義氏(1902〜98)である。筆者自身、武道系のいくつかの文献を当たっていく過程で、この佐川氏の名を幾度か目にしてきたが、「どうやら相当に凄い人だったらしい」(つまり、高岡氏の発言も全然言いすぎではない)という感想を持つに至っている。
たとえば、最近読む機会のあった本(木村達雄・著「透明な力 不世出の武術家 佐川幸義」講談社・刊)の中からいくつかエピソードを拾ってみると……、
「何十年と鍛えたわれわれ弟子たちを何人でも一緒に本気でかからせ、しかも一瞬のうちに吹っ飛ばしてしまう。……現在92歳を越えていらっしゃるのですが、その技の切れ、威力は衰えることを知らず、まさに驚異的です」
「たとえば剣道家にしたって、柔道家にしたって、またレスリングにしろ相撲にしろ、子供の頃から一生懸命打ち込めば良い結果が得られるという可能性は感じるわけですよ。ところが佐川先生を見ると、可能性が途中からプツーンと切れている感じがするわけですよ。お弟子さんたちにそう言うと、皆その通りだと言います」(作家・津本陽氏の言)
「まず驚くべきことは、お弟子さん達(私も含めて)が、本気で先生にかかっていくことである。87歳の先生にである。他の武道・スポーツでは考えられないことである。……先生が行われる大東流は極めて実戦的であり、常に先生は本気でかかってきて本気で抵抗する相手に対して技をかけられるのである。……先生が相手にされる先輩達は先生にとっては赤児の手を捻るようなものであるが、他の世界ではちょっとやそっとではお目にかかれないほどの猛者達である」(神戸学院大助教授・前林清和氏の言)
といった、一見すると「本当?」というような内容に満ちている。
こうした話を聞いて、読者はどのような感想を抱くだろうか? スポーツの世界では、40に近くなればもう引退のちらつく年齢であり、いくら偉大な実績を積み上げてきた選手でも年を取ってしまえば、そのプレーを再現することはできなくなる。しかし、80、90になってさらに増したという佐川氏の「強さ」は、明らかに対極をなしている。これを嘘だ、マヤカシだと決めつけてしまうのは簡単だが、そのような人たちは人間の持っている「可能性」を同時に握りつぶしてしまっているのではないか?
……と、ここで突然、ある天才プロレスラーのことを話題にしたいと思う。
筆者は、現在のプロレス界において「強さ」の双璧をなしているレスラーとして、新日本プロレスの武藤敬司とノアの三沢光晴の名をまず挙げるが、こと「天才」という形容に関しては、武藤が頭ひとつ飛び抜けているのではと思っている。
彼の場合、抜群の跳躍力、そしてアメリカでも成功したという華やかなスター性がまず目につくわけだが、それでいて勝負にも強い。そしてタフ。つまり、華やかさの陰に隠れがちだが、じつは彼というレスラーの最大の強みは、「腰の重さ」にある。言い換えるなら、「ハラができている」。彼のプクッとお尻の突き出た立ち姿や、天然とも言える性格の柔らかさは、そうした力の本質を物語っているわけである。
とはいえ、プロレスもスポーツ界の原理の中で興行を成り立たせている。
いや、年間の試合数、受け身を取ることで成り立つファイトスタイルなどを考慮すれば、他のプロスポーツ以上に消耗度が激しいと言えるかもしれない。天才・武藤にしても、必殺技・ムーンサルトプレスを長年使い続けてきたため、両ヒザがもうガクガクの状態。30代後半といういちばん円熟味の増した時期に、引退の二文字を意識せざるを得ない現実なのである。ここにプロレスにとどまらず、プロスポーツ界の構造的な「限界」がかいま見れるのではないか? 武藤はたしかに天才だが、その天才を生かす場として、プロレスという場は「小さすぎた」かもしれないのである。
「生涯スポーツ」などという言葉があるが、プロスポーツ選手の発揮するクオリティーがそのまま生涯にわたって追及できるような場が設定できたら……。と、ここに半ばスポーツ化した武道界の、大きな「可能性」が浮かび上がってくる。
40、50はまだ子供、70になってもまだまだ「強さ」を増すことのできる世界。
人の意識がほどかれていくこれからの過程で、今のような形態のプロスポーツがどこまで続くか? あるいはこのような問いかけこそが、自らの既成概念を打ち破る契機となるかもしれない。少なくともスポーツを論じる人たちは、自分たちの物の見方がやがて通用しなくなる時代に、いまから備えるべきではないだろうか?
本当の意味での主体性とは、「これはありえない」ということまで想起することから芽生えてくる。「ありえない」ことが「ありえる」ようになってきたこれまでの歴史と同様の展開が、これから50年、100年のスパンのなかで繰り広げられていく。我々はその大きな転換期に生まれた当事者であり、パイオニアなのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2001年06月18日 09:07