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2001年07月04日
■地べたに座り込む若者と、「燃え尽き症候群」
今日、仕事を終えて帰宅する間に、路上に座っている若者を何人も見た。
ひとりは駅のホームで電車を待っている間、「あちー」とか言いながらホームの隅でひとりあぐらをかいていた。あとひとりは、なんと信号待ちの横断歩道の前で。たしかに今日は記録的な猛暑だそうで、多分35度はあったのだろう。仕事先でも「クーラー入れても涼しくならないなー」とか、みんなぼやいていた。
しかし筆者的には、「もう夏なんだから暑いのは当り前だろ? 夏に雪でも降ったら驚くけどねー」という感じ。じゃあおまえは暑くて平気なのかと言われそうだが、「そんなに地べたに座り込むほどだろうか?」と思ってしまう。
ハッキリ言うと、みんな身体が弱くなっている。というより、強いとか弱いという定義づけが、根本的にズレている。その結果の先にダラダラとした若者たちの姿がある。
どういうことかというと、多くの人は強くなろうとする場合、たいてい筋肉をつけようとする。あるいはたくさん栄養を取ってスタミナを得ることが、強さのもとだと漠然と思っている。皮膚を硬くし、大きくなろうとしているわけである。
しかしいくら筋肉をつけても、スタミナがついても、根本の「身体感覚」が養われてないかぎり、それを活用することもできない。身体感覚は直接的な数値としては表われないから、みなどうしても即物的に、目に見てわかる形を求めたがるわけだが、それはテストの点が良くなれば頭も良くなるという発想とまったく同じなのである。
では身体感覚とは何かという話になるわけだが、これについては当HPで連載中の「人が「脳」を超える時代」(*「脳を超えてハラで生きる」のこと)などで詳しく触れているので、ここでは深く問わない。
ただ、地べたにダラダラ座っている若者がなぜシャンとできないのか……、これについては「身体の重心が不安定だからだ」、ということに尽きる。要するに、自分の身体を支える起点を欠いてしまっている。武道の言葉でいうと、ハラがない。だから心身ともに不安定で、ヘタをすると犯罪行為にすら走ってしまうという現実がある。
このハラができてくると、余計な力を使わないで済むようになる。
逆に言えば、自分が普段いかに余計なところに力を使っていたか……、それがハッキリとわかるようになってくる。会社に例えて言うならば、仕事をしないでもいい「部署」が、意味もなく働いている状態。もちろん自分の仕事も「かけもち」で。……どうだろうか? このように言えばそれがいかに「不自由」か、ひどく効率の悪いやり方をしているか、幾分でも理解できるのではないか?
若者たちはダラけているようで、本当にはダラけることができていないのである。
これと関連して、もうひとつ面白い話をしていこう。
彼らのことを否定的にとらえる「大人」は少なくないが、今の時代、じつはそういう大人たちが認める若者たちの中にも、まったく同じ傾向が存在している。
よく言われている、「燃え尽き症候群」の話である。
じつはダラダラした若者たちを目にした少し前、筆者はニュースで、水泳の田島寧子選手が引退したということを知った。先のシドニー五輪で銀メダルを獲得し、「めっちゃ、悔しいですぅ。金がよかったですぅ」というコメントで一躍有名になった、性格の明るい、そのへんはダラダラした若者たちとは好対象のスポーツ選手である。引退後は、かねてから目標にしていた、タレント(女優?)の仕事をはじめるという。
しかし筆者に言わせると、シドニーで「燃え尽きてしまった」彼女もまた、すばらしい身体能力に恵まれ、きびしいトレーニングに打ち込みながら、「肝心の身体感覚=ハラは十分に養えなかったんだな」ということになる。
本人にはちょっと厳しい言い方になるかもしれないが、もう少し詳しく話そう。
スポーツ選手のなかには、若い時期のある瞬間、とてつもなく自分の能力が開花する人がいる。もちろん、その開花の時期と試合などのタイミングが重なれば相応の結果もついてくるから、注目はされる。しかし、問題はそのあとだろう。
ある意味、彼らは素質だけで活躍していた選手、ということになる。
言い換えるなら、その自分の素質を根本で支える「土台」は持っていない。ただ無意識ながら、その土台をベースにした「型」ができていた(そもそも、それを素質というわけだが)。だから何かの瞬間にその「型」を見失ってしまえば、あっという間に「凡人」に戻ってしまうことにもなる。そうなれば、あとはプレッシャーとの戦い、重圧との戦い、……もちろんその中から本当の「型」を身につける選手も出てくるわけだが、それはごく一握り、限られた者だけのたどる道と言えるわけである。
と、以上のことをふまえると、田島選手がどうと言うより、一時の頑張りではない、ずっと頑張れる、淡々とやりつづけられる感覚を、多くの人がどうして身につけられないのか……、ということになってくるのではないか?
じつはその「淡々とやりつづけられる感覚」は、多くがハラの感覚に起因している。
現代のハラのない若者。その一方が、地べたで「あちー、あちー」と言いながら座り込み、なすことを知らないまま時をすごす。またもう一方は、完全燃焼の青春を送りながら、あとの続かない「燃え尽き症候群」に陥ってしまう。
筆者が本の中で幾度も取り上げているイチローや中田といったプレーヤーは、その「限界」を突き抜けることのできた、「ずっと同じことを淡々と続けられる」若者に他ならない。ただ、彼らを生み出した土壌のなかから、地べたに座り込む若者も、燃え尽きてしまう若者も、玉石混交の形で輩出されているのである。そういう土壌があるからこそ、そこから生まれえる最高の逸材が世に現われ出たと言ってもいい。
そのことに気づいたとき、いまの時代の価値というものが見えてくる。田島選手にしても、もっと明確な形で今後の人生の「目標」を見つけられるはずだろう。
けっきょく、水泳を続けるにしても、タレント(あるいは女優)になるにしても、同じことが要求されるのである。彼らを教える指導者もまた、「ただ頑張れ」と励ますのではなく、「続けていける」感覚こそ身につけさせるべきだろう。
それさえあれば、どこで何をやっていても、同じ自分でいられる。
自信とは実績を得る以前に、おのれの中にこそ見い出せうるものなのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2001年07月04日 09:01