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2001年09月28日
■「3つの声」を聞き分ける方法。
人は誰もが、「3つの声」を持っている。
これらの声を聞き分けられないと、人間関係もずいぶん複雑なものとなってしまう。人の心を見抜けないだけでなく、自分の気持ちですら、往々にして見失ってしまうことになる。今回はこのことに関して、カンタンに触れてみることにしよう。
そもそも声というのは、「感じる」ものである。
まず感じて、そこで得られた感覚をことばに変換することで、「あの人はいい人だ」「シッカリしている」「信用できない」……といった思いが生まれる。それが相手に対する印象として、人間関係に大きく影響を及ぼしている。
しかし、この「感じる」ことが、多くの場合、曖昧なものになっている。
言い換えるなら、声を聞き分ける能力を、みな十分に活用できていない。人間関係がもつれ、無用な軋轢が生じてしまうのも、多くはそこに起因している。声には3種類あるということが、なかなか実感できてないと思われるのである。
では、この3つの声とは、いったいどんな声なのだろうか?
1つ目と2つ目の声は、誰もが普通に聞き分けられているものであるはずだ。
建て前と本音、と呼んでみてもいい。人はまず1つ目の声、すなわち「建て前」や「あいさつ言葉」などで、多くの人と接している。はじめはなかなか本音を見せないというのも、1つ目の声で応対していることを表わしている。すべての人といちいち本音で対していたらとても身が持たないと、みな感じているからだ。
しかし、通りいっぺんの関係から徐々に距離が縮まってくるにつれ、人は自然と相手の本音、つまり2つ目の声を知りたいと思うようになる。
仕事でも、恋愛でも、友人関係でも、すべてはそのような方向に進んでいく。そしてそれが、人にとってごく自然な欲求でもある。この声が聞けないままに関係をつづけていくことは、窮屈この上ないと誰もが感じている。しかし同時に、この2つ目の声を求めていく過程で、少なからず軋轢が生じることも事実だろう。
本音がぶつかりあうのだから、仕方がない。
それがイヤだと言う人もいるわけだが、そう言っているかぎり、1つ目の声ばかりが自分の身の回りに溢れてしまう。あるいは、ごく一部の相手にのみ2つ目の声を用いる場合も多いわけだが、その関係が自然なものであるかぎり、結局その中でも軋轢は生まれるだろう。誤解や不信も生じる。しかし同時に、わかりあえる感情も生まれる。それらすべてを肯定できないことには、いつか神経症になってしまう。
とはいえ、この軋轢そのものからもっと自由になれないものか? 人間関係から逃げてしまうのではなく、それらの現実を肯定した上でもっと自由に受け止められないものなのか? すべて納得した上で、関係を構築できないのか?
……じつはそのような欲求に対して答えてくれるのが、第3の声、なのである。
この声をどう定義したらいいのか……、たとえば人は、本音をぶつけ合えればわかりあえると思っている。しかし、ぶつけ合うほどにもつれ合うこともしばしばある。もしかしたら、このほうが多いのかもしれない。それで、「人間関係に疲れた」などと口にするようになるわけだが、果たしてこれは仕方ないことなのか?
筆者に言わせれば、じつはこうした本音は、本音であって本音ではない。
本音などと簡単に言うが、自分の本音がわかっていない場合もしばしばある。その意味では、相手との間に軋轢が生じてしまうのも、当然のことと言えるはずだ。そう、「当然」なのである。ならば、まずそれを認めてしまう。
つまり、少々こんがらがった言い方になってしまうが、「本当の本音」とは、我々がそうだと思っている「本音」のひとつ奥にひそんでいる場合が多い。
これがすなわち、第3の声である。
そして、相手の「本音」が必ずしも本音ではない(つまり、第3の声ではない)ことが見えてくれば、誰が何を言ったというレベルで反応することが馬鹿らしくもなってくる。それよりも、その声の奥にひそんだ声を感じ取ろうと努力しはじめる。逆に言えば、自分の感じ取ったものを「信じよう」という発想が生まれてくる。
自分の感じ取ったもの、これは直観と呼ばれるものに他ならない。
第3の声とは、直観と言い換えてもいい。この直観さえ自分のものにすることができれば、軋轢そのものが自分の直観を試す場へと、180度変わってしまう。
コツは、本音のぶつかり合う状況から、意識を一歩離す習慣をつけることだ。
むろん、ぶつかり合いそのものを避けるという意味ではない。相手の本音に振り回されず(相手が自分をどう思ってるか、好かれてるか嫌われてるか、あれこれ思い悩むのではなく)、むしろその時の自分の気持ちに意識を向けてみる。自分が何にこだわっているか、それにこだわっていて自由なのか、こだわる必要があることなのか……、自分の気持ちをほぐしていくつもりで、そうした作業を繰り返してみる。自転車をおぼえるように、水泳を習うように、ひとつの「練習」としてそれを続けていく。
本音と建て前の二元論を超えた時、人は軋轢を乗り越える力を得るのである。
それは皆が思っているほど難しいことではないことを伝えたいと思い、筆を取ったわけだが……、果たしてどう感じられただろうか?
少なくとも筆者はそれを、呼吸のように繰り返している。
だから、軋轢が生じたとしても、それはそれとして受け止められる。ただの災難としか受け止められないよりも、はるかにラクではないだろうか?
投稿者 長沼敬憲 : 2001年09月28日 12:38