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2001年09月16日
■「ブラック・ジャック」とU・ビンラディンの違い。
手塚治虫の代表作のひとつ、「ブラック・ジャック」を読んだことがあるだろうか?
ヒューマニズムの作家などと賛えられながら、どこか人間不信の臭いが漂う手塚作品の中にあって(と、筆者は彼の作品を評価するわけだが)、この「ブラック・ジャック」(以下、B・Jと略す)は別格である。初出は少年向けの連載漫画であったにも関わらず、主人公B・Jの生き様がある種のメッセージを伴って伝わってくる。そのメッセージの奥行きが、他にはない、大きな魅力を醸し出しているわけである。
知らない人のために、大まかなストーリー設定について説明していこう。
主人公B・Jは、天才的な腕前を持つ外科医師。無免許でありながら勝手に開業し、しかも法外な報酬を要求するため、医者仲間には評判が悪い。ただ、彼のオペを希望する難病患者・重傷患者が後を断たないため、最後はその腕に頼らざるを得ない。彼のことを悪く言う人間は、偏屈、金の亡者、冷酷とののしるわけだが……。
じつは彼は少年時代、母親とともに不発弾の爆発事故に巻き込まれ、ある医師の献身的な治療により一命を取り止めるという、悲劇的な体験をしていた。
極限とも言えるリハビリののち、奇蹟的に社会復帰。
しかし、その全身には無数の縫い傷、頭髪は半分が真っ白、顔は故あって黒人の子供の皮膚を移植のため、ツギハギのように色が違う……。
しかも、悲劇はそれだけではない。ともに事故に遭った最愛の母は半身不髄のまま、治療の甲斐もなく他界。事業家だった父は女を作って香港に逃げてしまい、消息不明。少年のもとには、想像を絶する絶望感だけが残されてしまう。
と、ここからが「面白い」ところだ。こうした悲劇を背負った少年B・Jは、ここで復讐と救済という、相反するふたつの人生を歩んでいくことになる。
自分の命を救ってくれた医師、本間丈太郎に対する過剰とも言える思慕の念。彼の影を追うように医学の道を目指した彼は、事あるごとに「本間先生の悪口を言う奴は俺が許さない!」と声を荒げ、天才と言われた彼の技を継承するように、外科医としての腕を上げていく。かつての自分と同じ様な重傷患者を、次々と救っていくわけである。
しかしその一方で、自分を事故に遭わせ、母を死なせた者への復讐も忘れない。
うやむやのうちに処理された事故に対し、彼は独自に真相を調べ上げ、「復讐の対象」が5人いるということを突き止める。彼らはみな事故のことなど半ば忘れ、それぞれの世界で出世を重ねていたわけだが……、B・Jはひとりひとりを緻密な計画で追いつめ、自分と同じ苦しみを体験させ、しかも最後には「武士の情け」で治療を施す。そうした逸話を記した回が、長期連載のところどころで顔を出すわけである。
B・Jの屈折した生き様の背後には、こうした復讐を遂げたところで拭うことのできない悲しみが潜んでいる。しかし、復讐をしないことには、この悲しみをよそにのうのうと生きている者たちに鉄槌を下せず、自分の気持ちも収まらない……。
彼がなぜ執拗に金を欲しがるのか、人に心を開かないのか、夏でもなぜ黒のコートを着ているのか……、こうした設定のひとつひとつがすべてそこへとつながっている。単純に彼のことを愚かと言えない何かが伝わってくるわけである。
さてここで、なぜこうした作品が人の心を捕えるのか、少々整理してみよう。
物語を読み進めていけばわかるが、彼の一連の復讐劇には、明らかに「正当性」がある。日本は確かに法治国家だが、いくら司法制度が完璧に機能していたとしても、そこには収まりきらない感情というものが必ず存在する。
とてつもない悲劇を背負ったB・J少年は、その悲劇が裁判などで解決されるものでないことを、それでは本当の復讐にならないことを、否応なく自覚した。しかし、法の裁きを拒否することは、自らもその法の枠外に置くことである。自らが責任のすべてを請け負った上で、誰にも頼らず、独力で「相手を裁く」ということである(彼が無免許医を頑なに貫くわけも、おそらくそこにあるにちがいない)。
これがテロリズムの思想であることは、言うまでもないことだろう。
しかし、B・Jは同時に天才的とも言える医師なのである。切り刻んでも惜しくはない復讐相手にですら、治療の手を施してしまう。そこにこの物語の「救い」がある。復讐と救済が表裏一体となることで、読む者に自然とカタルシスがもたらされる。B・Jの持っている本当の優しさや、にもかかわらず素直になれない、なったら自分はダメなのだという屈折した感情も、ひとつの共感を呼ぶ要素として機能しはじめるのである。
……長々とB・Jという架空の人物について書き綴ってきたが、じつはいま筆者の脳裏には、全米をゆるがした「多発テロ」の首謀者と見なされるウサマ・ビンラディン氏の顔が思い浮かんでいる。彼もまたB・Jとよく似た感情に基づいて、アメリカに対する「復讐」を施したのではないか……と思えてならないのである。
しかし、筆者は彼とB・Jの「復讐」には、根本的な大きな相違があると感じている。
B・Jは、天才的な技術によって目の前の患者を救う。そこにイデオロギーや国境、肩書きなどの分け隔てはない。先にも記した通り、復讐相手ですら、(激しい葛藤に襲われながら)救ってしまう。しかし、ラディン氏の標傍するイスラム原理主義は強固な思想ではあっても、そのようなボーダレスな広がりはない。
彼らがこの世界を相手にしていないからである。神の世界での救済を目指す。この世界にイスラムの理想を広げようという方向とは、どこかかけ離れている。
巨大な資産家であるというビンラディン氏は、その豊富な資金を活用することで、自分たちの悲劇や苦境、アメリカの非道さなどを、もっと有効な形で世界に伝えることもできたのではないか? あれだけの才覚や人望があるのなら、敵の血を流すのではなく、メディアや世論を動かすことでアメリカに「復讐」することも……。
そうした選択ができなかったのは、彼が神を相手にするだけで、本当の意味で世界を相手にしてこなかったからだと、筆者は思う。そこにB・Jのストーリーとは似て非なる、一面で同情はできても、最終的には共感することのできない溝が見えてくる。それは、現代のアラブ社会を取り巻く閉塞感そのものでもあるだろう。
医師であるB・Jは、結局人を相手にしていた。そして救っていた。
今ここに生きている人たちに目を向ける感覚さえ忘れなければ、復讐はプラスへと転化されうる。復讐そのもの(それに付随する暴力そのもの)を否定するのではなく、それを受け止める度量と、投げ返す方向性こそ重要だろう。
B・Jのメスが人助けばかりに用いられなかった理由も、そこにあるはずだ。
投稿者 長沼敬憲 : 2001年09月16日 12:40