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2001年10月16日

■「たばこ屋のおばあちゃん」の身体感覚。

 この世界には、信じられないくらいの才能を持っている人がいる。
 歴史をたどれば、モーツアルトやナポレオンなどの名前が、まず思い浮かぶだろう。日本にも、彼らのようなずば抜けた天才こそ少ないが(その理由は後述する)、きらびやかな才能を身にまとい、時代の寵児になった人は枚挙にいとまがない。
 たとえば最近では、メジャーで活躍するイチローなど、その最たる例だろう。先のベルリン・マラソンを圧倒的なタイムで制した高橋尚子もそう。ほかにも、サッカーの中田英寿や格闘技の桜庭和志など、これまで筆者が作品の中で取り上げてきた一流アスリートたちは、みな常人には真似できない、特有の才能を持っている。
 多くの人は、とても自分には真似できない。彼らは特別だ。そう言って諦めるか、ハナから無関係だと思うか、そのどちらかと言えるわけだが……。
 しかし、物事には必ずコツや原理というものがある。筆者は、それらが発揮できている状態を、身体感覚という言葉を通して理解しているが、その仕組みさえわかっていれば、異質な才能を取り込むことも決して不可能なことではない。才能とは、いちいち誰かに気がねなどせず、マイペースで追及していけるものなのである。
 
 身体感覚というとまだ抽象的すぎるきらいがあるので、もう少し明確に定義してみよう。
 この方面の研究の第一人者である、武道家・高岡英夫氏によると、才能とはつまるところ、軸(センター)と呼ばれる身体感覚のことであると言うことになるが、じつは筆者自身、最近ではその意味がかなりハッキリと理解できるようになっている。
 つまり、「彼の才能は天与のものだ」といった称賛の言葉があるように、「才能がある」ということは、天にも達するほどの軸感覚をその人物が身につけているということを指している。身体の軸がシッカリしているから、余計な力みが生まれない。その軸の動きに沿って、自在に力が発揮できるようになる。非力に見えるイチローがメジャー1年目で歴史に残る活躍を残せたことなど、その好例とも言えるわけである。
 とはいえ、才能を得るということは、そうしたプラスばかりだろうか?
 なぜなら、物事にはつねに表と裏がある。古来からさかんに語られてきたように、才能ばかりが溢れていても、幸福がもたらされるとは限らない。この一面の真実に気づくことができねば、そこには「悲劇の天才」が生まれてしまう。
 先に挙げた日本人アスリートたちにそうした悲劇性が感じられないのは、彼らが軸以外の、「人を幸せにする身体感覚」をも少なからず持っているからだと、筆者は思う。反面、モーツアルトやナポレオン、あるいはマイク・タイソンのようなボクサーには、ある種の悲劇性がつきまとっている。この違いは何だと思われるだろうか?
 この世の中には、才能など求めなくとも、心底幸せに、のどかに生きられる人がいる。
 筆者はこういう人を「たばこ屋のおばあちゃんのような生き方」と呼んでいるが、この生き方のできる人は、一日中なすことなく、お店の一角にポツンと座っているだけでも、一流アスリートの「勝利の瞬間」に引けをとらない幸福感を味わっている。彼らが一歩間違えば、何かに追われ続けるような苦悩に苛まれているのに対し、決して逃避しているわけでもない、ごく普通の自由が堪能できているわけである。
 じつはこのおばあちゃんの持っている感覚こそ、ハラと呼ばれる身体感覚の、最大の特徴とも言うべきものなのである。
 俗に「ハラが座る」ということは、身体の中心(重心)に意識が集まり、全体にドッシリとした安定感が得られる状態である。もちろんこの安定感は、スポーツなどでも必要とされているものではあるが、基本的には普段の生活の中にこそ欠かせない、そこでの自分を豊かに、楽にさせるものである。なぜなら、心身が安定するということが、人にとっての幸福感そのものであり、軸的な才能がまったくなかったとしても、人はそれとは質の異なる、不動の自由を得ることができるからだ。
 「たばこ屋のおばあちゃん」は、人生の中でこの感覚だけを学び、身につけ、それをおのれの財産として、余生を楽しんでいる人なのである。
 じつは東洋では、軸的な感覚(才能)は疎んじられ、もっとハラ的な、一見無能のようにも思われる感覚を、人徳として尊ぶ風土を作り上げてきた。
 たとえば、幕末の日本を転換させた第一人者である西郷隆盛などは、見る人が見れば無能にしか見えない、しかし彼が中心にいたことでまわりが動き、時代が旋回していったという、いわばハラ的な人物の典型のような存在である。
 彼は、軸的な才能よりも、ハラから醸し出される信義や誠意を重んじ、それが国家を作り上げている基礎になると信じた。軸的な感覚からすれば観念論のように聞こえるが、それが理解できる人間が彼を押し上げ、幕末の表舞台に立たせた。後年の西南戦争は、欧米の軸的スタンダードを選択した政府軍が、西郷に象徴される日本の伝統的なハラ感覚に決別を告げた瞬間だったということもできるだろう。
 こうして見ていけば、多くの人にとってまず手にしなければならない感覚とは、ハラ感覚に他ならないと感じられるのではないだろうか?
 才能を追い求める発想は、時として人を不幸にし、不自由にする。
 「物事には基本が必要だ」とはよく言われているが、その基本とは、「たばこ屋のおばあちゃんの身体感覚=ハラ」を身につけられるか否かに懸かっている。その人に意欲や野心があるなら、その上で「才能」を求めたらいい(たとえば、小学校ではハラを、中学・高校で軸を磨いていくというカリキュラムを作れたら、従来の成績の良し・悪しに左右されない、「自分なりの生き方」を築き上げることもできるだろう)。
 べつに才能がなくても構わないのである。それを克服しよう、克服しなければダメだと思い悩む前に、まず今こうして生きている、ありのままの自分を認めてみる。「今のままでいい」という感覚を身につける。頭の中であれこれ悩んでいたことがスーッとハラまで落ちていった時、人は自己肯定という感覚を手に入れるのである。
 その意味でハラとは、才能の身体感覚ではなく、自己肯定の身体感覚と言ってもいい。
 イチロー、中田、桜庭、高橋尚子……。
 彼らは、「たばこ屋のおばあちゃん」の感覚を少なからず持った一流アスリートたちなのである。いま彼らに限らず、スポーツ以外のさまざまな分野でも、淡々とした、どこかのどかなおばあちゃんたちの活躍がはじまっている。
 こうした現実に、あなた自身、そろそろ気づくべきではないだろうか?

投稿者 長沼敬憲 : 2001年10月16日 08:01

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