« ■「たばこ屋のおばあちゃん」の身体感覚。 | メイン | ■田中真紀子氏がいまだに支持されつづける理由。 »
2001年11月01日
■ランディ・ジョンソンは、38歳でなぜ「剛腕」なのか?
ヤンキースとダイヤモンドバックスによるワールドシリーズもたけなわのこの時期、メジャーリーグをこよなく愛する敏腕編集者のM氏から、次のような私信が届けられた。なかなか興味深いので、勝手に抜粋すると……。
「本日のワールドシリーズの第2戦、ランディ・ジョンソンのピッチングは圧巻のひとこと。そのランディは今年38歳、カート・シリングは35歳、ロジャー・クレメンスは39歳と30代後半になってもメジャーはすごいピッチャーがゴロゴロしている。バッターもバリボン(筆者注・バリー・ボンズ)の37歳を筆頭に同様。それに対して日本は、槙原(巨人)が38歳で(今季一軍登板なし)、斎藤雅樹(同)は36歳で、西崎(西武)は37歳で引退、バッターも石井浩郎(ロッテ)が37歳で戦力外。この差について、こっちはこっちなりに結論を見いだしているが、そっちの考察も聞きたい……、云々」
スタンダードなスポーツライターがこれにどんな「答え」を用意するのか知らないが、筆者自身、自分なりの身体観をもとに、少々毛色の違うスポーツ論を展開してきた経緯がある。M氏もきっとその種の「答え」を望んでいると思われるので、ご期待に添えるよう(?)、これから「返事」を書かせてもらうこととしよう。
たとえば、右のような事実を挙げられた場合、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、日本人とアメリカ人の基礎体力の違い、といったところだろう。
しかし、一口に基礎体力の違いと言っても、その意味はかなり漠然としている。
要するに、アメリカ人のほうが筋肉質で、ガタイが大きいから、その分基礎体力もあるということなのか? 中にはそう単純に思っている人もいるかもしれないが、筆者は必ずしもそうとは言えない、いやもっとハッキリ言えば、身体の大きさなど直接体力とは関係はないと、これまでの著作の中で繰り返し語っている。
たとえば、「スポーツは「武道」である」(*「サムライ」のこと)の3章でも記しているが、かつての日本には「1日に80キロ走ったあとでも平気で仕事が続けられる馬方」のように、小柄ながら心身ともに非常にタフな人たちが、ごく当り前に存在していた。筋肉や体格の有無とは関わりなく、自然と「元気」を保ち続けることができていたわけである。
……もし彼らがメジャーに挑戦できたとしたら、ジョンソンやシリング以上のタフネスぶりを発揮することができたのではないか?
ある意味、妄想と言われるかもしれないが、少なくとも現代の日本人が、そうした力を失ってしまっていることには気づかされるはずだ。槙原や斎藤が明治時代に生まれても、残念ながら、馬方の仕事が勤まるとは思えない。である以上、彼らにメジャーリーガー並みの体力がなかったとしても、責められないと思うのである。
では、なぜ失ってしまったのか? アメリカの一流プレーヤーが発揮できているものを、どうして今の日本の選手は満足に発揮できないでいるのか?
筆者はこうした問いに対して、「柔道の選手がレスリングでメダルを取ろうとしても、そう簡単に勝てるはずないだろう?」と、答えることにしている。
たとえば日本政府が、篠原信一や井上康生らに対して、「今日から国を挙げてレスリングの強化に取り組むことに決まったから、柔道は全面禁止。これからは柔道着を捨てて、レスリングで金メダルを目指してほしい」と通達したら、どうなるだろうか? もちろん逆らったら、監獄入り。非国民の扱いを受けることになる。
そんなことありえない、考えるのも馬鹿馬鹿しい、……そう思った人も多いだろう。
しかし、これと同じ「転向」をすべての国民に強要せざるをえなかったのが、明治以降の日本という国の現実だった。世界中が「レスリングスタイル」で強さを競い合っていた以上、そのルールの中で勝つことを目指す以外、生き残る道はなかった。いや、負けたら滅びてしまうという、きわめて切迫した状況に置かれていたのである。
いくら井上康生でも、急にレスリングで勝てと言われたらかなりの困難が伴うはずだ。
同じ格闘技だとカンタンに言ったところで、ルールも違えば、発想も、身体の動かし方もみな違う。しかしそうした無理な状況の中、欧米流のスタンダード(生活様式)を取り入れることで、日本はオリンピックで言えば、まあ、銀メダル(?)くらいは獲得することができた。「レスリング」にのめり込んできた分、「柔道」の感覚は忘れてしまったが、それでもそれなりの結果は残してきたことになる。
とはいえ、このままでは頭打ちである。DNAの奥底にまで「レスリングスタイル」が身についているアメリカ人には、勝つことなどできないはずだろう。
彼ら(あるいは欧米人全般)は、自分たちの作り上げた土俵を絶対のものとし、その中で自己を表現し、勝ち抜く術を心得ている(ジョンソンらのプレーの見事さは、そうした風土が生んだひとつの作品のであると言える)。逆に日本人は、他人の土俵に上がり込んで、その中で勝ち上がることを、むしろ潔いと考える。外国の文化を取り入れ自己流にアレンジしてしまう感性などは、こうした姿勢と重なり合う。
このふたつの文化がぶつかり合う時、やはり劣勢に立つのは、上がり込んだ側である。
しかし上がり込んだほうが、じつは対応力ははるかに身につく。漢字を取り込んで仮名を生み出したように、仏教や儒教を日本流にアレンジして定着させてしまったように、「柔道」の上に「レスリング」を融合させ、別の何かに作り換えようとしているのが、いまの日本の姿なのである。表面的な結果にだけ目を向けても、こうした実態は見えてこない。欧米人のスタンダードに、いたずらに憧れるだけで終わるだろう。
というわけで、筆者は、ジョンソンやシリングの活躍に敬意を表する一方で、日本という土壌の中からイチローや中田のような、かつての日本人とも一脈通じる(しかも「柔道」と「レスリング」をうまく融合させることにも成功しつつある)スポーツ選手が現われはじめている現実にも、大いに注目を寄せている。
じつはアメリカ人は、この種の融合経験にきわめて乏しいという側面を持っている。
多民族国家でありながら他者に対して寛容になれない点などは、その活発な議論のスタイルとは裏腹に、他者とのコミュニケーションにしばしば摩擦を生じさせている。多民族国家だから摩擦が生じるのではなく、自分の土俵から出ようとしないから、他の土俵とぶつかり合ってしまうのである。ジョンソンらの活躍をプラスとするなら、そこにマイナスの面が存在するということも、明らかに見て取れるのではないだろうか?
ひとつの事象を見ただけで、その背後にひそむさまざまな問題が見えてくる。
スポーツが文化であると称するのなら、そのような視線こそ必要だろう。問題を解決していく糸口も、その中から見い出される。シリングのドッシリとした、見事なハラの向こう側には、彼を生み出した風土が見え隠れするのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2001年11月01日 08:00