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2001年11月25日
■「理想の武道家」ロビンソン・クルーソー。
子供の頃に愛読した本の中で、何がいちばん記憶に残っている? ……そう問われて真っ先に思い浮かぶのは、「ロビンソン・クルーソー」である。
作者はダニエル・デフォー。意外に感じるかもしれないが、刊行されたのは18世紀初頭(1719年)と、思いのほか古い。
イギリスでも当時ベストセラーになったと言われるが、ご存じのように南海の無人島に漂着してしまった主人公ロビンソンが、絶望や孤独を味わいながら、さまざまな知恵を身につけ、28年にも及ぶ自給自足の生活を送るというストーリーである。後半には忠実な召使いとなった黒人青年フライデーとの出会いもあり、最後は謀反人に奪われたイギリス船を逆に乗っ取ることで晴れて故郷イギリスへの帰国の途につくという、なかなか面白い構成になっている。
では、筆者はなぜロビンソンの物語に魅かれたのだろう?
無論、子供の当時は直感的、感覚的なものだったわけだが、その後この「なぜ」を問うていく過程で、いろいろ興味深いことが見えてきた。ロビンソンは架空の人物であり、物語自体、作者のデフォーがお金に困って書き上げたものだとされているが、時代背景や人物設定など、さまざまな点で今日に通じるものが見られるからだ。
たとえば、時代背景について探っていくと、刊行当時、貴族階級に代わって勃興しつつあった中流階級の自己主張が見隠れすると言われている。
日下公人氏の本に書かれてあったが、「近代以前においては、貴族の男は毎日午前中は全部おしゃれの時間だった。服と靴下はボタンやホックだらけで召使いが着せてくれないと着れないし、髪を整え顔をつくってカツラをかぶり、最後のできあがりはメリケン粉を頭から振りかける。……貴族はそれを自慢していたが、中流から見るとなんともばからしいことをやっていた」(「21世紀、世界は日本化する」より)そうである。
たしかにばからしい。日本では平安時代の貴族がそうだったろうが、自分では何もできないくせに、権威をひけらかして「凄いだろ」と言っているわけである。
たとえばいま、NHKの大河ドラマで蒙古襲来を描いた「北条時宗」が放送されているが、もし平安時代にモンゴルが攻めてきたら……と考えたら、ゾッとする人も多いのではないか? ちょうど実力主義によって這い上がった武士が政権を握っていた時代(鎌倉時代)だったから、なんとか国難に対応できたわけである。
話が少々逸れてしまったが、ロビンソンもまた貴族に対する武士のような存在である。
はじめはただ頼りないだけの船乗りだったのが、生死ギリギリの苦難に出会い、それでも生きざるをえない状況に追い込まれたとき、はじめて「自分のことは自分でする」という当たり前の感覚に目覚めた。要するに、ロビンソンというキャラクターは、当時の上流階級に対する完全な「あてつけ」なのである。権威と呼ばれるものからまったく隔離された空間で、衣・食・住を得るための知恵をめぐらす。無人島で28年もの歳月を過ごすというあまりに苛酷な設定も、そう考えれば何事か見えてくるだろう。
つまり、中流というとあまり響きはよくないが、本当の意味での中流とは、主人でもなく、奴隷でもない、自分のの能力を頼りに生きていける階級に他ならない。
現在「中流意識」を持っているであろう読者の多くは、本当に自分が中流であると言えるだろうか? むしろ上流に近い生き方をしているのではないか? 中流だ、中流だと言いながら、むしろ貴族たちのDNAを受け継いでいる……。
思えば筆者は、この「何でもできる」ということに憧れていたのかもしれない。
「裸の王様」の話ではないが、子供は直感的に何が本物か見抜く能力を持っている。大した自慢にはならないが、ロビンソンに憧れた筆者は、自分が生きていく上での羅針盤を彼の物語を読むことで、無意識に手に入れていたと思うのである。
とはいえ、ロビンソンの道、つまり本当の意味で中流となる道を進むには、自分がただ頑張るだけでなく、社会そのものの「構造改革」が必要になってくる。たとえば現在のロビンソンとしてまず思い浮かぶのは、日本の経済成長を支えてきた中小企業の経営者に他ならないが、彼らの多くは大企業の下請けというポジションの中で、いわゆる上流階級の栄枯盛衰の影響を受け、時には下流のような辛酸をなめている。
このへんは平安時代の頃の社会状況と、なんら変わりがないと言えるだろう。
あの時代は、当時のロビンソン(=中小企業の経営者)にあたる武士たちが結束して、上流の意には添わない連合政権を作り上げた。それが力をつけ、巨大化していくことで、やがて戦国の世の混沌の中から、ある意味完成型に近いシステムが生み出された。それが江戸幕府である。ロビンソンの物語がイギリスで刊行されたのも、ちょうどこの時代(正確には江戸時代の中期)。物語の中での時代設定は、宮本武蔵らが活躍した時期と重なっており、洋の東西を問わず中流が台頭していたことを示唆している。
しかし、武士も権力を握ることで貴族=上流化した。そして数百年を経て、自分たちでは何も生み出せなくなった時、彼らのシステムは崩壊する。戦後に勃興したソニーやホンダなど大企業の多くも、そのパターンを踏んではいないか? 盛田昭夫も本田宗一郎も、あるいは松下幸之助も、はじめは中小企業の経営者だった。にもかかわらず、彼らの作った組織は、彼らの時代ほど輝いていると言えるだろうか?
……こうして見ていくと、筆者のいう「構造改革」の意味もわかってくるだろう。
現状の企業をどう改革しようが、その体質が上流に浸り切っている限り、残念ながら淘汰の対象となってしまう。それを防ぎたいのなら、根底にある組織論そのものを見つめ直し、中流に戻る道を探っていくしかない。しかし、半ば貴族化し、創業時代のクオリティーを失っている人々に、それだけの覚悟やパワーがあるかどうか。あるという人は、おそらく組織を離れ、まず自らが中流に戻る道を選ぶのではないか?
その意味で言えば、中小企業が真の中流を確立できるか、のほうが現実味がある発想だと筆者は思う。
あるいは、仮に確立できたとして、その時かつての中流がたどったような貴族化への道をたどらぬには、どうしたらいいのか? それが問われている。大きな話だと言われそうだが、そのくらいの「想像力」がなければ現状は変わらない。「これはありえない」という発想の壁を超えないかぎり、ロビンソンにはなれないはずである。
真に中流を名乗りたいのなら、やはり武士たちのように上流から決別し、文字通り、自立(自己完結)するしかない。その上で組織を大きくするのではなく、同志を探し、その連合=ネットワークを模索する。またそれを拡充する一方で、たえず自立のクオリティーを維持し、次代へ継承していく道を探っていく。
もちろんこれは、同じく中流を極めようと志す筆者にとっても、同じことである。
要するに物書きであるからと言って「いい作品」を書くだけでは、自分自身のポジションは確立できない。作家が作家という肩書きにこだわっているかぎり、「売れた」としてもその時貴族への道に転がり落ちる。たえず内なるロビンソンを意識し、「自分でやる」ことを問うていくべきなのである。
武道についていくつかの作品を書いてきた筆者にとって、理想とする武道家とは、ある意味彼のような存在なのだと感じている。一芸に秀でるだけでなく、その一芸が多芸へと通じる生き方。刀を持っていなくとも、刀を持っているのと同じ身体感覚を「生きる」ことそのものの中で発揮していく。そして磨いていく。
子供の頃の憧れをいまだ失っていない自分が、こうして今、自分自身を作っている。無人島で暮らさなくとも、「自分でやる」ことは可能なのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2001年11月25日 07:56