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2002年02月15日

■本当の「したたかさ」を身につけるために。

 最近つくづく感じるのは、多くの人が自分を見失っている、ということだ。
 自分。自分の気持ち。もっと具体的に言うなら、自分のしたいこと、望んでいること。この肝心なことがスミに追いやられ、それがやれない、できないという現実が、当然であるかのように居座り続けている。
 いろいろな事情はあるだろう。多くの人が時間がない、金がないと感じている。
 加えて、大小の挫折経験を経るうちに、自分には才能がないと諦めている人も少なくはない。彼らの使う「現実」という言葉には、それなりの説得力がある。


 しかし、そのような思いを抱くのなら、また逆の問いかけも必要だろう。
 すなわち、では時間があったら、お金があったら、本当にやりたいことがやれているのか? 本当にそれが「やれない」ことの理由なのかと。
 また、才能の有無についても、同様のことが言える。
 才能があるから、やりたいことがやれるというのか? もっと単純にやりたいから、やる。才能はそのあとについてくる。やりたいことをやる、やり抜くこと自体が才能なのである。この才能は、意志と言い換えることもできるはずだ。
 意志を持つ。持ち続ける。これだけのことができないとどんな現実が待っているか……、それを自分の人生で証明したところで、誰も褒めてはくれない。持つだけでいいものを持たないでは、あらゆる努力も空回りしてしまう。
 筆者がこのようなことをあえて言うのも、みなしたたかさが足りないと思うからだ。
 つらい状況、不自由な状況から脱するためには、自分自身を変えるしかない。それは誰もが感じている。しかし、自分には才能がない、意志がない。加えて、時間もない、金もない……。だからできない、無理だ、諦めるしかない。
 こんな堂々巡りをどう克服するのか? これは誰もが突き当たるひとつの壁に他ならない。しかし、その壁が乗り越える快感や喜びをもたらすもとなのである。
 したたかさといったのは、壁を乗り越える知恵を身につける、ということだ。
 ずるくなれ、ごまかせということではない。
 たとえば筆者の場合、現在のように物を書く仕事をするまでに、かれこれ10年ほどの年月が経っている。ハッキリ言えば、文章は誰もが書ける。うまいヘタは慣れの問題だ。しかし慣れたところで、自分の世界が確立できるわけではない。結局、自分の意志を何らかの形で表現するしかないことになる。そこでひとつの「壁」に突き当たる。
 表現するには形が必要だ。形を残さねば、何の証拠も残らない。もちろん、ただ形にするだけでもダメ。プレゼンテーションも必要。
 そのように考えていけば、結局、物書きは物を書くだけではだめだという発想になる。
 物書きに限らず、何かを表現する際には、「人に伝える」という前提がまず問われる。伝えるには、伝える工夫が必要。ただの古ぼけた茶碗も、そこに価値を吹き込めば、億の単位のつく名品になる。価値に値する器であるかも問われるが、それだけではダメだということだ。自分を総合プロデュースする感覚が問われてくる。
 思えば筆者は、若い頃から自分があまり人に理解されてないという感覚を持ってきた気がする。違和感、いやもっとダイレクトに不安と言い換えてもいい。
 ちょっと変わったところがあったからかもしれないが、だからといってカラに閉じ籠ってしまってはその不安は延々と続く。それでは不自由だ。おもしろくはない。そこでヘンに開き直ってしまったら、一時期、宗教にはまってしまった若者たちと、同じ道をたどったことだろう。もちろん、それで問題は解消もされない。
 どうしたら、伝えられるのか? 伝えるには、伝えるに値する価値を持たないとならない。そして、伝えるためのノウハウを持つ必要もある。
 筆者は、日々暮らしながら、そんなことばかりを考え続けてきた。
 才能ではないのだ。同じ時間、同じ仕事の中でも、ただこのことを心がけ、さまざまに気を配ってみる。そうすれば多くの人が、うまくいかないことを人のせい、まわりの環境のせいにするだけで、実質的な努力をしていないことにも気づかされる。
 いや、私は必死に努力している。こう反論する人もいる。
 しかし、伝わっていないという現実があるのなら、その現実のほうが重要なのだ。相手の頑張りを、どこかで期待していないか? 誰それがこうしてくれなかったから、うまくいかなかったのだと、そういう発想に支配されてはいないか?
 結果的にうまくいく、成功する。それが重要なのだから、そのために行動する。
 相手の努力を前提にしない。自分ひとりでも最低限の結果が出せるよう、どう転んでもとりあえず何とかなるよう、さりげなく状況を整えていく。それがしたたかさだ。相手が協力してくれるなら、なおOK。協力がなければマイナスになってしまうような、そんな他人次第のプランは立てない。それで動いてくれない相手を恨むのは筋違い。人をうまく使えない自分自身のやりかたに目を向け、改善するしかないだろう。
 こういうやりかたを続けていけば、不器用でも次第に人に認められるようになる。
 10年続けられれば、それが当然のようになって、ラクに感じるようにもなる。
 不器用だから、才能がないから、却ってこうした発想が持てたのだと、「必要は発明の母」という言葉が思い浮かぶようにもなるだろう。
 自分の意志さえ持っていれば、現実はあとからいくらでもついてくるものなのである。
 ただそれだけのことができない。10年というと、エーッそんなに!とリアクションしてしまう。しかし、「自分を信じる」ということを実践するには、最低限、このくらいの期間は必要だ。それでようやく自分の人生の入場券が手に入る。
 こうしたことを学校で教えていないのだから、誰もが迷うのはある意味当然だ。
 しかし、学校のせいにしてもしかたない。「そんなヒドイ教育を受けても、おれはここまで理解することができた。自分で自分に対してここまで学んだ」、そう思えるほうが人生はよほどドラマチックである。そして、したたかでもある。
 したたかさとは、自分の人生にドラマを感じることなのである。
 とにかく形を残そう。形とは自分が意志を持っていたことの、証拠なのである。形を残し、それを磨くため、最大限のしたたかさを身につけよう。

投稿者 長沼敬憲 : 2002年02月15日 20:54

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