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2002年03月31日

■鬼束ちひろと小池栄子の共通項。

 ここ数年、ダメだダメだと言われ続けている日本だが、本当にダメなのか? 深刻に首をひねるほどに、突破口の見つからない状態なのだろうか?
 じつは突破口など作ろうとせずとも、自然に開かれていくものだと、筆者は思う。
 ただその経過を感じ取れない人が、勝手に慌てふためいて、あちこち扉を探したり、こじあけようとして、「うまくいかない、うまくいかない」と途方に暮れている。「どうすれば再生できるんでしょうか?」「いま何が必要なんでしょうか?」と連発し、かえって問題をこじらせ、見えにくくしているのである。

 しかし、普段生活している中で何気なく情報に接するだけでも、「あ、いま水面化でかなり変わりつつあるな、相当大規模に変わるな」という前兆は、十分に感じ取れる。あるいは人に関して言うならば、ダメだダメだと語る人たちの気づかないところで、いま確実に、「ハラの座った」人たちが現われはじめている。
 彼らは、どことなくどっしりとして、態度がふにゃふにゃしていない。見かけは優しそうでも、その奥にどこか「怖さ」がひそんでいる。
 たとえば、ごく身近なところで、芸能界に焦点を当ててみることにしよう。
 芸能界には、スターと呼ばれる人たちがいる。彼らは時代の映し鏡のような存在であり、いくら個性的であろうと必ずどこかで「いま」と重なり合っている。
 筆者が思うのは、特にここ10年ほどはハートの温かい、どこかフワーっとした波長の人たちが体勢を占めていたということ。見ていて心地よくはなるが、ズシンと響いてくる重さがない。言い換えるなら、お手軽で、スターなのにどこか近づきやすい。しかもそれが問題視されるわけでもなく、逆にウリにもなっている。
 こうした傾向は、決して悪いことではない。
 音楽で言えば、カラオケが爆発的に普及することで、みな歌が上手くなり、プロとアマの差がひところよりずいぶんと曖昧になってしまった。
 しかし、キチンと音楽を学ぼうとしている人にとっては、恵まれた環境でもある。
 たとえば、そうした時代の象徴とも言える宇多田ヒカルは、歌うだけでなく、自分で作詞・作曲する能力を持っている。ほんの一サイクル前のスター・安室奈美絵が、それらを小室哲也のプロデュースに任せ切っていたことを思えば、格段の違いだろう。ほんのここ数年のうちに、「自分のことはすべて自分でしたい」という実利主義の風潮が、日本にジワジワと押し寄せてきている状況が感じ取れるのである。
 今の時代のシンボルとしては、まず浜崎あゆみのほうを思い浮かべる人が多いかもしれないが、実利主義というスタンスで言えば、作詞のみ手がける浜崎より、オールラウンドな宇多田のほうが今の時代の世相とはるかに重なり合っている。
 言うなれば、モーニング娘。のような「身近な」なアイドルがブラウン管をにぎわす影で、潜在的には、宇多田のような「職人」タイプのアーチストを生み出す土壌が少しずつ生み出されている。それがここ数年の日本の音楽界の傾向と言うことができる。身近さ、手軽さがもてはやされ、ブームを作り出す一方で、それだけでは飽き足らない人々の欲求も、相対的にレベルを高めているわけである。
 とはいえ筆者は、宇多田の曲に「ズシンと響いてくる重さ」を必ずしも感じているわけではない。その意味では、まだまだ過渡的な存在。広く日本の音楽界を見渡せば、もっと「ハラの座った」歌手も、少なからず存在している。
 たとえばハラ的ということで真っ先に思い浮かぶのは、やはり中島みゆきだろう。
 誰もが知っている大物歌手でありながら、ほとんど表舞台に現われない。言い換えるなら、彼女が表舞台に立たない(立つ気になれない)状況こそが、良きにつけ悪しきにつけ、戦後の日本の現実だった。たとえば、彼女の歌を「暗い」と表現する人は多い。しかし、その暗さこそ、「ズシンと響いてくる重さ」の実態である。多くの人は、そうした重さを暗いと感じ、意識の表面から遠ざけてきたわけだが……、じつはいま、少しずつ払拭されようとしている。読者には、その状況が見えているだろうか?
 中島ほどの存在感はまだないが、筆者が注目しているのは、鬼束ちひろである。
 彼女の曲調は、ここ数年のヒット曲の傾向とは異なり、どこか中島とも重なり合う、妙な重さ、力強さが感じられる。しかもそれが個性であるとリスナーに認識され、出す曲は必ずと言っていいほどヒットチャートをにぎわせている。
 デビュー曲の「月光」などは、いきなり英語で「I'm God Child.(私は神の子)」と歌うのだから、大したものだ。「ミュージック・ステーション」に初出演したときなど、明らかに周囲から浮き上がっていた。しかし筆者に言わせれば、今後はむしろ、彼女のようなタイプの歌手の比率がどんどんと増してくる。
 あるいは、歌手ではないが、「巨乳アイドル」の小池栄子も、これからの時代を感じさせるような、妙にハラ的な存在感を醸し出しているだろう。
 テレビのインタビューで「私は癒し系じゃない、それで言うなら“肝っ玉母さん”系かな」と語っていたのを聞いたことがあるが、肝っ玉(ハラ)を売り物にするようなアイドルなど、10年前ならとっつきにくいだけで、おそらく通用しなかったはずである。「巨乳」ばかりがピックアップされているが、じつはそれ以上に、彼女から漂ってくるあの妙に異質なムードこそが、ファンの心を捉えている。これまで軽視されてきたハラ感覚が、一般の若者の感性をもくすぐりはじめているのである。
 鬼束ちひろのどっしりとした重たい歌声、そして、小池栄子の肝っ玉。
 これまで筆者は、ハラという身体感覚について語るとき、スポーツや格闘技を引き合いに出すことが多かったが、程度の差こそあれ、どのジャンルでも似たような傾向は導き出せる。その多くはこれまでの時代の空気に溶け込んでいるため、注意しなければ見分けがつきにくいが、身近にもそのような若者は現われはじめている。
 言うなれば、暗さが深さと置き換えられ、アイドルより職人がリスペクトされる時代。
 この当り前と言ってもいい感覚が、日本のスタンダードになる。芸能界というお馴染みのジャンルを眺めるだけでも、そんな状況が見えてくるのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2002年03月31日 20:51

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